武ニュースDiary

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| 2010年02月18日(木) |
GQ取材記� 聞洪掘� |
方莉さんのブログ(こちらです)から。 とにかく始めなければと、短いですが、まずは最初のリード文から。
取材記――金城武篇
取材当日、急に晴れた。 10月の間中、東京は秋雨で湿っぽく、どんよりとした空気の中でもがいていた。 11月1日、この街は突然変身し、空は広々と青く、金色の輝きを見せたのである。 隅田川はさらさらと流れ、ねばりを感じさせる水面に、明るい日の光が一面にきらめいている。 1羽の白い水鳥が澄んだ水面から飛び立ち、風穏やかで日うららかな岸辺の静けさを破る。 私は川に沿って歩み、あるすっきりした形をしたコンクリートの建物の前で足を停めた。、 入口の表示板にはこう書かれている――4階スタジオ、使用者 GQ China、午後1時。
化粧室は扉が半分開いていた。 彼は髪を切ったばかりで椅子に腰掛け、こちらに背を向けて座っていた。 鏡が、実に男らしい穏やかな笑いたたえた顔を写している。 彼は満足そうに手を広げる。 まだ私服のままだ――アーミーグリーンのドリルの半袖Tシャツ、 左の胸に英語で「アメリカ軍」と縫いとりがしてあるのと、褪せた青いジーンズである。 伸びをするかと思ったら、不意にその手を頭の後ろに回し、 新しく刈ったばかりの短くなった髪を何気なくいじる。 機嫌は上々らしく、メイク師と話に花が咲いているようだ。
ジャズの音(ね)が、高く広い天窓のある白い空間に響いている。 ニューヨークから来たカメラマンと助手は機器の設置に忙しく、 ソファーでは、スタイリストとプロデューサーが小声で話をしていた。 彼が奥の部屋から出てきた。黒いジャケットと真っ白なシャツに着替えている。 みなが彼の方を見る。 この突如現れた、まごうことない凛然とした気にどうしても引き寄せられてしまう。 彼は軽く咳をし、まっすぐ撮影場所に向かって大股に歩いてきた。 目は炯炯と前方を凝視し、突然不思議な迫力ある光が輝きわたる。
23:40更新
台北日本人学校
「日が真っ青な空から照りつけて、 教室の前の長い長い大廊下が、強い日差しのもとで白く光っていました。 口もとにうっすら髭の生えた中3の男子生徒と、 まだ子どもの小1の生徒が、どたどたと走り抜けます」
「私たちの台北の学校には池があり、鴨や亀やカエルや、それに鯉までいました! 制服はなく、あの重たいランドセルも背負わなくてよかったんです。 先生は全員日本から来た人で、3年で入れ替わります。 小学部の子たちが突然転校してきたり、 また突然日本に帰ったりするのは、いつものことでした。 学校は楽しく、日本の学校よりずっと開放的でした。 1、2年生で、現地の日中ハーフの子たちが大勢入学してきました。 日本語がぜんぜん話せず、内緒話のときは集まって中国語で話していました。 もちろん、陰口なんかもきいていましたが、 別にどうということはなく、みなとても親しかった。 高学年になる頃には、クラスで日本語の話せない人は、もうほとんどいませんでした」
これは、台北日本人学校で9年間の義務教育を終えた 日本人の女子高生の回想である。 金城武は、この生徒の先輩に当たり、まさに彼女が語った、 あの「入学したときは日本語は全く話せなかった現地の日中ハーフの子」である。
金城武の母親は台湾人、父親は沖縄出身の日本人だ。 1973年、台北の万華に生まれた。2人の兄がいる。 母親は日本語が話せたし、事業で日本と台湾を往来していた父親も ある程度中国語が話せた。 「台湾生まれで、子どものときから家ではずっと台湾語です」 台北の天母に引っ越した後、 彼は日本国籍の生徒を募集していた9年制の日本人学校に入学する。 混沌たる少年時代がここに始まった。
学校での昼食は母親の作る弁当だった。 母の得意な台湾のおかずが詰められており、 「もし、お母さんが間に合わなければ、おばあさんも作ってくれました」 金城武は母方の祖母を「ナイナイ(父方の祖母)」と言った。 「2人とも、とても料理が上手なんです」 思い出にとらえられ、どうしていいかわからなくなっているかのようだ。 「今ですか? おじいさんもおばあさんも、ひっかかっちゃいました」 わざと軽い口振りで言う。
学校の伝統行事では、クラス合唱をしたり、 教師が台をしつらえて焼きそばやお好み焼きや焼き鳥の店を出したり、 また、地面に大きな水盤を置き、子どもたちがしゃがんで、慎重に金魚すくいをする。 暗くなっても人は去らず、明かりをつけて太鼓を叩き、手を打って踊り、 体育館の上空にはまんまるい明るい花火が上がった。 学校中が盛り上がるとき、子どもの頃の金城武は、何人かの仲良しとずらかるのが常だった。 「ぼくはぜんぜん積極的に参加しませんでした」と彼は言う。 「逃げ出して学校の斜面にのぼり、“照明係”よろしく、 下にいる人たちを懐中電灯で照らして、大笑いしてました」
その頃、読書もしていて、飛んで行った図書館に、日本の伝奇小説『怪人二十面相』があり、 興味をひかれて読んでみたことがあるが、話は覚えていない。 20数年後、自らが本の中の伝奇的大怪盗となるのは、まだまだ先の話である。 時は図書館の時計と同じように、ゆっくりゆったり、流れていた。 もっと熱中していたのは、友達から借りたお笑い芸人志村けんのビデオとマンガである。 腹を抱えて笑しながら、一方では、 「あの時代に、どうしてこんなことができたのだろう? 全部生放送で、あの大道具小道具、あのタイミング、あのギャクが?」と、好奇心を募らせていた。 有名になって、やっと憧れのお笑いヒーロー志村に日本で会うことができ、 CMで共演することになったのである。 「本当に光栄でした」
ゲーム好きは当時からで、やりすぎては母親に叱られた。 が、上に政策あれば、下に対策ありーー兄と布団にもぐりこみ、こっそりゲームを続けたのである。
金城武の母親は厳格というよりは、むしろ開けた人と言った方がいい。 まもなく正規の学校教育を受けようとしているのに、 日本語が話せない息子のことを「全然心配しなかった」。
私は、当時の彼と同じような背景を持つ6歳の日中ハーフの子のことを話した。 日本語が話せず、1人家に閉じこもってゲームをしているのである。 「その子は家で1人きりなの?」彼が条件反射のように、突然質問した。 「そうです」と私は答える。 「子どもは自分で成長するんだよね」 金城武の口調はすっと沈んだ感じになり、あたかも思い出の中に入り込んでしまったかのようだ。 母親の代弁をしているようでもあり、自分自身の体験を語っているようでもある。 「きょうだいがいなくちゃいけないね」 彼は真剣に言い、インタビューは心理相談のようになる―― 「ぼくには兄弟がいたし、友達もたくさんいたから、困ったことは何もなかった。 両親も何とも思っていなかったし。 日本語は学校に行って次の年にはもう大丈夫になっていました。 もし子どもが寂しがっているのなら、とてもかわいそうだと思う」
少年時代の暮らしは、いつまでもほこりっぽさと汗の熱気と共にある。 混沌としてぼんやりしているが、忘れがたい。 「どの用務員さんたちとも知りあいでしたよ。 卒業後に何度か学校を訪ねて行ったのも、用務員さんに会いに行くためでもあったんです。 先生たちはとっくに台湾を離れていましたから。 みんな、ぼくの顔を覚えていて、校内に入れて遊ばせてくれました」 世は移る。 「学校には、もうだれも知っている人はいません。 行っても、会いに行く人がいないんです」 (続く)
BBS ネタバレDiary 1:30
今朝方Dolphihさんに教えていただきました。 (詳しくはDolphinさんのサイトへ) 長い、という話だったけど、ほんとうに長い! 大陸版GQの記事を詰める前の段階のような内容ですが、 GQの方も、ただこれを短くしただけではないようですね。
このところ、マイケル・ジャクソンの動画を見たり、 ミクシィのアプリで遊んだり、 数独にはまってあわや徹夜状態だったりの日々――
よい刺激を頂いて、非力ですが翻訳挑戦します。 GQ本文も結構難しかったという、いやな記憶がよみがえりますが……。
他には、最初に登場した「号外」(香港の雑誌。確か3回登場)の本文を読んだり、 「ウォーロード(投名状)」コメンタリーも、ネタバレDiaryでゆっくり更新中。 こちらはあと2回で完結です。
BBS ネタバレDiary 更新しました 13:00
第14回全球華語音楽榜中榜(全世界中国語音楽ランキング)の ノミネートリストがネットにアップされていました。 名前の通り中華圏の音楽祭なのですが、音楽関係の賞の他に、 アジアで最も影響力のある何々という賞もあって、 歌手、俳優、モデル、監督……といろいろあります。 我らが金城武の名前もあがっているので、他のも一緒に少し写してみます。
アジアで最も影響力のある男性歌手 ジャッキー・チュン、RAIN、ジェイ・チョウ アジアで最も影響力のある女性歌手 フェイ・ウォン、ステファニー・スン、ココ・リー、浜崎あゆみ、宇多田ヒカル アジアで最も影響力のある俳優 金城武、チャウ・シンチー、チョウ・ユンファ、ジェット・リー、ジャッキー・チェン、ダニエル・ウー アジアで最も影響力のある女優 コン・リー、チャン・ツーイー、スー・チー、ミシェール・ヨー、ジョウ・シュン、チャオ・ウェイ アジアで最も影響力のある監督 チャン・イーモウ、アン・リー、ジョン・ウー、ウォン・カーウァイ、ツイ・ハーク、ピーター・チャン (猫撲娯楽 2010.2.5より)
でも、こういうのに、もう当り前のように名前が入るなんて、すごいなっ!!
BBS ネタバレDiary 久〜〜しぶりに更新 22:00
| 2010年02月04日(木) |
アルマーニ継続&画壁 |
新聞記事は本当だったんですね。 2010年のアルマーニの新広告、香港のファンが携帯でキャッチ! この髪型は広告のためだったのかしら?
金城武NET討論区(デリックのサイト)の新聞報道区へどうぞ。 (アドレスはネタバレのリンク欄にもあります)
アルマーニ続約はチャン・ツーイーの記事にちろっと書かれていただけだったのに、 珍しく真実報道でした。
これは既にDolphinさんも数日前に紹介してくれている内容ですが、 同じく、ひょこっと名前が飛び出して、記者の聞き違いでなければ、 記憶にとどめておいてもいい新情報かと思うので、 記録の意味で抜き書きしておきます。
中国、光線影業の営業部長、葛威氏が今年度の事業について語った最後に、 こうありました。
(前略)2010年に間もなく製作を開始する映画は、 概要説明の頃から何度も名前が出てきていた「画壁」です。 「画壁」は「画皮」シリーズの2作目で、 同じく陳嘉上(ゴードン・チャン)がメガホンをとります。 出演者は金城武ほかの面々。(後略) (Do News 2010.2.2より)
12月24日にご紹介したマギー・チャンのニュースも、 2010年に光線影業の映画で金城武と共演か? と書かれていたんでしたね。
BBS ネタバレDiary 23:00
| 2010年01月31日(日) |
金城武ミニストーリー�� |
本人が全然姿を現わさないので、自然こちらも閑古鳥が鳴いております。 この前の氷河期には、さびしいファン仲間を励ますつもりもあって、 せっせとネタを探しては更新しておりましたが、 それももうエネルギーなくなってきましたし、 いいよ、気の済んだとき出てきて……気分になっております。
とはいえ、新年なのに、1か月に2回しか更新してないのはいかにもうら寂しい。 というわけで、無理やりもう1回……
以前、「金城武ミニストーリー」としてご紹介した、 フーロン時代の同僚のブログ記事が更新され、 またまた若い武の可愛いエピソードが読めるのを、少し前にDolphinさんが教えてくださいました。 そのとき、大体は訳出してくださっていますが、 (1)から(4)まで紹介しているので、 これも、こちらでも全文訳出で掲載させていただこうと思います。 (ブログ主さんにはお知らせして)
(5)君の出世に8000元賭けよう!「金城武テレホンカード」
1993年12月のこと、金城武はデビューして1年を過ぎ、ちょっとは名も売れてきた。 そこで、フーロンは彼のためにテレホンカードセットを発行することにした。 これは、国内の芸能人が個人のテレホンカードを発行した最初の例だと言ってよい。
その頃はまだ携帯電話が一般に普及していなかったので、 公衆電話をかけるときは、必ずテレホンカードが必要だった。 当時のテレカは今とは違う。 あの頃の初代テレカはカード上に磁気テープがあり、 残額がいくらなのか、はっきり表示された。 今の中学生では使ったことのある者は少ないと思う。 金城武テレカも初代のもので、ぼくも使ったことがなかった (今は使えるところがなくなってしまった)。
このテレホンカードブックにはテレホンカードが2枚ついていて、 どちらも額面はたった20元だった(町で買うテレカは100元) その他に4枚の「コレクションカード」と金城武の写真。 (コレクションカードは電話はかけられないふつうのカードだ) 何ページもない薄いものだったが、印刷と造本は非常にきれいで、 写真も、名カメラマンの陳文彬氏が手がけている。
このテレホカードブックは「限定10000部」とうたっていた。 国内で7000部、国外で3000部、表紙に1冊1冊、ナンバーが打ってある。 定価は800元だ。 これが発行されると、会社は社員に購入するよう強く勧めたが、 なかには「40元分しか使えないテレカを800元で売る」のは高すぎる、と思う者もいたし、 「人気が落ちたら、ただの壁紙になってしまわないか」と、嫌味っぽく言う者もいた。 だから、買った者も、決して喜び勇んでというわけではなかったので、 金城武はちょっとばかり気落ちしていた。
ある日のこと、彼はテレカブックを何冊か抱えてやってくると、ぼくに売り込みを始めた。 「TOMOさん、景気付けに、お願い!」 ぼくはページを繰ってみて、 自分がもう「スターに熱をあげる」年頃をとっくに卒業してしまったと思った。 買えるわけないよ。
「限定版だから、きっと値段があがるよ!」 金城武は大きな目でぼくを見つめて、真剣に勧める。 このとき、ぼくは、もし断ったら、この子をきっと悲しませるだろうと思ったのだ。 それでこう言った。 「よし! 10冊くれ! 君が人気者になるのに賭けることにする!」 本当を言うと、この800元は、当時給料があまり高くなかったぼくには大金と言ってよかった。 (だから、心の中では血を流していたわけだ)
金城武は驚喜してお礼を言った。 そして、ぼくの隣に座ると、全部の表紙とテレホンカードにサインをした。 サインしながら、ぼくに言った。 「がんばるよ! 絶対、失望させないから!」
今、金城武は国際的大スターになった。 もともと、彼を励ますために10冊まとめ買いしたテレホンカードブックはもう絶版で、 かなりな値打ち物になっているはずである。 干支の記念紙幣は毎年値が上がっているが、最近などは12万から18万セットも発行している。 この金城武テレカは1万セットだけだ。 (実際知っている人は決して多くない) 海外では3000セットしか出ていないから、 もし日本でオークションに出品したら、きっとものすごい値段になるだろう。 高値で売れるに違いない(笑)……
BBS ネタバレDiary 21:15
開店休業状態ですが……ニュースがないので、いかんともしがたく。 昨年、島田荘司の作品の主人公、御手洗潔役に、 作者が金城武を希望しているという記事を紹介しましたが、 より詳しいやりとりが、今頃になって出ていますので、それを。
島田荘司が日本の推理小説界の重鎮で大変人気があることを述べた後、 次のように続けています。
(前略)だが、この数年、東野圭吾の勢いが、 日本でも中国でももこの先輩を凌駕してきている。 『容疑者Xの献身』『白夜行』など、テレビシリーズ化の効果も大きい。 が、100を超える推理小説を出している島田荘司は、 自作の映画化、テレビ化には大変慎重だ。 一番大きい理由は、 「御手洗潔を演じるにふさわしい俳優が見つからないんです。 御手洗潔のファンは多くいますが、一人一人自分の御手洗潔像を持っていて、 もしそれに合わないと、不満が出るでしょう」
小説中の人物を100%再現できるのでなければ、やらない方がいいと島田は考えている。 ところが今、彼は御手洗潔役にぴったりの人間を見つけた――金城武だ。 金城武は一昨年、日本推理小説界の新鋭、 伊坂幸太郎作『死神の精度』の映画化に主役で出演している。 「ぼくも人を通して金城さんに打診したことがあるんですが、 シリーズ物の役は制限が多いので、と断られました。 でも、ぼくの本は中国でも少しずつ出版されて人気が出てきているので、 金城さんの考えも、少しずつ変わってくるのじゃないかと期待しています」(後略) (東方早報 2010.1.15)
ハルピンで、先日行なわれたビオテルム・オムの宣伝イベントにも、 姿はなかったそうです。
BBS ネタバレDiary 13:00
| 2010年01月01日(金) |
あけましておめでとうございます&金城武、結婚?! |
新年あけましておめでとうございます
昨年中は、いろいろと、本当にありがとうございました。 今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
さて、年末、あとの心配事は年賀状書きだけだなあ……と思った矢先、 仕事納めギリギリに難問発生。 それもまだまだ尾を引いて、実に落ち着かぬ年の瀬となりました。
というところに、みな様ももうご存知と思いますが、 「金城武、結婚」 という、ま、話題としては変わり映えせぬとはいいながら、 今度は確かだぞ、という思わせぶりな芸能記者のブログ記事が出て、 日本のウェブニュースにまで登場することに。 なんでまた大晦日に……と、いまいましく思いつつ、 この種のニュースに脊髄反射は禁物なので、ニュースチェックだけしておりましたところ、 「マネジャーに聞いたら」と、筆者がうそぶいた、 当のマネジャーのコメントが出ましたので、ご紹介します。
まずは、台湾の聯合報の記事。
昨日、金城武がすでに結婚しており、相手は日本人だという暴露記事がネット上に登場し、 大勢の女性の心を傷めさせた。 金城武のマネジャー、ヤオ・イージュンは昨日、かんかんになって、軽蔑とともにこう非難した。 「こういうでたらめな暴露記事は、 ただ自分のサイトのアクセス数を高めたいだけの人間の仕業です。 根拠を示してください。 口から出まかせのいい加減なおしゃべりはやめるべきです」
昨日、大陸の王小魚が、金城武はすでに結婚しているとネットに書いたことは、 あちこちに転載された。 ヤオ・イージュンは噂はでたらめであると厳しく非難、 「言い出した者は全く無責任です。 自分の知っているのはこれだけと言って、全く証拠を示そうとせず、 あまつさえ、マスコミにマネジャーに聞けとけしかける始末です。 この種の出まかせにしゃべりちらす不真面目な所業は、やめてほしい」
ヤオ・イージュンによると、 金城武は最近は脚本を読んだり休暇をとったりしており、 日本にも台湾にもいないとのことだ。 金城武は、恋人がいるとか、結婚したとかの噂が、繰り返し流れるが、 この上ない神秘に包まれた人間であるため、 普段は写真を撮られることもめったになく、 真相は霧の中のように明らかでない。
ヤオ・イージュンは、昨日、こう語った。 「今後のことは知りませんが、今のことならわかっています。 もちろん彼は結婚していません」 (聯合報 2010.1.1)
もう1つは大陸の記事です。もとは重慶時報だと書いてあります。
金城武まで結婚していたのか? 昨日、有名な芸能記者、王小魚が自身のブログでこう書いた。 「多くの若い女性の夢の恋人、金城武はすでに結婚している。 新婦は日本人だ。 金帥哥は現在もずっと日本で活動中である」 この記事が出るや、ネットではたちまち大騒ぎになった。 ある女性ファンなどは、事実を問う血書をしたためて金城武に送るとまで述べている。
実際、金城武はデビュー以来ずっと恋愛関係についてはひかえめで、 世間は一度などは同性愛ではないかとまで疑ったが、誰も証明した者はいない。 記者は昨日、金城武のマネジャーであるヤオ・イージュン氏に電話をした。 電話に出たのは同事務所の別のマネジャーである張氏であった。 「ヤオは不在です。結婚については、完全にでたらめのニュースであると断言できます」 と、張氏は非常に腹立たしげに、 この種のねつ造記事でアクセス数を増やそうとするようなやり方を軽蔑すると語った。 「非常に恥知らずであり、私たちはとても残念に思っています」 (成都商報 2010.1.1)
BBS ネタバレDiary 21:20
唐突に名前が出てますが、ソースは? これもまた泡と消えるのか?
新快報が「マギー・チャンが新しい恋人と婚約か?」と伝えた最後に、 彼女の新しい仕事に触れた中で、一言こうありました。
ある情報では、マギー・チャンは最近、華誼の新作「全城熱恋」に客演したばかりで、 来年の夏には、光線影業の新作に出演、金城武との共演が有望である。 (新快報 2009.12.23)
●訂正 「全城熱烈」ではなく、「全城熱恋」でした! KIMIKOさん、ありがとう。(22:55訂正)
BBS ネタバレDiary 7:45
| 2009年12月23日(水) |
智族GQ12月号�� |
これでおしまい。
金城武がニューヨークに滞在中、2人は毎日のように会った。 「彼は1人で、付き人も連れず、とても質素なランク外のホテルに泊まっていました。 チェックのシャツを着て、サングラスか普通の眼鏡をかけていました。 酒場に入るときは、もう1人の、やはりニューヨーク在住の高校の同窓生に、 人が多すぎないか先に見てもらってから入ったものです」
そういう夕べは、正煕とニューヨークの同窓生の印象に強く残っている。 3人ともとてもウマが合い、金城武は明るかったが、 普段はいつもこうではないだろうなと感じさせた。
あるとき、relationshipの話になり、彼が正煕に彼女がいるかと尋ねた。 正煕も同じ問いを返し、2人は声をあげて笑った。 どちらも「時間がない」を言い訳に、その話はさっさと切り上げた。 別れる前、金城武は正煕にタクシーで行く方法を真剣にたずね、 かかる費用をじっくりと比較していた。お金には非常につつましく見えた。
それ以来10数年会っていないが、あの再会を、 正煕は自分自身の経験からこう説明する。 アメリカンスクールの同窓生は、別れた後、この世のどんな所に行こうと、 みな1つの共通点を持っている。 ハイスクール時代の友情にもっとも帰属感を覚える、ということだ。
「大学の友人はみんな不思議がりますよ、 どうして君らは高校時代の友達といつまでも連絡を取り合ってるのかと。 ぼくたちみたいな経歴と背景を持たない人なら、 一番親しいのは大学時代の友人だと思います。 でも、ぼくにとっては、高校の友達が一番親しい感じがする。 今は興味も仕事も多分みな違っていると思うけれど、 それでもみんなに会うと、時は経ってないと感じます。 あの学校の卒業生で、高校時代の友達と結婚した人は、身近に大勢いますよ。 国外から来た子どもたちが台北に暮らすとき、この高校はもう1つの家なんです。 ぼくたちは自分たちの世界に暮らしていました。 この体験は、高校の仲間でないと、本当には理解できないでしょう」
学校を出てからは、全然スポーツはしていないと、金城武は笑った。 当時の台北アメリカンスクールは一群の他とは違う子どもたちを育て、送り出したが、 彼らにとって重要なのは、そういう違いではなく、 かつて成長過程のある長い一時期、この場所が,、 自分が他と違っていることを決して感じさせなかったということなのだ。 彼らが青年時代を送ったあの世界は、ファンタジーの力で、 自由、平和、時間、美といったものを、今も与え続けることができるのである。
その世界に、金城武は高校3年の終わりまでいることはなかった。 彼の出演するCMがテレビに流れ始めてからまもなく、 キャンパスから完全に姿を消した。 いわば、部屋でみんなと一緒に大人になる準備をしていた子どもだった彼は、 門を押し開き、一足早くその部屋から出て行くことを余儀なくされた1人だったのである。 (完) (智族GQ 2009年12月号)
この記事は公式サイトやニュースにアップされていたのではなく、 大陸のファン、北京猫さんが自分で打って、上げてくれたものです。 感謝します。
記事の筆者は方莉という人。名前からは女性だと思います。 この人が自身のブログに取材裏話を書いているので、それもついでに。 原文はこちらです。
「GQ」インタビューエピソード
金城武の話す声には深い溜息が交じっており、日本語の影響をうっすら感じさせる。 声は低く、発音ははっきりと正確だ。 果たして端正な顔だち、深い瞳、息苦しく感じさせるほどの男前の人だった。 浅黒い肌は健康で穏やかな輝きをたたえている。 言葉やアイデンティティの問題をしばしば口にしたが、 熱心なようにも、うんざりしているようにも見えた。 そういった意地悪で抽象的な問題に直面すると、 彼は突然、ごめんなさいと言い、一種、うきうきしたような、 かつ哀願するような声で尋ねるのだ。 「あなたがぼくなら、どう思います?」 彼は情景描写が巧みで、声もよく、情緒もたっぷり。 手足の動作まで加え、きちんと説明しようと一所懸命な子どものようだ。
インタビューに先立って、私は彼の出演作を借りられるだけレンタルし、 2晩かけて見終えていた。 金城武はやっぱりおどけ屋さんで、 インタビューの時間が長かったので、途中で挙手して申告する。 「すみません、お手洗いに行ってもいいでしょうか?」 「どうぞ、どうぞ」私は答えた。 彼はおじぎをすると、ピュッと広間を飛び出していき、また光速で戻ってきた。
インタビューが終わり、私はトイレに行ったが、 扉が閉まっていたので、入口で待っていた。 通路はとても狭く、金城武が通りかかって私を見て、不思議そうに尋ねた。 「ここで何をしているの? 人を待ってるの?」 私は答えた。「行列よ。日本人は行列が大好きじゃなかったかしら?」 彼が笑った。 その半袖シャツから出ている腕を目にすると、我慢できなくなり、 手を伸ばして腕をちょっとつまんで言った。 「ちょっとつまんでいいでしょうか?」 「今つまんだんじゃないの?」 「もう1回いい? スポーツをしてないと言ったのを、検査してみるから」 彼はちょっと困って、立ち去るべきかどうかわからず突っ立っていたので、 私はついでにもう1ぺん、いじめてあげたのだった。
BBS ネタバレDiary 22:30
| 2009年12月22日(火) |
智族GQ12月号�� |
一足先に部屋から出て行った子ども
7歳になる前は閩南語(台湾語)しか話せず、日本人学校に行ってから日本語を使い始めた。 小学校を6年で卒業するとき書いた作文の課題は「大きくなったら」。 彼は「スーパーマンか警察官」になりたいと書いた。 台北アメリカンスクールでは3年間英語を学んだが、 中国語の作文能力は相変わらず身に付けられなかった。 「どれも不十分、話せるだけ。日本にしばらくいて、中国に戻ると、中国語が変になってるし、 急にまた日本に仕事で行けば、自分でもなんでこうなるのという話し方になってしまう」
言葉の訓練がどれも十分とは言えないことで、インタビューのとき問題になるのは、 頭の回転の早さで口を衝いて出るユーモアを別にすると、大部分の言葉は、 一字一句よく考えて書いた書き言葉のように聞こえることだ。 話し言葉風でなく、一言一言正確にはっきり発音して、明晰に聞こえるようにしている。 文章でのコミュニケーションの方が頼りになるようであり、 あの、撮影現場における大陸の監督たちが、4つ、5つのことばを口にすると もう実に適切な表現になっているのを羨んでいる。 例えばチャン・イーモウだ。 イーモウの話を聞いていると、まるで映画を見ているような気持ちになる。 そうした一見簡単で日常的に見えることが、彼には努力しても全然追いつけない。
1991年、「日中ハーフ」として台湾で知られるようになって2、3年経った頃、 18歳か19歳のときに、初めて日本を訪れた。 東京国際空港の中に足を踏み入れたとき、大きな文字が目に飛び込んだ。 「お帰りなさい!」 それは日本のテレビで、玄関で待っていた妻が90度に体を折り曲げておじぎをし、 頭を上げて、ずっと用意していた笑顔で夫に対するときの感じがした。 彼は心の中でつぶやいた。 「ぼくは帰ってきたのか? 初めて来たのに」
昔から台湾芸能界は、混血や何らかの海外のバックのあるアイドルを作ることに熱中してきた。 1970年から75年生まれの、金城武と同時代だと、 今でも有名なココ・リー、ワン・リーホン、陶�戞�黄立行である。 彼らの高校が台北アメリカンスクールで、芸能界からは、 西洋モデルであるABC(アメリカで生まれた中国人)と混血児の 宝の山とみなされてきたところである。 台湾産の経営者たちの子女と共に、国民党高官の子孫、テレサ・テン、費翔、 ピーター・ホー、潘瑋といった芸能界でよく知られた新旧の名前は、みな同窓生である。
創立した当時、台北アメリカンスクールは、アメリカ軍の子女が 台湾でもアメリカ式教育が受けられるようにするためのものであった。 米軍撤退後も、この学校は、教師にはすべて外国人を採用する伝統を維持し、 教育系統はアメリカと共通で、そのままアメリカの大学に進学できるようになっていた。 外国籍の学生しかとらなかったので、台湾本土の富豪たちの間では、 ヨーロッパの小国ベルギーに土地を買うことで外国の国籍を取り、 子女を無事入学させることがずっと行なわれてきている。
アメリカ人が去ってからの台北アメリカンスクールは、 台湾人からは「英語を学ぶのに一番いい場所」と考えられている。 ランクによって学費が違うため、台湾在住の日本人父母は、 子どもが英語試験の難関を突破できないことを心配して、 まず少しレベルの下がるミッションスクールで1年間補修をさせ、 翌年試験を受けさせるという、回り道をさせたりもする。
「忘れられないのは、入学試験の英語の面接試験のときのことです。 試験官が『1億ドルあったらどうしますか?』と聞いたんです。 その数字をぼくは初めて聞いたので、きっと100ドルとか1000ドルとかだろうと思い、 おもちゃを買ったり、本を買ったり、あれ買ったりこれ買ったり……と答えたんですが、 その後、別の受験生がその質問にこう答えているのを見たんですよ。 こう言ってました。「部屋を買ってお父さんにあげます」って。 ぼくは『どうして買えるんだ!?』って思ったけど、 1億ドルで買えないわけないですよね? 終わったな、と思いましたね」
金城武が学校をやめて17年後のこと、フィリピンの商人の息子である正熙は、 ニューヨークで思いがけなく彼から電話をもらった。 2人が会ったとき、金城武は彼を強く抱きしめた。 「ちょっと熱かったですよ。ぼくを見るととても喜んで、 かばんをしょっていて、目つきと学生っぽさは昔のまんまで、 すぐに昔の友達だった時代に戻ってしまいました」
高校時代、正熙と金城武はバレーボールチームで一緒だった。 10年生のとき、もう1人の日本国籍の同級生と一緒に シンガポールの学校に試合に行ったことがある。 3人はベンチの補欠要員で、相手の学校の学生寮に一緒に泊まった。 「毎日どこかに出かけるたびに、彼ら2人は必ず、まず煙草を吸うんです。 なぜ吸うのかと聞くと、金城武は床に座って台湾のあんちゃんみたいな風をして冗談を言いました。 『煙草を吸えなきゃ男じゃないさ!』」
「男らしさ」という名目のもと、正熙は金城武の手から人生初めての煙草を渡されたのである。 当時の自分のアイデンティティについて、正熙はある複雑な事情を話してくれた。
「その頃、台湾人は外国のものをとてもクールだと考えていたんです。 だからABCはもてはやされました。 アメリカでは本当はランクの低いチェーンレストランFriendsが開店したときのことを覚えてますよ。 台湾の若者の間であっというまに大人気になりましたからね。 その頃、アメリカンスクールの生徒は大部分が黄色人種でしたが、 一般の台湾人に対しては、ぼくらは自分たちを外国人だと感じていました。
ところが毎年夏休みになると、台湾政府はLove Boatという名前の事業で、 純然たるABCを、台湾の学校で中国語を学ぶよう招くんです。 実際は、こういう未成年たちは中国語を一生懸命学ぶ必要なんかなくて、 台湾には酒を飲みに来るんです。全くの放蕩、遊びですよ。 政府は表向きはそれを勧めないけど、基本的には黙認です。 彼らを台湾に来る気にさせて、台湾は面白いところのように思ってもらって、 ここで仕事に就いてもらいたいんです。 このとき、ぼくらは自分が台湾人だと感じて、そういう奴らは排斥しましたね。 ぼくらのところに来て放蕩して、大声でしゃべったりするのは、 自分たちの特権が侵されるように感じたんですよ」
そして、当時のアメリカンスクールは、かなりの程度、 この開放して10数年しかたたない宝島(台湾)にしばし在住する、 複雑な身分の外国からの過程の子どもたちに、確かに強力な保護を与えていたのだった。 高校を卒業すると、正熙はアメリカのバークレー公立大学で設計を学んだ。 「同級生たちもまた貧乏人ではなかったけれど、初めて、こういうもっと現実的で、 質素で、より生活に密着している人たちに出会ったんです。 働かないと学校に行けない人もいました。自分で学費を稼いでいたんです。 そういうようなことは、高校時代のぼくは全然わかっていませんでした。 前の学校は非常に閉ざされた世界だったんだなと気づきました」 (続く)
多分、あと1回。
BBS ネタバレDiary 0:30
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