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2005年05月31日(火) スパイダー!

嫌いな動物は?という問いに、比較的多く聞くのが「蜘蛛」だ。

昆虫は平気だけれど蜘蛛は駄目、という人も多くいるが、ボクからすると蜘蛛と昆虫には大した差はないように思える。だが、あまたの多くの昆虫がひとくくりで昆虫扱いされるのに対して、蜘蛛はそれ独自で独立している(クモ網クモ目)のだから、それ相応に生態が違うのだろう。

さて、そんな蜘蛛だが、どうして特別に嫌われてしまうのだろう。確かに道を歩いているときに顔に掛かる蜘蛛の巣は不愉快だし、知らない間に部屋に巣を作られるのもあまり嬉しいことではない。庭に巣を作られるのも大して嬉しくないけれど、でも、蜘蛛は害虫ではないのだ。虫を食べてくれるいい奴として、時には家の守り神としてさえ扱われているのだ(ボクの田舎だけかも)。

蜘蛛のイメージは、やはりあの巣にあるだろう。1度引っかかったら逃げられないという恐ろしい蜘蛛の巣は、子供心には強烈な印象となって響く。同じ理由でアリジゴクも怖いけれど、アリジゴクは幸いなことに蟻だけがターゲットなので、恐ろしさもそれなりに、なのだ。よく考えれば生き物はみんな他の生き物を食べているだけで、なんら差はないのだけれど、あのじわじわとやられていく、恐ろしい網のイメージが蜘蛛を際立たせている一因なのだろうな。

そういうボクは現実的にはやっぱり、ゴキが苦手。こちらはすばやい登場と予測不能の動きと繁殖力が恐怖の原因と思われる。


2005年05月30日(月) 誇れるもの

中学生になってわりとすぐに、授業で詩を書いた。

ボクは どんな詩を書いたのかもう言葉は覚えていないけれど、最後のほうに「錆びることを恐れるブリキのきこり」が出てくる詩を書いた。

ボクはもともと詩を書くのが好きだったわけでも得意だったわけでもないけれど、その詩は自分でもよく書けたと思った。そして、先生にもそう思ってもらえて、次の国語の時間に一番で読み上げてもらえた。

恥ずかしがる年頃だからとその詩は匿名で発表されたけれど、ボクはとても嬉しかった。それまでも作文やらポスターやらで選ばれてきたけれど、大人(である先生)が、きちんと感心してくれた体験はこれが初めてだったのだ。
子供にとって、大人に認められることがこんなに誇らしいことだってこと、大人になってすっかり忘れていたけど、子供はいつだって凄いって思われたいし、心に誇りを持っていたいのだ。


2005年05月29日(日) 夜の御菓子

浜松のお土産といえば、夜のお菓子うなぎパイ

子供の頃に、浜松に転勤したおじさんが、ひょっこりこの御菓子を持って現れた。この人は母の兄で、母と顔が似ているので、すぐに身内だと解る風貌の人だったけれど、物静かであまり喋らないので、どんな人なのかさっぱり解らない。

ともかく、みんなで頂いたうなぎパイを食べたが、この御菓子、誰でもきっと思うことは、どこらへんがうなぎなのか?(ただの甘い御菓子に思える)ということと、どうして夜の御菓子なのか?ということ。

うなぎに関していうならば、うなぎの粉?みたいなものが入っているとパッケージには書いてあるし、見た目もうなぎの蒲焼風。うなぎパイを作った会社のHPに飛ぶとその誕生秘話が載っているが、子供心にはこの夜の御菓子というキャッチフレーズは気になったらしい。
親が昼間に食べようとしたとき、「夜じゃなきゃ駄目だよ」って言ったらいいのいいのと却下された。ボクは納得いかなかったので、じゃあ「夜の〜」なんて書くなよと思いながら食べた。

今じゃ、このうなぎパイもどきが全国各地にあって、当方では似たようなビジュアルと味で「きしめんパイ」なるものが売られている。きっと、きしめんの粉が入っているんじゃないかなと思うけれど、最初に出会ったのがうなぎパイだから、どうもその他はみんな「うなぎパイもどき」に見えてしまう。
うなぎパイだって、言ったらうなぎもどきみたいなものだけれどね。


2005年05月28日(土) 秘密

人生には色々秘密がある…ということで、つい最近、職場の同僚が今まで黙っていたの…といって打ち明け話をしていた。

ボク達がそれをふんふんと聞いていたら、仲間内の1人が「自分はそんなに黙っていられないなぁ」と言ったので、ボクも力強く頷いた。ボクは御喋りなので、どっちかっていうと自分のことだってすぐに話してしまうほうなのだ。

けれど、

あとで思い出したけれど、ボクには最大の秘密があって、同性愛者だってことはひたすら隠しているのだった。この点については、目を覗き込まれてもカマをかけられてもさあ?でしらばっくれている。
同性と一緒に暮らしていることはばれているので、隠しているというより、みんな知っているけれどいわないだけだろうけれど、でも、これをどうどうと肯定する気は今のところない。
多分、世の中には言っていいことといけないことがあって、同性愛者であることは根本のタブーに触れるのだと思っているから。

そういいながら、こうやって日記のカタチでWebに公開して発散しているのだけれど。ここでとっても楽なのは、ここから先に友達になってくれた人は、同性愛だってことを知った上でお付き合いしてくれるのだ。
これが、街角で出合って仲良しになったとして、後から「実は同性愛者なんです」なんて言ったら、大抵の人は固まるし言葉を詰まらせるだろうし、こっちも何だか悪いことしちゃったなぁって思うしね。

知ってて付き合ってくれてる皆さんに感謝!


2005年05月27日(金) 音楽の教科書

ボクは音楽の授業が好きだったので、幾らか前に、小学生と中学生のときの音楽の教科書を実家から持ってきた。教科書は9冊、これに本当は高校の音楽の教科書もあるはずだが、何処かにかくれんぼしていてまだ発掘できていない。

ヴァイオリンで小学校の教科書に掲載されている曲を適当に弾いて遊んでいたのだけれど、結構習っていない曲が多かった。当時、一ヶ月に何曲を練習したのかわからないけれど、先生のピアノの伴奏とともに一緒に歌うのは楽しかった。
ヴァイオリンの先生は、3歳のときからヴァイオリンを弾いているといっていた。3歳からずっと音楽をやっていたのだから、きっと先生の中には沢山の曲が入っているのだろう。ボクも沢山子供の頃の歌を覚えているほうだけれど、曲ってちゃんと記憶されていて、10年とか20年ぶりに聞いたって、知ってるって思えるから不思議。小さい頃の曲は特に永久的な記憶になっているようだ。

ボク達が今やっている鈴木メソードの教本は、先生もやっぱり使ってきた本で、多分先生はその3歳とか幼稚園の頃に通ってきた本なのだけれど、曲をしっかり覚えていて、懐かしがったりしている。その先生の顔を見るのが好きなのだけれど、先生には内緒。


2005年05月26日(木) バイバイ

赤ちゃんは何時からバイバイをするようになるのか?

個人差はもちろんあるだろうけれど、10ヶ月くらいになると、自分の手でバイバイをするようだ。

それより前に、お母さんが赤ちゃんの手をもって、バイバイをさせているのが普通だが、最初は赤ちゃんはバイバイの意味がわかっていない。それが、人と別れるときにするものだと、状況から理解して、別れの挨拶として手を振るようになるのが10ヶ月くらい、というところか。今ちょうど手ごろな10ヶ月児はいないから、妹の赤ちゃんが10ヶ月前後になるころに注意深く観察してみようと思っている。

さて、ところでバイバイとはいったいどういう意味なのか?とても日本語らしい響きではないから、西洋の言葉が崩れたものなのだろう。英語でのバイバイの丁寧な言い方?[Good‐by]は、もとは[God be]からきたという説がある。「今ここで私たちが別れても、神様が貴方の傍について守ってくれますように」という意味だそうだ。

別れとは寂しい、悲しい。
そして、心細いものだ。

果たして、10ヶ月の赤ちゃんには、バイバイの中に、寂しさをまだ含んでいない―のかどうか解らない。別れることを体験して、初めてバイバイ―さようならの悲しさや辛さが解るのだろうけれど、例えば生後2ヶ月くらいから、母親と別れることを体験している赤ちゃんは、寂しい気持ちが早く育つような気がする。(別れて、また再会できるという喜び、未来にまた会えるという予測を立てる力も同時に育つのだろう)

中学生のときいつも一緒に帰っていた子が、別れ際に「バイバイ」って言うと不機嫌になった。ボクはどうしてかさっぱり解らなかったけれど、その子がいうには、「バイバイとかさようならって言わないで。“また明日”って言って欲しい」と。今思えば、その子はそのときボクのことが好きだったのだト思う。


2005年05月25日(水) この木なんの木

おなじみヴィレッジ・ヴァンガードに、「この木なんの木気になる木」の苗?が売っていた。上手く育てば巨木になるよとか書いてあったけれど、そんな巨木を植えるスペースは我が庭にはないから、連れて帰るのは諦めた。

そんな巨木が本当にあちこちで育って始末におえなくなるようなら、こんなに気軽に店頭に並んだりしないだろう。だから、きっとあまり成功しないのだろうな、と思いながら。そうでなくても、ボク達には植物を育てる才能は、あまりないのだ。

庭で色々植物を植えてみてよくわかったことは、植物はその与えられた土に比例して大きくなっていくことだ。小さなポットに植えたものはポットに見合った大きさで、土に植えたものは何処までも大きく。土がご飯なのだから、当たり前といっちゃあ当たり前のことだ。

さて、「この木なんの木」の正体はモンキー・ポッドという種類の木。中南米原産のマメ科の植物で、熱帯地方に生息し、通称はアメリカ・ネム。マメ科らしく、20センチくらいの大きさのインゲンのような実がなり、淡いピンクの羽毛のような花が咲くそうだ。

CMに使われた木は、ハワイにあるモアナルア・ガーデンパークにあるらしい。この木を見に行こうというツアーもあるくらいだから、みんなしっかり気になっていたのだ。当然このツアーは、このCMを観た日本人しか盛り上がれないだろう、地元ではピクニックしたりするファミリースポットなのだ。

答えを教えないでいたために記憶に強く残り、知りたいという願望を持ち続けさせるという心理効果が働いているのだろう。そういえば、昔、マジシャンが、人気の秘密は絶対に種明かししないことだと言っていたっけ。知ってしまうと、もう人々は興味をなくしてしまうのだ。


2005年05月24日(火) エヴェレストとチョモランマ

小さい頃は、世界で一番を覚えることが流行る。
世界で一番高い山は? エヴェレスト
一番長い川は? ナイル川
じゃ、面積が一番広い川は? アマゾン川

そんな会話の名残で、今でもぼんやりと覚えているけれど、先日エヴェレストについて書いてあるコメントを見ていたらボクにとっての新事実発見。

エヴェレストは、チベット名でチョモランマだった。

それの何処が新事実だっていわれると困るけれど、これで、ボクの中の「世界でも高い山」がひとつ減った。ボクは別に山フリークでもないし、大してだからどうってわけでもないけれど、じつに山らしい話だと思ったのだ。

以前、車で東名高速を東京方面に向かって走っていたとき、静岡の途中で富士山が見えた。そのときみた富士山の形は、多分一番写真としてよく見かけるものだろう。それとはまた別の機会に、中央道から走っていって富士山を見かけたことがあるのだが、そのときは、地図で確認するまで、それが富士山だとわからなかった。

山は、広い土地に堂々と聳え立っていて、360度から見かけるのだから、その方向からみた顔はそれぞれ違うことになる。それがひとつの山だと気がつかないまま、その土地を把握していることだって起こりえるかもしれない。地図があるから、そらから観ることができるから初めてボク達はこの大地の繫がりを多少なりとも把握できているのだ。

さて、ベタなデータを少し。

・エヴェレストは英名。発見者ジョージ・エベレストの名前から
・チョモランマはチベット名。「大地の母」の意味
・サガルマーターはネパール語、「世界の頂上」の意味

精神分析界では山は父性を象徴しているが、あえて大地の母であるところが西洋の世界と、東洋の差なのかな。エベレストには沢山の遺体が今も眠っているという。志し半ばにして倒れた者たちの亡骸だ。


2005年05月23日(月) モランはずっとモランのまま

寂しい=モラン(※ムーミン一家のお話に出てくる登場人物)なボクだが、モランは本当に寂しい。

冷たい息を吐くので、傍に寄ればみんな凍ってしまう。だから、友達が誰もいなくてひとりぼっち。
歩いた後はみんな凍って、草花も生えなくなってしまうので、みんなモランが来ることを恐れている。だから、誰にも歓迎されない。

一体どうしてこんなに寂しいモランを、作者のトーベ・ヤンソンは生み出したのかしら?と思うくらいに徹底的に寂しいモランだが、きっと人気のあるキャラクターだろう。

ひとつのお話の登場人物は、全員をひっくるめて1人の人間の心ができるように、バラバラのピースとして成り立っている。キャラが際立っているのはあたりまえで、バランスよいキャラばかりいたら、お話は回っていかないのだ。
だが、それにしてもムーミン一家に登場するキャラときたら、際立つこと限りない。癖も個性もありもありのヤツラで満載のなかなか恐ろしいお話なのだ。

子供の頃に、ムーミンパパが家出をする話が好きじゃなかった。パパにはずっとパパで居てほしいのに、そのパパが家族を捨てていなくなってしまうなんて!それをそっと見守り、待ち続けるママには半分安心し、半分怒らないママも不気味だった。
ボクのパパなら家出なんてしないし、もし家出なんてしたらママはきっとヒスって家中大騒ぎして、挙句に「もう死ぬ」とか叫びだすに違いないのだ。ボクの家は、ムーミンの家とは違うけれど、やっぱりあんまりいい家庭じゃなかったと、この日記を書きながらよく解ったけれど、とにかく自分の家はおいておいて、お話の中のムーミン一家が崩壊することは、いい気分じゃなかった。

それをお話に書いて出版してしまうトーベ・ヤンソンって一体どんな人なんだろう?モランを心に住まわせている人なのだから、うんと寂しい気持ちを知っている人なのだろうな、と思うのだけれど、彼女のことは何も知らない。

でも、寂しい悲しいモランだけれど、モランに友達を作って欲しいわけじゃないのだ。友達ができたらそれはもうモランじゃなくなってしまうから。スティンキーは悪い奴のままで、フィリフィヨンカは見栄っ張りのままで、スナフキンは自由人のままでいて欲しい。お話の中だけ、みんな変わらずにいられるのだから。


2005年05月22日(日) 空色のタクシー

『空色のタクシー』というお話がある。確か、あまんきみこという人が書いた話で、ボクにとっては教科書に載っていたお話だ。

タクシー運転手の松井さんが、車を運転しながら遭遇する小さな事件をつづったもので、可愛らしく微笑ましいお話が幾つか入っている。ボクの記憶の中に残っていたエピソードは・・・

1 田舎の母から送ってきた夏みかんの甘酸っぱい香りでいっぱいのタクシー
2 後ろに乗せたはずの女の子が消えてしまうが、その女の子は人ではなくてモンシロチョウだった

という断片だけだった。

ボクは今車を買い替えようと考えていて、次の車は空色にしたい、と思っている。そのことを散歩しながら相方に話して、ついでに空色から連想して上記の話をしたところ、読んでみたいと言い出したので、本屋さんに入った。

その本屋さんは児童図書を沢山置いてあるお店だったので、「空色のタクシー」は直ぐに見つかった。お陰でパラパラだったピースは埋まり、1つの話ができたのだが、これからもボクは、空色の車と夏みかんの香りとモンシロチョウをきっと同時に連想するだろう。

もう1つ、忘れられないお話が「空色の種」の話で、これは空色の種を植えると家ができるという話だったと思うけれど、これはまだ発掘していない。
いずれにしても、ボクは小さな頃からずっと空色が好きで、好きな色が沢山増えた今でも、やっぱり好きな色なのだ。


2005年05月21日(土) 日替わり玄関

今の家に住み始めた頃、玄関のラグを買った。パルコに入っているfrancfrancという店のもので、黒とグレイとベージュの縦じまのものだったが、それが玄関の間口にぴったりの大きさだった。素材は荒く編んだ綿でできていて、もっと面積が大きければソファの足元に敷くような素材でできていた。色合いがちょっと地味な感じがしたが、落ち着いた雰囲気だと思った。

我が家は玄関から廊下まで全部フラットでできていて、そのラグは土足で踏むものなので汚れやすい。自然と洗い替えが必要になり、再びfrancfrancに出向いたが、もうその大きさのラグはなくなっていた。

それから、ラグ探しが始った。
同じくらいの、我が家の玄関にあう大きさのラグを探して歩いたが、どこの雑貨屋にもおいてなかった。どうやら我が家の玄関は、規格サイズよりも横幅が広かった。玄関に置いたものは、多分キッチン用のつもりで作られたものだったのだ。

ところが、ここ最近また、我が家の玄関に置くのにちょうどいいラグを見かけるようになった。慌てて二枚ほど購入したが、1度見かけると今度はあちことでちょうどいいサイズを見かけるようになった。探していただけに、ついつい見かけると買ってしまうが、気がつくと今度は玄関用のラグが4,5枚。洗い替えどころか、日替わり気分で玄関が演出できそうになって、それもまた楽しみのひとつ。



※francは貨幣単位のフランだろうか


2005年05月20日(金) 来年になったら

ここ最近絵を描いていない。仕事が忙しくて時間がないのも理由の大きな1つだし、以前からチマチマと作業している球体関節人形に手をとられているというのもある。新しく、ヴァイオリンを始めたのもある。でも、一番の理由は、やっぱり気力が少しないんだろうな、と思う。

別に、特に落ち込んでいるわけじゃないし、毎日仕事したり犬の散歩をしたり、食事をしたり眠ったり、ごく普通に生活している。以前と何も変わらなくて、一週間に1度抗癌剤を打ちにいくことと、髪の毛がないことと、そんなくらいで相方も寝込んでいるわけじゃなくて、元気に動いている。


でも、どこかで不安なのだろうな、と思う。
時々泣きそうな気持ちになる。
見えない先が不安になる。
1人で置いていかれるんじゃないか、って思う。
10年は生きられると言われたけれど、10年の更に先はどうなるんだろうとか、考えても仕方ないことを考えている自分がいる。

きっと、来年とか再来年とかそのくらいになって振り返ったら、今は「やっぱり大変だったね」と話すような時間なのだと思う。今はただ、前を見て進むしかないから、

絵を描きたくなったらまた描こう。


2005年05月19日(木) 神様の目

この世に神様なんていない

とは思っていない。目に見えない形じゃないところに神様はいて、ちゃんと見ていると思う。神様はただ見ているだけで、手を出したりはしない。それじゃあいてもいなくても変わらないじゃないか、というと、ちょっぴりそう思うけれど、でも、神様がいるといないでは大違いだ。

見守っていてくれる存在がいて、世界は守られていく。一人きりではこの果てない世界をとても守れやしない。見ていてくれるから安心して前を見ていられるし、自分の姿を見つけることができる。


2005年05月18日(水) 絵画考察6 追求の果て

以前紀伊国屋で「胸」についての本を見かけたことがある。ボクは同じ棚にあったフーコーの犯罪心理学についての書物を購入したのだが、若干「胸」についての本にも興味があった。

胸といってもこの場合は間違いなく女性の胸のことだ。男性の胸ばかり集めた写真集がこの世にあるかどうかしらないが―あまり想像はできない。ロリを愛する人がまな板のようなまったいらな胸を好んだとしても、それはあくまでまだ発育していない身体、女になるまえの少女としての身体であろうし、止められない時間の中で、刹那的に一瞬を生きていく少女達の、その存在を愛するものにとっては、少女はいつか少女でなくなることを前提とした切ない存在でなくてはならない。

さて、サイズの話になるが、どうしてこの世に驚くほど大きな胸の絵がありふれているのか?ボールのように大きく突き出た胸は明らかに不自然だが、大きな瞳もまた不自然であるのだから、これはもう理想を追求した結果であるのだろう。
長い手足、まんまるの大きな瞳、長い睫、折れそうな高い位置のウエスト、これらは皆、東洋人のコンプレックスを満たすように導かれた願望の姿であるのか、それはあたらずとも遠からずであろう。
そして大きな胸は、主に男性が持つ理想を反映しているのだろう(巨乳フェチの女性も少しはいるだろうか?)男同士のゲイが、女の胸を嫌うとき、その柔らかさ、ふにゃふにゃとした感触が嫌だというが、胸とは柔らかいものだ。
先日出産を終えた妹が、赤ちゃんに母乳をあげる様子を見ていたら、それはもはやセクシャルな意味合いのパーツではない大きく張った乳房であり、その大きさや張り出た様子は見慣れなく奇妙に感じた。同時に、これがあの巨大な胸の正体なのか、大きな胸を求める根源はこのときの満たされた記憶にあるのか?と一瞬考えたが、
柔らかくて、幼い頃には空腹を満たしてくれた母性の象徴を求めているならば、大きな胸に傾倒する女性がもっといてもいいだろうが、そうならないのは何故だろう?
自分に無いものだからこそ、男性サイドから追求されていくのだろうか?フロイトは女性のペニスに対する願望について深く考察していたが、男性であるフロイトは、自分に欠けているものについての考察にはあまり及ばなかった。しかしこの考えもまた当てはまらないように思う。

というところで長くなったので、続きはそのうちに・・・ね。いちおう絵画考察シリーズは終了。


2005年05月17日(火) 絵画考察5 奇妙な絵

さて、何を描いて何を描かないか?さらには何を強調して何を排斥していくか、という考えから辿りつく先は、何処へ向かっていくのであろうか?

今日我が国で発展しているアニメーションや漫画は、まさしく強調と排斥の産物である。スタンダードなキャラデザでは、少女や少年の瞳は愛らしく大きく描かれ、手足はスラリと長い。鼻は簡略化され、時には描かれないこともある。口もしかり、だ。以前はアニメや漫画の中にのみ表現されてきたこの絵柄も、昨今ではいたるところで見かけるようになった。
子供の頃、アニメーションを見ていた世代が大人になってきたことがその背景にあるだろうが、それにしてもこの浸透ぶりには、アニメや漫画のサイドにいる人間にとっても戸惑いを隠せない。

子供の頃、そろばん塾の先生がボクの描いた絵を見て、「そんなに瞳が大きいのは不自然でおかしい」と言った。ボクだって眼が相対的に大きいことぐらいちゃんと解っていたけれど、大きく描いたほうが可愛いってことだってちゃんと解っていた。そのときは「可愛いほうがいいのに、先生は変なことをいうなぁ」と思ったけれど、先生にはディフォルメされた世界はきっと奇妙に映ったのだ。

今瞳の大きさを描いていながら急に思い出したけれど、同じように大きいければいいのか?と密かに疑問に思っているパーツがある。それは胸・・・ということで続きは明日の日記へ。


2005年05月16日(月) 絵画考察4 アンバランス

かのアングルが少女や女性を描いた時、そのデッサンの悪さに人々は悪態をついた。グランド・オダリスクに対する評価は散々だったが、現在までこの絵は名画として堂々と飾られている。アングルが求めたのは究極の美、一点の染みもない美しい肌、流れるような曲線であり、魂を内在させる隙のないような美しいものだった。

当時温かみにかけるだとか人間味がないといわれたが、必ずしも絵に、人間臭さがにじみ出ていなくてならないという法則はない。モナ・リザだって、あの何処までも不気味で不可解な雰囲気が何百年も人を惹き付けているけれど、モナ・リザが人間臭いかと言われたらNO!だろう。
アングルの絵にはそうした不気味さやミステリアスも存在しない。求めたのは美意識という1点張りで、いっそ清清しいくらいのポリシーを感じる。

さて、アングルのように、他を排斥してまで何かを貫いた世界、というのは実はとても魅力的である。バランスがいいことは心地よいが、多少の退屈を感じるものであり、アンバランスにはどこか不愉快さを感じながらも、その歪みに魅力を感じてしまうものだ。

多重人格者を扱った小説を読むとき、その極端な人格に憧れめいた気持ちさえ抱くだろう。子供の人格、他性の人格、真面目な人格、強迫的な人格、叫び続ける人格、暴れる人格、怖がる人格、賢い人格。ジキルとハイドのように2人いるなら、その悪人ぶりに惹き付けられるし、清楚な女性の中の悪女も魅力的といえるだろう。多重人格者の治療においては、全体を統合することであり、そうすることで神秘的な目の前の患者は、自分と同じ平凡な、1人のまとまった人間に戻っていくのだが、それにどこか寂しさを覚えてしまうのは何故か?

ある絵に色々なヒントが散りばめられていて、絵を読み解くことも魅力的だが、排斥され描かれなかったものを見つけることによって読み取れるメッセージもある。

どこかを特出して強調し、他を排斥することで追及されるものは何なのか、
そうまでして強調された表現の先にあるものは?ということで次の日記へ。


2005年05月15日(日) 絵画考察3 一瞬の光景

目に見えるものを、ありのままに描くこと(厳密にはそのこと自体は不可能だ)。写真といえど、そこにあるものをそのまま写し取ることは不可能である。写真になると目の前の光景はよりコントラストをもって映し出され闇が深くなるのだ。
つまり、目の前の光景はその一瞬のみにあり、2度と同じものを見ることはできない。映像を使って再現してもそれはそれそのものではなく、同じ場所に立っている人間達も、その視力や立つ位置や注目する対象によって、光景は違って感じられていく。睡蓮を眺めたモネがその水に落ちていく光の様をどれだけの時間でも眺め続けたように、全ては変化して後に戻ることなどない―というのが、今未来へ向かう一方向の時間軸で生きている我々の世界だ。

フェルメールの「青いターバンの少女」という絵がある。異国風のターバンを揺らし振り向く少女の絵は、その青が美しい色だと賛美されている。だが、これを白人が見た時と、われわれ黄色人が見た時では色合いが違って見えると聞いたことがある。もちろん、青系の色に見えているには違いないだろうが、同じ人間でも違う風に見えるのならば、他の生き物にはもっと違う色に見えているかもしれない。


2005年05月14日(土) 絵画考察 ナスカの地上絵

さて、人間の描いた絵というものについて考察してきたが、ここで閑話(いやそもそもすべてが閑話だが)を挿もうと思う。

小学生の頃には誰もが一度は夢中になるものが○○の七不思議という話題だ。それは学校の七不思議だったり、世界の七不思議だったり、七という数字ではなかったかもしれないがそうした不可思議現象、オカルトチックな話に子供達、とくに男子達はすっかり夢中になってしまう。
ボクもまたそうした子供の1人であり、バビロンの空中庭園、ピラミッド、イースター島のモアイ、ムー大陸、ストーンヘンジ、そういったものに思いを馳せ、いつか大人になったらあちこち行って見てみたいと思ったものだ。

そうした古代の遺物というのの魅力はなんといっても謎だろう。存在したのか否か?存在するものに関しては、誰がどうやって何の目的のために作られたのか?そういう謎なものに対する情熱、好奇心があるからこそ人間はまた未知を既知に変えようとするのだが、いくら解明しようとしても答えが見つからないからこそ7不思議の名を有しているそれらの遺跡のひとつの絵画、
ナスカの地上絵について取り上げよう。

宇宙人の描いた絵だとか、先史人の滑走路だとか色んな説が飛び出す謎の一品として名高いナスカの地上絵は、沢山の考古学者によってすでにかなり解明されている。この巨大な絵は星の位置を示しており、暦であったというのが現在の説らしい。当時のナスカ人の所有する土地の中で、最も暦を置くのに相応しい場所を選んで描かれたのだ。

暦を知るのにこのような巨大な絵が必要だったのかどうか解らないが、かつてアステカの人々は(※ナスカ文明はアステカ文明よりも昔)、冬の次に春が来るという保障を求めて生贄を太陽の神に捧げたというから、明日の次に何が来るか解らなかった時代に、この先に何が来るか予測したものを作ることは、未来を操作する大切なアイテムだったのだろう。

ナスカの地上絵は星々に対応していた。もしナスカの地上絵が星の位置を利用した巨大な暦だったならば、そこに描かれた鳥や蜘蛛や猿は、単なる茶目っ気ではなく、同時に空に浮かぶ星座に対応していたのかもしれない。空に散りばめられた星の光を繋いで絵に見立てるという行為は、我々はギリシャ神話のものを最もよく知っているが、世界各地に星座とそれにまつわる話はおそらくあるだろう。
形に捕らえにくいものをすでに知っているものに見立てることで認識しやすくするために星座は作られた。古代人が夜空をじっと眺めていたのは、ロマンチストであるだけでなく、生きていくために必要な情報を得ていた。星に導かれる、という概念はここからきたのだろう。

ナスカの地上絵について考えているうちにすっかり絵画の概念から外れてしまった。ボクは本当はナスカの地上絵は果たして宇宙人が描いたものだとしたら?という話をするつもりだったのに、上記ですでに否定されてしまった。

ボクが考えていたのは、絵を描くという行為は人間が自分の中の抽象概念を実体に顕そうとする行為であり、同じ人間同士だからこそ理解されるものだと考えていて、ナスカの地上絵が一応、ハチドリやらサルやら、不完全にしろ我々が普段絵に描きそうな題材で描かれていて、まさに視覚的情報を主体とする我々にはおあつらえ向きの表現方法であることだ。

もし、何より匂いによる情報を主体とする宇宙人がやってきたなら、宇宙人は匂いによる情報を残していっただろうし、こうもりのように超音波を頼りにする宇宙人なら音による情報だったかもしれない。もし、我々の目が進化しないで、ミミズのような生き物だったら、地上絵は永遠に発見されないかもしれないのだ。だから、絵を描いていったということは、宇宙人も視覚を重要視していて、なおかつ地球の生物も視覚を大切にしていると判断したからだ。

だとしたら、ナスカの地上絵を残していった宇宙人達は、彼らも絵を描くことになる。そのとき、宇宙人の描いた絵に、人間はどれだけシンパシィを感じるのだろうか?ということがいいたくてこの話題に及んだのだがいつものごとく回りくどくなってしまった。


2005年05月13日(金) 絵画考察2 絵の向こう側

さて、絵画とは人が描いた物であるからには当然作者が存在するだろう。ある作品を好きになったとすれば、この絵を描いたのはどんな人物か?と思うのはワリと自然な流れに思われる。

絵をそれ単体のものとして心に留めておくこともまた魅力的に思えるし、敢えて作品そのものだけを味わいために作者のことなど関心を寄せないという部類の人もいるだろうが、(ボクもかつてはその部類にいたのだが)ここでは絵の背景の作者について考えることにする。

一枚の絵を見て、あるいは複数の同作者の絵に感銘を受けた時、その作者がどんなメッセージを込めて描いたのかはもちろんのこと、1人の人間としてどんな人生を送った人なのかまでも知りたくなるのは何故なのか。ひとりの人間が自分の魂を分けるようにして生み出した作品、その魂の欠片に触れたものが、欠片では飽き足らずその人間まで近づきたくなるという気持ちは何処から湧いてくるのだろう。(これは別に絵に限らない。作曲家を、歌い手を、演じている俳優の私生活をも人は知りたがる)
一方的にその作品によって心の線を弾かれた者が、もっとその作品を、作品の源である作者を知りたいと思うから?

少なくとも作品を作る側は作品を通して自分を晒している。自分を表現したとして、そこにはギャラリーが必ずいるのであり、それを受け止めて欲しいという願望を込めて、筆は持たれるのだ。知りたいものと知られたいもののニードは合わさっているのだから、そこにはある種の一体感のようなものが流れてくるようにさえ感じる。


見られたいからといって、全てを見て欲しいわけではない。全てを見られては人は狂ってしまうし生きていけない。見る側もそれを承知していなければならない。絵画の前に立つとき、作者と観客とが、それはひいては人が他者と一体感を味わうことができるかもしれない可能性が提示されるのだ。


2005年05月12日(木) 絵画考察1 情報の集合体

絵には写実的なものと、抽象的なものがある。もっと沢山表現はあるだろうが語るほど絵画用語?をよく知らないのでこの場合はものすごく大きなカテゴリーとして絵画を2分してみたとして、

見たものをありのまま表現する(もちろんどんなに緻密に表現したとしても、その中に作家の意識が加えられる)写実的な絵は、まず理解しやすい。何が描いてあるのかが一目瞭然であり、それはまた自身にとってもどこかで見た光景や、あるいは知っているエピソード(例えば宗教画)なのだ。
それゆえ魅力がないという人もいるかもしれないが、ありのままのものがつまらないというならば、写真というアートはどうかといえば、写真もひとつの作品であることは間違いないだろう。

ピカソのようにキュビズムで表現されたり、ミロのように半ば記号化されたような絵になってくると、良し悪しは多聞に分かれてくるだろう。そのセンス、今までにはなかった表現の背景に、人々は驚き、最初はとても受け入れられなかった。しかし、一枚の絵は、ピカソという画家の人間が描いた、人間からのメッセージであるのだから、沢山要る人間のうち誰かはピカソの絵を理解することになるのだ。

おそらくピカソは、人間の心の底に共通するヴィジョンを描いたのだ。今まで誰も気がつかなかったような、もしくは気がついてはいたものの視覚的表現まで持ち込めなかったようなヴィジョンを、キャンパスの上に描き出してしまったので、最初は戸惑われ、後では支持されたのだ。(ボクは別に特にピカソが好きなわけではない。スゴイと思うのと、魂が持っていかれるのとは違う)

絵や写真というのは視覚的な情報だけなのであり、ボク達はある作品を見た瞬間に、今までに記憶したさまざまなビジョンと交錯させる。そして形、色、大きさなどさまざまな情報の集合体のそれに、懐かしさを覚えたり、微笑ましさや美しいもの、悲しみや怒りや孤独などの感情を引き出される。また、既知の光景とは少し違う形に新鮮さやひねられたユニークさ、そして意識していない部分=無意識で見て未だきちんと把握できていないヴィジョンを見てはっとする。
それは写実的であろうが、抽象的であろうが変わらないメカニズムで、只の視覚情報の集合体はひとつのメッセージとして心に届くのだ。


2005年05月11日(水) ある日の夢の解釈

先生に(※ヴァイオリンの先生ではない)夢の話をした。そして色々ヒントを得たのでここに書いておこうと思う。

ボク達が住んでいる世界が夢の世界なのは、ボク達にはまだ現実感がないからだ。同性愛者として隠れ住んでいることは、やはり大きな要因だと思う。相方と出会って数年のうち、ボクはボクが同性愛者だと思い込もうとしているんじゃないか、捻じ曲がった心の所為できちんと異性まで辿り着けないんじゃないかと考えたりして、何時までこうやって一緒にいられるか不安になったりしていた。

現実と夢の世界を行き来する船・・・やはり世界を超えるには無意識の流れ=水を超えなくてはいけない。ヘンゼルとグレーテルも、森に入っていって迷子になるが、帰って来るときには白鳥に乗って川を渡る。森に入るときには小鳥に惑わされ(目印のパンを食べられた)、帰るときもまた鳥によって導かれる。そのとき川が境目となるのは、よくあるモチーフだろう。

船が戦闘機のように武装していたのは、ボク達にとって世界は、特に現実の世界はまだ恐ろしく、武装していないといられないような世界だから。しかしもう使い物にならないくらい古い装備なのは、ボクの武器は随分昔に作られた、子供時代のむき出しの武器の名残だから。

現実から戻ってくるときには困難さを伴うのは、現実の世界に近づけばボク達は取り込まれてしまう危険を孕んでいるから。現実の世界にいるものは、すなわち母親であり、母親に取り込まれてしまうことを恐れている。それは、ボクが母親を渇望していて、取り込まれたい願望を抑えているからなのだ。

うつ病になった母親…ボクは子供の頃から情緒不安定気味な母親が理解できず、いつか頭がおかしくなるんじゃないかと心配している。その心配は今でも続いていて、ボクは母親を追い詰めないようにと、心の中で思っていることの殆どを言わずに、とりあえずの平和を演じていて、それでも今は心地よいと思っている。

現実の世界と夢の世界が保たれなくなってきたのは、この見せ掛けの世界が不安定で、これからまだ変化する必要をボクが感じているからだろうか。世界を安定させるのに音が必要だというのは、今ボク達がヴァイオリンを通して音を意識しているからだろうか。

ヴァイオリンは母親からプレゼントしてもらった。癌が治るためには免疫を高めることがきっと効果的だろう、相方にとって生きがいのようなものが増えればそれだけ生きる力も増すだろうというのが、両親の考えらしい。子供の頃あんなに何を考えているか解らなかった母親が、今はこうやってボク達を気にかけてくれる。空っぽだった心が、小さなピースを拾い集めて少しずつ埋まってきたと感じていて、今ボクは以前よりずっと母親に好意を抱いている。ヴァイオリンはその架け橋なのかもしれない。A線の音はラの音だし、E線はミの音だし、D線はレの音だ。夢の中の必要な音はまさに「ラ・レ・ミ」なのだから、音はおそらくヴァイオリンの音色を示している。そう考えて見つめていたら、ヴァイオリンが船のように見えてきた。


2005年05月10日(火) クロスの時計




東急ハンズに行った日、時計を買ってきた。というより、時計を買いに東急ハンズに行ってきたのだ。
少し前に、MONOという雑誌の中で時計の特集があって、その中で気に入った時計を買いに行ったのが4月末日だった。それはcrossというメーカのもので、調べたらこの地区では東急ハンズにあると解ったので買いにいったのだ。
ボク達は同じcrossの形違いの時計を購入した。ところが相方の時計は少しだけ狂っていたので、戦闘機を見た日、修理に出しにいったのだ。

それにしても気になるのは、相方の時計はよく壊れることだ。いつも買うときは2人で買うのだけれど、スイス・ミリタリーの色違いの御揃いを買ったときも、相方の時計は途中から狂うようになった。その次に買ったポール・スミスの時計は、街中で突然ベルトの螺子が外れて分解してしまい、拾い集めて修理に出した(今は動いている)。そして今回の時計だ。

別に相方は常に磁石を身につけている訳じゃないんだけれど、どういう力が働いているのかしら。


2005年05月09日(月) ハーメルンのヴァイオリン弾き

先日、先生が出演する演奏を見に行った時、初めて弦楽器の音を区別して見聞きした。子供の頃にも演奏を見たことがあったけれど、そのときはただ眺めていただけだったのが、音と奏者を観察していると、どの音がどの楽器から出ているかが解ったし、楽器の音のパートの違いも少しわかってきた。

そうしてから改めて今まで聞いていたクラシックを聞くと、少しずつだけれど楽器をイメージして聞こえてくる。管楽器はまだわからないけれど、弦楽器に限って言えば、はっきり解ってきたのはコントラバスとヴァイオリン、ちょっとまだよく解らないのがチェロで、かなり解ってないのがビオラだ。

先生の隣に座っていたヴァイオリニストがコンサートマスターだったのだが、彼はとてもノリノリで演奏していた。他者の1.5倍は動いてスペースをとっていたが、とても楽しそうだった。ボク達は、レッスンで習ったことをひとつひとつ思い出しながら先生をじっと見ていたけれど、その次にコンサートマスターを眺めていた。彼が1人で歩いていったら、ハーメルンの笛吹き男みたいに、後に楽しいパレードができそうだった。

家に帰ってDVDで小沢征爾の指揮をしている姿を見返してみたら、これまた激しく鋭く動いていて、指先どころか全身で音楽を演奏していた。彼が『音楽のおくりもの for Kids』というCDに寄せたコメントの中で、彼は作品達を“自分の親友のようによく知っていて、大切で大好きなもの”と表現している。演奏しているときのかれはもう音の一部に溶け込んでいるようで、音を操るというより彼と音が浸透しあって、完全なる調和へと向かっていくような印象を受けた。

※ハーメルンのヴァイオリン弾き
というような題の漫画を見かけたことがあるけれど、読んだことはない。ボクは捻じ曲がった子供だったので、『ハーメルンの笛吹き男』が好きでその後の研究などもいろいろ読み漁ってみたことがあるが、彼についていったネズミの群れや子供達が楽しそうだったというエピソードはなかったように記憶している。どちらかというとふらふらとひきつけられるようにして付いていき、ネズミたちは川に溺れ、130人の子供達は遠い山の向こうまでついていき、山の中に閉じ込められて二度と返ってこなかった。


2005年05月08日(日) ある日の夢の話

東急ハンズの半地下で、飛行機の解体およびパーツの切り売りをしていた。その飛行機は2人乗りの戦闘機で、汚れ具合からすると実際に空を飛んでいたようだ。どう見てもガラクタとしか呼べない断片から、プロペラの一部、操縦席のメーターの部分などが結構な額で売っていたが、どれも家に持ち帰ったら奥さんに速攻で捨てられそうなガラクタ具合だった。

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その夜夢を見た。
この世界は、現実と夢の2つの世界でできていて、夢の世界もちゃんと実在している、という設定だった。普通夢は夢が覚めたらそこで終わりだけれど、その夢の世界はずっと続いて終わらない世界だった。

夢の世界は美しいけれどどこか不気味な世界だった。流線型が主体の世界でつかみどころがなく、光が当たらないような場所には何かが蠢いているような世界で、ボクと相方は夢の世界の住民だった。

時々現実の世界に出向くのだけれど、そのときはカヌーのような船にのった。その船は、まるで戦闘機のように武装されていたけれど、もう古くてきちんと武器としては使えるか解らないような船だった。

現実の世界から夢の世界に戻る時は、ちょっとした高みから飛び降りなければならなかった。飛び降りるとき、心を研ぎ澄ませて水面に着地すれば、足元には船ができるが、心が乱れていればそれは只の黒いゴムボートの出来損ない見たいなのになって、ぐにゃりと曲がって水に落ちてしまうので、ボクは一生懸命船をイメージして飛び降りなければならなかった。

ある日、現実の世界から夢の世界に、ボクの母親が1人でやってくる。母親はうつ病に掛かっていて元気がなくて、ボクは『ああやっぱりうつ病になったか』と思う。(※これにはちゃんと背景があって、ボクの祖母は気がふれて何度も自殺未遂をしたうえに死んでいる。母親は自分もいつかおかしくなるのではと、若い頃から恐れている)悲しくなりつつもとりあえず母親を連れて現実の世界に連れて行って置いてくる。

現実の世界と夢の世界はともに保たれなくてはならない。だが、夢の世界は常に不安定で、現実の世界もまた脆い。お互いの世界が侵食しあって世界が悪い方向に向かっていく気配をひしひしと感じながら、ボク達は世界をいい具合に保つには、『ラ』の音と、『レ』の音と『ミ』の音が必要であると感じ取る。だが、3つの音をどう扱ったらいいのかが解らない。音は近づいて共鳴しあい、もう少しで世界のバランスは取れそうだが・・・


というところで目が覚めた。


2005年05月07日(土) チム・チム・チェリー

ヴァイオリンの先生に、目標の曲はありますか?と聞かれた。

相方はもう何ヶ月も前からヴァイオリンを弾くことを夢見てCDを聞いていたから、すらすらと答えていたけれど、ボクはこれが!という曲はそのとき思いつかなかった。チェロだったら、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007だと即答きるのだけれどなぁと思いながら、それからしばらく曲を考えていた。

ボクは、ヴァイオリンの音は少し悲しい音だと思っていた。実際は悲しい音も楽しい音も寂しい音も、内緒話のような音も出せると知ったけれど、やっぱり少し物悲しいような曲を想像して弾きたいと思って、

次に先生に会った時に『チム・チム・チェリー』が弾きたいと伝えた。ボクは子供の頃、ほんの少しだけエレクトーンを習ったことがあって、そのときぷらいまりーという本を4冊手にして、その中にあった曲の1つなのだ。ぷらいまりーにはレコードが付いていたので、習うよりも先にレコードを聞けた。その中で一番気に入って、エレクトーンで習えるのを楽しみにしていたのだけれど、その後引越しをして、エレクトーンは止めてしまったのだ。

だから、ボクにとっては『チム・チム・チェリー』は不完全燃焼みたいな曲で、おまけにその後授業でも習わずにきたので、あのぷらいまりーの記憶のままで止っている曲なのだ。

ネサフしたら、『チム・チム・チェリー』は映画『メリー・ポピンズ』に使われていたらしく、そちらばかりが引っかかった。メリー・ポピンズは見たことないけれど、確かジュディ・アンドリュースが主演じゃなかったかしら?だとしたら、1度見てみようかな。


2005年05月06日(金) 子供の世界

妹の産んだ赤ちゃんはすくすくと大きくなっている。妹はボク達の母親にたいしては複雑な気持ちがあるから、実家ではお産をしなくて、旦那さんの実家でお産をして、子育てしているのだ。これを話すとみんなええって驚くけれど、義理のお母さんのほうがボク達の母親よりもよっぽど母親としての要素を沢山持っているので、妹の気持ちもボクには解った。

赤ちゃんを見に旦那さんの実家に遊びにいったら、五月人形が2つ並んでいた。1つは旦那さんのもの、もう1つは赤ちゃんのためにボクの両親が贈った物だ(ボクの両親だって何もしてくれないわけじゃない、言葉が足りないだけだ)妹は両親から五月人形が届いたことがとても嬉しかったみたいで、いつもよりもはしゃいでいた。

旦那さんの五月人形の前には、20個くらいのボロのヌイグルミが一緒に並べで飾ってあった。みんな、旦那さんの子供の頃の大切な友達らしく、薄汚れていたけれど、とても大切に並べてあって、旦那さんが愛されていることが直接的に伝わってきた。ヌイグルミのうち幾つかはスヌーピーだったけれど、ボクはスヌーピーがこんなに優しい顔をしていることを初めて知って、見ているうちに涙が少しだけ浮かんできた。

ボク達の母親だって、ヌイグルミをちゃんとひとつふたつは与えてくれた。でも、ボク達はあまりヌイグルミが好きじゃなかった。触られるのが嫌いな母親は子供を抱っこしてくれなかったから、ボク達だって何かを抱っこすることは思いつかなかった。ボロになったら「捨てていい?」って聞かれたから捨てた。

本当は、ボロになって子供が要らないっていっても、特にお気に入りのものはとっておくほうがよかったのだとボロのスヌーピーを見て知った。妹は、旦那さんのボロのヌイグルミをみたから、きっとボロのヌイグルミを捨てたりしないだろうと思うと、いい母親のモデルがいることは大切だと思った。

相方には年が離れた弟がいるが、この子はとても大人しくて、人形遊びやヌイグルミが好きな子だった。母親は男の子なのにと心配して、ある日、弟が大切にしていた人形を勝手に捨ててしまった。この女の子の姿をした人形は弟がいつも一緒にいた大切な友達だったので、それが居なくなったとき、『何処に行ったの?』と探した。相方も一緒に探してあげたけれど、何処にも居なかったので、彼は泣いた。あんまり泣いたので、慌てて同じ人形を母親が買ってきたが、弟はそれには触らず、それまで好きだった人形遊びもヌイグルミを抱くことも全部やめてしまった。

ヌイグルミや人形のような、その人が大切にしているものというのは、その人の世界なのだ。そして、それを大切にするということは、相手の世界を大切にするということで、子供の世界は守られなければならないのだ。


2005年05月05日(木) 鏡の中のフラミンゴ

『フラミンゴ』をキーワードに検索した。

フラミンゴが群れで生活する、とはどこかで聞いたことがあったが、彼らは群れも群れで何万とか何十万とかいう群れで生活するらしく、フラミンゴの群れに出会った人はピンク色の水平線を見ることになるそうだ。

ずっと以前に、どうして(アフリカ)フラミンゴはあんなにピンクなんだろう?って書いたことがあったけれど(UPしているよりも昔の日記だったかも)、どうやら彼らが食べている藻に原因があるらしい。スルピリナという水中にある藻を食べていると段々と身体がピンクに染まっていくのだ。
沢山食べたものの方がピンクなのだから、きっとピンクの度合いでフラミンゴの年齢が解るんじゃないだろうか?そして若いフラミンゴは身体が白いのだ。
これで謎が解けた。ボクの中で印象に残っているフラミンゴの写真は、羽の先がほんのりピンクだったので、フラミンゴが全身ピンクだと知ってあれ?って思っていたのだ。

フラミンゴはかくして集団で生活するのだが、飼育するときはせいぜい数十羽が限度だろう(動物園ではそのくらいの単位でいるようだ)。だから、鏡を置いたりすると聞いて、何だか切なくなった。


2005年05月04日(水) 花鳥

相方は鳥が好きで、お陰で我が家には鳥グッズが沢山ある(その中にはアヒルグッズも含まれている)。
我が家から一番近いペットショップはよりによって鳥専門店で、通りがかるたびに沢山の鳥の声で賑やかなのだが、この店には看板鳥ともいう大型鳥が数羽いる。

写真で見てはっきりと名前を識別できる鳥は、キバタンとルリコンゴウインコ。キバタンは、白いボディに黄色い冠羽をのせた大きなオウムで、ルリコンゴウインコはよく海賊の船長が肩に載せている背中と翼が瑠璃色の鮮やかなインコだ。キバタンは体長50センチ、ルリコンゴウインコはなんと86センチもあるのだから、その姿は迫力あるし、鳴き声も大変に大きい。その上大層長生きをするそうで、100歳生きた例もあるそうだ。

相方はいつもインコを飼いたいというが、我が家には獰猛な猛禽類(※猫のこと)がいるし、大きな犬もいるから駄目!と言い聞かせている。(実際に戦ったら鳥が勝つような気がするが)それではせめて鳥を見に行こうと思ってネサフしていたら、『掛川花鳥園』という鳥の動物園を見つけた。ここのHP(“掛川花鳥園”でヒット)を見ていたら、大型の鳥がうじゃうじゃいたり飛び交っていたり勝手に襲ってきたり歩き回っていたりしてとにかく可愛い!おまけにボクの好きなフラミンゴまでいる。

“花鳥”という言葉が自然の美を顕すのが何となく解ったような気がした。


2005年05月03日(火) 繁殖




昼間から散歩していたら、毎日通る道端に黄色い花が一斉に咲いていた。おかしいな昨日も通ったのに気がつかなかったヨ?と首を捻っていたが、何のことはない、日中に咲いて夜には閉じてしまうタイプの花だった。閉じたり開いたりする花というと朝顔が直ぐに浮かぶけれど、朝顔だけの特権ではないらしい。

その道路の植え込みは、いつもなら雑草で一杯になるスペースだが、近くの家の人がきっと種を蒔いたのだろうが、一面に咲き誇っていて、イチョウの木の下がちょっとした花畑になっている。今はちょうど雑草も伸びる時期で、そろそろ一メートル級の雑草も出現してきているが、そのうちまた市が刈り取っていく。ほんの少しの土からも生えてくる植物達を見ていると、生きるものはみな繁殖するのだとしみじみと思ったりする。

繁殖という言葉から増殖を連想して、増殖ということばからはウィルスを、そしてリングという小説を思い出すのだけれど、ウィルスから動物までみんな増えようとするのは何故なんだろうな。雄ばかりの魚の群れを水槽で飼っていると、その中から雌化する固体が出てくると聞いたけれど、人間でも環境によっては起こりそうな気がする。

ボク達は同性だけれど、もし片方が異性化したら、それはそれで複雑だなぁ。だって別に異性が居ない環境じゃないし、好んで同性愛やっているんだし。でも、相方との間に子供を作れることが可能ならば、異性化してもまあいいかななんて思ったりして、やっぱり繁殖の本能が潜んでいるように思う。


2005年05月02日(月) think of me

オペラ座の怪人のナンバーのヒトツ "think of me"

第一フレーズ/劇団四季のVer.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうぞ思い出をその胸に
2人は別れを告げるけれど
忘れないでいてね過ぎし日の愛を
いつか貴方の胸に蘇る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この曲は、バックダンサーの1人だったクリスティーヌが主役に抜擢されて歌うオペラ“ハンニバル”の中の1曲、という設定で歌われるのだが、同時にクリスティーヌとラウルの再開を示唆している場面でもある。

クリスティーヌは母親を早くに亡くし、ヴァイオリニストだった父親ダーエとともに各地を演奏しながら転々と旅をして少女時代をすごす。土地や人間などへのしがらみがない生活を父親と2人きりで送っていたところで父親が死亡、18の頃にパリに流れ着いてオペラ座に入るが、心は今でも父親の死を受け入れられない、どこか夢見がちな少女としてファントムの前に現れるのだ。
ファントムが父親のフリをしてクリスティーヌの前に現れた時、クリスティーヌはいとも簡単にそれを父親=音楽の天使だと思い込む。それは彼女が特別夢見がちでロマンチストだったわけではなく、父親の死を通過する喪の仕事(モーニング)を回避するのにこの上ない適合者が現れたために、すり替えがクリスティーヌの側に起こったのだ。

ファントムは声だけで、けしてクリスティーヌの前に姿を見せない。それは彼が醜さを露呈することを恐れたからだが、これが更にクリスティーヌを拘束することになる。もし、早くから姿を見せていたならば、クリスティーヌは時間とともにそれが父親とは違う人格であると(姿はこの際あまり関係がない)認識せざるを得なかっただろうし、ファントムも父親の役割を演じ続けることなく、1人の人間としてクリスティーヌと関わることが可能であったかもしれない。
ファントムはまさしく父親の亡霊の役割を演じ、2人の世界は保たれていたが、ラウルという人間の登場によって、ファントムは亡霊ではいられなくなってしまう。クリスティーヌはラウルによって現実に引き戻され、父親の亡霊に替わる相手を見つけようとしたそのときに、ファントムもまた亡霊の役割を脱ぎ捨てて1人の男として舞台に登場するのだ。


話は脱線したが、冒頭の歌のフレーズがボクはとても好きで、いつも口ずさむ曲の1つだけれど、思い出を胸に生きていくことに多少のシンパシィを感じているからだろうか。
エヴァの中でシンジが『思い出を大切にして生きていって何が悪いんだよ!父さんの言葉さえあればこれからだって生きていけるんだ』とか自問自答するシーンがあるけれど、ボクはすごく心引っ張られるシーンだった。
シンジは独りの殻から出てこれないけれど、思いではできれば自分だけじゃなくて、相手と共有できたらもっといいことのように思う。ボクにとって大切な思い出が、ボクの愛の対象にとっても大切なことであるならば、それはとても嬉しいことだと思うのだ。


2005年05月01日(日) 蛙熊狸




miniの雑誌を買いにヴィレッジ・ヴァンガードに出向いたら、相変わらず沢山のガラクタで店は埋め尽くされていた。ボクはドン・キホーテに行ったことはないけれど、いい勝負なんじゃないだろうか?と思うくらいの商品の山を眺めていたら、一角にカエルコーナーが設置されていた。
ボクもカエルはワリと好きだけれど、個人的には羊好きなので、できれば羊コーナーができるといいと思うのだけれど、今までコーナーができるほど羊グッズを見たことはない。

キャラクターになりやすい動物となりにくい動物がいて、例えばウサギみたいにはっきりとした特徴のものはなりやすいといえるだろう。カエルもその概観がかなり特徴的でユーモラスなところが愛らしいといえなくもない。


子供の頃不思議だったのは、何故クマは恐れられているのにヌイグルミとして堂々ファンシーの仲間入りをしているのか?ワニや蛇のヌイグルミがちょっと怖いとか気持ち悪いとか恐れつつ愛されているのにたいして、クマときたら丸きり可愛らしさで勝負していて、何か騙されている・・・と子供心に思っていた。

もっと疑問だったのはタヌキで、ボクはタヌキっていうのは信楽焼みたいなおなかが白くてでっぷりしている生き物を想像していたら、現物はイタチみたいにスマートな生き物だった。人間で言うなら一休さんの桔梗屋のようなイメージだったのだが、あれではとても木の葉で人を化かすことはできなさそうだ。タヌキが本当に死んだフリをするかどうか解らないけれど、もしそのエピソードから木の葉でドロンの話ができたとしたら、大した想像力だと思うんだけれどな。

※写真は手足がマグネットになっているカエル。いつもスタンドを登っている可愛い奴ら。


ロビン