2003年08月21日(木) |
ちょっとした言葉ひとつでも |
本日は小千谷にある客先を訪問。 とりたててお話することはありませんので昨日の話でもひとつ。
欲しい本があったので、web会員登録をしているジュンク堂書店のネット 注文をしました。web上では在庫ありとあったので、これは即納だなと 思っておりました。
が、ジュンク堂からメールが来まして、”店頭に美本がなく、至急版本から 取り寄せますが、場合によっては1〜4週間ほど納期がかかります。もし お急ぎでしたら「不本意ですが」美本でない現品の出荷は可能ですので ご検討の上メールでの連絡をお願いします。書籍の状態はカバー上部に ややヨレ、カバー裏表紙にややスレ跡があります。”といった内容でした。 (本文からエキスだけ抽出。カッコはわたくしが加筆。)
「不本意ですが」っていうのは余計だよね。 不本意だろうがそうでなかろうが、事実を伝え、それをどうするかを客に 判断を仰げばいいだけのこと。せっかく訳者にサインをもらおうと連絡を 入れて時間を割いてもらえることになったのに・・・。
まあ、でも冷静になって考えると、直接店頭に買いに行けば、そのキズもの しかその店には置いてないわけだから、結局同じことになります。という ことは、足を運ばなくても美本を取り寄せてくれる手はずを整えてくれた と思えば、かえって気が利いているのかなと考える方が正しいかも。
気持ちとしては「不本意ながら」という言葉を使いたくなるのは分かります が、あくまで事務作業だからクールに文章を書いてくれればいいだけ。
言っていること、やっていることは至極まともで誠意のあることだから、 ちょっとした一言で気分を害されてしまったことが残念です。
どこの言語でもそうですが、副詞や副詞句、副詞節は骨格をなす文章へ付け 足した発話者の主観ですから、これが相手に正しく伝わるとは限りません。 程度の問題は人それぞれですからね。特に顔の見えない(つまり過去に話も したことのない)人に文字を送るわけですから、主観は極力差し控える方が お仕事としては無難です。
なーんてことを言っておきながら自分はどうかというと・・・。 結構後ろめたい経験もありますので、発言は差し控えさせていただきます。
はい。今日は曇り。(上越地方)
2003年08月20日(水) |
こんなときは手短かに |
予算書は結局、金曜日の提出になったので、今日はできるところまで やって、明日は客先訪問、金曜日に上司との数字の調整をすることに しました。身体の調子が悪い時に根詰めてやってもいいことないので、 とりあえずひと区切り。
それにしても頚椎からくる痛みは今のところは和らいでいるものの、 また元の痛みに戻るかわかりませんから、しばらくは姿勢に気を遣って いかなくてはなりません。普段の姿勢の悪さもひとつの要因ですから、 まあ仕方がないというか。
しばらくは早めに寝るようにと指導されていますので、短いですが 今日はこのへんで終わります。
はい。今日は曇り。(東京地方)
2003年08月19日(火) |
出張のち診察および整体 |
午前中の客先打ち合わせが終わって、その足で主治医のいる整形外科へ 向かいました。30分ぐらいのところにあるんでね。 目的は左ひざの術後定期検診と背中痛。
左ひざに関しては今年の3月に診察を受ける予定でしたが、カルテに 登録してあった電話番号が引越し前であったため、診察日変更の連絡を 受けることができず、診察予約していた日には主治医不在で受けられず、 次回を聞くと近く独立なさるとのことで、その病院での診察は不可能。 そこで住所と連絡先を聞いておき、ようやく8月になって行くことが できました。ついでに背中が痛いので診てもらうことにしました。
左ひざは相変わらず経過良好。問題なし。(外科的にはね) 背中に関しては、これは背骨の問題ではなく、頚椎がガタガタにズレており、 そのせいで神経に悪さをしているとのこと。何らかの衝撃で頚椎がズレて いるようです。レントゲンの写真を見て先生から「ガタガタだね」と言われ、 看護婦さんが笑ってしまうほど。自分も笑うしかありませんでした。 (まぁ笑える程度ということで。)
何せシロウトの自分が見ても分かるほどズレていたんですから。(2ヶ所) 首のレントゲン写真は始めて撮りましたが、まさかズレているとは。 主治医は牽引を勧めましたが、牽引のできる病院が近所にありません。 なにせ主治医の病院は東京の限りなく千葉寄り。自分の家は限りなく所沢 寄りですから、東京の正反対。これじゃ通院できないということで、どこか 便利のいいところをネットで探すことにしました。とりあえず左ひざの 経過診察は引き続き行なうそうなので、3ヶ月後に行くことにしました。
それでは今の痛みが取れないので、その後、昨日予約をしていた整体へ 向かいました。ここはネットで見つけた初めてのところ。整体は善し悪しが 激しいので、ダメだったら別のところへ行こうと思っていましたから、そう 気が重いわけではありませんでした。(ちなみに宍戸開も患者の一人)
整体は健康保険が利かないので、下手をすると高額な医療費を請求される ことがありますが、ここはリーズナブルで、初診の時だけ1500円を 取られますが、通常は1回に付き3500円。世間的には5000円前後 ですから安いです。担当も資格を持っている人たちだからボッタクリでは なさそうです。で、受けてみました。
細かいところまで色々と問診し、それでいてアドバイスも親切。 悪いところとそれによる影響をきちんと説明してくれました。 整体は患部の治癒が目的ではないこともきちんと説明してくれました。 整術後の影響も併せてね。
これって大事なんです。患者への説明。
あれこれ試しながらどこがどうなっているのかをしらみつぶしに調べてくれ、 その結果は腰骨の歪みと頚椎のズレ。要するに日常の生活スタイルの結果。 足を組んだり、座る時の姿勢が悪かったり、寝る時の枕が悪かったり。 それらの積み重ねで筋や筋肉が歪んだ骨をかばうために、通常とは違う バランスを保とうと無理してがんばった結果、限度を越えてしまった。
整体は本来のバランスに戻すため、患部があれば本来の患部の痛みが戻って くるため、整体を受けた後は痛みが伴うこともあるそうです。そして本来の 治療を受けることになる、と。
今日の治療の結果は早いうちに見る必要があるため、次の日曜日に予約を 入れて帰りました。ここは水曜日が休診日なので会社勤めには助かります。
それはそれとして、頚椎の牽引をしてくれる病院を探さなきゃ。 しばらくネットサーフィンすることにします。
なんだか今のところ体はいい感じです。
はい。今日は曇りときどき雨。(東京地方)
2003年08月18日(月) |
ま、たまには短くてもいいか |
少々髪を短く切りすぎました。 正しく言えば、短く切られた。昨日会った人からは「中学生のよう」と 言われる始末。しかも毛先が揃っていないから言いたい放題。
昨日行った理髪店(「床屋」は表現としてはよろしくないようです)は、 いつも行っているところですが、昨日はたまたまご主人が他の人について いたので、奥さんがやってくれました。奥さんにやってもらったのは初めて。
そのせいか自分の伝え方の悪さのせいかは分かりませんが、ご主人からの アドバイスをもらいながらの処置でした。自分はあまり気にしていなかった ので、ご主人にいつも言っているような簡単なことだけ(バッサリ切って) 伝えたので、いつもなら横と後ろを短く切るところを、前と上まで同じく 短く切ってしまった後に鏡を見て確認された(それまで寝ていた)ので、 もうその時点ではどうしようもありません。
自分の返した言葉が、「諦めました」。 奥さん、それが聞こえたかそうではないか、ニコニコしていました。
しばらくして髪が伸びたら、こんどはご主人に切ってもらおう。 ちなみに奥さん理容師の資格を持っているかどうかは不明ですが、剃刀の 使い方はうまいです。クシの使い方はどうやらうまくありません。何回も 床に落としていたからな。
さて今週は見直予算書を提出する忙しい週なんですが、明日は朝から客先へ 行った後に病院と整体へ行くために半日休暇。明後日は事務所ですが、また その次は朝から新潟へ向かって終日。残るは金曜日だけですが、既にその時は 提出期限が来ているから事実上、水曜日が期限です。自分以外に予算書を 作れる人が組織内にいないからね。恐らく金曜日は作り直しとかなんとかで まともには帰れないでしょう。
コトウさん、ごめん。そういうわけでイベントには行けません。 とはいえ、これから結婚を考えている人に対する嫌がらせ(笑)の意味合いも あるようだから、行かぬ方が身のためとも思ったりして。いやいや。
はい。今日は曇り。(東京地方)
「予定調和」
この言葉を見聞きすると、去年の冬のこと(秘密)を思い出してしまうんですが、 その当時はまるで理解できなかった言葉です。
当時の日記にはこう書いています。
”分業と自由競争は神の見えざる手の様に予定調和を実現する、という アダム・スミスの出発点は道徳哲学だった。アダム・スミスにおける 自由は、封建社会や教会勢力の権威による理不尽さへの突破口だった、 と解説しています。彼にとっては神の意志である「調和」が経済の ビジョンであることは自明だった、と。”(2002年1月17日分)
今見ても良く分からないことを引用して書いていますが、意味は文字通りです。 つまり、「予定されていた調和」です。
ここで問題なのは主語が誰かということです。 誰によって予定されていたかというと、キリスト教でいう「神」なんです。
絶対的な「神」が決めたことは人がどうあがこうとも変えることはできない。 神に決められたとおりに物事は収斂していくということです。
これだけでは舌足らずなんですが、エキスだけを言うとそういうことなんです。
決められているんだったら、何にもしなくてもその通りになるんだったら、 別に何をしなくてもいじゃないかと思いますが、その決められたものが何なのか 予め分かっているのならそうですが、先のことなんか誰にも分からないんだから、 ひとつの目標に向かってそうなるように行動する、その行動が神の予定した ところに収斂していくというものです。自由市場とは神の見えざる手によって 正しいところで調和していくと考えるのです。ここに人間の意思と操作は 関与してはならないという考えから、政府の市場への関与は良くないと考える わけです。
決めたのは神であって人間ではない。でも正しいかどうかは問われない。 神が決めたことだから正しい。そして人間の価値観が介入する余地はない。
この思想に基づくのが、いわゆる古典派と言われる人たち。 これに異論を唱えたのがケインズであり、その流れを汲んだ人たち。
これを数学の言葉で言うと、以前(2003年7月27日分)申し上げました、
方程式=ケインズ派理論 恒等式=古典派(新古典派)理論
となるわけです。
教えてくれる人がいないと時間がかかって仕方がないんですが、たとえ1年半 経ったとしても、いいじゃないですか。字面だけで分かった振りをしていた 学生時代とはワケが違いますから。
さて、学術的にはどう書いたらいいんでしょうかねぇ。 え?ここで書く必要はないって? おっしゃる通りです。 今年は学生らしい勉強の仕方をしていないもんね。読書のしっぱなしです。(苦笑)
それにしても経済用語ひとつとっても幅がありますね。
はい。今日は曇りところにより一時雨。(東京地方)
今日は土曜日。連休もあとわずかになってきました。
休み前の計画では、盆休み中は打ちっぱなしの毎日のはずでした。 帰省もしないから、風邪が治ったら浸ってみようと思っていました。 なにせ9月には久しぶりのコンペがあるからね。練習すれば飛躍的に うまくなるわけではないけど、少しでも迷惑をかけないようにと思って。
なんで迷惑かけられないかっていうと、そのコンペには会社の会長とか 副社長とか出るんだよね。なにせ副社長が主催のコンペですが、彼が平取の 頃からやっているコンペ。前の職場にいた頃からの付き合いのコンペです。 (なんでヒラが参加できるかっていうと、まぁ色々ありまして・・・)
本来なら組織内での召集だから自分は呼ばれる対象ではないけど、声をかけて くれる人がいるから今でも参加しています。この声をかけてくれるってことが 大事で、会社のコンペであるかどうかは関係なし。参加する方も気を遣うし。
お付き合いゴルフっていうものほどイヤなものはありませんが、建前では お遊びだとみんな思っているし、参加者は幹事の特権で決められるから、 対象外だろうが関係ありません。
上司がいるからとか、この人にいい顔しておきたいとかいう気持ちのある人が ウヨウヨしているのであれば、このコンペには参加していません。好き嫌いで 言えば嫌いな人もたくさんいますが、そういうこと関係なしにやらせてくれる から参加する。(ちなみにこのコンペには自分の上司は参加しません。)
でも、いくら部外者だとはいえ同じ会社の社員だから、それなりの気遣いは 必要です。そんな気遣いも自分のプレーがむちゃくちゃだと気遣う余裕も なくなるから、そういう意味でも迷惑をかけないプレーをしなくてはなりません。
ま、練習していないとはいえ、むちゃくちゃに壊れてしまうことにはならない とは思うので、そんなに気にしているわけではありませんけどね。
背中が痛いので、練習をすると余計に痛めると思っているから練習を避けて いるんです。休みが明けた来週のどこかでヒマを見つけてお世話になっている 整形外科と整体に行ってみます。今週は盆休みだったからね。 (どうやらいろんなところが痛んでいる様子。オーバーホールが必要か?)
はい。今日は雨。(東京地方)
今日は終戦日。(記念日と付けるのは自分にとって馴染まないので外しました)
長崎や広島の代表される傷跡を残しながら、武力を放棄することで経済に邁進することが できました。(戦争コストを経済コストに配分したと言います。)生活を取り戻すことに 必至になる環境ができたのです。そのことができたのは日米安保と憲法9条のおかげです。
細かい点ではいろいろと論議がありますが、現在の日本の生活を守るならば、このふたつは 壊してはならない聖域だと思っています。日米安保を批判するならば、憲法9条を改正し、 明白に武力を保持することを宣言すべきですし、経済的な安定を犠牲にしてでも武力保持を 行なう覚悟をしなければなりません。こうして始めてアメリカから自由になるわけです。
自由とは自身に責任を持つことであるのは充分ご存知だと思いますが、国家という領域で 考えるならば、その国家を守るのは国です。そしてその国を動かしている政府です。この 政府に国家を守る責任を感じ、そしてそれができる自負があるならば、それはどういう形で 表せるのでしょうか?それは外交と武力としか言えないんじゃないでしょうか。 (これが極端になると北朝鮮になるんですけどね。いいとか悪いとかの問題じゃなく。)
もし国民の大きな声でそのひとつである武力を無くしてしまうことになれば、残るものは 外交ひとつになりますが、日本の外交が目を覆うばかりであることはご承知のとおりです。 となると、国民を守るものは何も無くなってしまいます。国民一人一人が普段から身を守る 方法と手段を覚えなければなりません。これは防災訓練にかかるコストと比べるまでもなく 莫大なコストがかかります。恐らく自衛隊を抱えるコストよりも高いんじゃないでしょうか。
日本が経済的に成り立っているのは、アメリカ抜きには考えられません。 いわば日米安保と憲法9条は両輪なのです。どちらがなくなっても成り立たない。
どちらも形骸化して実情にあっていないと批判されていますが、そうであるならば現在の 状況を変えずに違った形で国家を守る、経済を成立させるような対案(実現できる)でも あるのでしょうか。敗戦国だということを忘れてはなりません。過去の清算はできていない と思っています。アメリカに対してもアジア諸国に対してでも。
そういった国が独立して閉鎖的な国になるのなら別にして、他国との関係を持ちつつ繁栄を 願って生きていくのなら、平和な国家を続けていくのなら、かつては敵国であったアメリカ と共存をしていくことが日本にとって平和をもたらすことであり、そして生活向上を願う アジア諸国とアメリカとの仲介役に徹することがもっとも日本に求められていることでは ないのでしょうか。(要するにいまの状態を大きく変えることは望ましくない)
体制を批判するのは大いに結構で、それがあるからこそ均衡した状態が保たれます。 バランスしている状態が健全なのです。主流が大き過ぎて均衡が取れなくなると、それこそ 痛ましい過去の繰り返しになります。そういう意味でも55年体制が崩れた今は民主党や 自由党(自由党は民主党に合流しましたが)が自民党の対抗となるべきです。裏を返せば 社会党はもはや必要ないということですけどね。
そしてそれらの政党が将来の日本をどれだけ真剣に考えているのか。 有権者はそのあたりを考えるべきなんです。決して地元のことだけを国会議員に求めては ならないんです。国会議員には国会議員の役割を果たしてもらわなければなりません。
戦争は政治です。経済戦争も国をまたいだ政治戦争です。武力の行使も政治の結果です。 そして政治家を選ぶのは国民です。国民がアホだと政治家もアホな人が選ばれます。 間違った政策が作られるのも、そのアホな政治家がアホな政治家とグルになって官僚を 丸め込んで作り上げるのですから、結局はアホな政治家を選んだ国民の責任です。
ですから、まともな国を作るには国民自らがまともになる必要があるわけです。 いい加減な政治を行なっていることに対して批判はできますが、これを変えるためには やはりまともな議員を永田町に送り込むことが必要です。国民の1票の力によって実現が できることです。遠い存在の人たちも我々の1票の積み上げの上に成り立っているわけです。
戦争を抑止する力は政治の原動になっている国民一人一人の力によるんです。 決して他人に頼ろうとせず、自分には何ができるのかということを考えて、普段の行動、 つまり投票によって自分の思いを反映してくれる人を選ぶようにしていくことになります。
経済的な政策に加え、イラク戦争と北朝鮮問題で政治的な課題ができました。 この秋から来年にかけて政治的な動きが出てくるでしょうから、これをいい機会にして みんなで日本の将来ってものを考えてみませんか。みんなが自分の懐のことばかりを叫ぶと みんなが沈没して行くことになることを忘れてはなりません。蜘蛛の糸を思い出しましょう。
エゴの結果が長崎や広島の惨劇となって返ってきたことを忘れてはいけません。 長崎や広島の原爆投下日に加えて、終戦日に思うのはそういったことです。
今の日本は、何はともあれ平和です。
はい。今日は雨ときどき曇り。(東京地方)
逸話をちょっと。
ガウスが小学三年生の時、先生が問題を出しました。 1から100までを加えたらいくつになるかというもの。 先生はこれで30分はたっぷり休めるなと思いきや、ガウス少年が あっという間に答えを出したもんだからたまったもんじゃない。
彼はこれを等差級数の和の公式(Sn = 項数 * (初項 + 末項)/2 つまり端と端を順々に足していって最後に2で割るというやつ)を 使って解きました。
さて、答えはいくつになるでしょうか?(答えは最下部に)
かつて「伊東家の食卓」で紹介された”計算の達人に見える裏技”。
117から126までの10コの数を足すといくつになるか。 番組の紹介した裏技は、5つめの数を10倍して5を足すというもの。 確かにそうなりますが、5つめまでを書かなくては結果が出ません。 しかも解説はなく、ガウスの定理を使ったのだと言います。
これは、例えば1番目を(a-4)、5番目の数をaとすると、
(a-4)+(a-3)+(a-2)+(a-1)+a+(a+1)+(a+2)+(a+3)+(a+4)+(a+5) = a * 10 + 5
ですから、これで答えが出ます。4番目の121を10倍して5を足すの ですから、それで1215が導かれます。ガウスの定理などと言わずとも 普通に説明ができます。というか、これがガウスの定理なのでしょうか?
前述の逸話にもあるように、ガウスが小学生の頃にはすでにできあがって いた公式です。あるいはガウスが小学生の時に作り出したものではありま せん。ということは、これはガウスの定理ではないことになります。番組の 制作者は、前述の逸話を定理と勘違いしたのでしょう。
と思っていて、ネットでいろいろ調べていると、このことを指摘している 人がすでにいらっしゃいました。ガウスの定理にはこんなものないってね。 自分は文系なので詳しくありませんが、ガウスの業績は、ガウスの公式・ ガウス平面・ガウス分布といったところでしょうか。
そういえば、ノーベル物理学賞を受けた湯川博士も、小学三年生の頃に 等差級数の和を求める公式とそっくりの計算法を作り出したといいます。 時代的にはガウスの方が100年以上早いですけどね。
ただ、等差級数の和の公式は誰が作っていつから扱われているのかを 知りません。会社の同僚に聞いてみます。(知ってるかな?)
はい。今日は曇りのち雨。(東京地方
<答え>5050
2003年08月13日(水) |
見栄っ張りシンドローム |
風邪がなかなか治りません。 鼻はグスグス、セキが止まらない。 昨日ご一緒した人はノドが痛いといっていますから、もしかしたら うつしてしまったかもしれません。申し訳ないやら。
さて、今日は親父の田舎である佐賀県から鳥栖商業が出場しました。 そして強豪の愛工大名電に打ち勝ちました。地元は大変な騒ぎです。
親父の出身校は鳥栖高校ですが、今年は商業の方が強かった。 実はこの鳥栖商業は、松雪泰子の母校です。 松雪という苗字は鳥栖では特徴的な苗字です。(つまり多い)
お笑いの「はなわ」は、彼女は佐賀出身であることを公表していないと 歌詞の中で謳っていますが、彼女の公式HPではきちんと佐賀が出身地で あることを書いています。ちなみに牧瀬里穂は福岡出身と彼女の公式HP には書いていますが、高校に入る前は佐賀にいたようですから、あながち 「佐賀」の歌詞は間違っていないわけです。
かくいう本人は出身地は埼玉県春日部市。その後千葉へ移って、その後に 佐賀へ引越したといいますから、本当の意味での出身地は埼玉県。だから 佐賀県に次ぐ歌は埼玉県になっているようです。ちなみに佐賀西高校卒業。
ところで出身地の定義は何でしょうか? という疑問を持った人が投票で調査した結果があります。
(1)生まれた場所だから 33票 (2)育った場所だから 34票 (3)一番長く住んでたから 1票 (4)本籍地だから 0票 (5)親の出身地だから 1票 (6)そこの学校を出たから 1票 (7)住んでいるから 0票 総投票数 70票
調査の母数が少ないので信頼性の点ではいささか低いのですが、参考数値 としては無視できないと思います。要するに生まれた場所か育った場所か、 どちらだと思いますか、という質問に集約されます。
自分はどちらでも構わないと思います。何に思い入れがあるかという基準で 判断すればいい問題だと思うからです。どうしても上記の選択肢からひとつ 選べと言われれば、生まれた場所と言うでしょうね。自分の場合はたまたま 生まれも育ちも久留米ですから、出身地は久留米、あるいは福岡県という ことになります。両親の出身地や本籍となるといささか難しくなるし、現在 住んでいるところとなると、選挙にでも出ない限りただの現住所だし。
もしこれを「ルーツ」ということにすると話はもっとややこしくなります。 どこまで遡ればいいのかってことになりますからね。ほとんどの方が数代 遡れればいい方でしょう。例えば自分の家系はどこそこの武将だから、その 地域が出身だと言う方もいらっしゃいます。それでもいいんじゃないですか。 はっきりしているんであればね。(何だか腑に落ちない気はしますが)
出身地がどこであれいいじゃないですか。 仮にそれがその人のアイデンティティ−を表すものであれ何であれ。 もしそれが地方であるから恥ずかしいという思いがあるのならば捨てた方が いいと思います。どこに対して地方かと言えば東京に対してですが、所詮、 東京に住んでいる人の多くは三代前から東京に住んでいる人であるわけでは ないのですから、本当の江戸っ子からすれば新参者であり、よそ者なんです。
そしてかつては空っ風しか吹いていなかった地方が政治的に中央になった だけで、それまでは僻地もいいところだった。江戸っ子は京都や大阪人に 対抗したい気持ちが強いから、「東京人は見栄っ張り」と言われるのです。 しかも東京の周辺にいる人も東京人を語り、地方の人を田舎者呼ばわり したがるのですから手に負えません。あたかも自分は田舎者ではないかの ごとくのたまうのですから、勘違いもいいところです。きっと余裕がないの でしょうね。そういう人たちを自分は可哀想だと思うから無視します。
こういう意識は恐らく経済成長における東京への出稼ぎの悪影響だと思い ます。東京で働くこと、引いては東京に住むことがステイタスだと思って しまっている人が多いのも事実です。機能の中枢、情報の中枢と化している 東京に住んでいる、働いていることがステイタスだと思うからこそ、物価の 高い、特に土地や建物の価格が高くても我慢して住んでいるのでしょう。
自分はこの現象を「見栄っ張りシンドローム(症候群)」と呼んでいます。
はなわの「佐賀」が一時的にもヒットしたのは、今までは隠れていた佐賀の 人たちが自己主張をしたからだと思います。認知度が一番低い県であった 佐賀県人が表に出てくるきっかけになったと思います。そういう意味では はなわは佐賀県のPRに貢献したひとりとして表彰されてもいいかも。 (プロモでは県知事も出ていますけどね)
タラタラ書いてきましたが、とにかく鳥栖商業が勝ち進んで佐賀県の知名度 が上がることを期待しています。
はい。今日は曇り。(東京地方)
今日は六本木ヒルズへ行ってきたわけですが、何がどこにあるのやら さっぱり分からず、とりあえずフロアごとにウロウロするしかありま せんでした。2Fからくまなく散策しましたが、連立するショップを 眺めて終わりという、ただの素通りに近い行動しかできませんでした。
どこの店を眺めても、やはり女性をターゲットにしているところばか りです。お値段もリーズナブルな域を越えている、要するに富裕層を ターゲットにしているように思えました。ここでしか買えないといった 商品も見当たらず、店舗としてはいまひとつ。何回も来ようかなという 思いはしませんでした。
もし時間が余って散歩しに来るのなら、1Fのテレビ朝日前の広場で ボーっとしているのがいいかも。屋根はあるし椅子もテーブルもあるし 1時間ごとに噴水が上がるし、大きなモニターを眺めていてもいいし。
今日行った店で、"Bali Cafe PUTRI"というバリスタイルカフェがあり ますが、ここのエアコンが利いている店内の窓際席には注意です。 外気と店内の温度差が激しいからか、エアコンの噴出し口から露が 滴り落ちてきます。窓際席だけが注意です。ヒルサイドのB103と いう位置にありますが、フロアはB1です。もし窓際席に通されたら きっぱり断りましょう。窓際の1席だけだから、確率は低いですけど。 傘でもさそうかと思いましたよ。
感想は色々ありますが、とにかくどこに何があるのかが分かりにくい。 せめてそれだけでも解消してくれると、訪問客も安心して来れると 思うんですけどね。ショップとレストランしかないから、一人で来る には辛いかもね。特に男性諸氏。
建物に飽きたので周辺を回りましたが、六本木ヒルズのショップより 虎屋のカフェができていたことに驚きを覚えたり。まだ未完成である ベルサーチのとなりです。六本木ヒルズ裏のけやき通り沿いです。 行列のできる店だったので入りませんでした。羊羹屋がカフェとは。
少々期待を裏切られたので、お口直しに上野で一杯引っ掛けて帰り ました。え?帰る方向が違うって?それは聞かないお約束。(笑)
はい。今日は曇り。(東京地方)
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