昨日の満月の明るさに照らされながら、母のアパートから家路へと自転車を走らせる。雨が上がってからの割と暖かな気温の一日だった。久しぶりに顔を見せるというか、母の存在を感じておかなければと、辛うじて仕事帰りの時間を作る。休みの日に出かけていくことがおっくうだ。狭い部屋でどうしようもないだけだから。 花を買って仏壇のことを意識することがとりあえずの用事。いつもの巻きすしも買う。 弟のことは何も進展がないし、正月には帰らないというからには、帰ってきて欲しくない気分だ。心配しかさせる気はないんだろうか。 冷たいなと思うのは間違いか。何も与えられない自分のことをもう棚上げしてしまうのか・・。 甘いというか、気分屋というか、いい加減というか、私の癖はここにも顔を出してくるわけね。
3年前のことを思い出すと、毎日悩んでいたことがもう、少しぼやけて見える。 YouTube から穏やかな音楽を聴いているせいもあるのか、感動する心は感謝する心と同じようなものだなと感じながら、胸が切なくなって、少し涙が滲んでくるくらい。有り難くて、それは何に対してなのかはっきりしないようでもあるけれど、胸の奥から湧き上がってくるこの気持ちをここに書き留めておこうかと思う。 この気持ちがいつも 生きていく中での救いだったのだと気がつく。どんなに苦しいみじめさを味わおうともこの気持ちが心に訪れてきてくれたこと。これが全てなのかもしれない。 健康という恩寵を授けてくれて、体を自由に使わせてくれること。 感謝せずにいられようかと思う。
最近のこの食欲は何だろう。消化もいいので、食べすぎたという弊害を感じたりもしないし、空腹感と満腹感もそれほどないままに、入るだけ食べようとする。そして腸はすっきしている。 左手が力が入るようになってきた。手首と指の関節に失くしていた滑液が戻ってきたかのようだ。体の不思議が働いているかのようだ。 思えば4年前くらいがピークの間接の激痛だった。それまでも長い期間に、両手首、両肩関節と苦痛を抱えていた。慣れっこの毎日にもまだ、若さでどうにか乗り切ってきた。 やっぱりさすがに50才の声を聞く頃には仕事も支障がでるくらいに悪化するし、耐え切れないしで本気で病院へいった。 最初に選んだ病院では、頼りなくて大きなところへ変えたのが正解のようで、優しい女医さんに当たって、救われたと思う。優しい応対と勇気付ける言葉は薬とともに、体の激痛をウソのように止めてくれた。 あれから3年が過ぎだけれど、もうあの頃のような痛みが舞い戻ってくることはないままだ。 病気に伴うようにして、意識の変化と環境の変化もついてきた。家族の歴史の変化もだ。 それは劇的なものであることも同じく。
それほどの寒さにはまだ遠い感じの毎日で、季節らしい感傷もやってはこない。年取ったせいもあるのか、人恋しいメランコリーは感じる気力すらないといったほうがいいのかもしれない。仕事を変わってからは、嫌というほどに毎日が人との関わりで過ごすから、寂しいといっていられない気もする。有難すぎる事だなあ。 弟との関わりは進展しないものの、後退はさせないつもりなので、会いに行くまでのあの胸のつかえた苦しさからも開放されたという、私の歴史の中での新しいページなわけだ。 胸の奥のもどかしさや、やるせなさによって傷ついている時間はなくなった。 このことをまた弟へ伝えたい思いがしてきた。 いつかまとまってメールか手紙かドキュメントファイルかを作って送りたいと思いながらも、まだ集中できないで時間が過ぎる。 ただの日常の次元だけでは力がでないのだと、少し気がつく。新たに出会ったスピ系のサイトを読みながら今そう感じている。
今で言えば、たわいないけど、あの義信さんという患者さんがはっとするほどに父の面影にそっくりだから。今月になって転棟してきた80のおじいさま。名前を見るとどきっとするし。 意味ある偶然が現れたと感じるべきか。この今の私が悩んでいることをなぜかなぞるようにして起きる出来事。
プサン旅に始まった今月は あれよという間に半ばへと向かう。有り難いなとここでも思う。 来月のことはノストラダムス的に何事も起きずに生活時間は流れていくのだろうきっと。 きのうの夢・・水が、というか洪水を眺める怖い思いをした夢だったのを覚えている・・。 何を恐れているんだろう。本当の自分の姿がやっと分かりかけてきた事なのではないかな、もしかしたら。 無反省に自我を振りかざしていい気になって生きてきた事。だから、人との関係を一切築けなかったという、とんでもないことにやっと目が開かれて来たこと。周りの人たちが必死になって、教えようといつもしてきてくれたのに、逃げてばかり。今も同じことの繰り返し。一体いつまで、子供の気でいたいのか。 反省がないことを自分言動が示していることもにも少し怯えているかもしれない。
顔の輪郭と耳の形があまりによく似ていることに気がついたのは、その患者さんが散髪していたからだった。 今月に入ってから2階の病棟から移ってきた人。 息子さんと喧嘩して出て行けといわれて、追い出された形で認知症もあり、入院となったという人らしいけれど、話し方も柔和で若々しい、80歳のおじいさん。ジーパンはいたり、若い格好しているし、おじいさんというにはまだ若く見えるのに、そんな年齢とは驚く。 年も似ていれば、顔かたちも斜めから見るとはっとしてしまうくらいに父に似ていた。それだけでもなんて偶然だろうと思えるのに、名前を改めて見てみると、どうしてこんなことが・・。朝義と信子の一文字ずつがあるのだ。義信さんだった。 今月は父の誕生月でもある。 どこまで、不思議がおきたら気が澄むんだよ。
2012年11月09日(金) |
岩国のおじいさまにお別れ |
前回の日記を書いた日の夜に義理姉の父は逝去された。その日は夜勤だったので、連絡は翌朝、コーヒーを飲みに立ち寄ったスーパーの中のカフェ。 急いで母の元へ行き、打ち合わせする。次の日はちょうど休みになっていて、一緒に葬儀へ出る事になる。 朝早くから列車に乗り込み新幹線へまた乗る。まるで、涙雨のようにして、停車中の窓ガラスには行く筋も雨が流れ落ちていた。気持ちに沿うような天気なのは、見舞いに行った時もそうだった。 出棺の時だけには、土砂降りになった。 残されたお母さん。腰を悪くしていて、葬儀へでるのを嫌がり、家に一人残っているので、兄たち夫婦と、母との4人でそっちへ立ち寄って、話相手をする。 ずっと一緒に生きてきた人が、逝ってしまうには時間が早すぎただろう。まだまだ気丈なお父さんだったから。悪いと聞かされてから、2ヶ月も満たないうちの出来事だ。 山の峡谷を身近に眺める景色の自然に囲まれた土地で暮らしていきた義理姉の両親。 そんな中で、あの毅然とした気品のあるお父さんがとそれは仲良く暮らしておられたのだ。 まだ亡くなられたから、25日しか、経っていない。 思い出しては、悲しい気持ちになったりして、やるせないものがある。それに平行して、弟のことが、急に気持ちが引けている。 どうにかすると言った私の言葉は何だったんだろう。 どうしたかったんだろう。少し忘れている。
旅に出て少しゆっくり、じっくり考えるはずだった。ところが、全然、目の前のどこへ行くか、何をたべるか、それだけで精一杯だったではないか。 逃げているのではないかと思わないでもなかった。実際そうだったという気がしている。帰ってきてから、夢見の悪さもとれた。 旅先でも一日目に妙にリアルで気味の悪い夢をみていた記憶がまだ残る。
韓国旅は自然の食べ物への食欲を思い出させてくれた。野菜で料理する意欲が出た。 まじめに食材を買い込む事からちゃんと始めた。
すごく空腹感を覚えるようになったのは、キムチとかの香辛料効果なのかな。どうも韓国料理効果のような気もしてきた。
昨日の夜はまた左の脇腹の痛さに閉口した。ネットで見てみても実際には何もならないことだけがわかる。自分の体のことは自分しかわからない。
早めに診てもらうというめずらしい選択をした私。 胃の撮影とまた高い血液検査、そして一週間分だという薬 これで7千円は安心料で消えた。腫瘍らしいものは認められないという事をしるための出費と思えば、高くもないだろう。
夜勤なしで一週間過ごしたからか、頭の奥の眠気が一掃された感じがしているのは。 この状態を欲しくて夜勤を嫌がっているのかな、他の人たちは。
湯布院まで貧乏な乗り方のバスでたどり着いて、念願の秋晴れの青空は独り占めしてくることが出来た。あの気持ちよさに惹かれて、2時間の滞在ではとても物足りないものだった。 黒川温泉のときはどんよりの天気だったからあきらめもつく。 熱いお湯はほんとに気持ちがいいものだ。風が少し吹いて冷たさもあったけど、陽射しは熱いくらいの揺れる気温だった。 秋の変化の心の揺れを誘うようだ。 熟れたあとに枯れていく自然の巡りの時を止められない悲しさを本能的に感じてしまうのだろうか。 まさに愛すべき人がその生を全うしようとする最中の時期に関わっている今だった。
あと一週間くらいだろうなんて、それはあまりに急なことだと思えた。義理姉の心の中の寂しさを思い計る術を持たない私がいる。 父親への深い思慕や尊敬を知らない自分だとは決して言わないけど、現実の日常生活では経験していないことは確かなことで、そのズレを感じる自分のこと。
一昨日の夜中の金縛りは久しぶりだっただけに、恐怖感に負けそうだった。あまり怖がらなくなったはずだったのに。どうしたことかと思った。義理姉のお父さんのことで心が弱くなっていたことも関係あるのかもしれない。
霊が怖かった。声にならないかすれた喉で必死に叫んだのはおかあさんという言葉。子供帰りでもしてきたんだろうか、私。 母に甘える気持ちを素直に感じられるようになったのは、この50才を超えて初めてだろう。弟と母のことを考えたり、思いやって行動したりすることで、変化した何かはとても大きい。初めからそんなつもりではなかった。ほんの2年前までは、全く意識に上らないことだった。 突然にして、悟った瞬間はあの公園を自転車で横切っていた何気ない一瞬のこと。 突然にして気がついては、胸がこみ上げてきた思い。 不思議な経験をした。
奇異が怖いのはなぜだろうと思う。何かから切り離される孤独な思いだろうか。人を信じ始めた私が 人を信じなかった頃より、弱くなるなんておかしい。
2012年10月11日(木) |
最後まで複雑なのかもしれない |
昨日の胃の激痛も治まってくれた。野菜なしの詰め込み食事のせいのように思えている。病的なものは感じていない。秋になったら、やっぱり食欲がおおせいになるというか、胃を膨らませる事の満足感を体が要求する。
今日はまた北野へ行かなきゃ。写真に収めておこうと思う。撮影禁止でもんかったらしい! 遊びに熱心なだけではいけない。いつまでたったら、うまくいくんだろう。もうこのままダメな人材のままでしかいられない気もする。判断力、記憶力、推理力全く欠けているのは不慣れな言い訳にはならないと、自分でも自覚してきた。どうしてこんなに鈍くて馬鹿で横着で、そしてそれでもそんな自分を反省もせず許して生きてきたから。しっぺ返しがきたことに51歳をあと一日残す時になって、ようやく気がついた。
このままではダメだと何回も言われている。ここには長くいる資格ないかもしれないと覚悟をしなさいという忠告でもあるのだろうと思える、きっと。 この先どうなることやら。 しっかりして頑張れるか否か。もう一度考えて行動するときだ。
今年あと二つの月を残すのみ。 もっと緊張感があってもいいはずだけど、この辺がもう若くないのを感じる。 これまで必死で自分を盛り上げようとエネルギー費やしてきた。それも根本の方向性と本当の意味での努力ではなく自分に甘いばかり、自分のことばかりできたこと。部屋を見ればわかったはず。いいかげんななおざりな、無節操な・・。アルコールでいい気になるばかりで、何を一体やってきたのか・・。 これからもっと分かっていかなければならない出来事が起きるのだろう。 現実の厳しさを受け入れよう。
弟は 癌だと言われたのではないだろうか。 検査のことを何も言えないとわざわざ書いてくる。それで察してくれということなんだろう。 大丈夫だとウソもつく気になれないことに感謝する。 何日も返信するのを悩んだということは、そういうことかもしれない。
急に小学生の時の話まで書いてきた。生まれたときの体重を母から聞きたいという。記入しなければいかなかった時、わからなくて書いていなかったら先生に叱られて、傷ついたことが今でもたまらなく悔しいという。 やっと話をし始めてくれたというのに、だから一日も早く、一日でも多く、母と交流させたかったのに。東京へ本気でいくつもりでチケットまで予約したのに。 忙しいからと兄が簡単に止めてしまった。 ふつうの関係ではないのに、普通の体ではないのに、 だからこそ急いだのに。 どうしたらいいんだろう。 私がもっと賢かったら、もっと地位も名誉も力もある仕事についていて、融通がきけば、もう一度飛んでいくことを考えられるのに・・。
私の人生には鈍さしかない。 不平を言っているわけではなく、自分でそれを招いた事にあまりにも遅く気がついたと言いたい。
弟がメールもしてこないからと、返信がないのを誤解していた。それが解消されたことでのうれしさに今は病気の心配も忘れていたい身勝手を許して欲しい。 もう私のおせっかいは許されないのかなと悲しく感じたりしていた。父へのメールを読ませたりしたので、きっと不快で怒ったかなと思っていた。 でもそうでもなさそうで、またこれまでのようにして、心を砕いていくことができるんだと思う事にする。
2012年10月07日(日) |
もっと書いておかないとダメだ |
今朝になると、良いお天気か・・。これでバス旅ならよかったけど。きのうはいちにち白に近いグレーの空しか見えなかった。 わずかな時間の黒川温泉でもなんとも心地の良い空間であることが分かった。多分二箇所あるうち、ずいぶん前に行った時が別のほうだったようだ。初めてここへ来たときに泊まった旅館があって、懐かしく思い出した。中州時代になみこさんの誘いで大分でのゴルフパックでセットになってこの温泉がついていた。 高校生時代に友人と何気に交流するような事のない私で、仕事についてからも心がとても歪で、初恋の好きな人のことのみしか頭にないような狭すぎた思考の悪影響とか、父のいない家庭であることの負い目をさらせない自分とか、父と分かれた9才からの10年間の家庭環境が特殊だったことなど、人にオープンに出来ない心の泥でいつも同姓の傍にいるととても疲れる自分だった。いまだにどこか ひきずることも感じている。 そんな私を見ていつも人が離れていったり、疑ったりして関係を築くことが出来ないのだ。 実際、どこか行動にはずれたところがある。もともとの性分だったことに後押しするようなものがくっついているのだから。 自分のコントロールがどれだけ、きちんと出来ているのか、いまだに人から試されてしまうような段階。自分でもひやっとするような、おかしな行動が多いきがする。
師長には、またこの間も注意されたばかり。何度も同じ内容だ。いい加減このままでは本当にダメかもしれないという現実。 でもこんな時、今ならリーマンさんの言葉を良くかみ締める良い機会にしなければ絶対にいけないね。
左手が回復しているのが感じられて心強くなる。指だけの問題でなくて、腕全体、それから体、脳まで含めた全体の問題である事も実感できる気がする。 体に老化の兆しが顕著な年頃になって否応なしに小さなことが意識されてくることと、重なっている。 口元の皴、たるみなんとかならないかな。どんどん下へ伸びていく。嫌だなー。
昨日はちゃんとミシンを使ってのズボンの裾上げを完了。小さな充実感がご褒美。こんな小さな積み重ねで生活をきちんともっと出来ないものかな・・。
前回の岩国市までのお見舞い旅行は思い出の出来事として、ずっと心に残っていきそうだ。休日に予定を作って、出かける事の心身の活性化も経験した気がする。そんなことよりも、切ない思いのお見舞いではあるのだが・・。
そうだ今日は邦子義理姉が病院へ向かう日だな。
この10月のいい気候を逃すわけには行かないと思い、今日はまた格安バスの会員を利用しての日帰り温泉へ熊本の黒川温泉まで行こうと思っている。
2012年09月26日(水) |
ドラマの断片の中から見えたもの |
秋の陽射しが眩しい、そして空気が軽い。朝めずらしく遅くまで眠っていた。昨日は救命講習で心臓マッサージの練習で夜の8時まで肌寒の部屋にいたせいか、頭が重くて鼻づまりだ。 出かけようという気力はわいてこない。こんな頭痛も懐かしく感じる。以前ならなじみのものだった。季節の変わり目、人ごみ、空調の寒さ、夜更かし 酒 不摂生。 こんな時期になるとストレスも引き金になって、風邪具合の悪さは身近な存在だったなと思い出した。好きなこと楽しんで、自分のことだけ考えていただけだったなあ。 誰かのためとか 何かのためとかに心を砕く事などなかった。一体何をしていたんだろうね。 そんなことも いろんなことも全てがこの生きてる一度の人生の中でのこと。何一つ後悔をしても始まらない。
父からはメールの返事がこない。書きようが無いのだろう。後ろめたさをくすぐる語調にして書いているから、どう言い訳するつもりか。逃げるだけなんだろうな。これでもう本当に父との縁も切ってもいい、そんな気になってくる。 あの日からちょうど2年が過ぎたわけか。 夢のような気がする。 あの時はただ、兄と父を合わせるための口実に孫の顔を見せたいという義理姉の気持ちから、動いた事。
元気なのか、どうしているのか全く知りもしなかった。絶縁の形で何年が経過していたというんだろう。最後に顔を見たのは、悲しい偶然、気味悪いほどの偶然で墓参りの寺のある街の駅の前で 私を待つ友人の前に突然 車で現れて、道を尋ねている姿に遭遇するなんて・・。それから4,5年経過していた。あのときはそのあまりの偶然の不気味さに軽いノイローゼを経験した。
接触して話をしたのは 電話での会話。20年近く前のこと。それでも短いほんのわずかな言葉だけ。 確かに、後で電話をかけてきたのも覚えてはいる。震える声でさきこさんももう一人のお母さんだから、3人で食事でもしようと、意を決しての思いやりの電話だったことは分かるけれど、その理屈には人間の弱さと身勝手さとが入り混じって、私が耐え切れるものではなかった。
そのまま、いつしか風化してもう 会わないまま向こうの一生が終るまで過ごすのだと思っていたかもしれない。 そして、弟は家庭を築き私たちの存在も必要とせずに、幸せに暮らしていくのだろうと思ってばかりいた。
たまたま、東京へ転勤で本社勤務をしていることを、何のためらいも無く私へ告げた父だった。どんな展開が待つか予測しなかったのだろうか。
口では姉弟をいつか仲良く再会させたいようなことまで言ってはいたが。 私たちが血を分けた肉親を忘れられない気持ちが分かっているとでもいいたかったのだろうか。 そんな人間的な正常な感情は持っているといいたかったのだろうか。
行動はそうではなかったと思う。
何が言いたくてこんな事を書き出したのかな。
母と弟のことが思いがけず あぶりだされた事は自然の当然の成り行きだったのか。私には最初あまり意識してはいなかったこと。 そのことに焦点を当てて、 いつかきっちりと書き残しておきたい。
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