カウントシープ
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2006年03月19日(日) 落ち着かない日

今日は日曜日だけれど出勤で、職場についたら早々沢山の仕事が舞い込んできていて、殆ど平日と同じくらい忙しくしていて今に至る。

まだまだ、明日の夕方までは職場に泊り込んで続くのだけれど、夜になってちょっと静かになってきた。この仕事は不定期に何かが飛び込んでくるから、油断は大敵だけれど、午前中に忙しかったせいか、なんとなく今何も手につかなくて、さっきからデスクの周りやメールボックスを整理してみたりしている。

今日は風が強くて、階段やエレベーターの脇みたいな、天井まで筒状になっている場所はゴウゴウと音がしている。ボクがいる場所は9階で、おそらく外は凄い風なんだろうな、と思うけれど、比較する木々も見えないからよく解らない。

なんとなく世界から隔絶されたような気持ちになって、早く明日になって家に帰れたらと思うけれど、帰った夕方にはヴァイオリンのレッスンが待っていて、明日仕事から帰ってすぐに指がちゃんと動くかしら、とちょっと心配してみたりして、

やっぱり落ち着かない一日だ。


2006年03月18日(土) しょんぼり先生

先日のヴァイオリンのレッスンが終わったとき、先生がポツリと、『2人を見ていると、ヴァイオリンってこんなに簡単に弾けるものだったのかな、って思う。たまにそれで落ち込む』と話した。

それは、全然上達しなくて先生をイライラさせるよりはましだし、どちらかというと誉められているようなニュアンスだと思うけれど、なんとなくしょんぼりしている先生を見ているのは辛くて、その晩は少し饒舌になってしまった。

先生だってまだ若いし、ヴァイオリンの“先生”としては育ち中なのだ。

ボク達がもし、順調に上達しているなら、それは教えている先生が教え上手なのだと思うし、そのことを喜んでもいいと思うのだけれど、先生はどちらかと言うと、ボク達を通して自分の子供の頃のことを振り返っているみたい。同じ教本を使っていることもそれに相乗するだろう。

ボクは早く上達したいと思うばかりで、そうすることが先生にとっても喜びだとばかり思っていたけれど、人にはいろいろな思いがあるのだ。


2006年03月15日(水) TWIGGY化計画

以前も描いていたTWIGGY、そのドールが発売されている。ボクの好きなスーツ姿に思わずくらくらしたけれど、肝心のお顔がちょっと怖い・・・

確かにTWIGGYのお顔だし、頭身とか経ち方とかも似ているのに!TWIGGYはお人形みたいに可愛いのに、やっぱり人間をそのまま人形にすることは難しいね。
そもそも人間は動いていて、一秒ごとに変わっていくけれど、人形はずっと同じ顔で、見るこちら側の気持ちの変化によってあたかも人形が変化しているように見えるのだろうし。多少ディフォルメされているところが人形のいいところで、実在する人間そのままだったとしたら(スケールが違っても)結構怖いものなんだろう。

そんなこんなで、TWIGGYの人形は我が家にはいないのだけれど、代わりに我が家にいるお人形をTWIGGY仕立てにしたいなぁなんて考えてみたり。

我が家にいる中で1番頭身が高いユノアシリーズに期待したいところだけれど、ちょっとイメージが被らないなぁ。あの、スーツを細身で着こなしているいかにもロンドンっ子みたいな雰囲気にできたらいいなぁとかいろいろ考えてみるのだけれど、イメージを形にするのは本当に難しいね。

その前にTWIGGYを意識した絵とか描いてみようかな(そういって気持ちが反映したためしはない/いつも脱線)。


2006年03月14日(火) チョコレート・チョコレート

相方の務めている会社には、ヴァレンタインデーというものがちゃんと存在していて、そしてちゃんとホワイトデーなるものも存在している。
そのどちらもよく意味合いは解らないけれど、一月ほど前東京をうろついているとき、ちょうどヴァレンタインの直前だったせいもあって、デパートはどこもかしこもチョコだらけだった。まるで町全体がチョコレートジャックにあったみたいで、もしそのとき衛星写真で、チョコレート分布図を撮影できたなら、きっと都市部に限局していることがわかっただろう。

この習慣は日本だけのものなのか、よく解らないが、欧米だって、イースターにはチョコエッグを食べるし、チョコレートはお祝いにはうってつけの特別な食べ物なのだろう。こんなに甘い食べ物なんて、そうそう思いつかないもの。赤ちゃんだって、チョコの味をしったら忘れられないだろうし、そのくらいインパクトがある特別な甘さなのだ。




写真はヴァレンタインに、コンランショップで買ったマリアージュのチョコ。美味しかった。


2006年03月13日(月) 物の仕組み




お正月にアップルパイを作って以来、パイを作ってはいない。

けれどパイの作り方の基礎がなんとなく解ってから、パイ系の食べ物を食べるときになんとなく作り方を想像してみたりする。これはこうやって重ねているんだな、とか・・・考えるようになってみると、逆に今まで特に考えずに食べてきたということがわかって、こうやってよく解らないまま受け入れているものがこの世には沢山あるのだなと思う。

随分昔、椎名誠が仲間達とともに語った「発作的座談会」(とても面白い)という本の中で、日常の様々なものについて話し合うという企画があったが、電話とは?FAXとは?という話になって、みんな解らないのだけれど、ボクだって解らない。

どうして紙に書いたものが電話線を伝わっていくのか?とか
考えるとちっとも知らないままにいろいろ利用しているのだ。

発作的座談会の中でも、最初はFAXはよく解らないが、電話ならわかる!とか豪語していて結局みんな解らなくて、その会話がおかしかった。これを読んでいた頃の自分はまだ大学生で、本をむさぼるように読んでいた頃だったけれど、本が教えてくれるのはどちらかと言うと心の仕組みの表層だった。

村上春樹の「約束された場所で」という本は、オウム真理教に傾倒していた人々への、教祖逮捕後のインタビューを綴ったものだが(これもまた一読の価値がある)、オウム心理教の(手が滑って王、無と変換したよ)施設に集まった人たちはみんななんでも手作りで作っていく。パンを作るために麦を巻き、空調を整えるためにエアコンのシステムを作る。

オウムに入るとまず何をしてきたか何ができるかを聞かれ、それにしたがって配属されて、集団で生活を送っていくのだ。この段階ではみなそこを楽園だと感じ、その根底には、自分の存在価値をいともたやすく手に入れられたことがあるだろう。

と、脱線してきたけれど、こうして何でも自分達で作れるものなんだと驚いたが、同じ人間が作ってきたものだから、見よう見まねで何とかなるものも案外あるのかもしれない。


2006年03月12日(日) 若緑色の使者

ここのところ雨が多い。

一度は暖かくなった気温もぐっとさがり、また冬が戻ってきたみたい。せっかく出てきた小さな木々の芽も、ビックリして引っ込んじゃったりしないかしら、と心配しながら小さな若緑の粒つぶを励ましている。
木香薔薇にいたっては、沢山の葉がつき始め、一足先に茂り始めている。その新芽は赤い色をしていて、これがやがて緑に変化していくのだが、先っぽだけ赤く染まっている様子は、遠めにはまるで赤い花が咲いているように見える。美しい、とは思わないけれど、そうと知っていればそれはそれで可愛らしい。(そうと知らないときには、正直少し不気味に見えたものだ)

赤い葉に染まる季節や、白い薔薇が散る季節があるならと思うと、とても楽しみだ。

こうして、庭にまた幾つかの花が咲き始め、まだ貧相な木の枝にも、新しい芽が膨らんできて、春が近いのだと感じられる。こんなとき、ささやかながら庭があって良かったと思う。春の雨が庭の植物に命を吹き込むならば、雨もまた歓迎の気持ちで迎えられる。

植物が心に与える恩恵に、人は報いることなどできないけれど、そうしてなお側に咲き乱れるその存在こそは、神様に近いものなのだろう。


2006年03月11日(土) すでに血だらけのナイフ

子供の頃は、アトムのようなロボットに憧れたし、みんなそのような超人的な存在に憧れただろう。誰だって特別になりたかったし、特別と感じるためには、超能力のような特別な力が必要だったのだ。(そういう意味で、超能力とは言いえて妙な表現だ)

長じるにつれ、ボク達は、人を超える力というものはないと知るし、それに近いものを得るためには、沢山の努力が必要だと知る。逆に言えば、積み重ねた先には、平均を大きく上回るような力をも手に入れうるという希望も知るわけだが、そうした特別を装わなければ生きていけなかった子供たちも、
もうその特別を装わなくても生きていけるようになっていく。

それは、テレビで見るような素晴らしい魅力ではないけれど、確かに自分に備わっているものに満たされていくからであり、それを満たしてくれる元といえば、やはり親や親に当たる他者からの支持だろう。
誰かに認められたことや、誉められたこと、単純だけれど、人はそれらをかき集めて生きていけるのだ。

だから、誉められることのない子供や、認められない子供は、辛い。其処にあるはずの自己肯定感がない、生きている実感と言うものがないのだ。
自分で自分を感じられず、感じさせてくれる他者も不在であり、世界はやがて閉じていき、苦しみを抱えきれなくなっていくとき、自己破壊や世界への攻撃が始まっていく。

振るわれたナイフを振るう手にはそれなりの理由が其処にあり、其処にいたるまでの沢山の出来事がそこには含まれているのに、目に見えるのはそのナイフを振ったことだけになってしまう。

そうして扱われないままの心が死に損なってあちこちで彷徨っているなら、この世はすでにゴーストだらけだ。


2006年03月10日(金) 懐かしい断片

子供達は皆、大人には解らないような、非現実的な話をする。

しかし、それは子供の世界の現実なのであって、むしろ子供達の話す世界ほど、真実に近いものはない。
ただ、それを解釈する力を、大人たちのほうが忘れてしまったにすぎないのだ。

いったい、どの大人もみんな、かつては子供であったのに、そうしてみんな忘れてしまって、今はもう断片的に記憶が残っているだけになってしまった。

どうしても手放せなかった本やタオル、怖くて仕方なかった絵や音、そういったものをどうしてそう感じたのか、我々は普段は思い出すことができない。

ここで考えているのは、どうしてそうしたものを忘れていくか、ということだ。
忘れるというプロセスもまた必然だとするならば、記憶は忘れるべくして忘れていく。むしろ、忘れなければ先に進めないのではと思うくらい、皆忘れていく。

ボクは、ここでは、意識的に捨てるのではなく、もう必要がなくなったのだと推測している。今までの世界に必要であり、やがてなくてもやりくりできるようになっていくとき、人はそれを忘れて新しい物事に向かっていくのではないか。そうして向かっていく先に様々なものが待ち受けているため、忙しい子供達はもう過去の遺物をそこにおいてきてしまい、

大人になったボクたちの心に、不思議な感覚を呼び起こす断片となって、語りかけてくるのだ。


2006年03月09日(木) ダンスのために弾く

フィギィアスケートとバレエとヴァイオリンと、その複合的な影響で、最近はダンスというものに興味深々。何か1つステップなど覚えられたと思うのだけれど、見ているだけではよく解らない。

バレエはもちろんトゥ・シューズが無くてはなんともならないし、フィギィアスケートだって氷の上だし、見ていてもちっとも真似できない。社交ダンスの映像なんて持っていないし、人生で踊ったもので今でも覚えているのって・・・フォークダンスをうろ覚えくらい。

大体ボクは運動は苦手なので、ダンスのステップひとつも上手くいかないかもしれないけれど、それはそれ、ダンスは西洋では歌と同じくらいポピュラーな楽しみだったのだから、そう運動能力は必要ないかもしれない。

でも、今ダンスを習う余裕はない。時間は作るものとはいえ、今は毎日の時間を切り詰めて生活している。エンデの『モモ』の時間銀行の黒服たちが来たって、預ける時間は一分もないくらいだ。

とりあえずいつか踊ることを空想しながら、ダンスのための曲をヴァイオリンで弾いてくらしている。毎日、ワルツにメヌエットにガボット・・・いったいどんな踊りなのかしら?


2006年03月08日(水) 増殖する種

一月に2、3回、植物の種をくれる人がいる。

と書くと何てことないように聞こえるかもしれないが、これは大変な回数で、このペースでもらうと毎週園芸、しかも新しく植え続けるだけの土もなくなってしまう。
それで、せっかくもらった種だけれど、全部はとても植えきれなくて、そのまま置いてある。

その中で、とりあえず植えなくっちゃと思うのが球根のタイプ、植えないと腐ってしまう。それに比べたら乾燥している種たちは、見た目は変わらないので少し放置気味。可愛そうだけれど、そんなに植えてばかりもいられないのだ。

この植物達、ラテン語で何か書いてあるけれど、いったい何が咲くのかさっぱりわからないのがミソ。くれる相手は植物の研究のお手伝いをしている人みたいで、その手の論文を投稿していたりするようだが、ボクのように、植物を枯らすことのほうが特異な奴に、よりによってどうしてこんなにくれるのだろう。

きっと其処にあるのは好意なのだろうけれど、ボクにとっては試練みたい。
植物が育つことは嬉しいけれど、育たないときの落胆だって、覚悟のうえなのだから。


2006年03月07日(火) めったに着ない服

ボクは肌触りを凄く気にする。だから買ったけれど着心地が悪いために着ていない服が幾つかあるし、体調によって同じ服でも着れないときもあって、今年はとうとうタートルネックのセーターが一度も着れなかった。

もちろん買うぐらいだから、デザイン的にはとても気に入っているので、手放すこともできない。そうやって着れない服をクローゼットに幾つかしまってあるのだけれど、時々引っ張りだしてきてみたりする。

短い時間なら少しくらいチクチクしても何とかなるし、家の中だけならいつでも脱ぐことだってできるから、そうして家の中でたまにめかし込んでいたりするのだ。

大抵は体にフィットしている、少しセクシーな服とか、妙に露出が高い服(例えばヘソが出ている)なことが多い。こういう時に限って、宅急便の人とか来るとちょっと恥ずかしい。いったいどうして宅急便の人って、バットタイミングを狙うのが上手いのだろう?


2006年03月06日(月)

昨日はゲストを迎えたので、ゲストに似合うような花を選んで飾った。

深い赤い薔薇と、少しアンティークな感じの上品なピンクの薔薇、合わせる花は青か紫の系統でまとめるように注文したのだが、出来上がった小さな花束は美しかった。今はドライフラワーにするため

誰かをイメージして花束を作るのも悪くない。ボクはあまり花の名前を知らないから、色で指定してしまうのだけれど、花の形と色と、どちらもとても魅力的な要素だ。ボクは庭に咲くなら、大輪よりも小さな小花が散っているほうが好みなのだけれど、木蓮の花を見ていると、大きな花も悪くない。

もし、あの虫達さえ寄ってこなければ、薔薇も育ててみたいのだけれど、これはもう少し植物に慣れてからの夢だ。


段々暖かくなって、庭の木々も少ずつ芽吹き始めている。門扉に絡みついた木香薔薇は、これから沢山の葉をつけるだろうし、その蔓もどんどん伸びている。少々乱暴なくらいに伸びてきて、あまりお行儀はよくない子だが、いつかは庭を彩ってくれるだろうと期待している。

去年はまだ若かったそれを子犬が散らしてしまったから、今年はきちんと守ってやらなくては、と目を光らせている。子犬はもう大きくなって、今では小さいとはいえないけれど、まだまだ子犬並みの悪戯をするのだ。


2006年03月05日(日) 永遠らしきもの

心を安全な場所においておくことなど誰にもできない。
永遠に続く場所も、永遠に側にいてくれるものも、形あるものの世界では存在しない。

だからもし、永遠に続くものがあるとしたら、それは、物質の形を取らないものだ。

形の無いもの、それは心の中にあり、蓄積されていくようなものだ。毎日生きているうちに培った、思い出や、成し遂げた喜び、見つけたばらばらの真実の破片、そういったものがみな、形無き存在だ。

存在とは存じ在ることをいうのだから、知って(存じて)いることは、もはや在るのだ。野に咲く小さな花も、認識するまでは、其処に在るのに知らないことになる。目に入って、意識野にあがってきてはじめて、花はただの形あるものでなく、花となるのだ。

だから、形があるものもまた、それだけでは存在したことにならないのだ。
形あるものに意味が無いわけじゃなく、形の先に付きまとう思いが、それに意味を与えるのだ。

人は少しずつ、形あるもので周囲を固め、其処に思い出をうっすらとのせて生きている。人が生きていくためには、そうしたものが必要で、永遠不変の思いもまた、たやすいものではない。

薄れゆくことを覚悟しながら深く愛し、かけがえの無いものを胸に持ったとき、人は何よりも強くなり、同時に脆くもなる。

その脆さを超える深く強い愛など、幻想なのだろうか。


2006年03月04日(土) さようなら

シェリーが死んだ。

彼のことをとても愛していたけれど、やっぱりボクは涙が出なかった。代わりに相方が沢山泣いていた。

ボクは、愛するものを失ったときに、本当に泣くことができるのだろうか、少し考えてしまう。ボクだって泣かないわけじゃないのに、本当に大切なものの時には涙がでないなんて、
まるで本当に大切なものを大切な位置において置けないみたいだ。





どうか魂がいと高きところまで運ばれ
光り輝く世界において
あらゆる祝福を受けますよう
再び愛するものの所にたどり着けますように

さようなら シェリー


2006年03月03日(金) イノセンス

物にしがみ付いて生きているだけじゃ、確かなものは何も掴み取れない。けれど、何も触れるものがなしでは、とても不安定な世界になってしまう。

ボク達は霞を食べて生きていけるほどに仙人ではなく、ただの人間であり、人間でありたいと思っている存在なのだから、そんなことを最初から願っているわけじゃないのだけれど・・・子供の頃ならば少し願ってみたけれど・・・でも、その形あるものと形無いものとの間でバランスを取って生きている。

攻殻起動隊の映画、イノセンスの中では、草薙素子はもはやネットの中に生きている意識であり、いつでも側にいて、いつでも側にいない存在だ。いのっセンスの中では、人形に入り込んでバトーに接触するけれど、最後にはまたネットの中に戻っていく。後には、カランと崩れ落ちる人形だけで、其処にはもう素子はいない。

そのことがバトーを通して我々にとって、とても切なくて悲しい。イノセンスのテーマとはまさに其処にあるにも関わらず、どこか不快感を残し、そして、こうならざるを得ないこともまた了解せざるを得ない。

これは真実を表しているからだろう。

愛するものがこの世から肉体を失っても、それでも人は生きていけるだろうか?思い出だけで、もらった愛だけでこの先もずっと、生きていけるだろうか?
いなくなった悲しみのあまりすべてから遠ざかって生きることを失ってしまってはならないだろう。悲しみを超えてまた生きていく強さとは、いったいどこから培われていくのだろうかと問えば、それは毎日を、きちんと生きていることによって育つのだと答えられる。

だけれど、今この日々をきちんと生きているという保障なんてどこにもない。保障と言う形を求めて、形ないそのジレンマを抱えて、ただ生きていくことを、続けていく力が持続するなら、それはこの世界に対する肯定感であり、自分自身に対する肯定感であり、

自分が愛されていると感じることこそが、明日を紡ぐ力となる。


2006年03月02日(木) サンドイッチマヨネーズ抜き

相方が病院食は不味いと悲しんでいるので、夕食にマックを持ってお見舞いに行った。
でも、病院にマックなどもって行ったら、看護婦さんに叱られそうだから、相方を呼び出して病院内の別の場所で一緒に食べて、後で病院食も2人でつついた。

確かに不味かった。

この不味さは嫌がらせかしらと思うのだけれど、こうして不味いものを食べたくなけりゃ早く家に帰れるぐらいに元気になってね、という脅しなのかもしれない。大きな病院だからなのかな、小さな病院だったらもう少し美味しいものを提供できるかもしれないのに。


時々もしもごっこをする。(ドラえもんのもしもボックスみたいに、もしも・・・だったら、という空想)
ボク達が食べ物屋さんを開くなら、間違いなくサンドイッチ屋さんだ。ボクはマヨネーズが嫌いで、どこにいってもサンドイッチを食べられない。だから、ボク達が作るサンドイッチ屋さんには、マヨネーズが食べられない人用のメニューを豊富にするつもりだとか・・・(凄くマイナーだ)

けれど、本当に、誰かに食べ物を提供する仕事についたら、きっと大変だろうなと思う。みんな好みが違う中で、どうやってなるべく多くの人に満足してもらえるか。病院食にいたっては、決められたコストとカロリーが付きまとうから、それはもうメニューを決めるだけでノイローゼになりそうだ。


2006年03月01日(水) 本当の愛

愛していることと、憎たらしいことは、同時に存在しうるだろうか。

多分、愛していることと、取り込んでいることを混同しているとき、あたかも愛しているような錯覚でもってして、其処にしがみ付くような気持ちと切り捨てるような気持ちの両方を投げ込んでいることを、人は時に「愛」だと錯覚しているのだろう。

本当の愛には、憎しみは付属しない。

なぜなら、愛するということは、完全に自分からは別個の、自分に属していない独立したものを、何かしらの関わりでもって、別個でありながら繋がり、つながり続けていくという行為に他ならないのだから、

時に切り捨ててしまい、その後に再び慌てて拾い寄せるようでは、それはもはや愛ではないのだ。

切り捨てたのは自分に属するものであり、それは本来相手の中にはなかったはずのものだ。
だから、切り捨てたりしているうちは、本当には他者を見ていない。他者の中に映し出された自分を見ているにすぎず、それはやはり、愛とは呼べない。


ロビン