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子供の小さい頃の写真を見てるとなんか不思議な気持になります。動画を見れば「あ〜あ、こんな時があったな〜」と思い出すのですが、写真だといまいちその時の子供達の姿を思い出す事が出来ません。今の子供達の姿が自分の中でのイメージの全てになっている感じです。なので子供達の動画を見たりするとこの子達はこんなに可愛かったのか?と思います。もちろんその時も子供達を可愛いと思い心から愛していたのですが、やはりもっともっと抱っこすれば良かったなとか、もっともっとこの時を大切にすれば良かったなと思います。これからはもっともっと子供達と一緒にいる今を大切にしなければいけないなと思います。長男はもういっぱしの大人になろうとしています。話せば全然子供ですが、もう自分の考えや意見を持ち、それを私にぶつけて来る時もあります。私の思い通りになんてとうてい行きません。私と他の大人を比べたり、私の考え以上の物を他から聞いてきて、それを私に話したりします。もう親離れのカウントダウンが始まっていると思います。だから子供達と一緒にいる時間を大切にして行きたいと思います。まあ子供達に教えられる事はほぼ全て私の生き方と言葉で伝え教えたと思っています。それを今は分からなくても、心には残っているはずです。いつか子供達が私の教えを思い出してくれると思っています。いつかその事を考える日が来ると思っています。その時にじっくりと答えを出してくれれば良いと思っています。
今日は、朝は柔軟体操と呼吸法と型を1時間30分行ってからジムに移動して腕のトレーニングを1時間10分行いました。お昼ご飯を食べて休憩し、指導の前に砂袋や鉄柱に正拳、裏拳、手の甲、脛、足の甲、中足と言う部分を打ち付けて部位鍛錬を約1時間行いました。夕方の指導と夜の指導の合間にランニング30分と縄跳びとシャドーを3分2ラウンドずつ行い、夜の稽古では士道しながら生徒達に混ざって下段廻し蹴りの蹴り込みを左40本、右40本行い、スパーリングをしました。スパーリングでも身体がやっと自分の思うように動いて来ました。感もだいぶ戻って来て、良いタイミングで技が入り、相手の技を受けたり返したりカウンターを取ったり出来るようになって来ました。心肺機能も強くなって来てスタミナも付いて来ました。もっともっと稽古して自分を研ぎ澄まして行きたいと思います。
股関節を人工股関節にする手術から6ヶ月後の検診でした。医師にはとても良好だと言われました。開脚が出来る事、正座が出来る事、膝が胸に付くまで上げる事が出来る事、胡座で座る事が出来る事、走る事が出来る事、スクワットが出来る事などを話すと、医師にも「良かったね」と喜んで頂けました。本当に本当に感謝です。また8月の終わりに1年後の検診があるのでその日まで健康に気を付けて行こうと思います。昨日、体重を計ったら100キロになっていました。体重が90キロを切るまで禁酒したいと思います。せっかく治してもらった身体を壊してしまったら申し訳がないのでしっかりと健康に気を付けたいと思います。私は45歳を過ぎてから、止めた事があります。それはラーメンやうどんや蕎麦などのスープを飲まない事です。醤油なども極力かけないように気を付けています。子供達のために70歳までは仕事をしなければならないので頑張りたいと思います。
心と身体は比例しています。歳を取ると身体が弱くなるので、身体と共に心も弱くなって行きます。身体と心は繋がっています。厳しい心を持っていれば身体も厳しくあるはずです。心が緩ければ身体も緩くなり、心がダラしなければ身体もダラしなくなってしまいます。だから私はそれなりには自分に厳しくしようと思っています。歳を取って気持が弱くなるのは心と身体が弱くなるからです。だから私はいつも自分に厳しくして身体を強くしようと心がけてきました。でも最近は弱くなる事も悪くはないかな?と思うようになりました。弱くなったぶん優しくなれるのなら、それも悪くはないと思うようになりました。私は10代20代の時は短気でした。30代の時も尖っていましたし、40代も自分が正しいと思ったら誰とぶつかろうと意見を言う人間でした。今51歳となり死を身近に感じるような体験もし、人が恋しくなり、別に負ける事もそれで円満になるのなら悪くはないと思えるようになりました。妻に対しても子供達に対しても、自分が折れれば円満に済む事であれば、自分が折れようと思えるようになりました。歳を取って生きやすくなっていると思っています。
昨年の股関節を人工股関節にした手術から半年が経ちました。あの経験は私の人生観に大きな影響を与えました。入院中に100歳の方と同じ部屋でした。人生で初めて100歳の人を見ました。同じ部屋の方々は100歳、86歳、80歳でした。みんな立つ事も出来なく、歩く事も出来ない方々でした。それを見て「あ〜僕もこの歳まで生きていたらこうなっているのか〜?それどころか、この自分の身体がどこまで動くように戻るのだろう?」と思い、いろいろな事を考え悩みました。生きるという事は大変な事だと初めて感じました。死にたいわけではありませんが人に迷惑をかけてしまうようになったら生きていたくはありません。何歳まで自分は人に迷惑をかけないように生きて行けるのだろう?70歳なのか?80歳なのか?90歳なのか?そう考えると自分の人生はそんなに長くない事に気が付き、恐怖を感じました。私は20代の頃は試合で死ねるならそれで本望と思っていました。自分なりの死生観を持って生きて来たつもりです。いつ死んでも悔いのないように生きて来たつもりです。でも私は今、死ぬ事が怖いです。今が1番幸せだから、この幸せをずっと抱きしめていたいです。この幸せを失う事や死ぬ事が本当に怖いです。50歳になりリアルに死を感じてそう思っています。でも今、それに気付いて良かったと思っています。その事でこれからの人生を大切に大切に生きようと心から思う事が出来ました。若い頃は自分の身体がぶっ壊れても自分の思う人生が生きれるなら良いと思っていました。今は歳を取ってから人に迷惑をかけないように自分の身体を大切にして少しでも長生きをしたいと思っています。子供達の孫を抱っこしてあげたいと思います。人間の人生は欲が尽きません。死ぬ時には静かに死ねるよう日々一生懸命に精進して、思いっきり楽しんで馬鹿もやって生きて生きたいと思っています。
私は中学年の時に新聞配達をやっていました。田舎だったので、なかなか大変でした。約200軒配達していましたが、次の家まで1kmあったり、坂道の上に配達する家があったりしました。雨の日や雪の日は本当に大変でした。新聞が濡れないよう1部1部ビニール袋に入れて配達をしました。4時は起きて新聞屋まで行き、配達が終わるのは6時ぐらいでした。今の長男の歳にはそれをやっていたんだから、なかなか頑張っていたなと思います。根性はあったと思います。
私は1973年2月生れです。第1次ベビーブームの団塊の世代の人達の子供の団塊ジュニアと言われる第2次ベビーブームの世代の真っ只中で生まれて育ちました。その世代の子供が圧倒的に多いため、何もかもが競走でした。私達の時代は勉強も受験戦争と言われましたが、正しく何もかもが戦争でした。良い学校に行かなければ人生は終わり、大学に行けなければ2流3流の会社にしか入れない、高校に行けなければ人生は一生貧乏のままで終わりだと教育を受けました。そして私は高校を退学になりその戦争に負けてドロップアウトしました。でも私の人生は終わっていません。むしろドロップアウトした所から私の本当の人生が始まりました。夢があるなら夢を目指せば良いと思います。目標があるなら頑張って達成すれば良いと思います。でも楽しく生きたいのなら楽しく生きれば良いのだと思います。人生なんて自己満足です。自分が心からそれで良いと満足出来るのならば、その生き方は間違っていません。自分さえ良ければ良いは、良くないと思います。でも自分がそれで良いと本気で思えるならその生き方は間違っていませんし、それは誰に否定される物でもありません。ただ死ぬ時に後悔するような生き方はしたくありません。自分を慰めるのではなく、本当に自分の人生が良かったと思える生き方をしたいです。私は自分が強くなりたいと言う夢と目標を持って生きています。そして毎日、自分を高めて充実した実感を持って生きたいと思って生きています。その夢や目標は達成しましたし、達成し続けています。夢も目標も叶いっぱなしの人生と言っても良いかもしれません。そう言う意味ではもう私の人生は終わっています。もう夢も目標も叶えてしまったからです。あとはこの人生を思いっきり楽しむだけです。
次男が学校で将来の夢は、空手の先生と書いたそうです。空手家は私一代で終わらせるつもりだったので、次男がそう思っていた事に驚きました。空手が本当に好きだったら良いのですが、今の次男を見ているとそうも思えません。私の子供と言うだけで私のあとを継がせるつもりは私にはありません。今の極真空手の選手層レベルなら最低でも全日本に出場して入賞しなければあとは継がせないと思っています。これは最近の黒帯にも言える事ですが、極真空手の黒帯を締めて一般の人に体力や身体能力や腕力で負けるようでは困ります。中には他の格闘技や若い頃スポーツでそれなりだった人も入門して来ます。空手の先生になるなら習いに来た生徒に負けるようでは空手の先生は務まりません。黒帯も同じです。黒帯を締めていて、あとから入門して来た素人に負ける事があるようでは困ります。私生活でも友達や会社の同僚に体力や身体能力や腕力で負けてしまえば、極真空手は大したことが無いと思われてしまいます。自分が極真空手の看板を背負っていると思って日々しっかり稽古し、柔軟体操をしたり基礎体力を付けるトレーニングをしたりして欲しいと思います。組手だけではなく、柔軟性や腕力や体力で負けていたら後輩に厳しい言葉を言えなくなってしまいます。言ったとしても「あなたは私よりも出来ない事ばかりじゃないか?」と思われておしまいです。黒帯を取った時だけ出来てもそれは意味がありません。運転免許にも更新があります。極真空手の黒帯に更新はありませんが、常に自分の出来ない事を出来るようにしていく努力と自分の力を維持する努力だけはして行って欲しいと思います。次男が本気で私の跡を継ぎたいのなら最低ラインは全日本大会入賞です。そうしなければ先生の子供だから後を継いだのだと馬鹿にされ誰も付いて来てはくれないと思います。そしてそんな甘い人間には魅力が無いので、道場もすぐ潰れてしまうと思います。私の考えはこの仕事を子供に継がせたく無いので、ただ見守ってあげたいと思います。
今日は剛柔流の稽古と技術委員会の仕事のため極真会館代官山道場に行きました。この何年間か渋谷では何処かで大規模な工事が行われているぐらい開発が進んでいます。20代の頃は渋谷は遊びに来る場所でしたが、今は仕事をしに来る場所になりました。ここ最近、トレーニングの記録がグンと伸びて来ています。身体も柔らかくなり開脚もほぼ180度行きます。代官山道場で稽古の前にストレッチをしていたら、コンスタンティン・コバレンコ選手に話しかけられました。あまり言葉は通じなかったのですが、たぶん「人工股関節にする手術をしたんですよね?」的な事を言われ、その後に「超柔らかい!凄い!」と日本語で言われました。50歳を過ぎて全日本チャンピオンに凄いと言われる物が1つでもあって良かったと思います。空手家は昔は強かったと言う事よりも今の自分が何を出来るかが大切だと思います。今の自分の力が今の自分の看板なのだから、昔の古い看板を何時までも大事にあげていても説得力がありません。考えて見れば何時までもあげていられるほどの実績という看板を作る事が出来なかったから、今を頑張れているのだと思います。人より遠回りしても人より遠くまで行きたいと思っています。それが私が高校の卒業文集に書いた言葉です。その言葉を胸に生きて行きたいと思っています。
妻が2月17日(土)に友達と三峰神社に行きました。私は前はほぼ毎年三峰神社で行われる総本部冬合宿に参加していましたし、大山総裁の〜年祭などにも参加していますので20回以上は三峰神社に行っていると思います。なので妻は私からも三峰神社のいろんな話は聞いていましたが、三峰神社に行くのは初めてでした。妻も遂に極真空手の聖地を訪れました。妻は大山倍達総裁の記念碑にも参拝して「大山総裁のおかげで私達家族は生活が出来ています。ありがとうございます。」と手を合わせたそうです。それを聞いて私もとても嬉しく思いました。私の仕事を尊敬してくれているから、その言葉が出たのだと思います。本当に僕は良い奥さんをもらったなと思います。それもこれも大山総裁と極真空手のおかげだと思っています。妻も朝のフィットネスクラスで私から空手の指導を受けているのだから、間接的にではありますが大山総裁の弟子です。長男も次男も極真空手をやっているので家族全員が大山総裁の弟子です。三峰神社に行ってテンションが上がって帰って来るなんて最高の妻です。
kanno
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