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入院20日目、術後19日目、明日は無事に退院する事が出来そうです。長かったような短かったような感じです。入院するために家を出て病院までの事はけっこう鮮明に覚えているのですが、病院に入ってからの事は、これと言って思い出せる事はありません。家族にTV電話した事ぐらいしか覚えていません。手術日の事はよく覚えています。6時に起きて点滴が始まり、朝ごはんは食べる事は出来なくて9時には水分も取れなくなり、12時過ぎぐらいからバタバタし始め7階の病室からエレベーターで4階に行き、13時ピッタリに手術室の前に付いた事、手術室の前でいろんな事の確認を受けた事、手術室に入る時に「自分はしっかり生ききった。今までの人生に悔いはない、この手術に向けてもやれる事はしっかりやった。あとは先生と神様に全てを委ねよう。」そう思い、手術室に自分の足で入り、手術台に寝て麻酔の点滴をされて意識が無くなる前に妻と長男と次男と極真空手の事を考えました。次の瞬間には手術が終わり看護師さんに意識確認をされていました。「生きていたんだ。」と思ったあとは頭がぼーっとして何も考えられないような感じでした。それから19日、本当に長かったような短かったようなです。今、1つ確実に言える事はもうこの20日間をやり直したくはないと言う事です。そのぐらい大変な毎日でした。手術後の痛みもそうですが、自分の身体が元に戻るのか?と言う不安や、どうにもならないもどかしさや、痛みを人に訴えなくてはならない屈辱や自分の恥ずかしい部分を人に見せなくてはならない屈辱、自分の弱さを見せつけられた屈辱、夜の寂しさ、とにかくいろんな事がありました。人生最大の苦痛を味わいました。その中で人の優しさやに触れ自分という人間は沢山の人のおかげで生かされている事を感じました。妻と長男と次男の存在の大きさも感じました。妻と長男と次男の存在があったからこの試練を乗り越える事が出来ました。本当に本当に痛くて苦しい時、妻と長男と次男の顔を思い出し歯を食いしばって頑張る事が出来ました。今回の事で見える景色も感じ方も考え方も人に対する思いも大きく変わったと思います。だから本当に本当に貴重な体験だったとは思います。でもやはりもう1度この20日をやり直しと言われたら、それはもう無理です。そのぐらい大変でした。明日は家でご飯を食べる事が出来ます。本当に本当に楽しみです。妻の手料理とビールとワインで乾杯です。今日は朝起きてウォーキング20分と体操と呼吸法をやり、朝食後にリハビリをし、昼食後にストレッチと筋トレとウォーキング30分、夕食後に筋トレをしました。最後に今回の入院で180度考えが変わった事は苦しい時には苦しいと言って良い、辛い時は辛いと言って良いと言う事です。頑張れない時は頑張らなくて良いです。誰かに話を聞いてもらったり、手を貸してもらったりして助けてもらえば良いと思います。弱い人ほど人に助けてもらう権利があると私は思います。それは恥ずかしい事ではありません。きっと誰かが助けてくれるはずです。そして今、元気な人は弱っている人や困っている人に進んで手を貸してあげて欲しいと思います。助けてあげようとして手を貸して、その手を振り払う人もいるかも知れませんが、だからと言ってそれで損をするわけでも恥をかくわけでもはありません。おせっかいだったか?と笑えば良いと思います。でもこりずにまた手を貸してあげて欲しいと思います。世の中にはルールがあります。公共のルールは公共のためにあるもので、誰かのためにあるものではありません。そんな時に自分がどう判断してどう行動して良いか?分からい時もあると思います。そんな時は、その自分の行動が会社員としてとか、先生としてとか、社長としてとか、その自分の立場で考えるのではなく、人としてどう判断して行動すれば良いのか?を考えれば良いと思います。もしかしたらその事でバカを見る事になるかもしれません。でも人が人を思う愛情や感謝の気持がないような判断をして行動をする事が1番やってはいけない事なのではないか?と私は思います。私もいっぱいいっぱいで手を貸してあげる事が出来ない事もあるかもしれません。でも貸してあげる手があれば必ず、その手は人に差し伸べます。だから何か悩みがあれば話して欲しいと思います。これから急に変われるか?は分かりません。でも変わる努力は必ずします。
私は今回の手術に1度自分の人生のリセットをする覚悟で臨みました。もしこの手術で命を落とす事になろうと、もし手術が失敗して一生車椅子になろうと、今までの人生に悔いはないと言う気持ちで手術に臨みました。だから手術が終わり目を覚ました時に「生きていたんだな」と思いました。と同時に「ヨシっ新たな人生を頑張るぞ!」と思ったのも束の間でそのあとは痛みと苦しみとの闘いで精一杯でした。手術の前に何故そのような気持になったのかを考えてみたら、それは私の師匠の言葉でした。これは師匠が私に言った訳でもなく、それを師匠が言った場所に私がいた訳ではありません。これは私の先輩に師匠が言った言葉です。その先輩は膝を人工股関節にする手術を受けたのですが、腎臓が悪く人工透析をしているために命の危険もある手術だったそうです。そのために手術するかを迷っていたそうです。その事を師匠に話すと、師匠は「死ぬにしても麻酔で眠っている間に死ぬわけで、苦しんで苦しんで死ぬわけではないんだから悪い死に方ではないし、手術が上手く行けば今より歩けるようになるんだろ。何も悪い事はないじゃないか?!良い事尽くめじゃないか?!悩むことなんて何もないだろ!」そう言ったそうです。手術の前に師匠の言葉を考えて、私は手術を決めたわけでは亡いけれども、私の考えは師匠と似ていたと思います。師匠の言葉は私の中に潜在的に生きているのだと思います。人生50年ですがら、私はここで手術をして生きていたと言う事は、神様に第2の人生を頂いたと思い、新たな気持で毎日に感謝して一生懸命生きて行きたいと思っています。人に対する愛情と感謝の気持を忘れず、弱い人や弱っている人に自分の手を差し伸べて生きて行きたいと思っています。私は今までは自分にも厳しいかわりに人にも厳しさを求めていましたし、努力しない人や一生懸命じゃない人や強くなろうとしない人は、ズルをしている、自分に甘えている、サボっている、自分に負けている人だと思っていました。自分が頑張ろうとしなければ誰も手は貸してはくれないよ、と思っていました。でも今回の手術とこの入院でお年寄り弱っている人をたくさん見て、その考えは大きく変わりました。変わりたくても変われない人、弱い人、自分は駄目だと分かっていてもどうにもならない人、頑張りたくても頑張れない人、もたくさんいると思います。そんな人に優しく接してあげたり、何も言わずに手を貸してあげたり、寄り添ってあげたり出来る人間になりたいと思っています。せっかく命を頂いたのだから、自分の人生を思いっきり楽しんで、人の役に立って生きて行きたいと思います。今回の手術も入院も私に取っては修行のような物でした。人と話す時間が少ないぶん、自分と話す時間が増えたり、本を読んだり、いろんな事を思ったり、いろんな事を感じたり、いろんな事を考えたりする時間をたくさん過ごす事が出来ました。リハビリでは、まだ歩けない子供が歩けるようになって行くような感じで、何も考えずに出来ていた事をもう1度1から出来るようにする努力をしました。自分の身体はこうやって動かしていたんだ、ここが痛くて動けないと上手く歩けないんだ、などいろんな事を考えながら自分の身体を動かす、とても良い勉強になりました。今回の手術と入院で「亀の甲より年の功」をたくさん身に付ける事が出来たと思っています。この経験を社会に出てたくさん役に立てなくては行けないなと思います。明後日は退院なので、朝起きて20分ウォーキングと体操と呼吸法、リハビリを40分とウォーキング10分、昼食後に筋トレとウォーキング30分、夕食後に筋トレをしました。だいぶ自然に歩けるようになりましたし、手術前よりはスムーズに歩けるようになったと思います。でもマダマダ自分の身体に馴染んでいない感じもします。手術跡の痛みとコルセットをしているような圧迫感と新しい足が自分に付いたような感覚が少し残っています。退院して終わりでは無いのでしっかり自分でリハビリをして人工股関節を自分の身体に馴染ませて行きたいと思います。輪違屋糸里を読み終わりました。もう明後日で退院ですが、明日からマイク・タイソン著の真相を読みたいと思います。
朝起きて朝食前にウォーキング20分、朝食後に読書、昼食後にウォーキング30分、リハビリを40分、夕食後に筋トレをしました。こんな感じで退院に向けて結構頑張っています。足の傷口の腫れもだいぶ引いて来ました。痛みもなく夜も1時間おきに起きてしまうものの12時から6時の起床までしっかり眠れています。リハビリ室に体重計があったので計ってみたら88キロになっていました。私の股関節に入っている人工股関節は、カップ(約50g)ライナー(約20g
入院17日、術後15日となりました。私は寝る時と食事と映画を見る時以外は病室にいたり、ベットの上にいないように心がけています。今日は朝に20分間病棟をウォーキングし、リハビリを40分間、リハビリのあと10分ウォーキングしました。リハビリでは外を歩きました。横断歩道を渡ったりと少し長い距離を歩きました。晴れていて暑かったのですが、その暑さがとても心地よかったです。今日はシャワーを浴びる事が出来ました。あの痛みや苦しみの経験があったから、普通の事が普通ではなくなり、何をしても幸せと感じるようになりました。そこで今日は私が痛みと闘っていた数日の事を改めて思い出して見ようと思います。先ずは手術室で目を覚ました。18時ぐらいだったと思います。手術が終わったんだなと言う事は足と腰の痛みと共に直ぐに分かりました。ただ頭はぼーっとしてあまり考える事は出来ない状態でした。手術が終わったんだなと書きましたが、正確には「生きていたんだな」と思いました。そのままHCU(高度治療室)に運ばれ、身体には点滴の管が3本、尿の管が入り、心電図の電極が胸の辺りに沢山付けられていて、酸素マスクをし、右の指には酸素濃度計が付けられ、足は足を固定するパットの上に乗せられて身体はピクリとも動かせません。足は局部麻酔がしてあり足の感覚はあまりありません。頭がぼーっとしている、吐気、足と腰の痛み、身体に力が入らない、そんな状態でした。手には痛み止めのボタンとナースコールのボタンをずっと握っていました。痛み止めのボタンは押すと痛み止めが出るのですが、あまり効きません。そして押しても30分に1回しか痛み止めは出ないようになっています。血圧が低いので病室で輸血も行いました。身体がとても暑く、息苦しく、頭を上げたいのですが血圧が低いため上げる事が出来ず、強い痛み止めが使えず、足を下に下ろせず。身体を動かす事が出来ず、そして夜中からは喉の乾きの苦しさも加わって来ました。口の中が完全に乾いている状態がずっと続いていました。血圧が上がって来たので夜中の12時頃に少し強い痛み止めを打てるようになりましたが、それは全然効きませんでした。朝の6時に水が飲めるようになり、8時に朝食でしたがほぼ食べる事は出来ませんでした。でも食べないとロキソニンの痛み止めを飲めないので、痛みを和らげたいために、必死におかゆだけ食べてロキソニンを飲みました。でも痛みは全然変わりませんでした。9時に一般病棟に戻るので心電図の電極、酸素マスク、点滴の管が1本、身体から外れました。一般病棟に戻りここで足を乗せていたパットから足を外し、足を下に下ろす事や頭を上げる事や身体を動かす事が出来るようになりました。ここからは自由に飲み物を飲んだり、スマホを見たりDVDを見たり出来るようになりました。でもここからも次の日のお昼ぐらいまで痛みとの闘いとなりました。ずっと机の上に突っ伏していました。気を紛らわすため、身体をうちわで仰いだり、腰をさすったり、飲み物を飲んだり、スマホでブログや文章を書いたり、家族の写真を見たり、していました。月曜日、火曜日は一睡も出来ませんでした。点滴や尿の管が付いているため基本ベットの上から動けません。水曜日のお昼の検診で痛みの酷さを相談し、昼過ぎに1番強い点滴の痛み止めを使ってもらいました。ここからは徐々に痛みが減って行きました。でも水曜日の夜もほぼ眠る事は出来ませんでした。木曜日は痛みから完全に開放され楽になりました。手術後の痛みとの闘いはこんな感じでした。痛みや苦しみとの闘いの中で自分を1番支えてくれたのは家族への愛情でした。家族の存在がなければ私は痛みに打ち克つ事は出来なかったかもしれません。痛みとの闘いは弱い自分との闘いでした。弱い自分の本性を見ました。その時に自分を支えてくれ、自分を強い気持ちにさせてくれたのが妻と長男と次男の存在でした。一緒にいなくても妻と長男と次男がこの世に存在している事だけで私に力を与えてくれます。そしてもう1つ痛みと戦う中で感じた事は自分に関わってくれた方々への感謝の気持でした。愛情と感謝が私の支えとなってくれました。心が頑張って身体を支えてくれました。その原動力が愛情と感謝と言う力でした。人間の本性は本当に弱いけれど、愛情と感謝が人を強くしてくれるのだと思いました。結局は自分のためなのですが、自分のためだけなら頑張れない事も愛する人のためなら頑張れると言う事です。だから自分自分と言う人は自分の持っている60%の力を100%と思い込み、自分の最大限頑張っているんだけど結局60%しか頑張れていないと言う感じて、愛する人のためと思って頑張っている人は自分の限界を大幅に超え、自分の力を120%出せてしまうと言う感じだと私は思います。これから亡くなる人や戦争に行く人が最後に残す言葉は誰かに対する愛情と感謝だと言う事が、私も今回の事で身を持って知りました。痛みと闘っている時に、亡くなってしまった前橋さんの言葉を思い出しました。癌になったのが旦那さんや息子さんではなく、自分で良かったと前橋さんは言いました。その言葉の意味が私は痛みと闘いながら、本当にそうだなと思いました。私は死にたくないです。もっともっと生きたいです。でも妻や長男や次男の命が自分の命と交換に助かると言われたら、迷わず自分を選ぶと思いますし、愛する人にこの苦しみを感じさせたくないと思わない人はいないと思います。痛みと苦しみの中で眠れない時間に本当にいろんな事を思い、いろんな事を感じ、いろんな事を考えました。この体験を絶対に無駄にしないように生きて行こうと思います。
今日、担当の医師の臨床を受けて9月9日(土)に退院出来る事となりました。でも医師に絶対に転ばない事、足を捻るような動きはしない事を言われました。もし人工関節が入っている部分の大腿骨がもし割れてしまったら、もう元の身体には戻れないと言われました。大腿骨に穴を開けてそこにステムと言われる物を深く埋め込んでいるのですが、そのステムと大腿骨が馴染むまでは大腿骨はとても弱いそうです。ステムの周りの骨は薄くなって入るので転んだりして、そこに衝撃が加わると骨は割れたり砕けたりしてしまうそうです。ステムと大腿骨が馴染むまでには6週間はかかるそうです。なのでそこまでは絶対に気を抜かないで欲しいとの事でした。自分が思っていたより事は重大な局面なようです。医師には「痛くなくなって動けるようになってからの方が気を抜いて転んでしまうので本当に怖いからね。そんな時に限って悪い事が起こるから本当に気を付けてね。」と言われました。その話を聞いて凄く怖くなりました。絶対に気を抜かないよう生活しょうと思います。自転車には乗れるけれども転んだら駄目なので絶対に自転車には乗らないよう言われました。まだここから少し不便をおかけしてしまう事になりそうです。道場生、ご父兄様にご協力頂きながら、道場を運営して行きたいと思います。今日は傷口を保護するテープが取れました。傷口は綺麗にくっついていました。もし傷口に菌が入ったら事によっては死に至る事もありますし、菌を取り除くために大変な手術になると聞いていたので、あまり動いて汗をかいたりしないよう気を付けてリハビリをしていました。傷口に関してはこれで一安心です。今日は、リハビリでも手術前より楽に上手く歩けるようになった感覚がありました。手術前はお尻の横と内股の当たりが痛く前側が突っ張って足が前に進まない感じでしたが、今日のリハビリでの歩行訓練では足が前に出て踵から地面に着地しえ爪先で最後に地面を蹴ってテンポよくスタスタ歩ける感じがしました。本当に嬉しかったです。本当にいろんな人にいろんな事にいろんな物に感謝です。人はいろんな人に手を貸して頂き、いろんな人に支えてもらい守られて、沢山の人にご迷惑をおかけして、沢山の人にお世話になって生きていると言う事を感じています。自分が生きている事に感謝しかありません。
今日で入院15日です。1ヶ月の半分を病院で過ごしたという事になります。こんなに長く入院したのは17歳の時に膝を手術した時以来です。その時に入院した病院は外のコンビニにも買物に行けましたし、病院内を何処でも自由に行く事が出来たので、何か自由にやっていました。屋上で稽古したり、友達もたくさん面会に来てくれたり、もう時効と言う事で話せば、私がどうしてもびっくりドンキーでハンバーグが食べたいと言うと友達が車でびっくりドンキーに連れて行ってくれました。時代もあってその辺が緩かったのか?若さもあったのか?本当に自由にやっていました。その病院に入院した時の事で凄く覚えている事があります。1つは手術後先生の臨床を受けて内側側副靱帯の完全断裂と前十字靭帯断裂の部分断裂で手術が上手く行ったとは言え空手の試合に出ると言う事は、再断裂する可能性が高いから止めたほうが良いと言われました。私はその話を聞いても絶対に空手の試合に出るんだと思いましたし、自分なら絶対に出来るという自信も何故かありました。私の右足にはその時のチタン製のピンが今でも入っています。もう身体の一部になっているので取れないそうです。私はその日の夜、病院の屋上で基本稽古の手技と拳立てをやりました。拳立てをしながら涙が出てきました。絶対に空手をやるという事を自分に知らしめるために稽古をしたんだと思います。稽古をしてこれからどうなるか分からない不安と闘っていたんだと思います。稽古をする事で弱い自分と闘っていたんだと思います。もう1つは入院中に辰吉丈一郎選手の試合を公共スペースのTVで見た事です。私はその時、自分もいつか空手の試合でTVに出て見せるとその時一緒にいた友達に言いました。それから10年後、本当に私は空手の試合でTVに出る事が出来ました。ブラウン管の中にいる自分を見て、その時の事を思い出しました。今回入院している病院は自分の入院している病棟以外は何処にも行けないので、その点は本当に暇ですが、私も50歳になって落ち着いたのか?本を読んだり映画を見たりして、ちゃんとルールを守ったうえで時間を有効利用しています。17歳の時も入院中に本や雑誌を読みました。影武者徳川家康と格闘技通信とパワー空手を読んでいました。今回は壬生義士伝を読み終え輪違屋糸里を読んでいます。これを読み終えたらマイク・タイソン著の真相を読もうと思っています。今日は死と言う事について考えていました。死と言うものを今回の入院でとても近い物に感じましたし、痛みや苦しみと闘っていた時や自分で自分の身体を動かす事が出来ないためトイレの事など介護を受けている時に、死ぬ時もこんな感じなんだろうな?!と思いました。でもその苦しみの中でたぶん家族や自分に関わってくれた人達への愛情や感謝を感じているだろうと思います。死ぬと言う事から逃げる事は出来ません。死ぬと言う事は生きて行く先に必ずある物で、この世に生を受けた以上、それから逃げる事は出来ません。どんな人にも唯一、平等に訪れる物です。死ぬと言う事を深く考えて行くと、じゃあどう生きるか?と言う事にたどり着きます。死というものは生きる事の終着点で、生と死は分けるものではなく、生の最後の一部なのかもしれません。だから死にたどり着くまでにどう生きて行くか?それを考える事が死を考える事になります。私は死にたどり着くまでにどう生きて行くか?を毎日考えています。今回の手術での事でそうですが、同じ病棟に入院している方々を見る事で、死を身近な物として感じる事が出来ています。死を間近に意識して、これから自分の人生の先にある死までどう生きてそこに辿り着こうか?そう真剣に考えた時に私の頭に浮かんだ事はとてもシンプルでした。もう欲しい物もやりたい事も行きたいところもありません。私はもうそれを手に入れていますから、それをいかに大切に生きて行くか?です。極真空手と道場と家族を大切に一生懸命に真摯に生きて行きたいと思います。
今日で入院から2週間と手術後13日となりました。朝と夜の検診での体温は平熱になったのですが、血圧が低く、まだ貧血なようです。リハビリは前に進んでいます。寝て足を揃えて膝を立ててそこから膝を開いて行く事が出来るようになりました。階段の昇り降りも少しですが出来るようになりました。そしてやっとぐっすりと眠る事が出来るようになりました。12時に眠り3時半ごろトイレのため1度目を覚ましましたが、トイレから戻りもう本当に眠り、朝の6時までしっかりと眠る事が出来ました。まあ元気なのですが、血圧が今日は98とかなり低く出てしまっています。輸血をしたとはいえ、一時は血液の20%を失ったのですから、そう簡単には元には戻らないのかもしれません。掌が白くてアッカンベーをした目の下が白いのでやはりまだ本調子では無いのかもしれません。今日はリハビリ以外に朝の体操と病棟10周ウォーキングと昼の病棟10周ウォーキング、夜の筋トレで20秒腹筋35回、足上げ腹筋30秒×3、スクワット20回×2、カーフレイズ100回、腕立て伏せ30回×3、ディップス30回×3、首筋70回をやりました。今日から輪違屋糸里を読み始めました。今日も妻が面会に来てくれました。妻はいつも15時から16時ぐらいに来てくれるのですが、それまでが待ち遠しく、妻が帰ると一気に寂しくなります。夜は家族とテレビ電話で話します。子供達の顔を見て話せる事はとても楽しいのですが、やはり電話を切ったあとはとても寂しくなります。1人とは寂しいもんだなと思います。長男と次男の喧嘩してる声も悪くない気持になります。今週1週間が終わり生徒達も頑張って稽古してくれているようです。本当に嬉しいです。あと1週間入院する事となりますが、道場に戻ったら全力で頑張ろうと思います。これから20年、道場生と元気に稽古をするために今回の手術を決めたので、戻ったらまた皆と楽しんで稽古して行こうと思います。
9月が始まりました。今日からリハビリが午前と午後の2回になりました。夜も自分で筋トレをしたり病棟をウォーキングしたりしています。手術後の腫れと痛みもほぼほぼ無くなり、夜もぐっすりと眠れるようになりました。ご飯もとても美味しく感じます。体温も36度の平熱を保っています。血圧は110ぐらいです。食事や検診の時以外はベットにいないようにしています。ベットでダラダラしていると身体も心も鈍ってしまいそうなので、公共スペースで読書をしたりしています。病院に入院していると健康って本当に大切だと思います。自分の身体が思うように動かなくなって生きる事はなかなか大変だと思います。足が衰えてしまうと自分の身体がどんどん衰えて行き、身体が衰えると脳も衰えて行ってしまいます。だから自分の身体を動かすと言う事は本当に大切だと思います。選手を目指したら別ですが、空手の稽古って本当に健康に良いなと思います。今日は壬生義士伝を最後まで読み終えました。とても大好きな作品となりました。この作品は映画で見た作品ですが、映画も好きなのですが、原作の方が3倍は良かったです。今日は長男が学校の集会で倒れて頭を打ち病院に運ばれたそうです。CTの結果、幸いにも頭に以上は無かったので安心しました。昨日ですが次男が水泳のテストに合格したそうです。約1年同じ級にいたので、何ですが頑張ったと思います。面会に来てくれました。本当に感謝しています。病院のご飯は栄養のバランスも良くとても美味しいのですが、そろそろ妻の料理が恋しくなりました。退院した日は妻が初めて東京に来た日に私に作ってくれたハンバーグと鍋を作ってとお願いしています。病院では三食お米を食べていますが、全然太らないので、やっぱり炭水化物を摂ってもバランス良く栄養を摂り、量をたくさん取らないようにすれば太らないと言うことなんだと思います。ご飯は180グラム出そうです。吉野家の牛丼の小盛より8グラム少ないようです。退院してもこの量を基本に炭水化物も摂って行こうと思います。筋トレのしすぎとタンパク質の摂りすぎはもう止めようと思います。この入院で筋肉も落ちて行ってると思うので丁度良いです。今何キロか分かりませんが、退院したら体重は80キロ以下をキープ出来るようにしたいと思います。
今日で8月が終わりなんですね。入院して12日間、手術後11日と言う事になります。ずっと建物の中にいますので、外の暑さを感じる事はないので、その点は快適です。痛みや熱やダルさから開放され、毎日をどう過ごしているかを書きます。6時起床です。そこで検診があり、体温を計ります。8時に朝食です。その後に薬を飲み、体温と血圧などを計り、体調がどうかカウンセリングを受けます。そのあと私は公共スペースで読書をします。12時に昼食です。そのあと薬を飲みます。昼食後にリハビリを行います。リハビリ後にまた公共スペースで読書をします。6時に夕食です。その後に薬を飲みます。夕食後に自分でリハビリをします。その後は公共スペースで読書をし、9時30分に部屋に戻り歯を磨いたりして、10時消灯です。私は10時には眠れないのでDVDを見たりスマホを見たりして過ごし12時すぎに眠ります。なかなか暇な毎日です。1日が長く感じます。でも今退院したら日常生活がままならず、家族に迷惑をかけてしまいます。もう少し我慢して毎日を修行だと思ってしっかりリハビリをしたいと思います。股関節が人工関節になり4級の身体障害者になる事を昨日も書きました。飛行機に乗るのも事前申請が必要になるようです。電気風呂やサウナは大丈夫なようですが、大腿骨にかなりの太さと長さの金属が入っているので、電気風呂は怖くて入りたくありません。人工関節はチタン合金とコバルトクロム合金と言ってジェットエンジンの部品に使う合金で磁気や電気に影響は受けないらしいのですが、やっぱり少し怖いです。でもジェットエンジンの部品に使用されるコバルトコルム合金が身体の中にあるなんて、サイボーグみたいで少しカッコイイなと思います。ワンピースで言ったらフランキーですね。なんて冗談も言えるぐらいに元気になりました。こんなに苦しい思いしたんだから「俺の足はコバルトクロム合金とチタン合金で出来てるんだぜ!」と子供達に自慢してやろうと思います。自分の身体を1つネタにして生きて行こうと思います。でも自分の身体が今までと違う物なったと言う事は動いている感覚で分かります。これは妻にも話したのですが、自分の足が自分に真直ぐくっついているように感じます。説明すると膝が真直ぐに前を向いてガシッと足が自分の股関節に固定されているような感じです。今までの自分の身体とは明らかに違う感覚です。これからしっかりリハビリをして、自分の身体にしっかり馴染ませて行こうと思います。これからは自分の身体を大事にして行こうと思います。でも大事にし過ぎては人工関節にした意味はないので、その辺の事をその時その時しっかり考えて生きて行きたいと思います。人間の身体は動けなくなったらどんどん衰えて行ってしまうと思います。動けなくなったら骨も筋肉も内臓も血管も血も身体機能だけではなく、脳や精神も衰えて行くと思います。たぶん一気に衰えて行くと思います。私は動かないようにして痛みを我慢して行けば、あと5〜6年は手術を後に出来たと思います。でもその5〜6年で私の身体も心も機能が衰えて行ってしまうと思い、今回の手術を決断したのです。だから自分の身体を大事にし過ぎて動かさないようにしていたら、手術した意味がありません。だからやはり身体に負担がかかり過ぎないよう考えてしっかり身体を動かして若々しく生きて行きたいと思います。身体が元気になって来て、明日が希望に輝いています。明日が楽しみです。
手術から10日目やっと体温が36.4の平熱になりました。傷の腫れと痛みはあるものの手術後のあの痛みから比べれば、痛みが無いも同然です。血圧もすこし上がって来ました。それでも低いのは、血栓が出来ないために血液がサラサラになる薬を飲んでいるからと言う事です。手術から10日でやっと身体に負担がない状態まできました。リハビリも頑張っています。指導を受けてやるリハビリの他に自分でもリハビリをしています。今日から少しだけ腕立て伏せとディップスを始めました。ただやはり手術痕の腫れと痛みと歩く事に不安があります。本当に歩幅が狭くトボトボとしか歩けません。リハビリをしっかりやるためにも道場生とご父兄様には、ご迷惑をおかけしますが、あと少し時間を頂きたいと思います。今日は生きると言う事について考えてみました。私の前のベットで入院している方は100歳だそうです。私は50歳にして初めて100歳の人を眼の前にしました。自分があともう一回50年過ぎればこの方と同じような感じになるのかと思いました。本当に本当に自分の残りの人生はとてもとても短い事を感じました。生きている時間を大切にしなければ行けないと思いました。私の人工関節はもって30年、早ければ20年です。今それを考えて70〜80歳でこの手術を耐える自信はありません。時が過ぎれば、今回の痛みも喉元を過ぎて、頑張る気持になるかもしれませんが、今すぐにはその気持ちにはなれません。じゃあ20年後30年後どうするのか?その時まで生きているのか?分かりませんが、私が道場を出して20年、東京に来て30年ですから、本当にあっという間にその日はやって来ます。もう楽観的には物を考えられません。死は私の直ぐ側まで近づいています。この入院でお年寄りの方をたくさん見ています。生きると言う事がこれからどんどん大変になって行く事を目の当たりにしています。生きる事からも死からも逃げる事は出来ません。生きる事や死と今まで以上にちゃんと向き合って行かなければ行けません。私は生きたいです。どんな状態になろうと生きたいです。それは何故かと言えばこの世に愛する人がいるからです。だからどんな状態なっても私は生きたいです。そして今まで以上に死を意識して生きて行こうと思います。たぶん死ぬ時には沢山の人に迷惑をかけるのだろうと思います。沢山の人に迷惑をかけて生まれて来て、沢山の人に手を貸して頂いて迷惑をかけて生き、沢山の人に迷惑をかけて死んで行く、たぶんそれが人間と言う物をなんだと思います。だから元気なうちに沢山の人に手を貸して、たくさん人の役に立たなくては行けないと思っています。私は今回の手術で股関節を人工関節にしたので4級の身体障害者になるらしいです。自分が身体障害者に分類される人間になるのかと少し考えました。でもそれに甘えるような生き方をする気持はありません。普通の人以上に出来る事はたくさんあります。ただそう認定されただけです。国から守って頂く以上に自分がこの国に貢献すれば良いだけです。そう考えるようにします。今日はカリートの道、ゴットファーザー・パート3を見て壬生義士伝を読みました。せっかく頂いている時間なので、ダラダラせずにしっかり生活しようと努めています。道場生、ご父兄様、もう暫く時間を頂く事になりますが、道場に戻りましたら、今まで以上に空手に対して真摯に、今まで以上に愛情を持って、指導して生きますのでどうぞよろしくお願い致します。
kanno
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