Espressoを飲みながら

2003年12月30日(火) 2004年に向けて

来年はどんな1年にしようか、そんなことを考えたりするけれども、結局のところ「もう少しお金があったほうがいいな」というところに落ち着く。空遊の場合、誰から見ても「もう少しお金あったほうがいいよ」と言われるであろう現状にある。とりあえず、「仕事に行ってる日の割合を多くする」、「手に入れたお金を全て使わない」ことにする。金持ち父さんと貧乏父さんには収入の十分の一は自分のためにとっておきなさいって書かれていた。無論そのとおりにしたところで収入自体が少なすぎてはほとんど意味をなさないかもしれないが、それでもとりあえず少しずつでも貯金していくことにしたのだ。

 もちろん家も移りたいし、遊びたいし、旅行もしたいが、今の生活の不満の一番は「お金が充分でないこと」なのだ。このテーマが2004年、自分にとって大事と感じられるのだ。



2003年12月15日(月) かきこみ

 自分のサイトでいろいろ書いたり、友達の掲示板やMLであれこれ書いたりしていると気が付いたのですが、どうもそれぞれの掲示板によって微妙に書き込みの時の言葉使いとかキャラクターとかスタイルが変わってくるようです。本人はあまり意識していないのですが。自分が管理人をやっている掲示板では決して管理人削除をされることはないし、荒らしにあってもどんどんアクセス禁止を掛けていけばいいし嫌な書き込みはレスさえせずに管理人削除ができるので、一番大胆に無茶苦茶なことを書けるはずなのですが、決してそうはしないようなのです。2ちゃんねるも匿名性が高いから好き勝手書けそうですが、逆に匿名で書いても面白くなかったりして、書き込む時は専ら「話を進めるために書き込む」ことが多いです。

 きわどいことを書くためには、きわどいことを書くために準備、管理された掲示板が一番良いというのが結論のようです。



2003年12月07日(日) 図書館

 奈良県生駒郡平群町には、図書館がない。公民館の中に、図書室と呼ばれるものがあるが、それは図書館とは呼びたくない代物である。

 平群町のお隣の、大阪府八尾市には立派な図書館がある。とりたてて他よりも立派ということはないかもしれないが、一地方都市の図書館としては、結構充実していると思う。市民は本だけではなく漫画、CDやビデオも無料で借りられる。手塚治虫のブッダも全部揃ってるし、宮沢賢治も全集で揃ってるし、吉本隆明の著書もいっぱいあると満足気に私に話す八尾在住の知人。暇な時は一日に3冊読んで、次の日にまた図書館に行ってまた3冊読んだりしたりもするという。

 似たような額の税金を払って、隣町でどうしてこうも差がついてしまうのか。本やCDやビデオを自分で買ったりレンタルするのはお金の限界もあるし、本の場合買ってたまっていくと、スペースの限界がすぐに来てしまう。ということは、図書館があるかないかは市民の読書量にかなり影響するはずだ。ひいては知的レベルや教養にも差がつくことだろう。財政がどうのこうの言って図書館の建設を延々と先延ばしにしている平群町には、一刻も早い町立図書館の建設をお願いしたい。

 ついでに、もし無理だったら、せめて県立図書館を平群町に誘致するとか・・・。もっと無理?



2003年11月29日(土) 冥福って?

 今日テレビを見てたら、外務省に勤める日本人が二人イラクで殺されたそうな。大使館が銃撃を受けた時とか、ラディンがテロの対象に日本を名指しにした時とか
大使館員をイラク国内から撤退させる機会も口実も充分あったと思う。

 もちろん、命令なくしては彼等が日本に簡単には帰られないことも、この状況下でイラクに留まることの危険性も、充分に日本政府は知っていただろう。

 つまり、今回二人が死んだのは、日本国政府の人命軽視の態度による人災であると言っていい。テロリストが殺したのが悪いのは確かだが、この事態が起きることは充分予測できたのに、放置して二人の死という事態を招いたのだ。

 さて、それはともかく。
こんな事件が起きると、決まって日本人の取る態度がある。
社会的立場からそうしなければならない場合、まだ仕方ないのかもしれないが、全然そんなことを言う必要すらない人間が、そんなことを言う必要のない場で、

「(故人とか、被害者とかの)冥福をお祈りいたします」

と言う。私はこの言葉が大嫌いだ。というのも、冗長な挨拶であり、そこには何の信仰も考えも思いやりもないからである。

 こういうことを言った人に、
「では冥福とはなんですか?」と聞いたら大抵の人は
「なんでそんなことを聞くんですか?」とか
「冥福は、冥福じゃないですか?」とか言う。
つまりは言った本人が何を言っているのかわかっていない。

Goo辞書で検索してみた。

>めいふく 0 【▼冥福】

>死後の幸福。みょうふく。
>「―を祈る」

>三省堂提供「大辞林 第二版」より
>凡例はこちら

 つまり、冥福という言葉は人が死んだ後になお幸福になったり不幸になったりする死後の生とでも言うべきものがあって初めて成り立つ言葉と言えよう。例えば、死んだらなんにもないと思ってる人間が「死後の幸福を祈る」のは明らかに矛盾である。だから「冥福を祈る」とか人前で口に出すからには死後の生が存在し、そこにはなおも幸不幸が存在する(存在しなければわざわざ祈る必要はないのだから)というはっきりとしたある種の宗教観、もしくは死生観、あるいは信仰のようなものを持っていなければならない。

 現実には、ほとんどの人が、何の考えもなく「冥福を祈ります」と言う。それは、「いい天気ですね」とか「どちらにおでかけですか」と同様、言葉自体に意味はなく、ただ社会的役割としてそう言うことが求められているから言うという空虚な繰言にすぎない。

 誰も本当に冥福を祈ってなどいないのだ(余程の例外はおいといて)。

 それから、学校や職場などで黙祷や冥福を祈ることを強要するのもやめてもらいたい。例えば公立の学校や役所でも終戦記念日などに黙祷の時間をとって冥福を祈らせたりする。しかしながら、たくさんある宗教の中には一旦死んだら全ての人が救われるとする教えもあれば、死後の生は存在しないとさえするものもある。もちろん一切宗教なんてものは信じたくないという人、霊魂の存在は信じないと言う人もたくさんいる。そういう考えと、黙祷や冥福を祈ることとは折り合わない。彼等がそのような場にいれば、自分の良心、信仰と異なる宗教的儀式を無理やりやらされたと苦痛に感じるであろう。



2003年11月21日(金) 「題名のある日記」は「題名のない音楽会」よりは意外なことだと思う

WEB日記の特徴のひとつは、「題名」だと思うのです。
自分だけが読む日記、つまり昔ながらの日記帳につけるような
日記を書くときに、題名ってつけないような気がします。
僕がつけないだけかもしれませんが。題名の効用ってなんだろうって
考えると、その日記のおおまかな内容がわかるってことですよね。
人に読んでもらうときに題名があったほうがいいってことでしょう。
やっぱり「読まれることを意識して書く」のがWEB日記であり、
その一点において、普通の日記と異なるのでしょう。

 日記というよりも、個人の書く「天声人語」みたいなもの、
新聞の社説欄のようなものかもしれないですね。

 ちなみに僕の場合、自分以外に読んでくれる人がいないと
基本的に物を書く気にならないので、WEB日記は付けてても、
普通の日記は付けていません(笑)。自分が思い出すためなら
書かなくても思い出せばいいと思う性質なので。
でも自分で書いた過去のWEB日記や、MLへの過去の投稿を読み直して
いると、「ああ、あんなことがあったな」とか「またあそこに行こうかな」
とか思えます。これは普通の日記と同じ効用ですね。

 結局のところ、何かを言葉にするのに、聞き手、あるいは読み手に
存在していてほしいのだと思うのです。誰かがいると、あるいは誰かが
いると仮定すると苦もなく言葉がつらつらと出てきます。そして自分が
言ったり書いたりした言葉から自分自身がヒントを得たりもします。
大学の時に、とにかくなんでも書いてみる「ブレインストーミング」という
技術を英語の先生より簡単に教わりましたが、似たようなものかもしれません。

 フランスの実存主義哲学者、サルトルは晩年インスピレーションを得るため
だけに、カフェに女性の話し相手が同席するようにしていたと聞きます。
彼もそのようにして自分の考えをまとめたり、新しい着想を得ていたのでしょう。

 



2003年11月02日(日) 秋の夜

 時に、行動が自然にとまり、
何をするわけでもなく、ただただ、ただただ
心の内側の声に耳を傾けていたりします。

特に、コオロギが鳴かなくなった後の秋の夜には
そういうことがよくあるのです。

何を為すわけでもなく、何かを読んだり聴いたりすることすらなく、
何かのプロセスが内側で起こり続けていくのです。

それが、いったいどこに続いているのか。
わたしには、わからないことです。
それが、どこからやってくるのか。
それもまた、わからないことです。

書き綴られる言葉が、もしもあなたの心にとどくなら。
たとえたった一語でも、あなたの心のどこかに響くなら。

私は天と地の間で安らぐことができるでしょう。



2003年10月22日(水) 秋の風

 風が涼しく通り抜けていく。
あたかもオーラの中から記憶を取り去って
どこか遠くへ連れていこうとするかのように。

 多分に、ここは騒々しい世界。
山は荒れ狂えど神々しく、
俗人は黙っていてもノイズの固まり。

 風がどこから来てるのか、どんな遠いところから
風は吹いて来ているのか、思いを寄せたことはありますか?
もしも向かい風の中をずーっとずーっと走っていったら、
いつかは風の源にいたることができるのかどうか、
風にたずねたことはありますか?

 あなたは故郷をどこかで知っていて、
けれども故郷がどこにあるかは忘れてしまったのです。
だから、あらゆる場所を彷徨っても心に寂しさが残るのです。

 もし知ることと感じることに価値があるとすれば、
それは・・・



2003年10月14日(火) 久しぶりの麺レポートinミナミ

オープンしたてのなんばパークに行って、
7階の麺ばっかり集まってるところに行って、美味しいはずの
札幌ラーメン食べたら、麺が伸びてて柔らかすぎて全然美味しくなかった。
もう何件かラーメン屋が入ってたけどそっちはまだ食べてない。
でもあの札幌ラーメン店には二度と行かないだろう。
札幌で醤油ラーメンを流行らせたのかもしれないが、私に伸びた麺を
食わせるとは無礼千万なり。だって2時間近く待ったのに。

 それなら道頓堀の神座に行ったほうがよっぽどいいもんね〜。
いつも美味しいし、早いし。店員さんの客さばきもよろしいし。
何より真夏の一番暑いおりにはこれでもかと冷房かけて熱いラーメンが
美味しい温度にまで店内の気温をさげてくれる。あれは嬉しかった。

 で、まあミナミをふらりふらりとして夕食は千日前のうさぎ屋で
讃岐うどんを食べました。生醤油うどん280円だけど、これが美味しい!
麺もしっかりしてるし。これで店が空いてるのが信じられないっす。

そんなこんなで、久しぶりの外食レポートでした。
(なお実際に食べに行ったのは今日ではなくて先週のいつかです)



2003年10月01日(水)

 空気の冷たさを感じながら、
わざと夏布団のまま眠る今日この頃。
これといって特に為すこともなく、
ただいたずらに時は過ぎ行くのみ。

過去を振り返らず、未来を仰ぎ見ず。

 もし、あなたの心こそがあなたの牢獄と気付いたら。
あなたはどうしますか?この問いを、あなたがあなた自身に、
例えば眠る前、電気を消して布団に入ったその時にたずねてみたなら、
答えは浮かび上がってくるのか、それとも夢の中でメッセージが託されるのか、
それともこの問いがあなたにつきまとって眠ることを許さなくなるのか?



2003年09月22日(月) 仕事とか、旅行とか

 仕事をしなくなって随分と時が経った。
いろんなことがあって7月の頭に奈良に帰ってから早2ヶ月半以上。
幸いにして帰る理由となった件についてはほぼ問題解決し、
いつでも仕事に就いてもいいし、あと一度くらいはどこかに旅行に
行ってもいいのだが、これと言って特別なことは何もしていない。

 いや、旅行と言えば琵琶湖北のマキノに自転車関係の仲間のオフ会で
キャンプに行きました。テント持ってないので友人のマーチの中で寝たり
みんなでホテルにお風呂だけ借りにいったり、朝日で目が覚めたり
マキノから余呉湖までHandybikeというコンパクト折り畳み自転車で
走ったりいろいろ楽しかったです。

 そういえば、徳島県の「ぶっかけうどんのほそかわ」で讃岐うどんも
食べたし、伊賀上野が誇るモクモクの地ビールも飲んだし焼豚も食べたし、
大阪の旧猪飼野地区でめっちゃ美味しい韓国焼肉も食べたし、
阪田でステーキも食べれば知多半島で海鮮料理の美味しいのも食べてます。

 実は阪神百貨店に優勝翌日に遊びに行ったりもしたし(爆)。
美味しいものなんて多分今でなくても食べられますが、阪神優勝の熱気は、
およそ20年に一度!今だけですよっ。いや、来年も優勝したら嬉しいですが。
僕本人はプロ野球に興味はさほどないですが、関西に住んでいる以上、
阪神が優勝するということは元気な社会に自分がいるということであり、
阪神が負けてるということは暗い社会に自分がいるということなのです。
僕はみんなが明るく元気な社会に自分がいるほうが楽しいので、
阪神が優勝したほうが嬉しいのです。野球自体は、遊びのようなものと
思っています。野球だけじゃなくって、スポーツ全般について。

 それはそれとして、そうそう仕事の話。いまいち勢いがつかないのです。
なぜか純和風建築の装いを見せる大和郡山のハローワークにも一度行った
きりで。テンション高くありません。でもさすがに遊んでばかりいると
貯金が減るのでそろそろバイト程度には働こうかと思ったりしてます。

 あ、でも働こうかと思ったりしてますと書いたらちょっと気が重く
なったので、やっぱりもう少し今みたいな生活をしているかも(笑)。


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