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今日は朝7時半に起きて8時40分に家を出て、熊谷へ向かい、熊谷ドームで明日行われる型競技・セミコンタクトルール全関東大会の設営をしました。明日試合に出場する生徒達が力を発揮出来ますようにと祈りながら試合場を作りました。会場の近くに宿泊しているのですが暇で暇でしょうがなく、寂しくて寂しくて仕方がないので家族とテレビ電話で話しました。電話を切ったらまた寂しいです。テレビで「男はつらいよ」を見ながらご飯を食べています。「男はつらいよ」は涙と笑いがつまっていて大好きなんですけど「男はつらいよ」なんて言葉を堂々と言えないほど妻には大変な思いをさせているので、妻の前では「男はつらいよ」なんて私は言えません。
昨年の股関節を人工股関節にした手術のあとから目眩がするようになりました。いつも少しフワフワしている感じでした。特にスマホを見た後などはそれが酷くなっていました。そして最近は左耳の聴こえが悪くなっていました。人がたくさんいると特に酷くなっていました。そして先々週ぐらいから耳鳴りが酷くなりました。とてもとても嫌な予感がして今日、耳鼻科に行きました。聴覚検査を受けたところ左の耳は突発性難聴と診断されました。しかも重度に近い難聴でした。しかも私が医師に説明した経緯からの医師の判断では回復の見込みは薄いそうです。聴こえが悪いと気が付いた所から最低でも2週間以内に処置をしないと回復が難しくなるようでした。後悔先に立たずですね。でもそんなにショックではありません。ああこれが一生続くんだなと思っただけです。聴こえは悪くなりますが、全く聴こえないわけではありませんし、集中して物事に取り組めばそんなに気になりません。ただ飲み会のような場所ではあまり人の話が入って来ないと思います。この日記を見ている皆様は自分の身体に変調を感じたら、面倒くさがらずに早く病院に行って下さい。どんな病気でも早期発見して処置するに越した事はありません。私が帰宅すると妻が子供達に、これからはパパに大きな声で話してあげてね。聴こえなかったからと怒らないであげてね。と言っていました。長男は「〜先生も確か右耳が難聴だったな。」と言っていました。たぶんパパだけじゃないよと励ましてくれたんだと思います。私は妻と子供達に「ぜんぜん落ち込んでないから大丈夫!少し聴こえが悪いだけだから!これからは話しかける時や大切な事を話す時は右耳に話してね!」と言いました。病院て9日ぶんの大量の薬をもらいました。その薬を飲みきって、聴覚検査をしてみてどれだけ回復するかで今後の方針を決めるようです。私が右を向いたら聴きたくないと思っていて、左を向いたら聴きたいと思っていると思って下さい。それは冗談ですが、もう笑い話に出来ちゃうぐらいの事だと思って欲しいと思います。今を生きている自分が、今までで生きて来た自分の中では1番歳を取っていて、今を生きている自分がこれから生きて行く自分の中では1番若い、つまりは今の自分は常にはじめましての今だけの自分なんだと言う事なんだと思います。そう考えたらもう50年生きているのですから、悪い所の1つや2つはあって当たり前です。今を真剣に一生懸命に思いっきり楽しんで明日に大きな期待を膨らませてワクワクして笑って生きて行こうと思います。これからは私が振り向くときは右側からになると思います。私は人と並んで歩く時の立ち位置は右側が良いのですが、これからは左側にしたいと思います。だだ道路ではやはり自分が外側を歩きたいのでやっぱり右側だなと思います。子供達が大きくなって私より逞しくなったら私が左側を歩いて守ってもらおうと思います。
今日はホワイトデーでした。昨日が結婚式から14年という事もあり、ケーキを買って帰り家族皆でお祝いをしました。妻と長男と次男がいる事を当たり前の事だと思わずに感謝したいと思います。家族がいてくれて本当に本当に幸せです。長男も次男も馬鹿だけど、健康で元気に育ってくれればそれで良いです。長男と次男に対して他に望む事はありません。自分の人生ですから自分の好きなように生きて行ってくれればと思います。私は欲しい物は全部手にいれました。妻が一緒にいてくれて、子供達が元気に育ってくれて、空手の稽古が出来れば、週末に家族で美味しいご飯を食べて、皆で楽しく過ごせれば、あとは何もいりません。今日も家族皆で美味しいケーキを食べる事が出来て本当に幸せでした。
私は2010年3月13日(土)にお台場のパラッツォ・エマーレと言う結婚式場で妻と結婚式をしました。もうあの日から14年が経つと思うと本当に本当に時間はあっという間に過ぎて行くのだなと感じます。私と妻は2007年の10月28日(日)に妻が運転する車の中で私が告白をし付き合う事になりました。2008年1月27日(日)に妻が上京して一緒に暮らす事になりました。2009年1月27日(火)に大田区役所に婚姻届を出し妻と結婚しました。なので結婚式場は約1年前には決めていました。結婚式まで、あれをやりこれをやり、ダイエットをして、結婚式の日まで2人で頑張りました。結婚式をとても待ち遠しく過ごしていました。でも過ぎてしまえば、もう14年が経ってしまいました。結婚式の日は最高に楽しかったです。自分の人生の集大成とも言える日でした。私は披露宴の新郎と新婦の席に座り、結婚式に参列された方々を見ながら「なんかミュージカルのカーテンコールみたいだな?!」と思いました。それは何故かと言うと、私のその時、その時の人生に関わってくれた方々の顔が並んでいたからです。その方々の顔が私の前に一斉に並んでいるなんて、もう一生に1度の事なんだろうな?と思いました。妻と披露宴会場に入場し私達の人生に関わってくれた方々の前を通り、新郎新婦の席についた時にそれを思い、もう涙が止まりませんでした。あの日に戻りたいとも思うけれど、そうすると長男と次男が存在しなくなってしまう可能性もあるので、やはり今が1番です。私と16年も一緒に居てくれている妻はなかなかの強者です。本当に本当に感謝しています。妻じゃなかったらここまで来る事は出来なかったと思います。結婚式でも披露宴でも最高に可愛い妻が私の隣に居てくれて、とっても誇らしかったし、とっても心強かったです。妻が隣にいてくれたから最高の1日になりました。私達の結婚式と披露宴に参列して頂いた方々には心から感謝しております。
確定申告を終わらせました。これが終わるとホッとします。何とかかんとか22回目の確定申告が終わりました。本当に時が過ぎるのは早いです。22年間、たくさんの人達に支えられここまで来る事が出来ました。本当に本当に感謝しております。田舎の不良少年が極真空手を始めて夢を持って東京に上京して31年です。右も左も分からない所から始まって、たくさんの人達に支えられてここまで来た31年でした。そして道場を22年間経営して来る事が出来ました。東京の人は冷たいと聞いていましたが、全然そんな事はありませんでした。今では東京の方が知り合いも多くなりました。東京は夢を叶える場所、戦う場所と思っていましたが、東京も思い出がたくさんある心地良く住みやすい場所となりました。そんな思いに浸っている暇もなく今日からまた全力で頑張ります!
東日本大震災から13年が経ちました。妻と長男はその時、福島にいました。地震が起きた時に私の両親が妻の実家に来ていたので妻と長男は1階の茶の間に居て、すぐに外に避難する事が出来ました。もしいつも寝ている2階の部屋にいたら大変な事になっていたそうです。1回目の地震が落ち着き、2階の部屋に行くといろんな物が倒れていたそうです。長男は生後3ヶ月にならないぐらいでしたから、もしその下敷きになっていたと思うとゾッとします。長男は何かに守られたのかもしれません。本当に人の人生は微妙な事で変わってしまいます。妻は長男をいつでも連れて逃げれるよう、長男をベビーバスケットに入れて、玄関に近い茶の間で寝ていたそうです。本当に大変な思いをしたと思います。その時、私は東京に居て家族を守ってあげる事が出来ませんでした。申し訳なかったなと思います。考えてみるとあと時ぐらいから妻はとても強くなって大人になった感じがします。もしかしたらあの震災を経験した事で私を追い抜いて行ったような気がします。東京もなかなか大変だったけど、やはり東日本大震災の直撃と原子力発電所の爆発を近くで経験し未曾有の状況を経験した福島や宮城の人達の前では、大変だったなんてとても言えません。妻には自分と長男の命を一生懸命に守ってくれて本当にありがとうと言いたいです。
今野譲が空手を始めて10年になりました。ずっと試合に出続けて頑張って来ての10年だから本当に凄いと思います。なかなか出来る事ではありません。東京城南京浜支部も開設21年ですが、支部内も国際親善大会も関東大会も東日本大会も休む事なく試合に出続けて10年頑張った生徒は譲が始めてだと思います。これはやはりという感じなのですが、自分と深く付き合う事になる道場生は、その人が入門した日の事を鮮明に覚えています。もちろん譲が入門した人の事はとても鮮明に覚えています。今の東京城南京浜支部の少年部がここまでこれたのは譲のおかげと言っても過言ではありません。頑張って試合に出ていた選手がごっそりと抜けて、あまり試合に出ない雰囲気に支部がなりかけた時に譲が頑張って試合に出ていました。そこに琥白や駿斗が加わり、少しずつ試合に出る人が増えて来て、競技クラスに参加する人も増えて来ました。これから10年、私も皆と一緒に頑張りたいです。あと数年したら私は彼らに組手で敵わなくなり、組手にも混ざらなくなり、完全に指導する立場になっていると思います。今の中学生がこの勢いで脇道にそれず頑張れば全日本大会に7〜8名は出場出来ると思っています。そう考えるとワクワクが止まりません。今の中学生が私が生徒達と一緒に稽古出来る最後の世代になるのではないかと思っています。そのつもりで人工股関節にしたのです。自分の指導者人生の集大成にしたいと思っています。考えてみると1人の人間と10年絶える事なく付き合えた人って私の人生でそんなにはいません。だから譲は私にとってとても特別な存在です。これからも一緒に頑張って行きたいと思っています。どんな形でも良いから一生付き合って行きたいと思っています。
あまりギターの練習をしない長男に、妻が長男のバンドの相方の方がギターが上手いと言うと長男は思いもよらずに怒って「俺の方が絶対に上手い、何処がを君の方が上手いのかを説明して。」と食い下がっていました。そしてその言い合いのあとギターを練習していました。やっぱり好きな事では本気になって怒るんだなと思いました。
今日は何故か?とても身体がダルく感じました。朝起きた時もダルかったのですが、頑張ってごはんを食べて家を出ました。大森道場まで30分自転車を漕いで行ったので、身体ももう起きたかと思いましたが、大森道場でストレッチをしている時に気が付いたら居眠りしてしまいました。相当疲れが溜まっているのだなと思いましたが、自分との戦いに克つと日記に書いた矢先に休む訳にはいかないと思い、頑張ってストレッチを終わらせ、呼吸法と型と立禅をしました。ここまで来てもなかなか気持は乗って来ませんでした。でもやはり今日は自分の残りの人生の大切な大切な1日だと思い、トレーニングジムに移動して背中のトレーニングを1時間20分行いました。歯を食いしばって一生懸命に頑張ってトレーニングしました。終ってみれば今日もしっかり記録を更新していました。自分に勝った!と思いました。不思議とトレーニングが終わったら心も身体も軽くなっていました。お昼ご飯はご褒美にサムギョプサルを食べました。頑張って力を使い切ったので、食べた物が自分の身体の中にスーッと入って行き、自分の力になり、摂ったタンパク質が自分の身体の筋肉になって行くような感じがしました。でもさすがに食べたあとは少し眠くなり15分ぐらい昼寝をしました。とても気持が良かったです。昼寝から起きると体調も良く感じたので、ジムでエアロバイクで30分有酸素運動をして指導に入りました。夜の一般部の稽古では生徒達と一緒にスパーリングをしました。本当に頑張って良かったです。今日はグッスリ眠れると思います。
2023年11月22日から使っていたトレーニングノートが昨日で使い終わり、今日から新しいトレーニングノートに変わりました。私が使っているノートは48枚あるので96回のトレーニングした事になります。2023年11月22日から3月6日まで77日なのにトレーニングは96回していると言うのが驚きです。これは1日2回トレーニングする日もあるからです。我ながら本当に頑張ってるなと思います。この2ヶ月半は自分に負けなかったのではないかと思います。先ずは自分との戦いに勝たなくては人に偉そうな事は言えません。空手の試合はとても残酷です。それは何故かと言うと自分に勝っても相手に負ける事もあるからです。自分に勝てない人はもちろん相手にも勝てません。でも自分に勝っても相手に負ける事はあります。私は試合中に一瞬も諦めなかったけど負けた事があります。そうなったらまた次の日から自分をさらに鍛えて行くしかありません。相当な才能が無ければ、頑張ったのに負ける、諦めなかったのに負けるのが勝負と言うものです。だから自分に勝つ事が相手に勝つ事の最低条件だと私は思っています。私は世界チャンピオンになるどころか世界大会にも出場出来なかった人間です。どんな理由があれ夢に敗れたと言う事実は変わりません。その事を引きずってはいませんが、今でもその悔しさは忘れていません。私には人に誇れるほどの実績も能力もありません。だからこそ、その事を謙虚に受け止めて毎日を自分に負けないように頑張っています。それは誰に褒めて欲しいからやっている訳でも、誰に認めてもらいたいからやっている訳でもありません。ましては誰に叱られるからやっている訳でもありません。自分がやりたいからやっているのです。自分が自分のためだけにやっている事です。でも自分のためにやる事も一生懸命にやれない人が人に厳しい事を言う資格はないと思います。だからその事を胸に頑張っています。今日は1番嫌いな足腰のトレーニングをやりました。とても苦しかったけど記録が上がり自分が前進したという充実感を味わえたので、トレーニングが終わった時はとても爽やかな気持になりました。こうやって毎日毎日をしっかりと積み重ねて行きたいと思います。その代わり週末はお酒を飲んで楽しく過ごしたいと思います。
kanno
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