日英双語育児日記
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Sが保育園からたけのこほりにでかけて、大きなたけのこを1本持って帰ってきた。
夕食後、「たけのこの絵かく」と言い出して、書き始める。たけのこはうまく立たなくて、テーブルの上にごろんと寝かせて描く。
「よこになってても、うまくかけるで」だそうだ。
細いペンできれいにスケッチして、それから色エンピツで塗る。なかなか上手。
2008年04月26日(土) |
ファインディング・ニモ |
子供たちといっしょに、「ファインディング・ニモ」をDVDで見ました。
このごろは、インプット、アウトプットともに日本語がめっきり多くなり(10対1くらい?もっと開いているかも)、せめてインプットだけでもときどきはと思って。
ちょっと不安だったのですが、そこは子供をとらえて話さないピクサーの名作。なかなかおもしろく見たようで、三人で英語で見ながら、つっこみや感想を日本語で入れあっていました。
嬉しかったのは、見ながらSが「これ、ライアンをさがせと同じやで。さいしょ、おうてて、それからいじわるになって、それからさがしにいくねんで」と言い出したこと。
「おうてて」というのは、多分、みんなでなかよくしてて、ということなんでしょう。そのあと仲たがいして、ということか。このあたり、五歳四ヶ月にしては、ちょっと語彙がとぼしいんじゃないの?と思わないでもないけれど(保育園の先生にも、Sくんのお話はちょっとわかってもらえないことが、といわれたことが^^;)。
でも、息子が私の知らない映画(借りてきたのは私だけれど一緒には見なかったのだと思う)と比較しながら、自分の言葉で映画の感想を語ってくれるようになって、すごく嬉しいよ、母は。
TはTで、「本で読んだことあったから、おもしろくなかったー」なんてえらそーに言ってました。いえ、見ているときはすごくおもしろそうに見てたんですけどね。私は知らなかったけど、かかりつけの小児科に絵本があったそうで。ともあれ、これまたTなりの映画の感想なのね。
卵のときのニモがイクラみたいやなあと言ったら「Tも最初にみたときそう思っててん」だそう。
そういえば、このあいだ子供向け落語本のなかの「目黒のさんま」を読んでやったあと、「さんま食べたくなってきたなあ」と私がいったらTが「本よんでるときは、さんま食べたくなるけど、ほんとにたべてみたら、にがいねんで。本のほうが、おいしそうやで」と言って、これも、おおなかなか言うやん、と思ったことでした。
映画でも物語でも、何がおもしろいか、自分はどう思ったかを、自分のことばで「語り合う」っていうのはすごく楽しいし、私は人とのそういうやりとりを大事に思っているので、子供のこういう反応は励ましてやりたいなあと思うことでした。
2008年04月22日(火) |
初めての「おかえり」 |
午後からTの学校の先生の家庭訪問。給食のあと学童に行かずに集団下校して帰ってくることになっているTを家で待ちました。
下校予定時刻と学年便りに書いてあったよりも、30分遅れての帰宅。学校からは5分の距離なのですが、下校もなかなか予定通りには行かないようです。心配になって、学童に「間違って行ってませんか?」と電話したり、窓から外をのぞいたりしていました。
待ちきれずに門の外に出ていると、ランドセルを背負って、黄色い安全帽を被って歩いてくる姿が見えました。
普段は学童に迎えに行っているので、歩いて帰ってくるのを家で待つのは初めてでした。
ある人気小説家の、非常に人気のあるタイムマシン小説を読んで、ずしーんどよーんとなりました。仕事でも家庭でも人生の最大の危機にある男が、自殺を考えたときに、タイムマシンのような乗り物に出会い、過去の自分を再び生きるという小説です。
おもしろいんですけど。うまいんですけど。 ページを繰るのももどかしいというかんじで読んだんですけど。 すごい感動と支持があるのもわかるんですけど。
でも、今の私はこの小説にNOを言いたいと思います。
毎日毎日の子育て、子どもと一緒に大きくなる日々の不安と楽しさが混在となって、それこそが日々の現実にほからならない私にとっては、「失敗した過去」にタイムマシンで戻って、後悔と反省と再生のかすかな希望を見出す男の物語など、いらない。
受験に失敗していじめられ家庭内暴力をふるう中学生の一人息子。仕事中心の夫と荒れる息子の家庭から逃げるように何人もの見知らぬ男と体を重ね続ける妻。こうした存在が、会社をリストラされ自殺を考える中年の主人公の「不幸」を構成するパーツとして、記号のようにそこに配置されているような気がしてならない。
それは、後悔や反省してすむ話ではないわけだし、それを後悔、反省して、生き直そうとする男の物語など読みたくはなかった。
過去は変えられないという設定で主人公の過去認識だけが変えられることになっている。多分そのことが、ものすごい違和感というか不快感の根底にあるのだと思う。主人公の成人男性が、物語の構造上、通常の主人公以上の、とんでもない認識的高みに立った小説だから。主人公の見かけ上の弱さ、弱り方に騙されてはいけない。彼には「さらに下」が用意されている。それが妻と子供だ。
なぜ主人公のあなただけが、過去を知りなおして、一度目に生きたときには得られなかった知見を得て、一歩幸せに近づくことを許されるのか。それは、あなたの息子にだって、あなたの妻にだって、許されるはずではないのか。それが許されない小説世界の設定に、息が詰まりそうになる。女こどもも、それぞれの人生の主役なのだ。
なんというかな。 読むんじゃなかった。 現実だって不安でいっぱいなのに。
清水義範ならば、絶対にこうは書かないのではないか。
ようやく学童用お弁当作りも終わり、給食開始。
しかし、
・Tを学童に迎えにいって(ああ、今日も問題なく過ぎたのだなあと思い) ・明日の学校の用意を夕食後にいっしょにやる (Tが用意するのを見てやる) ・朝、お弁当(これは昨日まで)や夕食の用意をしつつ、ちゃんと時間に登校するのを見届ける
というあたりが、自分の一日の緊張の山場という気がしてならない今日このごろ。これでいいだろうか、忘れ物はないか、時間に間に合うか、抜けていることはないか、などなど。どきどきするし、いらいらするし。
すべてこれまでがルーズすぎたんですが(登園時間は遅刻気味とか、持ち物用意は朝直前とか)、なんかほんと、ダブルシフトというよりも、裏表が入れ替わってるんじゃないのというような、ハイライト感覚。
子供が出て行くと(Sは当座夫が送っています)、もう一仕事も二仕事も終わったような気が。そういえば、保育園に入ったばかりのころは、子供を保育園に入れて、電車乗って、職場近く駅まできたら、もう一日の仕事終わりみたいなかんじでした。
TとSを見ていると、読むことと書くことの好みがあるのだなあと思う。
TもSも最近漢字に興味を持っているのだけれど、Sはとにかく書くのがすきで、読み方も意味も書き順も気にせずに、ひたすらいろいろな漢字を白い紙に書いていく。記号というか意匠として描いているかんじ。
Tは「なんて読むの?」「どんな意味?」という正統派(?)アプローチ。
年長組になって登園二日目のS。
今日は、おばあちゃんにお迎えに行ってもらったのだけれど、私が帰宅後、かばんのなかから、保育園からのお知らせのお手紙をたくさん出してきて、はい、と渡してくれた。
これまでは、ぜんぜん出さなくて、TがSのかばんのなかから出してくることも多かった(きょうだいがいる場合下の子だけが家庭用プリントをもらうことになっているので、給食献立表などはSだけがもらっていたので)。
Tが卒園したので、Sはおにいちゃんのいない保育園で年長組さんで。やはり彼なりにがんばらなくちゃとはりきってるのだろう。
今日はTの学童開始と時間差があるので、Sだけさきにお父さんと嬉しそうに登園していった。
Tは今日から学童保育。同じ保育園のお友達が何人もいて、楽しく一日すごせたようです。
給食が始まるまで、しばらくお弁当です。春休み中はおやつも持参でいく(学期中は出るらしい)ので、買いおきしてあり小袋菓子のなかから選ぶのが楽しいよう。
朝、外遊びまでの一時間が、自習時間になっているとかで、帰宅後「かんがえたことがあるねん。明日はひらがなの練習するやつ、もっていくわ」と言っていました。
うーむ。昨秋に家ではじめたものの、途中まででやめてしまっていたひらがな練習帳。つい数日前も、学校始まる前にやっとく?と私が言ったら、「めんどくさいからいやー」と言ってたのにな。いろいろと刺激を受けているのね。
なにやらポジティブな刺激を受けたようなのは、よかったよかった。
ともあれ、一日目無事におわってなによりでした。
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