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次男は国際親善大会に57キロで登録していたのですが、5日前に61.7キロでした。3キロ以上体重が違うと失格になってしまうので、そこから5日間で2キロのダイエットが始まりました。頑張って毎日身体を動かして食事制限をしたら試合当日は58.6キロまで落ちていました。よく頑張ったと思います。今日はトレーニングをしてから夕方に子供達と土手で野球をしました。子供達と野球をするのは初めてです。たぶん最後に野球をしたのは高校の球技大会以来だと思います。私はボールを投げるのも取るのも打つのも下手ですが、頑張って子供達と野球をしました。なかなか楽しかったです。
私は空手の道場を先生であり経営者です。でもその前に私は空手の求道者です。空手でご飯を食べている訳ですが、別に空手で大金持になろうとしているわけではありません。自分が空手の稽古が出来て、道場をしっかりと運営出来て家族が幸せにご飯を食べて行けるぐらいの生活が出来るぐらいのお金があれば、それ以上の望みはありません。なので私は自営業の社長や経営者とは思っていません。空手の先生とは強く思っています。子供達の成長を見ることが出来るこの空手の先生と言う仕事が出来ている事に幸せを感じています。人の成長に関わる事が出来るこの仕事が私はとても好きです。生徒達から力をもらう事もたくさんあります。生徒達から喜びや幸せをもらう事もたくさんあります。やっぱり自分はこれをやるために生まれて来たんだろうなと思います。というよりこれ以外に自分がこの社会で役に立つ事はありません。だから私はずっとこの道を行きます。今日は次男が、ダウンタウンのガキの使いでやっていた、ききハンバーグをやりたいと言うので、レトルトハンバーグを7種類買って来てやって見ました。次男と長男と私は見事に外し、妻は当てました。「私が食べたのは〜ハンバーグではございません。」と言う時にちょっと笑ってしまいます。長男がハンバーグが好きだと言ってたくさん食べていました。長男はあまり食べないので、食べている姿を見るととても幸せな気持ちになります。
国際親善大会が終わりました。東京城南京浜支部からは18名が出場し3名の入賞者を出す事が出来ました。みんな本当に頑張りました。3人の勝利はみんなの勝利です。みんなで頑張って来たから勝つ人が生まれた訳です。そして勝った人はいつも一緒に稽古している仲間やお父さんお母さんや大会を作ってくれた極真会館の関係者にも感謝して欲しいと思います。負けた人は次は自分が輝いて見せるんだと言う気持で次に繋げて努力して行って欲しいと思います。私も子供達の頑張っている姿に感動させられましたし、力をたくさんもらいました。その力をまた生徒達に返して行きたいと思います。私は型は第7コートの主審を務め、組手は第3コートの主審を務めました。試合を裁きながら、勉強になる事やこれからの稽古のヒントをたくさん見つけました。通い合宿ではそれをホットなうちに指導して行こうと思います。
本日は国際親善大会初日が行われました。みんな本当によく頑張りました。私の長男も出場しました。1回戦で敗けてしまいましたが、3歳から空手を始めて、幼稚園生の時からずっと国際親善大会に出場しているので大したものだと思います。敗けたとしても、健康に育って空手を辞めずに試合に出て頑張っている姿を見せてくれているのだから、本当に親孝行な子供だと思っています。それだけで私は十分に満足しています。長男が試合に出る事でどれだけ私が熱い気持ちになって楽しませてもらっているか分かりません。本当に本当にありがとう!と思っています。次男はわんぱく相撲の大会でした。初めて1回勝ったそうです。良く頑張ったと思います。長男にも次男にもこの結果をこれから先の人生の糧にして頑張って欲しいと思います。この結果にいつか感謝出来るように明日からまた頑張って生きて欲しいと思います。
今日から戦いが始まります。朝は7時30分に起きて、8時40分に矢口渡のトレーニングジムで背中のトレーニングをし、帰宅してストレッチをして、ご飯を食べてから、東京体育館で行われる審判講習会に行くために、自転車で蒲田駅まで行きましたが、駐輪場がどこもいっぱいのため大森道場まで自転車で行き、大森駅から千駄ヶ谷まで行きました。大森道場まで自転車で行ったため30分以上のロスタイムがありましたが、12時50分には東京体育館に着きました。13時30分から15時まで全世界の支部長で審判講習会をし、池袋のメトロポリタンホテルで行われる大山倍達総裁の三十年慰霊祭と国際空手道連盟極真会館創立60周年記念パーティーに参加するため池袋に行きました。大山倍達総裁の三十年慰霊祭と国際空手道連盟極真会館創立60周年記念パーティーに参加出来た事はとても光栄でした。最初は極真空手をテレビで見て、極真空手を始めて、チケットを買って大会を観戦していた自分が大山倍達総裁の三十年慰霊祭と国際空手道連盟極真会館創立60周年記念パーティーという節目の場にいる事は自分の夢が叶い続けている証です。自分が人生をかけるほど好きになった極真空手を未来に繋ぐ事が出来る仕事が出来ている事に幸せを感じます。70周年80周年の時も自分がその場にいる事が出来るように頑張って行きたいと思います。
指導が終わり家に帰宅すると長男が「今日は巨人が勝ったよ!しかも坂本が打ったんだよ!菅野も凄かったよ!」とハイテンションで言って来ました。そして私にプラスチックで出来たボールを投げてみせ「俺の球、速くねー!俺プロになれんじゃねー!」と言って来ました。野球もやっていないのにプロ野球選手になれるわけねーだろ!普通の大人はそう言うのでしょうが、私は「お前がそう思うのならなれるのかもな。」と言いました。これはお世辞で言っている訳ではありませんし、呆れて言っている訳でもありませんし、適当に答えてる訳でもありません。その人がなれると信じているのなら可能性はあると私は本気で思っています。せっかく若いのですから、思いっきり夢を見て、思いっきり夢を追いかけて、思いっきり青春して欲しいです。叶う叶わないは関係ありません。夢を見て夢を追いかけて損をする事なんて絶対にありません。たとえ夢が叶わなかったとしても夢は絶対に持った方が良いです。夢を追いかける道中でたくさんの物を得る事が出来るからです。そこで得た物が一生の財産になります。若者の特権は夢を持つ事が出来る事です。夢を追いかける事が出来る事です。そして可能性が無限大だと言う事です。そして夢を追いかける道中、思いっきり青春して楽しんで欲しいと思います。だからどんな馬鹿な夢でも、どんな不可能に近い夢でも、どんな小さな夢でもいいから夢を持って欲しいと思います。そして自分がそう思うなら恥ずかしがらずに口に出すべきです。口に出した瞬間に夢に一歩近づきます。長男は夢の話をたくさんしてくれるので、話していると本当に幸せな気持になります。
私は自分に自信がない人間でした。それもそのはずで私は小さい頃は頭も身体も発達が遅く、そのせいで頭も身体も人より弱く劣っていました。そのせいで心まで人より弱くなってしまい、自分は弱い人間だ自分はダメな人間だと思っていました。なので何をやるにも人より劣っていました。初めてやる事も人より上手く出来るはずがないと思っていたので、自然と何をやるにも自分に自信が持てない人間になってしまいました。では何故、自分を変える事が出来たのか?それは強いヒーローが好きで、自分もいつかそうなりたいと言うヒーロー願望があったからです。自分が弱いから強いヒーローに、人より強い憧れを持ち、自分が弱いから憧れのヒーローのような強い人になりたいと、人より強く思ったのだと思います。強くなりたい!弱かった自分がそう思った瞬間に、私の身体の中に小さいけれど、とても熱い火が生まれました。その時に付いた火は何が起きても消える事はありませんでした。それどころかさらにさらに大きな熱い火となって行きました。今も私の中でその火は消えていません。私の中では、強さとカッコ良さはイコールでした。強い人はみんなカッコ良く見えました。今でもそれは変わっていません。だからもっと強くなって、もっとカッコ良くなりたいと思っています。肉体的にも技術的にも精神的にも人間的にも強くなりたいです。そして優しい人間になりたいと思っています。
股関節を人工股関節にした手術から約12時間足を固定され、手術中に20%の血液が出血してしまったため頭を起こす事が出来ず、身体にも力が入りませんでした。ヘルニア持ちなので腰が凄く痛くなってしまいました。腰と手術した場所が激痛で痛いのですが、出血のため血圧が80以下に下がってしまい、強い痛み止めが使えませんでした。そして水が飲めないため喉も乾き、身体も火照って熱くなり、ジトーっとした脂汗が出るほどでした、痛みと乾きで一睡もできず12時間、暗闇の中でずっと苦しみと戦っていました。12時間後の朝の6時に水が飲めるようになり、足を固定から外してもらい、楽にはなりましたが、そこからまた2日間、眠れない程の痛みと戦いました。その時に心身にかかったストレスで私は髪の毛のもみあげの所が真っ白に白髪になり、左耳が突発性難聴になりました。これで終わりかと思いきや、その時の心身にかかったストレスで私はもう一つ病気を抱える事になりました。私は楽観的なので全然気にしていません。病院でその診断がされた時はショックを受けましたし、その病気の事は誰にも知られたくないと思いました。本当は誰にも話さないつもりでしたが、良く考えて妻にだけは話す事にしました。妻がそれを知っていなければ、私の身体に異変が起きた時に対処出来ないですし、自分の人生を私に預けてくれた妻にだけは話しておかなければ行けないと思いました。妻は黙って私の話を聞いてくれました。あとは誰にも話すつもりはありません。子供達にも話していませんし、両親や兄弟にも話すつもりはありません。まあある意味では死に近付く程の体験をしたわけですし、自分の限界に近い人生最大の苦しみを体験したわけですから、それはそれなりの後遺症が心身に出るのは仕方の無い事だと思います。でも私は自分の心身に起きた事をしっかり受け入れて、しっかり付き合って生きて行こうと思います。今日もたくさん薬を病院でもらって来ました。もう少し頑張って治療をして行こうと思います。そして今日も思いっきり稽古をしました。思いっきり稽古をして汗を流し、大きな声で気合いを入れれば心身共に元気になるものです。私はいたって元気です。ある意味では手術の前より元気です。神様に少し50歳らしくなるようにしてもらったと思っています。
左耳が突発性難聴になった事をこの日記で報告させて頂いた事で、たくさんの道場生やご父兄様にご心配頂きました。あたたかい言葉をかけて頂いたり、耳に良いと言う品を頂いたりしました。本当に本当に感謝しています。聴こえない事に慣れてきたのか?耳の聴こえも良くなっている気がしますし、耳鳴りはほぼほぼなくなりました。目眩はまだ少しありますが、自分的には思っていたより良くなっている気がしています。道場生、ご父兄様の期待に応える指導が出来るようにしっかり身体を良くして頑張りたいと思います。
長男も次男ももう一丁前になって来ました。まだまだ可愛い癖して一丁前に反抗してきたり、一丁前に憎まれ口をたたいて来たりします。そんな口が聞けるぐらいの歳まで元気に成長したのだからと思いながら、長男と次男の言葉を「可愛いな!君たちの声を僕が受け止めてあげるよ。苦しゅうない!」と言う気持ちで聴いています。もちろん頭に血が登る程に腹が立つ日もあります。今、長男が歯を磨き寝室に行く時に「パパおやすみ!」と言って通って行きました。その一言で私は今日一日がとても幸せな一日となります。寝室から妻と長男と次男の笑い声が聴こえて来ます。それだけで私は今日を幸せな一日と思う事が出来ます。個人レッスン5回やって、ゆっくりお風呂に入ってビールを飲みながら家族で食事を出来た今日という日は最高の一日でした。
kanno
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