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この「菅野日記」は2003年12月5日から始まりました。なのでもう21年書いている事になります。2014年からは1日も休まず書くようになりました。休まず書くようになってから10年が経った事になります。休まず書くようになったキッカケは私の母から、毎日読んだ人のカウントが増えていると言うことは、毎日読んでくれている人がいるのだから、毎日ちゃんと日記を書いた方が良いと言われたからでした。自意識過剰になって申し訳ありませんが、確かに毎日読んでいるものが更新されていなかったら自分もガッカリするよなと思い、毎日書くようにしました。それから毎日書きたい事がちゃんとあるように1日を頑張って生きようと思うようになりました。この日記を毎日書くようになってから、日記を書きながら1日を振り返ったり、自分の思いや考えを確認したり、自分との対話になったりしていると思います。続けると言う事の大切さもこの日記から学びました。今ではこの日記を書かないと1日が終われない感じになります。この日記は自分の生きた証ですし、その時その時の道場の思い出もつまっています。1番は自分が忘れずに残しておきたいと思う事を書いています。道場生や子供達へのメッセージ的な思いもあります。この日記を書くようになって本当に良かったと思っています。
長男が何故か野球にハマっています。私は野球は好きではありません。私の父が野球が好きで、父が家にいる時は、夜はずっと巨人戦を父が見ているので、私達は好きなテレビを見る事は出来ませんでした。夏休みの高校野球の時期なんて、昼は高校野球、夜はプロ野球を父が見ているので最悪でした。そして私は野球が下手でした。父とキャッチボールをしている時に、私が下手すぎて父が怒って私にボールを投げて、家に帰ってしまいました。そんな事もあり私は野球は好きではありませんし、野球を見る事はありません。その悪夢が蘇るように長男が野球にハマってドジャース戦を2日間観ています。子供の見たいテレビぐらいは見せてあげたいので、私は我慢して一緒に野球を観ています。でもやっぱり大谷選手やダルビッシュ選手や松井選手が出ると気にして見ます。妻も高校野球のチアガールで甲子園に行っているので、野球が好きで長男と熱くなって観ています。もうこうなったら私も一緒に野球を好きになって楽しんでやろうか!?と思っています。51歳から野球ファンになって見ようかな?!と思っています。
左耳が突発性難聴になりました。何処が起点だったか?医師と話した結果はおそらく股関節を人工股関節にした手術のあとだったのではと言う事です。心身に大きなストレスがかかった事が原因になる事が多いそうです。確かに手術のあと頭がクラクラしていましたし、そこから目眩が始まりました。それが少しずつ進んで行ったように思います。手術のあと痛みと苦しみで3日間眠れず食事もほぼ出来ませんでした。そしてこれからの不安と戦っていたのですから、やはり心にも身体にも相当なストレスがかかったのだと思います。まあ生きるか?死ぬか?を経験したのだから、心にも身体にも負担はかかったのでしょう。そこを起点としたら聴覚が戻る確率は絶望的な感じです。おそらく私は左耳の聴力をほぼほぼ失ってしまいました。一生失う事となりました。若い頃は得る事の連続でした。歳を取ると失う事の連続です。でもそれに耐えれるだけの心と身体を持っているつもりです。極真空手を通して困難に負けないだけの心と身体を作って来たつもりです。だから私はこの出来事を悲観してはいません。当たり前に歳を取っているんだなと思っています。でもそのぶん人に与えられる物も多くなるので、歳を取るのは悪くありません。子供達や生徒達にたくさんの感動をもらっています。まあ何がどうなろうと自分は自分です。頂いた命と身体を使い切って最後までしっかり生ききりたいと思います。
自分はこの世に生まれてくることが出来て、本当に良かったと思います。生まれて来たからたくさんの人達に出会え、いろんな体験が出来ました。もちろん生きていれば楽しい事ばかりではないけれど、やはり自分は生まれてくることが出来て良かったと思いますし、今までの人生で良かったと思います。その気持を今日は言葉にしてみたいと思います。自分に生まれて来て良かったと思う事、自分の人生が今までの人生で良かったと思う事が心から出来たのは、長男が生まれた時でした。自分と言う人間に生まれ、今までの人生があったからこの子に出会う事が出来たんだなと思い、自分と言う人間と自分の今までの人生を全部肯定する事が出来ました。そして考えました。自分と妻が結婚したのはこの子が生まれてくるためだったのではないか?私と妻は歳も10歳違いますし、性格も全然違います、出会った頃なんて、お互いにこの人と結婚するどころか恋愛をするとも思っていなかったと思います。なのに何故、こんな偶然と言える事が起きたのか?何故、こんな奇跡とも言える事が起きたのか?それは運命だったからなんじゃないか?と思ったのです。偶然も奇跡も運命も起きたから、そう言える事なのですが、この子が生まれてくるために私と妻は生まれて来て今までの人生を生きて来て、出会い、奇跡のような恋愛をし、奇跡のような結婚をしたのではないのか?これが運命だったからこの偶然があり、この奇跡が起きたのだと思ったのです。そう考えたら自分の今までの人生を全て肯定する事が出来たのです。私の父と母も偶然に出会い、奇跡のような恋愛をし結婚したのは、私と言う人間が生まれて来ると言う運命のためだったのではないのか?そう考えて行くと途方も無いのですが、私のところまで命が繋がってくれたこと、妻のところまで命が繋がってくれたことに感謝しますし、この頂いた奇跡とも言える命を、長男と次男に繋げる事が出来た事に感謝しています。私はこの世の中でたくさんの人に守られて生きて来ました。たくさんの素晴らしい体験をさせて頂きました。生きていることはとても楽しいです。この世はとてもとても美しいです。だから子供達にも頂いた命を大切に一生懸命に人生を楽しんで、素晴らしい人と出会って大恋愛して結婚して、命を誰かに繋いで欲しいと思います。その時にきっと自分に生まれた事や自分の人生を素晴らしいかったとこれで良かったと全部肯定出来ると私は思っています。
中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」を読みました。熊谷へ向かう電車の中とホテルでと帰りの電車の中でと昨日の入浴中と今日の入浴中に読み、最後まで読み終えました。この作品を読むのは3回目なのですが、読むたびにいろんな事を感じ、いろんな事を考えさせられます。今回、この作品を読んで心に残り深く考えさせられた文章を載せておきたいと思います。その1は、「お前は…アメーバみたいだったんだ。わかりやすく言えば」「温度と水と、光とか…他にも色々なものが合わさって、何か、妙なものができた。生き物だ。でもこれは、途方もない確率で成り立っている。奇跡といっていい。何億年も前の」「その命が分裂して、何かを生むようになって、魚、動物…わかるか?そして人間になった。何々時代、何々時代、を経て、今のお前に繋がったんた。お前とそのアメーバは、一本の長い長い線で繋がってるんだ」「これは凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、何かでその連続が切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、何億年の線という、奇跡の連続は、いいか?全て今のお前のためだけにあった、と考えていい」と言う施設長の言葉です。その2は、「お前は、何もわからん」「ベートーヴェンも、バッハも知らない。シェークスピアを読んだこともなければ、カフカや安部公房の天才も知らない。ビル・エヴァンスのピアノも」「黒澤明の映画も、フェリーニも観たことがない。京都の寺院も、ゴッホもピカソだってまだだろう」「お前は、まだ何も知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」「お前は、本当にわかってない」と言う施設長の言葉です。最後は「自分以外の人間が考えたことを味わって、自分でも考えろ」「考えることで、人間はどのようにでもなることができる。…世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる」この3つの言葉が今回は心に響きました。私も十代の頃、どうにも出来ない自分に悩み腹が立ち、でもどうしていいか分からない苛立ちと、自分の未来と自分がどうなるのかという不安にどうしようもなくなく、1人でいるのが辛く憂鬱に過ごした夜がありました。その時にこの言葉を言ってくれる大人がいたら、またこの作品を読んで、この言葉に出会えたら、どんなに自分は楽になっただろうと思います。でも私はこの作品を読んで自分の今までの人生がこれで良かったと言う事を言葉にする事が出来るようになりました。それを明日の日記で書いて見ようかな?と思います。
今日は熊谷ドームで型競技・I.K.Oセミコンタクトルール全関東大会が行われました。東京城南京浜支部からはI.K.Oセミコンタクトルール全関東大会に前田水蓮と松井真生が出場しました。2人とも本当に良く頑張りました。水蓮は初めての大きな試合でいつも以上の組手が出来ていました。一生懸命頑張っている姿に感動しました。水蓮はセンスも根性もあるので、これからどんどん成長して行くと思います。真生は3位入賞しました。とても良い組手が出来ていました。優勝する技術は確実にあるように感じました。2人にはこれからもセミコンタクトルールの組手に挑戦し続けて欲しいと思います。いつか2人が東京城南京浜支部を代表する選手になるだろうと思います。
今日は朝7時半に起きて8時40分に家を出て、熊谷へ向かい、熊谷ドームで明日行われる型競技・セミコンタクトルール全関東大会の設営をしました。明日試合に出場する生徒達が力を発揮出来ますようにと祈りながら試合場を作りました。会場の近くに宿泊しているのですが暇で暇でしょうがなく、寂しくて寂しくて仕方がないので家族とテレビ電話で話しました。電話を切ったらまた寂しいです。テレビで「男はつらいよ」を見ながらご飯を食べています。「男はつらいよ」は涙と笑いがつまっていて大好きなんですけど「男はつらいよ」なんて言葉を堂々と言えないほど妻には大変な思いをさせているので、妻の前では「男はつらいよ」なんて私は言えません。
昨年の股関節を人工股関節にした手術のあとから目眩がするようになりました。いつも少しフワフワしている感じでした。特にスマホを見た後などはそれが酷くなっていました。そして最近は左耳の聴こえが悪くなっていました。人がたくさんいると特に酷くなっていました。そして先々週ぐらいから耳鳴りが酷くなりました。とてもとても嫌な予感がして今日、耳鼻科に行きました。聴覚検査を受けたところ左の耳は突発性難聴と診断されました。しかも重度に近い難聴でした。しかも私が医師に説明した経緯からの医師の判断では回復の見込みは薄いそうです。聴こえが悪いと気が付いた所から最低でも2週間以内に処置をしないと回復が難しくなるようでした。後悔先に立たずですね。でもそんなにショックではありません。ああこれが一生続くんだなと思っただけです。聴こえは悪くなりますが、全く聴こえないわけではありませんし、集中して物事に取り組めばそんなに気になりません。ただ飲み会のような場所ではあまり人の話が入って来ないと思います。この日記を見ている皆様は自分の身体に変調を感じたら、面倒くさがらずに早く病院に行って下さい。どんな病気でも早期発見して処置するに越した事はありません。私が帰宅すると妻が子供達に、これからはパパに大きな声で話してあげてね。聴こえなかったからと怒らないであげてね。と言っていました。長男は「〜先生も確か右耳が難聴だったな。」と言っていました。たぶんパパだけじゃないよと励ましてくれたんだと思います。私は妻と子供達に「ぜんぜん落ち込んでないから大丈夫!少し聴こえが悪いだけだから!これからは話しかける時や大切な事を話す時は右耳に話してね!」と言いました。病院て9日ぶんの大量の薬をもらいました。その薬を飲みきって、聴覚検査をしてみてどれだけ回復するかで今後の方針を決めるようです。私が右を向いたら聴きたくないと思っていて、左を向いたら聴きたいと思っていると思って下さい。それは冗談ですが、もう笑い話に出来ちゃうぐらいの事だと思って欲しいと思います。今を生きている自分が、今までで生きて来た自分の中では1番歳を取っていて、今を生きている自分がこれから生きて行く自分の中では1番若い、つまりは今の自分は常にはじめましての今だけの自分なんだと言う事なんだと思います。そう考えたらもう50年生きているのですから、悪い所の1つや2つはあって当たり前です。今を真剣に一生懸命に思いっきり楽しんで明日に大きな期待を膨らませてワクワクして笑って生きて行こうと思います。これからは私が振り向くときは右側からになると思います。私は人と並んで歩く時の立ち位置は右側が良いのですが、これからは左側にしたいと思います。だだ道路ではやはり自分が外側を歩きたいのでやっぱり右側だなと思います。子供達が大きくなって私より逞しくなったら私が左側を歩いて守ってもらおうと思います。
今日はホワイトデーでした。昨日が結婚式から14年という事もあり、ケーキを買って帰り家族皆でお祝いをしました。妻と長男と次男がいる事を当たり前の事だと思わずに感謝したいと思います。家族がいてくれて本当に本当に幸せです。長男も次男も馬鹿だけど、健康で元気に育ってくれればそれで良いです。長男と次男に対して他に望む事はありません。自分の人生ですから自分の好きなように生きて行ってくれればと思います。私は欲しい物は全部手にいれました。妻が一緒にいてくれて、子供達が元気に育ってくれて、空手の稽古が出来れば、週末に家族で美味しいご飯を食べて、皆で楽しく過ごせれば、あとは何もいりません。今日も家族皆で美味しいケーキを食べる事が出来て本当に幸せでした。
私は2010年3月13日(土)にお台場のパラッツォ・エマーレと言う結婚式場で妻と結婚式をしました。もうあの日から14年が経つと思うと本当に本当に時間はあっという間に過ぎて行くのだなと感じます。私と妻は2007年の10月28日(日)に妻が運転する車の中で私が告白をし付き合う事になりました。2008年1月27日(日)に妻が上京して一緒に暮らす事になりました。2009年1月27日(火)に大田区役所に婚姻届を出し妻と結婚しました。なので結婚式場は約1年前には決めていました。結婚式まで、あれをやりこれをやり、ダイエットをして、結婚式の日まで2人で頑張りました。結婚式をとても待ち遠しく過ごしていました。でも過ぎてしまえば、もう14年が経ってしまいました。結婚式の日は最高に楽しかったです。自分の人生の集大成とも言える日でした。私は披露宴の新郎と新婦の席に座り、結婚式に参列された方々を見ながら「なんかミュージカルのカーテンコールみたいだな?!」と思いました。それは何故かと言うと、私のその時、その時の人生に関わってくれた方々の顔が並んでいたからです。その方々の顔が私の前に一斉に並んでいるなんて、もう一生に1度の事なんだろうな?と思いました。妻と披露宴会場に入場し私達の人生に関わってくれた方々の前を通り、新郎新婦の席についた時にそれを思い、もう涙が止まりませんでした。あの日に戻りたいとも思うけれど、そうすると長男と次男が存在しなくなってしまう可能性もあるので、やはり今が1番です。私と16年も一緒に居てくれている妻はなかなかの強者です。本当に本当に感謝しています。妻じゃなかったらここまで来る事は出来なかったと思います。結婚式でも披露宴でも最高に可愛い妻が私の隣に居てくれて、とっても誇らしかったし、とっても心強かったです。妻が隣にいてくれたから最高の1日になりました。私達の結婚式と披露宴に参列して頂いた方々には心から感謝しております。
kanno
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