しむちゃんのつれづれ日記
文字サイズは「中」が最適なようです。

2003年08月01日(金) ひとやすみ

ただ今少々情緒不安定、精神異常あるいは欲求不満。
こんな状態じゃ何を書くか分かりません。

そういうわけで今日はひとやすみ。

はい。今日は曇り。(東京地方)



2003年07月31日(木) いつも遅いわけじゃないんだよ

帰り際の会社のエレベーターの中で前の職場の女性に会い、「早いね」
と言われてちょっと返事にためらいました。6時40分あたりのこと。
こんな中途半端な時間じゃなくて、もっと早く帰りたいわと思ってね。

この女性は今となっては社内で唯一のお友だちと言ってもいい人。
いつも自分が遅くまで仕事をやっているのを知っていますから、この
時間は早いと言ってくれたのでしょう。恐らく次の言葉は「これから
何するの?」ということを言いたかったのでしょうが、いかんせん
エレベーターの中で他の人も乗っていましたから、会話は中断。

駅の方まで少々一緒に歩きましたが、話題は自分の帰省のこと。
前の職場の頃、彼女とその旦那が長崎に旅行に行った時に長崎市内と
その郊外を自分の車で案内してあげてから、自分は連休のたびに実家へ
車で帰る車好きと思われているようです。だから、今度の盆休みもまた
車で帰るのかなと思ったみたい。

でも今年は去年に引き続き帰省しません。
一人暮しを始めてから帰省をするだけの金銭的余裕がなくなりました。
まぁそんなことよりも、帰ってからの楽しみがなくなったし親父方の
オジサンが亡くなって飲む相手がいなくなったし。(両親は飲まない。)

とりたてて東京にいて何かやることがあるのかといえば何にもないん
ですが、時間があればできることがいくつかありますから、それらを
片付けることになるでしょうね。

そんなこんなでその女性とは駅への途中で別れました。
旦那があるところまでお迎えに来るからです。彼らは本当に仲がいいです。
なんでそんなに仲良くできるのか、今度旦那に聞いてみよう。

はい。今日は曇り。(東京地方)



2003年07月30日(水) 資本主義の精神

”資本主義の考えは、エトスの転換に始まった。”

なんだか難しげな言葉ですね。
「エトスって何?」といったところから疑問が沸きます。
エトスとは、いわば行動様式とか行動規範とでも言いましょうか。
エトスの転換とは、宗教改革のことを指しています。

世界史の教科書なんかではカトリックが腐敗して贖有状(しょくゆうじょう。
免罪符のこと)を盛んに売りまくった。これに憤激したルターなどの人々が
カトリックを批判したことがきっかけとなって宗教改革が起きたと述べられて
います。しかし史実上はそれほど簡単なものではなかったといいます。

経済を勉強しているとどうしてもぶち当たる壁が「キリスト教」です。
特に資本主義の思想を詳しくすると、その精神は宗教の合理化であったことに
行き着きます。宗教とはキリスト教のことを意味しています。

キリスト教の本質は信仰にあったにもかかわらず、中世カトリック教会では
サクラメント(秘蹟、聖礼典)という儀式(7つの儀式である洗礼、聖体、
堅信、婚姻、告解・悔悛、叙階・品級、終油)により仕切られていて、聖書を
読ませることを禁じていたといいますから、まったくもって驚きです。聖書を
読ませなかった理由は、聖書の記述とかけ離れたことを教義としていることを
悟られないためだと言われています。

イエスを信じてさえいれば救われるという合理性を排除して、儀礼により救わ
れると教えているのですから、これを腐敗と言っているわけです。マクス・
ウェーバー曰く、既にキリスト教でなくなっていたカトリックを倒してキリスト
教の本来の姿に回帰させたのが宗教改革だといいます。本来のキリスト教への
復帰すなわち宗教の合理化を行なったプロテスタントの倫理こそが資本主義の
精神を作ったのだといいます。

※誤解して欲しくないのは、カトリックが悪くてプロテスタントが良いという
 ことを申し上げているのではなくて、資本主義精神の起源を申し上げている
 までです。それ以上のことを言うつもりはありません。

今日の記述ではこれぐらいに留めておきますが、前述に加えて「予定説」という
言葉がキーワードになるようです。この予定説が非常に大事な意味を持っている
のですが、これにつきましては別の機会で述べてみようと思います。

はい。今日は雨のち曇り。(東京地方)



2003年07月29日(火) ボーっと

最近、少々フヌケ気味。

未完成のメールを送ってしまったり、同じファイルを添付してしまったり。
それを見た上司から即座に注意されまして、発信前に指差し呼称を約束
させられました。未完成メールは送った後に自分で気がつきましたが、
ファイルをダブらせたのは隣の同僚に指摘されるまで気がつかなかった。

単純なミスだからと甘く見ていると、次にはどんな大きなミスが待って
いるかもしれません。作業現場では小さなミスがヒヤリ・ハットを起こ
してしまい、ややもすると災害を引き起こすこともあります。日頃から
気をつけていれば起きないことも、大したことはないと思いこんでしまい
見過ごした時に大きな事故になることもあります。

メールの場合だと、送ってしまえば取り消すことができません。
クリティカルで重要な内容であれば、あれはなかったことにして下さい
なんて言い訳ができないこともあります。それが理由で不利益を被ることも
ありえます。特に対外的な文書の場合はね。

日曜日の睡眠不足が祟ったのでしょうか気の緩みでしょうか。
そういうわけで、明日からは気を引き締めて。

はい。今日は曇りところにより一時雨。(東京地方)



2003年07月28日(月) 刺激は必要ね

さすがに3時間睡眠の翌日はつらい。しかも月曜日。
今日はうたた寝しているヒマすらありませんでしたから、つらいとは
言っていられませんでしたけどね。午後から利害の対立する人たちとの
打ち合わせがありましたから。

そんな中、激励メールをもらって正直うれしかった。
自分では気付いていないポッカリ空いた穴を埋めてくれたようです。
ややもすればもろくも崩れてしまいそうな気持ちに喝が入りました。

とはいえ、そういったことばかりに頼るわけにはいきませんから、自分で
自分を鼓舞しながらひとつひとつ進んで行くしかありません。例えそこに
障害があろうとも、それを乗り越えて行く強い心を持ってることが必要。

だからこそ毎日をただ呆然と過ごしていてはいけないわけで、何らかの
刺激を自身に与えておいた方がいいわけです。何でもいいんです。身体に
でもいいし脳でもいいし手足でもいいし指先でもいいし。体を刺激する
ことは結局脳に繋がることになりますから、全ては脳を刺激することに
なるでしょうから、もしかすると興奮するようなことかもしれないし、
快楽を覚えることかもしれないし、怒りを覚えることかもしれない。ある
いは思考を深めることかもしれない。どちらも必要なのかもしれない。

さて通常国会も終わり、これから政治の世界では変化の臭いがしてきました。
9月には大きな流れが出てきそうです。しばらくは目が離せません。

はい。今日は曇り。(東京地方)



2003年07月27日(日) 方程式と恒等式

”ケインズ理論のエッセンスである有効需要の原理は方程式で表され、
古典派理論のエッセンスであるセイの法則は恒等式で表される。”

方程式と恒等式は中学校で習ったと思います。
が、その本質を言葉で言い表すと、

<方程式>解を求める
<恒等式>証明する

X−1=0であればX=1という解が得られます。これは方程式。
X2−5X+6=(X−2)(X−3)。これは恒等式。

方程式では解がひとつですが、恒等式は全ての数値が成り立ちます。
恒等式においては、その解を求めることは無意味なので、左辺と右辺が
成り立つことを証明するのが目的です。

”自由市場はすべてよし”というのが古典派のドグマ(教義)であり、
対偶という手法で考えれば、すべてよしと言えないのは自由市場ではない
からだ、となります。だからそこで障害となるもの、例えば規制が障害で
あるならば、その規制を撤廃せよ、となるのです。

細かいことはたくさんありますが、自分もまだまだ消化していないので
このくらいにしておきましょう。

このことは難解と言われる理論経済学を理解するために一助になるとの
ことですので、とりあえずは前述のことを記憶に残しておきましょう。

とかなんとか言っておいて、経済原論のテキストすら読みこなしていない
現状を放っておいて何やっているんでしょうかねぇ。(苦笑)

はい。今日は曇り。(東京地方)



2003年07月26日(土) 花火大会は7月だったっけ。

今日は朝寝して昼寝してブラブラしてシャワー浴びたらスッキリしました。
何せ帰ってきてすぐは疲れで頭がボーっとしていましたから、とにかく
寝たかったし、日記を書くので精一杯。書いた後はバタンキュー。(死語)

やー、自分の持ち時間1時間半を歌った後は声がガラガラ。でもその間は
声が出ていたわけですからしばらくのブランクもなんのその。声は出た
ものの、歌える歌が少なかったというのは新たな発見というか・・・。
後輩からは「しむちゃん(仮称)ナツメロ多いっすね。」と言われました。
70年代の歌をチョイスしているようじゃ言われても仕方がありません。

小さい頃の記憶って、年を取っても覚えているもんです。大きくなってから
覚えたことって結構忘れています。自然に覚えたことと覚えなきゃと思い
覚えたことの違いでしょうか。詰め込んだことは忘れやすいんですね。

そういや今日は隅田川の花火大会。自分の部屋はそこから何十キロも離れて
いますが、窓からかすかに音が聞こえてきます。曇っていますから雲に
映し出される光も見ることができます。晴れていたら見られない光景です。

注)確認しましたら、見えたのは朝霞で行なわれた荒川の花火大会のもの。
  どちらも同じ日に行なわれましたが、方向違いでした。すみません。

いまだかつて見に行ったことはありませんが、一度は目にしてみたい夏の
光景ですね。東京近辺は7月がお盆ですから、旧盆を休みと考えている者
にとってはなんだか違和感がありますが、これも習慣ですからそうだなと
思うしかありません。こんなところに地域文化の違いを感じます。

さて、軽く晩メシを食べて、本でも読んでまた寝るとしよう。
明日からまたいつもの一週間が始まります。

はい。今日は曇り。(東京地方)



2003年07月25日(金) ひさしぶりー

何ヶ月ぶりなのか何年ぶりなのか忘れてしまいましたが、今日は
(もうすでに昨日になってしまいましたが)久しぶりの合コンと
いうやつに呼ばれて池袋へ向かいました。人数が足りないから、
もし予定が空いているなら来て下さいっていうんでね。会社の
後輩から。集合が池袋で、帰りも都合が良かったし。4対4。

まぁ結果としてはどうこうなったわけではありませんが、2次会
まで行って、その後、女性陣を帰して、男一人は先に帰ると言う
ので、男三人で3次会に。西口をウロウロしていましたが、後輩の
知っている飲み屋がどうやら閉まっていたので、自分が知る定食屋
兼飲み屋で一杯飲んで、サウナにでも泊まろうということにして
いましたが、一番年長者がカラオケ行こうと言い出したのでサウナ
は止めてカラオケで朝を向かえることにしました。

もうその頃は1〜2時頃。その時間帯の池袋って、結構いろんな
誘惑が目の前に潜んでいます。というか、結構な人がまだ徘徊して
おり、キャバクラやヘルスの呼び込みがたくさんおります。大概
このような呼び込みは危険です。経験上そうだし、聞いた限りでも、
店を離れた路上で呼び込みをしているところは危険だそうです。
最初から行くつもりで店を決めてから行くならいいのですが、酒を
飲んだ勢いで行くのは失敗する確率が高いようです。なので無視。

そういうわけで、朝までコースのカラオケにして店に入りました。
男三人の徹夜カラオケは辛いモノがありますが、歌い始めてみれば
どうでもよくなってしまって閉店の5時まで3時間歌いまくり。
年長者の人は1曲も歌うことなく寝てしまったので(自分から行こう
と言ったくせにー)、後輩と二人で交互に歌いつづけることに。
そういや成田有里恵さんの名前がなかったなぁ。残念です。

しばらく経つとさすがに疲れてきましたが後輩は止めようとしない
ので、自分も止めるわけにはいかず、結局閉店まで二人で歌い続け。
勘定を支払って外に出るとすっかり明けていて、すがすがしい朝。
後輩は帰り際に彼の母校である立教に立ち寄る(とはいえ門は閉じて
います)というのでそれに付き合い、その後、ダラダラと帰宅する
ことになりました。土曜日にもかかわらず、5時台の上り電車は
客が多いですね。

あー、目にクマができている。飲み続けたので舌もおかしい。
ちょっと今日はゆっくりしますわ。身体がおかしくなりそうなんで。
それでは。

はい。今日は曇りのちときどき雨。(東京地方)



2003年07月24日(木) ようやく打ち合わせに出向

今日は引継ぎの意味もありまして、3月までウチの会社が進めていて、
契約終了のために一時中断していた装置改造案件を再開するため、客先
のある小千谷(新潟)へ行って来ました。

今回の案件を担当する客先は、装置の担当とシステムの担当がついて
進めることになっています。そして装置の担当であるラインの班長は
装置の導入時から長い付合いで、クールで理性的、しかも相手の立場を
考えながら利己的な主張をしない人です。利己的という意味は、自己の
主張を目的化して、会社の利益とするためにメーカを含めて何をすべき
かというところを考えないことです。個人の都合を優先し、結果として
会社の利益にならないことをいいます。

とはいえ、やはりダメなことはダメとはっきり言ってくれるからこそ
こちらも対応できるんです。どちらだかはっきりしない態度だと、こ
ちらもどう対応していいか分からない時があります。こちらの都合を
ゴリゴリ押し付ける欧米のメーカとは体質(文化)が違いますから、
はっきり言われると萎縮してしまう場面もありますが、そこは冷静に
対処しさえすればいいことで、火花を散らせるまでもありません。

今回の客先は、そのような火花を散らせる相手ではなく、珍しいぐらい
協力的な対応をしてくれています。というのも、彼らの考えは、結果が
納期通り、金額通りに全うしさえすれば、自分たちでやれることはやる
姿勢を見せてくれることです。全てをメーカ側に押し付ける人とは相当
姿勢が違います。こちらのやる気を起こさせるやり方です。

こういう担当者が相手だとこちらも真摯な気持ちで仕事を全うしようと
いう気になります。そういう思いが自分にもありますから、引継ぎ先
にもそのつもりで作業を進めるように仕向けています。幸い、今回の
引継ぎ先の対応者はそのあたりを打ち合わせで汲んでくれたようで、
恐らく心配なくやってくれると思います。(同じ気持ちに客先の担当者
も思ってくれていればしめたもの)

そういったわけで今日は気分良く帰って来ました。

はい。今日は曇り。(上越地方)



2003年07月23日(水) (近い)歴史上の人物

NHKの番組「その時歴史は動いた」。今日の主人公は吉田茂でした。
あらためて吉田茂の言葉を思い起こしました。それらを番組のHPから引用させて
もらいます。

首相を引き受けた時の吉田の言葉
「戦争に負けて外交に勝った歴史がある」。
吉田が友人である武見太郎氏に語った言葉として有名。

吉田首相が、新憲法成立を急ぐ理由として答えた内容は?
「日本としてはなるべく早く主権を回復して進駐軍に引き上げて貰いたい。
そのためには、連合国に対し再軍備の放棄、徹底的民主化の完成という安心感を
与える必要がある。それらが根本法としての憲法の上で確立していることが望ま
しい。」(吉田茂著「回想十年」より引用)

吉田茂晩年の言葉
「外交は小手先の芸でもなければ権謀術数でもない。大局に着眼して、人類の平和、
自由、繁栄に貢献するとの覚悟をもって主張すべきは主張し、妥協すべきは妥協
する。これが真の意味での外交である。」(吉田茂著「回想十年」より抜粋)

そしてマッカーサーの回想
「有能な吉田茂氏を総理として日本国民は自ら努力し廃墟の中から立ち上がり、
西欧の思想と理想に日本自身の由緒のある文化を溶け合わせた。日本はその結合
から生まれた社会的権利の思想に、しっかりと根を下ろした生き生きとした国に
生まれ変わったのである。」(マッカーサー著「マッカーサー回想記」より抜粋)

ジョン・ダワ―著「敗北を抱きしめて」(中公文庫日本語訳版)より彼の生い立ちと
外交官としての生き方を引用してみます。

生い立ち
 吉田茂の父親は土佐藩志士竹内綱と新橋芸者坂本喜代の私生児だったが、生後
 間もなく富豪吉田健三の養子となる。吉田健三は明治維新の新興成り金多角経営
 で実績をあげたが、早世。養母士子は吉田一斎の孫。漢学熟、学習院、一橋大学
 前身商業学校等を経て東大法学部政治学科卒業、外交官となる。牧野伸顕の娘と
 結婚、岳父牧野を通じて皇室主義者とる。牧野は薩摩大久保利通の息子。吉田の
 現実主義は大久保の思想にも通ずるものがある。吉田茂にとって皇室とは国家の
 本質。

外交官
 一貫貫して中国に拠点をおく英米派外交官。その考えは、英米帝国主義と日本帝国
 主義の協同歩調を大切にし、あくまでソ連・中国等の共産主義勢力こそ日本帝国
 主義の敵であるという考え方は、第2次世界大戦前の氏の外交官生活の思想の根底
 にあった。1945年1月吉田茂は近衛を動かして、天皇に戦争終決の上奏文を
 提出し、陸軍憲兵隊に逮捕され45日間の拘留、この出来事が戦後吉田茂をして
 反戦外交官という国民的英雄イメージを高めた背景出来事がある。

”上奏文は、日本の敗戦を憂え、天皇に早急な和平工作を上奏しているが、その論理は、
まず最大の重要事項は日本国体の維持であり、本件に関しては、すでにこの時点で、
吉田茂はアメリカは日本の国体維持に必ず同意すると読んでいる。しかし吉田等が
一番心配したのは、敗戦後の日本の共産化であり、しかもこのまま戦争を続けると、
国内至るところで国民の不満は共産化という結果で噴出してしまうから早急な和平が
急がれるという進言であった。そこには戦争の被害で苦しむ国民の心情等は何の考慮
の対象にもなっていない。

しかし、この近衛上奏文に前後して、陸軍梅津上奏文はアメリカは日本を徹底的に
破壊し尽くそうとしているから、アメリカとの講和は不可能と上奏され、天皇はこの
梅津上奏文に沿って、和平はソ連を通じて行なおうという方針を出す。こうした経過
から、当時の陸軍の情報のアメリカ外交を読み解く読みの誤りと吉田茂のアメリカを
見る目の確かさとが際立った歴史的対照をなしているのは興味深い。”

というコメントを西川さんという方が氏のHPでお書きになっています。
鋭い考察に見入ってしまいました。たまたま検索していたら見付けたんですけどね。

歴史の詳細というのは教科書では教えてくれません。著者の思想が入ります。
教科書はある意味偏った見方を押し付けていますから、必ずしも歴史に忠実かと
いうとそうでもない場合があります。前述で紹介したような著書や、テレビでの
放送を見て、それを自分なりに解釈するしかありません。

ただ、今の日本を生きていられるのは、このような歴史上の人物がいたからこそ
だと思います。大きな変動の時期に、このような英断をしたこと自体が素晴らしい。

でも吉田茂は昭和42年まで生きていたわけですから、自分の生まれを考えると、
思ったほど昔の人物ではありません。自分が生まれた時には存命だったわけですから。
つまり経済成長真っ只中に日本を見取ったわけで、幸せな最後だったかもしれない。

結果的には日本をいい方向へと導いた人物の最有力者である吉田茂。
頭の片隅にでも残しておいた方が良さそうですね。

はい。今日は曇りときどき雨。(東京地方)


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