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私は好きな映画は何度も観てしまいます。最近では「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を3回、「ジョーカー」を2回見ました。「ジョーカー」もう1回は観たいなと思っています。私は理解力と記憶力がないので何度も観て、いろんな事に気付いて行きます。観るたびに新たな発見や、ストーリーの一致や、セリフの意味や、布石の回収が出来ます。なので何度観ても飽きないです。妻と映画を観に行き、映画の内容を話し合うと「えっ!そこに気付かないで観ていたの?」と言われてオチや、布石の回収や、結末の布石になるセリフを教えられてしまう事があります。妻は人の表情や仕草からその人の思いや考えを読み取り理解するのが上手いようです。私は意外とそれが苦手なようです。
石田三成の佐和山城を落とした武将達が、佐和山城に入場した時に、その城の中の質素さを見て「これが五奉行筆頭の者の城か?」と襟を正したと言われています。人の上に立つ人が無用の贅沢をしていては部下や人民の心を掴む事は出来ないのだと思います。自分を戒める事が出来なければ、人の心をを戒める事は出来ません。石田三成という人は、人を戒める為に、常に自分を戒めていたのだと思います。私の父親と母親会社を経営していましたが、やはりそのような人でした。人に厳しい事を言う人は、自分はもっと厳しい事をしなければならないのだと思います。私もその事をいつも忘れないようにしています。
妻が長男を身籠ったかも知れないと言った時、私は正直、恐怖を感じました。かも知れないと言うなら、できれば今回は逃げたいと言う気持ちでした。その時の事を思い出すと妻にも長男にも申し訳ない気持ちでいっぱいになります。ですが長男を身籠っている事が確実になった時は、腹を括り何があっても幸せにしてやると思いました。前にも書いたと思いますが、私は自分の夢や目標のためには、あらゆる事を犠牲にして来た人間です。あらゆる自分の我を通して来た自分勝手な人間です。だから自分が父親になった時に、子供のために自分を犠牲に出来るか?自分のやりたい事を犠牲にしても子供の幸せや家族の幸せのために頑張れるか?それが不安でならなかったのです。ですがですが私はけっこう良いお父さんになれたと思っています。別に頑張ってやっている訳ではありません。好きでやっている事なので自慢にもなりません。私は休みの日に1人で行動する事も、外に飲みに行く事も年に2〜3回ぐらいしかありません。何故そうなったか?それは妻や子供達といる時間が私は1番好きだからです。それと空手が仕事であり趣味なので、家族といる時間を犠牲にする必要がないというのもあります。私は妻や子供達と一緒に遊んだり食事をしている時間が1番幸せです。みんなで話をしながら美味しい物を食べている時間が1週間で1番幸せな時間です。長男と次男が美味しそうに沢山食べている姿を見ると安心し幸せを感じます。だからけっこう週末は子供達が食べたいと言った物を食べています。たぶん私の今の幸せは、妻や子供達が幸せである事なのだと思います。
横浜の大さん橋へ護衛艦いずもの一般公開に行きました。長男も次男も護衛艦いずいずもの中に入れたり、自衛隊の方に質問をさせて頂いたり、握手して頂いたり、一緒に写真を撮らせて頂いたりと本当に大喜びでした。
昨日、大森道場のビルで火災が発生しました。火災が発生したのは幼年少年初級クラスの稽古中でした。8名の生徒が稽古していました。消防車のサイレンが近くに聞こえたので窓から顔を出すと道場の前に消防車が止まったので、子供達を直ぐに広場に避難させました。避難した後に消防車がぞくぞくと到着くし、道場の前の道路が閉鎖されました。少ししてから安全確認が取れたので子供達と道場に戻りました。道場に戻ってから、みんなで反省会をしました。避難する時に稽古の並び順で避難せず、順番がバラバラに前後した事、広場に着く前に気を抜いておしゃべりをしていた事、広場でピシッとしていなかった事などを叱りました。でも思ったより子供達は早く準備をして急がず焦らず階段を降りていました。でも大火災だったり、もっと人数が多かったら、と思うので反省会をし子供達を叱りました。何事もなかった事も幸いでしたし、子供達にとっても良い経験になったのではと思います。
「死ぬわけじゃないんだから」と言う言葉を私はけっこう使います。先ずは、何かに取り組む時とか、腹を決める時とか、何かを決断する時とか、何かに臨む時とかに使います。投げやりな感じで使っているわけではなく、しっかり石橋を叩いて叩いて、緻密に準備をして、最終的に勝負の舞台に上がる時に「死ぬわけじゃないんだから」と自分を鼓舞するのです。また大きな失敗をした時とか、何かを失った時とか、挫折した時とか、恥をかくようなことがあった時にも使います。これも失敗した自分や、何かを失った自分や、挫折した自分や、恥をかいた自分を慰めたり開き直ったりするために使っているわけではなくて「死ぬわけじゃないんだから」という気持ちでまた次の一歩を歩き出すために使っています。「死ぬわけじゃないんだから」と思って頑張るという事です。最近この言葉を次男が良く真似をしているそうです。「〜で負けたらどうしよう」「〜が出来なかったらどうしよう」みたいな事を人が言った時に、次男は「大丈夫だよ!死ぬわけじゃないんだから!」と言うそうです。我が息子ながら男前だなと思います。その気持ちを忘れないで生きて行けよと思います。
長男と次男は稽古した日は、私が帰宅すると「今日の稽古どうだった?」と聞いてきます。私は「頑張ってたね!」と言ったあとに一言だけ感想を言います。長男も次男も本当に頑張っていると思います。特に長男は、もし私の子供に生まれていなければ極真空手をやってはいなかったのでは?と思います。長男は極真空手を始めて五年経ちます。それまでももちろん極真空手は大好きだったけれど、長男が極真空手を始めてから、さらに極真空手に対して情熱が湧いてきました。極真空手をもっともっと良くして次の世代に残したいという思いが強くなりました。その事もあり空手の研究を熱心にするようになりました。型競技の挑戦もその影響があったと思います。極真空手をもっと良くして次の世代に伝えたい、その思いが叶い、私は極真会館の技術委員になることが出来ました。その事で私は極真空手の礼儀作法や型や分解組手などの見直しや整理に関わることが出来ています。長男と次男が極真空手をやっている事が私の力になっています。
第五回世界大会を東京体育館に観に行ったことで私の人生は大きく変わりました。フランシスコ・フィリョ選手がアンディ・フグ選手に左上段回し蹴りで一本勝ちをした試合が私に衝撃を与えました。自分とたったの一歳しか変わらない選手が、当時スター選手だったアンディ・フグフグ選手を終始圧倒し最後はノックアウトしてしまったのです。あの試合を見て私は、もう今から頑張っても遅いかもと焦りを感じ本気で稽古に打ち込もうと思いました。そして一番は、自分の楽園であった福島での生活を棄てて、東京に上京して本気で稽古に打ち込むことを決めました。それは東京の名門の道場で稽古をしたいというのもありましたが、私の周りのは沢山友達がいたので、福島にいては友達と遊んだり飲みに行ってしまったりと稽古に打ち込むことが出来ないのではと思ったのと、私ももう20歳でしたので福島での自分をリセットして、東京で新たな自分に生まれ変わりたいという気持ちがありました。そして今、私は東京で極真空手の先生をしています。あの時、もし第五回世界大会を観に行かなかったら私は、今いったい何をしているのだろうと思います。すべての出来事に感謝です。
ついに2019年最後の三か月の始まりです。とても良いスタートを切ることが出来ました。最後の三か月を一生懸命に突っ走り、2020年まで一気に駆け抜けて行きたいと思います。
私は第四回世界大会をテレビで見て極真空手を知りました。その後、他流の空手を始めて、その後に極真空手を始めました。そして当時福島に住んでいた私は、第五回世界大会を観に二泊三日で東京に来ました。私は二日目に第17回全日本大会のビデオを12800円で購入したため、お金が無くなりホテルをキャンセルし、その夜は東京体育館で野宿しました。三日目はご飯も食べることが出来ずに観戦しました。何故そんなにしてまで第17回全日本大会のビデオを買ったかと言うと、当時の私が一番好きだった選手の松井章奎館長と黒澤浩樹先生が決勝戦で戦っていたからです。第五回世界大会を観戦した私は次の年に上京し黒澤先生の道場に入門しました。黒澤先生の道場は一年半で辞めてしまいましたが、先生を尊敬する気持ちはその後も変わることはありませんでした。一昨年3月25日に黒澤先生が亡くなったことを知り私は聖心館に行き黒澤先生の位牌に手を合わせました。その時に黒澤先生の奥様から、黒澤先生は晩年、極真空手時代の思い出話を良くしていた事、松井館長に会いたがっていた事を聞きました。私は何とか、そのことを松井館長にお伝えしたく、私の先輩を通してそのことを松井館長に伝えていただきました。その後、松井館長と山田師範と私の先輩と長島さんと私で聖心館へ訪問し黒澤先生の位牌に手を合わせることが出来ました。松井館長が黒澤先生の位牌に手を合わせる姿を見て、私は涙が止まりませんでした。松井館長と黒澤先生が第17回全日本大会の決勝戦で戦っている姿を思い出したからでした。黒澤先生にとって私は途中で辞めた不詳の弟子だったと思いますが、この日の為に私は第17回全日本大会のビデオを購入し、黒澤先生の弟子になったのかと運命を感じたほどでした。松井館長と私の先輩のおかげで、私は黒澤先生のお別れ会の幹事と言う仕事もさせていただきました。私はそのこともあり、私が極真空手を始めたことは運命だったとさらに強く強く感じるようになりました。
kanno
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