詩的エッセイ、つづっています。...笑 満ちる

 

 

何故、と問える勇気 - 2006年07月28日(金)

誰しも、目の前の誰かが
自分と相反する考えを告げた時、



何故?



と問える勇気がもてるとよい。


内心に人知れず疑問符を抱えすぎては、

私たちは自分らしく暮らせないのだから。


人は自分を裏切る時、
そのすべてを失うのだ。


何故、と唱えたからといって、
退けられたりしない。

そんな心の友をかねてから募っている。

近頃そんな友が現れては
さらにつながる、つながる、ツナガル。。

点が線になり、面になる。

そんな創造の喜びを分かち合いたい。



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落とし穴にハマる、思考 - 2006年06月19日(月)

あとでがっかりしなくてすむように、

何事もそこそこに取り組む。

そして案の定うまくいかないと、

『別に本気出したわけじゃないし。』

とうそぶく。



なんてこった。。。

ここにメスを入れよう。





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美しく、稼ぐ。 - 2006年06月14日(水)

近頃、喜んで対価を支払う、という主題に取り組む私。


フレッシュネス・バーガーで、
粋な広告を目にした。

アマゾン・フルーツ・プロテクター。

要するに、南国フルーツのスムージー。


ビタミンBあたりが足りないと感じていた私は、

みなぎる天然栄養素で疲労回復・・・

なんてコピーにくいついた。


190円のペプシや7アップでも、

はたまたコンビニで100円のブリックパックで済ませてもいいし、

おうちでアムウェイのフードプロセッサに
あれこれフルーツをぶち込んで(アラ、失礼☆)
自家製スムージーもよろし。


いくつかの選択肢の中で、今ここでグラス一杯のプロテクターに
320円支払う価値ってなんだろう。

試してみると、甘味の少ない野生的な味だった。

そして心なしか、疲れが癒えた気さえする。

私は思いがけず、満足している。


このグラス一杯のプロテクターのような、
付加価値のある、仕事がしたい。


それが板についた時に私は、
美しく稼ぐことを知るのだろう。



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考えを受け取るとき、そして届けるときの、心のキャパについて - 2006年01月19日(木)

私は、自分の主張とまるで違う論旨を
うま〜くPRしている人に出会うと、
「なんだ、こいつ?」と、
まゆがヒクッとなっていた。

その人が、うまく人々にアプローチできていればいるほど、
受け入れられない気持ちが強まってしまって。。


でも、その人の言うことの中で、
かすかにでもいいところをみつけて
「それっていいね」と言うだけで、
相手は心を開いてくれる。


考えでも、お菓子でも、本でも、
届けるものは何でもいい。


何かを手渡すとき、
相手がそれを受け取れるように、と
互いの眼前にひろがる心の畑を耕すのは、
他でもない、自分なんだ、と悟った。


・・・なぁ〜んだ、こっちの許容力(キャパ)の問題だったんだね〜♪


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アメリカ人の仏教徒、ジョーと語る「宗教の寛容の精神」パート2 - 2006年01月06日(金)

さて、はじめに前回の続きから。。


「私が昔勉強していたある書物の中には
 △△教はこうだ、○○教はこうだ、とか、
 他宗を否定することが書かれていたの。

 それを鵜呑みにすると、
 他の人に自分の正しさばかりを
 押し付けることになってしまう・・・。

 かつて私は実際そう振舞ってしまって
 決してうまくはいかなかったよ・・・!

 ジョー、どう思う?」

私は友人にこう尋ねました。

すると彼は
「宗教は人を助けるためのもの。
でも、宗教の名の下に多くの人の命が奪われ、
家族は引き裂かれ、
人生が破壊されてきた、と感じる・・・・。」

こう前置きした後、
ジョーは私からの質問に対してこう続けたのです:

「それは大変難しい問題だね。

それは、宗教がそれを信じる「人々」そのものよりも
大きくなりすぎてしまうということではないかな。

一個人にとって、
教義や哲学に翻弄されてしまうのは
とても危険なことだと思う。

自分たちがしていることが
道からそれていないか、
またなぜそれをしているのかを
しっかりと責任をもって監視し続ける必要がある。
裁きや恐れに負けずにね。

それは個人にとってかなり難しいこと。
教会というは人々の集まりだから、
教会にとってもそれは
とても大変なことだ。

事実、多くの教会はそれに堪えられない。

と、新たな考え方を私に教えてくれました。

そういえば、私も高校生の頃に、
「宗教のために人間がいるのではない、
人間のために宗教があるのだ」

って、教わったっけ。。

考え方が違う人を責めたり、非難してばかりいたら
結果的に自分の宗教まで否定してしまうことにもなりかねません。

人は、
「これは絶対正しいのだ」
という何らかの信念を持つことで、
ものすごいパワフルになることができます。

これは宗教のもつ偉大な力です。

でも、教えの「正しさ」を主張することにこだわりすぎて、
他の宗教が持つ良い点や、共感できる点に
気がつくことすらできなくなってしまう。

悲しいことです。


バンビーノは近頃、それまで知らなかった自分とは違う宗教を持つ、
誇り高いステキな人にたくさん出会いました。

彼らと話していると、
自分の考え方との違いを感じることよりもむしろ、
全く同じ考えを、違う言葉でうまく表現されている、
なんてことの連続だったりします。

まさにここに、自分の考えを見直しながら相手の言い分を尊重し、
理解しあっていくためのブレークスルー
(突破口)となる考え方があると思いました。

私にはまだまだ慢心があり、
ジョーのような「寛容」がないなぁ、
と反省しました。

彼とは今後も連絡を取り続けていきます。



ジョーに、この一連の対話を
日本の友人と共有したことを話したところ、
彼はこのテーマについて
「いつでもさらなる対話を歓迎しているよ!」
というメッセージをくれました!

ジョーになにか質問してみたい人は
ぜひコメントください。
あなたの考えをエイゴに直して伝えてみたいと思います。


ありがとう。


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アメリカ人の仏教徒、ジョーと語る「宗教の寛容の精神」 - 2006年01月03日(火)

バンビーノです。

一年の計は元旦にあり、
新年の目覚めはいかがでしたか?

年末年始は親戚に会ったり
懐かしい仲間と再会したり。
普段とは違った人々とふれあいます。

そんな中、バンビーノはさっそくいいことありました!

10年ぶりに再び連絡をとりあうようになったアメリカ人、
ジョーとの対話がとても印象的でしたので
さっそく皆さんにご紹介しますね。

10年前私は、ロスで音楽を学んでいました。

当時の私はまだ10代。初めて親元を離れ、
アメリカでも熱心に仏教徒として信仰をしていました。

その頃、ともにバンドで演奏しながら
信仰活動をしたアメリカ人、ジョーと、
2005年の11月半ばからおよそ4年ぶりに
再び連絡がとりあえるようになりました!

彼は現在ソフトウェア会社の社長でサンディエゴに住んでいます。
おそらく今は50代半ばくらいだと思います。


私は3年半ほど前に、以前の信仰に加えて
新たな宗教哲学の勉強を始めました。

その事をジョーに告げると、
彼は私が勉強しているものについて
ほとんど何も聞いたこともありませんでした。


それから約1ヶ月がたち、年末に再び連絡をもらいました。
すると、
「君のことと君が新たに勉強しはじめたこと、
 もっと理解したいから少しばかり勉強したんだ」

そういう彼は、驚くほど多くの用語を挙げ、
私が新しく始めた宗教哲学について、
彼が学んだことを教えてくれました。

そして、

『自分にとって真実であることが真実である』

というのが気に入ったよ。


と、新たに知ることになった哲学の中に
彼が実に共感できる一節をみつけたことを
本当にうれしそうに伝えてくれました。


私は、彼のまっすぐな向学心に心から感動しました!


さらに彼は、熱心な仏教徒でありながら、
アメリカ・ソルトレイクシティに本拠地を持つ
あるキリスト系教会について、

「彼らの聖歌隊を知ってるかい?
 彼らの歌は、本当に涙が出るほど素敵だった。
 そして彼らは世界中で実に多くの社会奉仕活動をしているよ!
 例えば・・・」

と、流れ出す清水のような、
みずみずしい感想をもらしました。


Great(素晴らしいね)!


そう私が伝えるとジョーは、

「僕はそれこそ何事にも興味が沸いて来るんだ、
 できることならすべての宗教や哲学を
(そしてすべての偉大な音楽を!)学び尽くしたいくらいだ。


そう答えたのでした・・・・!



そこで私はジョーに、昔から思っていた
こんな疑問を投げかけてみたんです:


「私が昔勉強していたある書物の中には
 △△教はこうだ、○○教はこうだ、とか、
 他宗を否定することが書かれていたの。

 それを鵜呑みにすると、
 他の人に自分の正しさばかりを
 押し付けることになってしまう・・・。

 かつて私は実際そう振舞ってしまって
 決してうまくはいかなかったよ・・・!

 ジョー、どう思う?」



こんな投げかけに対して、
ジョーはどんなことを話してくれたと思いますか・・・?


読者の皆さんの想像した思い思いの
「話のつづき」をきかせてください!


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ポプラル!〜チャランガ・アバネーラに脱帽〜 - 2005年10月23日(日)

友人に
「とにかく、観にいってくれ」、と

強烈な推薦を受けて
行ってまいりました、
ミニシアター、渋谷・ラ・セット。

高校時代に通いつめた文化村のそばの、
小さな映画館で、POPULAR!というタイトルの
キューバ音楽映画をひとりで観にいきました。


国民的人気のバンド、
チャランガ・アバネーラのドキュメンタリーです。
http://www.popular-movie.jp/


演奏側の向かい側には
カラダを揺さぶらずにはいられなくなった
老若男女の観客がいる。


決して自己満足でありえない、
双方向のコミュニケーションの深みに脱帽!

気持ちのトーンが急上昇する、そんな作品でした。

私も、そんなアートを創り出したいと思う。



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謙虚さと、猛烈な一撃 そのこころは? - 2005年10月22日(土)

『さて、自分が愚かであると気付く謙虚さ、

それを発見することは、比類のない偉業です。


それはあなたのプライドに対する猛烈な一撃ですが、

あなたの知性に対しては猛烈な向上をもたらします。』



先ほど帰宅し、私あてに届いたある発行物を広げたら、
こんなことが書かれていました!

なんてことでしょう。。



これには、ノックアウトされました。




何か美しいもの、
うまく機能するマシンとか・・・
まぁ、あらゆるものを前にして一言、
『あぁ、それは既に知ってるさ、
新たに学ぶ価値などないね』

とおごるのか、

『おや、まぁ!ステキ!
へぇ、知らなかったなぁ〜!
ここには私の知らない何かがあるぞ、
知りたいなぁ!』

と、知的好奇心のアンテナを
張り巡らすのか。




人に何か話かけた時、
つまらなそうに
「あぁ、それ知ってるよ〜、それがどうかしたの?」
と無愛想に言われた時のあの空虚な感じを、
誰かに、また何かに対して向けてしまっていた
そんな自分自身をちょっぴり反省し、

今よりまたちょっと、
何かを知り、
学び、
遊び、
自分も周りもなんだか楽しく
元気になるような、
そんな毎日を生きよう、っと決めた!







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バッグの中の、小宇宙 - 2005年09月25日(日)

わたしは整理整頓が苦手だ。
荷物はいつも多く、
部屋には身分不相応!?な分量の
荷物が横たわっている。

バッグの中は小宇宙、
日頃より頭の中が収まり悪いせいか、
あれもこれもと持ち歩かないと
出かけて早々、気が気でない。

しかし、出先でそのあれこれが常々
100%役に立つというわけでもなく、
大抵はそこに持ち歩いているということすら忘れ、
単に重たいバッグをひきずり後悔するのです。

でも、本当の小宇宙は
人間の肉体さながら、
自ずと秩序を好むらしい。

秩序、とは、なんともいやな響きだった。
それは、戒律、とか、厳しい罰をともなうような、
そんな感じ。

奔放な生き方に憧れたついでに
秩序なく、思いつきで動き回ることが
なにやらクール、と決めていた。
それが「感性」と嘯いていた。



でも、使ったものを元の場所に戻す・・・
この基本中の基本を自分の人生に適用したなら!

素晴らしいことが起こせるという、気づきに達した。




そんな新しい視点で世の中を見渡せば、
なんとも街の大衆中華飯店の調理場でさえ、
ネギはここ、肉はここ、皿はこちらで箸はここ。

私のバッグの中よりはるかに整っており、
そのすべては調理の手際を支えていることに
私は静かに驚嘆し、心の中で合掌した。

よりよい人生のために・・・



気づけば耳に心地よく、虫の音が響く秋の夜。




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普及の落とし穴 - 2005年08月23日(火)

とあるグループの会に誘われた。
そこでは満面の笑みで迎えられたが、
さしあたって他にもやることはあり、
そのグループへの入会はお断りする格好となった。

すると、ぷっつりと連絡が来なくなった。

こちらから別件で連絡を入れても
レスポンスが悪い、というか、連絡が返ってこない。

なんだかさみしいことだな、と思う。

そして、自らの「普及」の概念を
人のふりみてわがふり直せ、と反省する。

自分たちのグループが一番だ!と主張するたび、
そこに入らない人をどこか「差別」し、
ちょっと意地悪になるのは人間の悪いクセだと思う。

そんな悪いクセをたたきつぶせ!



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