「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2016年07月22日(金) 発達段階

発達段階という言葉がありますね。発達課題とも言うと思います。人という生き物がどのように発達を繰り返していくか、昔々の精神科や心理療法家によって基準の1つとして定められたものだと思います。それが全てであるという見方は危険だと思いますが、例えば『インナーチャイルド 本当の貴方を取り戻す方法』に載せられているグラフで見る人生初期の発達の程度(P110〜)は私にとって興味深いです。 

例えば、三つ子の魂百までと言われるように、子ども達がどのタイミングでどのように彼らの発達段階を通過していくかは全て周囲の大人の手にかかっているという事実は既に多くの人が語っていることだけれど、その、幼少時に築いた、あるいは植え付けられた価値観はその後の長い人生でいつも何かを判断するときの基準になるということを意識するとき、必要な時期に健康に発達出来なかった部分については、機会を見つけて健康な状態へ持っていけるようにしたいと折に触れて思います。

自分にどの部分ができていて、どの部分が未発達のままなのかを知るためには、毎日自分の内側に意識を向けることが大切ですよね。私はその時間を毎日ほんの5分でも作ってあげられるような、自分へのやさしさを保つようにしています。

自分のことをそんなふうに言い切っていいものかな、という疑問が沸かないでもないですが、私は、自分達に対するやさしさはいつも私達の中にあると思っています。

人間は本来、自分を守れるように、自分を生かせるように生まれているんですよね。そう思うと、自分にやさしくあるのも自然なことだと思います。つまり、このやさしさをキープしていられるならば、少々未発達の自分もありのまま愛して、不足な部分を丁寧に満たしてあげる毎日を送れるのだと思っています。そうして、過去に健康に通過できなかったテーマも少しずつ、乗り越えていける。

このように捉えることが、昨日より又少し大人へ成長するための一つの方法かな。


2016年07月07日(木) 国際交流

人が国際交流をする上で弊害になることがいくつかありますね。まずは、言語。ちなみに、言語の中には、言葉を使った方法と身振り手振りや顔の表情などで行える方法がありますね。言葉を使った方法は自分の言葉が耳に入ってきますし、言葉というのは伝えた分だけ伝わるんだという事を思えば、自分が交流を持ちたい国の言葉を学べば意外とスムーズにいきそうです。でも、非言語的、ジェスチャーや表情で行われるコミュニケーションは言葉を使うより誤解が生じやすいですね。その理由は、私達は見たものを私達の基準で判断するからでしょう。例えば、多くの欧米人は道で会う知らない人にも笑顔を送って、私はフレンドリーよ、とアピールします。しない人のほうが変な感じにさえなります。しかし多くのアジアの国では知らない人には笑いかけませんし、そんなことをしたらなにか怪しい人と思われることもあるでしょう。特に男の人が道端で女性や少女に笑いかけたりしたら、性的な目的でもあるのかしら、と思う人さえ居ると思います。

次に弊害になりそうなのはその国独自の文化や習慣でしょう。前に書いた、見知らぬ人に笑いかけるかどうか、ということも昔からある習慣の違いだと思いますが、更には、食事や挨拶の仕方、なにか断るときの方法、他者と自分との間にどのように距離を置くか、友達を持つ目的は。。。などなど言いだすときりがありませんね。例えば、インドでは指を使って食事をしますし、ベトナムでは今でも床に座って食事をします。アメリカではパーティーの時に、多くの人は立っています。どうやらその理由は、歩きまわってより多くの人と交流を持つためのようです。日本のように、招かれた部屋の座布団や椅子に座って、用事がない限りは動かないでいる、ということがないんです。招かれた家といえば、アメリカでは、ホストは初めての訪問者にはまず家の中全体を見せて歩きます。壁に飾っている家族写真や置いてある鉢植えの花の名前、ベッドルーム。ベッドルームに関しては、ちらりと見せてくれる人もいれば、部屋の中まで招かれてあれこれと説明してくれる人もいます。日本では、先ほど書きましたが、招かれた部屋から出ることなどトイレにいくとき意外にないのではないですか?私はもともと他の人の所有物にそんなに興味が無いのですが、それはもしかすると、小さいころ両親から「人のことをジロジロ見てはいけない」と言われていたからかもしれないとも思っています。訪問した先の家の中を見回すことが失礼な行動のような気がするのです。もう5年近く住んでしまったのでアメリカのいろいろな習慣にもだいぶ慣れてきたけれど、以前はアメリカの人の家に招かれ家の中をあちこち見て回っていることに<これはなにのためにしているのだろう〜〜?>と疑問を持ったものでした。このように、普段の何気ない行動は全て、全く役に立たないものから役立って仕方がないもの、それから、そこそこいいものも含めて私達の文化や習慣から来ているんですよね。その異文化を真っ向から否定したり恐ろしい何かだと感じないように広い視野で居ることが国際交流を楽しく進めていく方法の1つですね。

もっと長く書きたかったんだけど、今から出かけなくちゃいけません。ということでこの続きはまた後ほど!


2016年07月05日(火) 生きるために大切なこと

 この日記のタイトルについていつもより少し深く思いを巡らせました。タイトルは<生きていくのに大切なこと>です。本当に、<生きていくのに大切なこと>って何なのだろう。

身体、知識、知恵、雨風凌ぐ家とか何か、夜のために火の気がいるのではないかな。保温のために衣服も少し。それからそれから?この時代、ある程度便利な場所に住んでいたら全てを自給自足で暮らすことは難しいので、お金も多少要るでしょう。

と、一通りサバイバルのためのものが出尽くした後、胸のストンと落ちてきたのがあるんです。それは、素直な心の自分です。

人間とは不思議なもので、いろいろと欲を持って叶えることばかりを意識して生きていると、自分の外にばかり目が行って自分の内側に気持ちを向けることが出来ないではないでしょうか? あまりに欲深いと、一つの欲が叶ったらその次そしてその次と、まるで大きくて黒いドラム缶に思いつくものをひたすら押し込んで、気がつけば下の方は全く見えなくなっている、というような時間も労力も無駄にしてしまう生き方になってしまうこともあるかもしれません。そんな状況の中では、見えるものだけが大切に思えて見えないモノには目が行かなくなって、いつしかその存在すら忘れてしまうこともあるでしょうか。そして例えば、見えるものというのは身体の外側にある物理的なもの、見えないものというのは自分の内側と言ってもいいのかな。

もう一つ不思議なのは、こんな風にして自分の内側のことを思い巡らせているだけでやさしく穏やかな気持ちになってくることです。それから急に、自分の周りだけ時間がゆっくり流れているような気持ちになるんです。ここまで来たらハッピッピ。「(カレッジに通っているので)良い成績取りたいな−とか(ヨガインストラクターもしているので)もっとたくさんの人にレッスンに来てもらえたらなーとか、自分に少し無理をさせてしまう思考を発見し、そこからも開放されるんです。

そんなことを思ってつつうらうら、最後は、自分の心が見えるように、もっともっと身軽な生き方をしていこうという再びの思いに終わりました。必ずしもそうだと言い切ることは出来ないけれど、私の場合、周りにモノが少ないほど、自分の内側を見ることが出来ます。

みなさんはどうですか?あなたが、生きるために大切にしていることは何ですか?


2016年07月01日(金) いつも楽しいのが人間

 先日どこかで、<いつも楽しいのが人間>という一文を読み、非常に共感しました。そう。いつも楽しいのが人間なのです。私はこのことを、心の傷を癒やすようになってからのち徐々に実感するようになりました。その実感する時間の長さは、傷を癒やして楽になってきた自分に比例しています。

その文章を見た後、思い出した経験もありました。以前職場で夜勤をしていた時、一人の同僚に「一晩楽しく仕事しましょう」と言った時のこと。彼女は「楽しい仕事なんてどこにもありません!」と言って怒ってしまったんです。その同僚はいつもとても頑張って働いている人でした。

その後私はあることを思いました。それは、人は自分が苦しい時には楽しい物を見ても楽しいと感じられない、ということです。私のその他の経験を含めてそう思ったのです。(この部分はきっと、同じものを見てプラスに捉える人とネガティブに捉える人の違いにつながるのでしょう)そして、いつもプラスの視点を持っていたいという思いからますます、癒やしの作業を進んでするようになりました。実際に、楽しく生きる時間が増えていく自分を見ているのは楽しくて、そんな自分をもっともっと好きになりました。

追記。癒やしの作業について少し触れましたが、私の場合はそのような経過を辿ったということのみで、心の傷を癒やさなければいけないと説得しているのではありません。何というか、いつも楽しいのが人間、という捉え方って良いな、というお話でした。


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