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出来ない事を出来るようにする事ってとても楽しいし、出来るようになった瞬間の喜びはこの世で最高の物だと私は思っています。目標を達成したり、夢を叶えたり、する事もそうですが、その時の自分が作りだした感動と言う喜びに勝てる物はこの世には他には無いと私は思っています。私は感動屋なので、映画を見たり、本を読んだり、人を応援して感動したりもたくさんします。それでも自分が作りだした感動に勝てる物はこの世にはありません。だから私は常にその感動を得ようと目標を持ち稽古に励んでいます。自分の作りだした感動が人にも感動を与えたら、それは本当に凄い事だと思います。でも感動は自分で作る物だと私は思っています。私がビデオで見た第17回全日本の松井館長や第5回世界大会の緑先輩は優勝して泣いていました。私はそれまで嬉しい事で泣いた事はありませんでした。私は漠然と「嬉しい事で泣けるなんて最高だろうな。自分も嬉しい事で泣いてみたいな。」と思いました。その後、嬉しい事で泣いている先輩や仲間をたくさん見ました。自分もいつかはた思っていました。そして25歳の時にその時は訪れました。最高でした。もう死んでもいいって思いました。生まれてはじめて弱い自分に勝ったと思えた瞬間でした。あの感動は一生忘れません。あの感動をもう一度味わいたい、そう思って今まで頑張って来ました。あの感動があったから今まで頑張れたのかもしれません。そんな感動をもう一度味わいたいと今も諦めず頑張っています。
私は、はじめは自分で自分の事を根性がないと思っていました。でも極真空手で先輩方に揉まれたお陰で、たぶん選手として根性はあった方ではないかと思います。その根拠は延長戦で負けた事がほとんど無い事や自分より格上の相手に粘って相手を諦めさせた事が何度もあるからです。苦しい合宿でも誰よりも平均して頑張れていたと言う自負もあります。私は試合に勝つ負けるは要因が何個かあって、先ずは相手より持っている武器が足りない、それは突き蹴りコンビネーションなどの自分が出す技、受け技、間合いの操作、カウンター、スピード、パワー、身体のスタミナ(持久力)心のスタミナ(根性)。打たれ強さ、全て含まれます。試合の日まで自分の足りない物を1つでも多く身に付けておく事が大切になります。2つ目は応用力や適応力です。これは試合経験を沢山しないと身に付きません。相手を見て自分の持っている技で何が必要かをしっかり見定めて行く、相手の攻撃を見てその場で考えて対処する力です。その中で相手の受けられない技、相手の苦手な距離、相手の出せない技などを見て、自分の持っている物を適切な場面で最大限に有効利用して相手に出す事が大切です。3つ目はこれも試合の中でしか身に付かない物です。それは嗅覚、閃き、ようは感です。ここだと言う場面を見逃さない嗅覚、閃き、感です。それは技を決める時もそうですが、相手が弱気になったとか、少し気持が引いたとか、効いたとか、疲れたとかを、感覚で察知する能力です。そんな物が試合では必要となります。出せる技がルール上制限されていて、やれる事が少ない格闘技ほど今言った事が大切となります。その中の何かが戦う相手より足りないと試合で負ける事になります。これは1年2年で身に付く事ではありませんし、1度身に付けてもサボれば無くなってしまう物もありますし、年齢による身体の変化で出来なくなってしまったり、微調整しなければならない物もたくさんありす。そして最初に言った根性の話に戻ります。自分は根性があると前提して書かせて頂きますが、根性はだんだん付いて行くものではありません。ウエイトトレーニングもそうなのですが、これが楽に上がるようになったら次にでは筋肉も力も付いて行きません。自分が上げた事の無い重さや回数を無理やり上げて自分の筋肉に今まで経験をした事が無い負荷をかけ、自分の筋肉に緊急事態の状態を作るから、筋肉が次の緊急事態に対処出来るように発達するのです。根性もそうです。この稽古が楽になったら少し負荷を上げようと自分のペースで自主トレしていても強くなりません。例えば長距離のランニングや坂道ダッシュです。1人で走って見て下さい。最後まで誰でも出来ます。それは自分のペースで走っているからです。誰かと一緒に同じメニューを走って見て下さい。とても苦しいです。人と競う事で人に引っ張られ、自分以上の力を発揮し、自分の限界まで追い込むからです。根性はだんだん付いていきません。そして速くなれば速くなるだけ苦しいし、重い物が上がれば重い物が上がっただけ苦しいです。楽には絶対になりません。ただ例えば120キロを10回上がるようになってから、3年前に上げていた70キロを10回上げて見たら、楽に感じたと言うだけです。稽古も試合も引退するまでずっと苦しいです。でもその時その時でそれに耐えられる心と身体を持っているから耐えられる感じです。そして根性の付け方に戻ります。自分の出来ない事を無理やりやらなければならない環境に自分の身を置く事です。それは例えば合宿などです。その中で自分の限界以上の事を経験して、自分の限界を上げて行くのです。人間は本当に自分に甘い生き物です。自分の出来る事を少しずつやって行こうなどと思っていたら、1年でたどり着ける所に3年も4年もかかってしまいます。そのうち情熱を無くしてやめるか?頑張ったとしても時間は限られているので、気付いた時には歳を取り自分の肉体のピークを逸してしまい終わってしまいます。なので自分に無理な負荷をかける事が出来ない人は根性も筋肉も付きません。ここまでこんな事を書いていて何ですが、書きながら自分の現役時代を思い出せば、私もいっぱい反省点が思い浮かびます。その反省点をもとに生徒に指導しています。「苦も当たり前にやれば楽にもなり、当たり前も楽をしようと思えば苦になる」です。
股関節がいよいよ悪いです。8月21日の手術の日はまさしくボロボロになっていそうです。今年の年始めに病院に行き、レントゲン、MRI、CTで写真を撮って頂き診断を受けて、人工関節にする決断をしたのですが、本当にタイミングが良かったと思います。ここのところ日に日に悪くなり痛みが増しています。1月の時点ではまだまだ行けるかも?とか楽観的に捉えていたところも少しありましたが、神様のお告げのように「身体の悪い所を今年中に治し、来年からはしっかりと稽古をしたい。1年の遅れがどんどん長引いて行き、自分がしっかりと稽古が出来るようになるのがどんどん遅くなってしまう。身体が満足に動かないまま、あと10年もしたら生きている時間も無駄にしチャンスも時期も逸してしまう。この何年だって膝が悪くなったりアキレス腱を断裂したりとたくさんの時間を棒に振って来た。これ以上、自分の生きている時間を無駄にしてたまるか!」と思い、人工関節にする必要があると診断された、その場で手術の決断をしました。そう決断出来たのは妻に対する信頼もあります。妻なら絶対に私の決断を応援してくれる。こんな事では動揺しないと信じているからです。妻は私がアキレス腱を断裂した時でさえ動揺はせず笑って私を励ましてくれました。私の人生は私一人の物では無いので、妻のことを信頼していなかったらこの決断を直にする事は出来なかったと思います。もう今は立っていても座っていても寝ていても常に股関節から膝からスネの横が痛い感じです。あと2ヶ月で生まれ変われると思って頑張りたいと思います。
先日、大阪のエディオンアリーナで行われた2023全日本体重別空手道選手権大会で私は初日に副審と主審をしました。その時にアナウンスで「主審、スガノ ヒデユキ」と言われました。久しぶりだけど、そんな事は昔は良くあったので慣れたもので、スッと試合場に上がりました。子供の頃からクラスが変わるごとに先生に「カンノ ヒデユキくん」と呼ばれましたし、東京に来てからは「スガノ ヒデユキ」と呼ばれるようになりました。全日本にデビューした頃も良く「ゼッケン〜番 スガノ ヒデユキ」とコールされました。試合に出て徐々に活躍するようになり「カンノ ヒデタカ」とアナウンスされるようになりました。ワールド空手でも管野秀幸と書かれた事もあります。たまに地方大会などで審判をすると、まだ入門して数年の道場生がアナウンスをしていたりするので「主審 スガノ」と呼ばれたりする事はありました。でも全日本や世界大会で主審をするようになってからは、もうちゃんと名前を呼んでもらえるようになりました。今回「スガノ ヒデユキ」と呼ばれ、「まだ僕はこの世界で全員には名前を覚えてもらえていないんだな」と思いました。まだまだ頑張って極真会館に貢献して自分の名前をしっかり覚えてもらえるよう頑張りなさいと言う事だと思って頑張りたいと思います。「スガノ ヒデユキ」とアナウンスされ試合場に上がり主審の位置に立っている時に正面の館長席に座られていた松井館長がお付きの方を呼び、私の方を見てお付きの方に何かを言い、お付きの方がアナウンスの方の所へ行きました。次にアナウンスされた時は「カンノ ヒデタカ」と呼ばれたので、松井館長がお付きの方に頼んで、アナウンスの方に私の名前を伝えてくれたのだと思います。とても嬉しくおもいました。私の事を大切に思ってくれる方は私の名前をちゃんと覚えてくれますし、特徴のある名前なので意外にしっかりと覚えてもらえます。なので得する事もけっこうあります。一時は名前の読みを変えようか?と思った事もありましたが、今は逆にこの名前をもっと人に認知してもらえるように頑張ろうと思っています。この日記を読んでくれている方々にも「カンノ ヒデタカ」と言う名前を覚えて頂けたら嬉しく思います。
私のスマホの電卓は常に20+15.3+22.5+20+21=とかなっています。これは自分が摂取したタンパク質量です。私は1日のタンパク質量を200グラム摂取するようにしています。それは何故かと言うと私の今の目標は筋肉の量を増やして体脂肪を減らす事です。その方法をリコンプと言うのですが、それをやっています。タンパク質は必ず体重の2倍から2.5倍摂取します。私の今の体重は94.4キロなので94.4×2で188.8グラムのタンパク質量を最低でも摂取します。でも私は体重の増減が激しいので自分の体重を100キロとして200グラム以上タンパク質を摂取するようにしています。そのために摂取したタンパク質量を計算機に残しておいているのです。炭水化物はトレーニングの前と後だけ摂取します。有酸素運動は朝起きて何も食べずに1時間エアロバイクで行っています。現在の体重は94.4キロなのでスタートの107キロから考えると今のダイエット方法で約13キロ落とした事となります。13キロ体重が落ちた事でウエイトトレーニングで扱える重さと回数が流石に伸びなくなって来ました。でもそれはあまり気にせずにコツコツ頑張りたいと思います。あとは毎日の入浴と睡眠をしっかり取る事も大切にしています。あと2ヶ月、全力で頑張りたいと思います。
本日は私の運営する極真会館東京城南京浜支部の2023年夏季昇級審査会・2023年夏季組手競技支部内交流試合でした。参加者27名と最盛期より23名参加者が減っていますが、中学生の参加者が9名だったのが明るい材料となりました。私が道場を運営して20年で中学生の参加者が12名いた事は初めての事でした。現中学生から強い選手が必ず誕生すると思います。そして今日は新しく黒帯に昇段した菅駿斗に黒帯と初段の昇段状を渡しました。昇段状を読みながら駿斗が見学に来た時にお母さんに甘えていた姿や駿斗が今まで頑張って来た姿のあれこれがあふれるように頭に浮かん出来て、涙が止まらなくなって昇段状を読めなくなってしまいました。普段から生徒達には、悲しい時や悔しい時は我慢して泣くな!でも嬉しい時や感動した時は恥ずかしがらずに思いっきり泣け!と教えているので、それを実践したという事で許して頂きたいと思います。私に泣けるほどの感動をプレゼントしてくれた駿斗には本当に感謝しています。嬉しい事で泣けるって本当に幸せです。嬉しい事で泣ける事って人生の中でそんなに何度もない事かもしれませんが、そんな感動を味わえる、この空手の先生と言う仕事は本当に最高の仕事です。駿斗にはもっと話したい事があったのですが、それを話すと涙が止まらなくなってしまうので、半分も話す事が出来ませんでした。また稽古の時に話したいと思います。駿斗が黒帯に成長するまで、見守り、多くのチャンスを与えてくれ、経済的な事や時間的な事やさまざまな面でサポートして頂いた駿斗のご両親にも尊敬と感謝の念を抱いています。これからどんな人間に成長していくか?とても楽しみです!いつか今日の事を一緒に酒を飲みながら話せたら良いなと思います。だから長生きしなきゃなと思います。
次男が私に「パパ、ちょっと悲しいお知らせがあるんだよね。」と言って来ました。私は急に何だろうと少し驚き、恐る恐る次男に「どうしたの?」と聞くと、次男は「彼女と分かれる事になったんだよね。」と言いました。私が「どっちから別れようと言ったの?」と聞くと次男は「〜ちゃんから」と言いました。どうやら学校で2人が付き合っている事が噂になり、次男の彼女はそれを気にして、別れようとなったそうです。私は次男に「これからもっと好きになる子が現れると思うよ」と言ったら、次男は「そうだよね。俺に他に好きな人が出来る前にフラレて良かったかも」と言いました。次男は「別れようと言われた昨日は悲しかったけど、もう今日は元気になったよ。」と言っていました。小学4年生で告白されて彼女が出来て、フラレて失恋するなんて、なかなか波乱万丈な人生になりそうですね。まあ恋愛は人生で1番自分の人生を楽しくさせてくれる事であり、自分を1番失望させる事もある事です。これからたくさんいろんな事があるでしょう。その全ての出来事をちゃんと消化すれば、自分という人間を大きく成長させてくれます。思いっきり青春して楽しんで欲しいと思います。次男は今日からズボンを脱いでマワシをして相撲の稽古をしたそうです。スマイリー卒業ですね。父親としての思いは、いろんな意味で次男を成長させてくれている出来事に感謝しています。
股関節の手術まで2ヶ月を切りました。アキレス腱の手術して1年が経ったと思ったら、その約1年と2ヶ月後に股関節が人工関節となる手術です。2021年の1月14日は右膝の手術でした。2022年の6月16日はアキレス腱を縫合する手術でした。そして2023年8月21日に股関節を人工関節にする手術を受けます。3年連続で手術です。膝が悪くなった時も少し絶望しました。手術をして少し良くなったかなと思い始めた時にアキレス腱を断裂しました。その時は少しどころではなく絶望しました。そしてアキレス腱がやっと良くなったと思ったら股関節が最悪に悪くなり遂に人工関節です。それはそれは絶望しました。でも私はずっと絶望しているわけではありません。すぐに立ち上がります。そして走り始めます。出来る事と出来ない事を整理して出来る事に取り組みます。こんな事には負けていられません。普段、道場生に「己に克つ」とか「自分に負けるな」とか言っている私がこんな事には負けていられません。こんな時こそ自分の身を持って、極真空手をやれば身体だけではなく心も強くなる事を見せなくてはいけません。私は絶対に負けません。試合に出る事も諦めていません。50歳で膝の靭帯が無くて半月板がボロボロで、アキレス腱を1度断裂して、股関節が人工関節になって試合に出た人っているのかな?いなければ幸いです。誰がやったから自分も出来るなんて考えは私にとってはとてもダサいです。誰もやった事がないからこそ、そこにやる価値はあります。正直に言えばやれる自信なんて物はありません。でもやると決めたからにはやるだけです。最初からやらないのと挑戦したけど夢半ばに倒れたのとでは大きな差があります。0は何処まで行っても0です。何も無いのですから、でも何かをやろうと頑張った事は0ではありません。でもどうせやるからには何かの形にして見せたいと思います。試合に出るのは流石に諦めたろうな?と思っている人もいるかもしれないので、あえて諦めていない事を書いてみました。私の妻には何度も何度も身体を壊して心配をかけて本当に申し訳ないと思っています。でも私の妻は、私を選んでくれた人だから大丈夫だと思っています。だって私の試合を観に来て、私が膝の靭帯を断裂して病院に運ばれたのを観て、自分も頑張ろうと思ってくれた人だから、どんなアクシデントにも一緒に戦ってくれると思っています。子供達にも怪我をしても立ち上がってまた戦う姿を見せたいです。言葉も力がありますが、自分の身を持って頑張る姿を見せる事はもっと力があります。私が生まれ変わるまで、残り2ヶ月です。悔いの残らないように私の股関節を一生分使い切ってあげたいと思います。しっかりと成仏させてあげたいと思います。
空手道の歴史を調べています。日本の空手は中国から沖縄に伝わりました。沖縄で出来た那覇手が本土で剛柔流空手になり、首里手が本土に伝わり松濤館空手になり、那覇手と首里手がミックスされた糸東流空手が本土に伝わり、松濤館空手を学んだ方が和道流を作り、またそこから様々な流派が出来、首里手が関西の方に伝わり日本拳法になりました。今ある流派はこの辺から分派して行ったようです。極真空手は大山倍達総裁が松濤館空手と剛柔流空手を学び、自分が学んだ物や経験を元に極真空手を創設されました。そこから極真空手の先生がタイのムエタイと戦い、その技が極真空手に大きく影響を与えました。極真空手の先生方はライバルに勝つために空手の他にウエイトトレーニングを取り入れたり、ボクシングを取り入れたり、中国拳法を取り入れたり、他の格闘技からも良い物があれば積極的に取り入れて自分の空手を作って行ったようです。極真空手のベースを守りながら各個人が自分でいろんな物を取り入れて作って行った物が極真空手なので、これが極真空手だと言うものはなく、極真会館と言う団体に所属している人がやっている空手が極真空手と言う事になります。だから正確には国際空手道連盟極真会館に所属している人がやっている空手が極真空手な訳です。なので他の類似団体の人は〜極真空手とか、極真〜空手とか正確に明記しなければいけないと思います。また世界チャンピオンもそうです。極真空手の世界チャンピオンは正確には国際空手道連盟極真会館の4年に1度の全世界空手道選手権大会のチャンピオンの事なので世界チャンピオンは11名しかいないはずです。(2連覇をした選手が1人いるため)全世界ウエイト制空手道選手権大会も軽量級、中量級、軽重量級、重量級があるので〜級世界チャンピオンと明記するべきですし、国際親善大会は世界大会ではありません。出場選手は日本代表で選抜された選手ではなく出たい人が誰でも出れる大会ですし、何十個もカテゴリーがあるので1日に何十人の優勝者が出ますから世界チャンピオンではありません。正確に言うなら10歳〜キロ級世界チャンピオンになったとか、50歳以上80キロ以下級国際親善大会優勝と正確に明記しなければいけないと思います。
15歳で空手を始めたので空手を始めて35年と言う事になります。ずいぶん長い時間が経ちました。自分で道場を持ってあと少しで21年なので、本当に長い時間が経ちました。私が空手の道場をなぜ始めたかと言うと空手だけで生活がしたかったからです。1日中、空手の事だけを考えて生活がしたかったからです。そして今、本当にそれが出来ています。朝起きて自分の稽古をして、道場の事務仕事をして、道場生に空手を教えてます。1日が空手の稽古で始まって、1日が空手の稽古で終わります。本当に楽しい毎日です。自分が強くなるために1日を過ごせる事は私にとってとても幸せな事です。たぶん私は普通に会社勤めは出来ない人間だと思います。そして自分の好きな事でご飯を食べて行く事が出来る極真空手を選んだのも何かの縁だと思います。本当に幸運でした。これがボクシングやキックボクシングや柔道やレスリングなどを選んでいたら、たぶん今もそれだけでご飯を食べる事は出来なかったと思いますし、出来たとしても、今でもこんなに自分が強くなるために1日を過ごしてはいないのではないかと思います。私はあまり運は良くありません。宝くじや賭事で儲けた事はありませんし、初めて何かをやって人より上手かった物もありませんし、何かを上手く利用して人より得をしている事もないと思います。でも1つだけ、たった1つだけ、人より圧倒的に運が良い物があります。もしかしたら私はそこに自分の全ての運を使っているのかも?と思うぐらいです。そして私はそれで良かったと思っています。それは人との出会いの運です。私は本当に人との出会いの運には恵まれていると思います。自分に生まれた事で両親や兄妹と出会え、友達、先生、先輩、後輩、私の道場に入門してくれた道場生、道場生のご父兄様、私の妻と長男と次男、どれも私にとってはかけがえのない大切な出会いです。だから人だけは裏切りたくないと思っています。どうしても裏切らなければいけない時は、正々堂々と誠実に裏切りたいと思います。私は今まで離れてしまった先生にも正直に正々堂々と自分の気持を伝えました。だから離れる時には自分に怒りをぶつけたり、冷たくされたりもしました。でもその先生達と偶然何処かで出会っても隠れなければ行けないような気持になった事はありません。離れた全ての先生とその後、笑って再会させて頂きました。でも何も無かったように先生方と再会はしていません。この前、全日本体重別空手道選手権大会でお会いした菊地信弘先生にも、私が道場を開設した20年前に福島まで行ってご挨拶をさせて頂きお詫びを言わせて頂きました。今回は先生の方から気付いて頂き、先生のお付きの方が私の所へ来て頂いたのですが、私はちゃんとした服装で先生に挨拶に行くため、1度支部長控室に戻りジャケットを来て、先生のいる来賓席に行き、後ろから声をかけさせて頂き、先生の前に正座で座り不義理をしたお詫びをもう1度あらためて言わせて頂きました。先生がそんな事する必要はないよと言って頂いたので、隣に座らせて頂き私の近況を報告させて頂きました。これから私の生き方で先生に必ず恩返しをさせて頂きます。先日、あらためて先生にお電話で会場でご挨拶させて頂いたお礼をしたら、先生に「末永く付き合って行こうね!」と言って頂きました。本当に嬉しかったです。人との繋がりがなければ生きている事に楽しみは無くなってしまいます。その場その場で付き合う人が変わって行く人生は私は嫌です。人とは永く仲良くして行きたいです。だからそのためにも人には誠実にいたいと思っています。この日記を読んで下さっている皆様にも末永いお付き合いをお願いしたいと思っています。
kanno
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