大 将 日 記
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2005年12月31日(土) 2005年の感謝状

今年、千葉ロッテマリーンズが31年振りに優勝した。千葉の街が揺れた。千葉県
の野球王国復活を告げる最高の勝ちっぷりだった。千葉ロッテのファンである事、
そして千葉ロッテのユニホームを着て歩く事が全然恥ずかしく無くなった。監督で
あるボビー・バレンタインの功績が一番大きいのは誰もが納得するだろうが、我々
を26番目の戦士と位置付けてくれた球団に大きく感謝である。

千葉ロッテマリーンズ、感動を本当にありがとう。



昨年から本格的に復活させたお芝居。今年は舞台稽古から幕を開けた。『泣いた赤
鬼』がそれである。復活2公演目で主役を演じさせて貰えたのには大きく感謝して
いるし、何より共演した子供達が最高だった。お世辞では無く最高だった。またい
つか一緒に共演出来る日を本当に楽しみにしたい子供達だった。

智子・パト・美帆・結衣・萌子・ゆかり・倫子・皓太、笑顔を本当にありがとう。



私は昔から格闘技を見るのは好きだった。特にプロレスが。
今これを書いてる時も大晦日恒例の格闘技中継がテレビで放映されているが、そん
な私がいつもここぞと言う時にテンションをあげる為に聞く音楽がある。プロレス
ラー・長州力のテーマソング『パワーホール』である。しかし今年は長州力のテー
マと言うより長州小力のテーマになりつつある。それはそれでいいのだが、今年新
たに故橋本真也のテーマ『爆勝宣言』も自分のテーマソングに取り入れた。40歳
と言う若さで天国へ行ってしまった橋本、実は私はそんなに橋本の試合を見てはい
ないのだが、巨体を揺らし新日マットを走り回っていたあの姿は勇気を与えてくれ
た物だ。

橋本真也、勇気を本当にありがとう。



今年、芝居以外の仕事で大きな変化があった。某自動車メーカーのリース部門のコー
ルセンターが千葉から移転してしまい、私は契約打ち切りになったのだが、そのま
ま上の課で働けるように上司が道を引いてくれた。
コールセンターが千葉から何処に移ったかと言うと、熊本である。立ちあがったば
かりの熊本コールセンターでは誰も先輩が居ないと言う事でてんてこ舞いしていた。
そこに私が出張で向かったのだが、コールセンターで働く人達に本当に良くして貰
った。これからも是非頑張ってもらいたい。

熊本センターで働く、高木・松崎・岩村・平田・本多・・・上げればキリが無いけれど、
みんな温かい心を本当にありがとう。


私の今年を語る上で、三越劇場公演『はなになったねこ』を忘れる訳にはいかない。
共演者全員に感謝しているのは言うまでも無い。しかし、その中でもあえて個人名
を上げさせて貰おう。

俺をいつも叱咤激励してくれた村岡きよみさん、本当にありがとう。
稽古場の雰囲気を和ませてくれた松村和亮さん、本当にありがとう。
いろいろとさりげなく気を使ってくれた彼方悠璃さん、本当にありがとう。
こんなおっちゃんを相手にいつも笑顔を振り撒いてくれた花田千紘さん、本当にあ
りがとう。
新潟から単身上京し、辛い顔せず頑張ってくれた近藤亜美さん、本当にありがとう。
こんな俺に「また一緒に演りたい」と言ってくれた平野淳さん、本当にありがとう。
何かと私を頼ってくれた室田純子さん、本当にありがとう。
公演終了後に何度も何度もお礼のメールをくれたMeguさん、本当にありがとう。
なかなか出来ない振付を飽きもせず何度も見てくれた林燈子さん、水沢こよみさん、
本当にありがとう。
俺の存在が勇気になると言ってくれた伊藤剣さん、本当にありがとう。
何度も何度も衣装を直してくれた丹羽杏奈さん、本当にありがとう。
私のメイクの原型を考案してくれた安伶先生、私の歌を誉めてくれた佐藤先生、い
ろいろあったけど素敵な記録を残してくれたスマイル井上&トム山本、本当にあり
がとう。
そして三越劇場と言う由緒ある舞台に役者として立たせてくれたたむらみみこさん
と、私を見に来てくれた全ての人に、本当にありがとう。(俺って大人だなぁ 笑)



と、今年も本当に沢山の人に支えられて過ごして来た訳なんですが、私が今年一番
感謝しているのはこの人です・・・

私が三越劇場に出られるようになった事を誰よりも喜んでくれ、その何気ない一言
一言が私の勇気となり自己に磨きがかけられていきました。
この方にはあまりにも教わる事が多過ぎて、今年一年だけで随分と成長させて貰い
ました。
『泣いた赤鬼』では自主稽古に嫌な顔せずに付き合ってくれて、三越公演の時は座
席を移動して私の様子をこと細かく見張って頂き、お褒めの言葉を貰う前に

「悪役の靴じゃない!」

と一喝されてしまいました。

私が正式に師匠と呼ばせて貰いたいと伝えると、笑いも照れもせず真剣な眼差しで
黙って頷いてくれた人。
俺の師匠になったくせに平成17年度(第60回記念)文化庁芸術祭演芸部門芸術
祭大賞を受賞したと言うのを子供のように喜んでいた人。

その人に今年一番の感謝を贈ります。

夕鶴みき師匠

今の自分があるのは貴方のお陰です。今年一年本当にありがとうございました。
また来年もよろしくお願い致します。



今年、私を取り巻いて下さった皆さん本当にありがとう。
大晦日にこの言葉を言える年はなかなか無いけれど、今年は大きな声で言わせて貰
います。


いい年だったよ!!


新年早々、Key StationのHPは若干のリニュアルを致します。
お楽しみに。

今年一年、本当にありがとうございました。


2005年12月30日(金) レクイエム2005

南風日記では毎年12月30日に恒例のレクイエム。
私達に夢と希望と感動を与えてくれた著名人の方々の中に、残念ながら2006年
を迎える事が出来ずに今年も多くの方がお亡くなりになってしまいました。
そんな皆様に感謝の気持ちを込めてお送り致します。


4月22日 享年63歳

ポール牧(タレント) 自殺
指パッチンで一世を風靡したタレントととしてあまりにも有名。
元々実家が寺だった事もあり、晩年はタレント業よりも住職として活躍。
うつ病を患い、自宅マンションから飛び降りたと見られている。


4月27日 享年84歳

福井 敏雄(お天気キャスター) 老衰
独特のイントネーションと語り口で、今から20年位前にCMに出演して依頼大人
気となったお天気キャスターの元祖的存在でした。


4月27日 享年90歳

大社 義規(北海道日本ハムファイターズ前オーナー) 心不全
1973年(昭和48年)、人気が低迷していた日拓ホームフライヤーズを買収し
て野球界に参入。野球を愛し、球界一球場に足を運ぶ名物オーナーとしても知られ、
81年に念願のリーグ優勝を果たした。
「金は出すが口は出さん!!」と言う台詞に当時監督だった大沢親分は痛く感動し、
プロ野球球団オーナーの鏡でもあった。


5月30日 享年55歳
 
二子山親方(元大関貴ノ花) 口腔底癌
角界のプリンスと言われる程の大人気で、小兵ながら数々の名勝負でファンを魅了
し、引退後は2人の実の息子を横綱に育て上げた角界の大功労者、二子山親方。
横綱初代若乃花の実弟として角界に入門。大関では歴代1位の在位50場所を記録。
輪島、北の湖とともに70年代の大相撲界を支えた。
指導者としても横綱貴乃花、横綱3代目若乃花と史上初の兄弟横綱を育てた。
晩年は息子2人の不仲と自身の離婚と言う寂しい思いをしていたと言う。


6月18日 享年90歳

松村 達雄(俳優) 心不全
映画『男はつらいよ』の2代目のおいちゃん役として有名。
晩年は、我心の師匠さだまさし原作の映画『解夏』に僧侶として出演。
4月にNHKのマスコットキャラクター「うさじい」の声を自宅で収録したのが、
最後の仕事となった。


6月30日 享年80歳
小倉 昌男(ヤマト運輸元社長) 腎不全
宅配便の生みの親と言われた人物。
1948年(昭和23年)に父親が経営する大和運輸(現ヤマト運輸)に入社し、
社長時代の76年に「宅急便」を開発。郵便小包を大きく上回る市場に育て上げた。
規制緩和をめぐり旧運輸省や旧郵政省と対立。規制緩和を実行させた経営者として
知られる。
この人が居なかったら郵政民営化を小泉総理も叫ばなかったかもしれない。


7月1日 享年52歳

天野 滋(NSPのリーダー) 脳内出血
国立一関工業高専(岩手)の同級生3人でNSPを結成し、73年のポプコン出場
をきっかけにシングル「さようなら」でデビュー。
叙情派フォークで人気となり、「夕暮れ時はさびしそう」などのヒット曲がある。



7月11日 享年40歳
 
橋本 真也(プロレスラー) 脳幹出血
破壊王死す!! 私はこの訃報を『はなになったねこ』の稽古中に清瀬で知り呆然と
してしまった。
84年4月、新日本プロレスに入門し、同期の蝶野正洋(41)武藤敬司(42)と
闘魂三銃士として人気を集めた。00年11月には新団体ゼロワンを旗揚げしたが、
団体経営と右肩痛に苦しんで昨年11月に活動停止を発表。長期休養からフリーと
して復活に備えていた矢先の急死だった。
今年の秋にはリングる予定で右肩痛からの復活に強い意欲をみせていたが、リング
に戻らぬまま他界…。無言でプロレス界に別れを告げた。
同郷の偉人・織田信長の生きざまに心酔し「破壊なくして創造なし」が口癖で、い
つしか人は彼を『破壊王』と呼んだ。
死後に放映された『ロンドンハーツ』と言う番組で橋本がリングの上で長州小力を
笑顔で痛めつけていたのが凄く印象に残っている。


7月26日 享年67歳

岡 八朗(吉本新喜劇) 肺炎による呼吸器不全
宝塚映画の大部屋俳優を経て故花菱アチャコの紹介で吉本興業入りし、漫才コンビ
「四郎・八郎」として活動。新喜劇に移ってからは、花紀京、原哲男らと黄金時代
を築いた。オール阪神・巨人が弟子である事は意外と知られていない。


9月19日 享年83歳

中内 功(ダイエー創業者) 脳梗塞
1957年に「主婦の店・ダイエー薬局」1号店を大阪にオープン。70年に年商
1000億円を突破し、社名を「ダイエー」に変更。
女子バレーボール部、陸上部も立ち上げ、88年ソウル五輪マラソン中山竹通氏ら
を輩出し、89年にプロ野球南海ホークスを買収し、本拠地を福岡に移し福岡ダイ
エーホークスのオーナーとなる。
実は私も少なからず中内イズムを継承している一人で、私は高校卒業後にダイエー
系列のスーパー・マルエツに入社し10年間ダイエーグループの社員として働いた。
その時に中内氏に教えられたのが『For the Customers(お客さまのために)』。
親会社は代わった今でも福岡ドームの入り口には中内氏直筆のこの文字が掲げられ
ている。


9月19日 享年91歳

後藤田 正晴(元副総理) 肺炎
鋭い判断力から「カミソリ」の異名を持ち、官房長官、副総理などを歴任。
徳島県生まれで旧内務省出身。
警察庁次官、同長官時代は、70年の安保紛争や72年の連合赤軍あさま山荘事件
など数々の難局を解決する危機管理手腕を発揮した。同年7月、田中内閣で官房副
長官(事務)に就任。76年衆院選初当選。官房長官2回、総務庁長官、法相、副
総理などを歴任。96年政界を引退した。


10月14日 享年69歳

小野 賢二(西武ライオンズ元球団社長) 脳腫瘍
1993年5月に西武球団の専務取締役に就任以来、球団代表、球団社長として、
2003年まで球団経営に携わった。在籍11年間で優勝5回の常勝球団に育て、
またマンデー・パリーグやプレーオフ制度導入などに中心的役割を果たした。
小野氏が居なかったら、今の西武ライオンズは無かったと言っても過言では無いと
言えるほど、日本プロ野球、特にパ・リーグの偉大なる功労者である。


10月19日 享年81歳

宮城 けんじ(Wけんじ・漫才師) 肺癌
子役として映画デビューした後、軽演劇俳優を経て、歌手春日八郎のショー司会を
7年間務めた。1961年、玉川良一とのコンビを解消した東けんじと漫才コンビ
「Wけんじ」を結成。絶妙なアドリブでボケに徹する東に、軽妙な語り口の宮城が
ツッコミを入れる芸風で、63年にNHK漫才コンクールで優勝。
「やんなっ!」「ばかだなぁ」「なっ。オー!」のギャグが流行語になり、60、
70年代のお笑い界の人気者となった。
99年に東が亡くなってからは、漫談家として浅草東洋館などの舞台に立った。


10月24日 享年82歳
 
根上 淳(俳優) 糖尿病の合併症による脳梗塞
バイオリニスト森乙の長男。法大在学中に学徒動員で飛行隊入り。1947年大映
に入社し、67年の退社までに100本以上の映画に出演、青春スターとして人気
を集めた。65年にペギーさんと結婚した後はテレビを中心に活躍。「白い巨塔」
や「帰ってきたウルトラマン」の伊吹隊長など、脇役で親しまれた。
おしどり夫婦ぶりは有名で、一緒にCMに出演したり、74年に夫作詞、妻作曲で
「花の中年」を発売。夫婦で書道展に入選も果たした。


11月6日 享年38歳
 
本田 美奈子(歌手) 急性骨髄性白血病
「1986年のマリリン」などのヒット曲で知られ、アイドル歌手からミュージカ
ル女優に華麗に転進した本田美奈子は私と同じ歳だったのに、随分と急いで神様の
元に旅立ってしまった。
今年1月に病気が判明して緊急入院。3度の化学療法と臍帯血(さいたいけつ)移
植手術を受けた。7月30日に一時退院し、翌31日の誕生日を自宅で迎えるなど
快方の兆しもみえていたが、8月31日に再び染色体の異常が発見され、再発が判
明した。今年がデビュー20周年。節目の年の復帰を信じて、新アルバムを企画し
ていた。「病室とレコーディングを行き来してつくろう。まだ20周年に間に合う」
と先月から詩の創作も始めていたが、容体が急変した。
アルバム発売、ミュージカル出演、20周年コンサートなどすべてをキャンセルした
闘いだったが、本人はいつも「負けない」と前向きだった。抗がん剤の副作用で髪が
抜け、毎日デザインが違うバンダナを巻いて自分を励ました。病床では、ファンや友
人の手紙を毎日ながめ、励みにしていた。移植手術後の5月には、ファンに向けた直
筆メッセージを発表。「現実を受け入れ病気と闘わなくてはいけないと思っていても、
涙が止まらないのです。泣きたい時は我慢しないで泣いています」と不安な心境もつ
づったが「きっと輝く健康な自分が待ってくれていると信じています」と自分を奮い
立たせるような言葉で結んだ。
個人的には87年に大ヒットしたドラマ『パパはニュースキャスター』の主題歌『ワ
ン・ウェイ・ジェネレーション』が大好きでCDも持っていたりする。
寅さんと同じ東京都葛飾区柴又の生まれとしても有名だった。


11月13日 享年76歳

ショパン猪狩(コメディアン) 心不全
妻の千重子さんとのお笑いコンビ「東京コミックショウ」などで活躍。
「レッドスネーク、カモン!」と呼び掛けるヘビの芸で人気を集めた。


12月4日 享年96歳

原 ひさ子(女優) 心不全
「日本のおばあちゃん」として映画、ドラマで親しまれた現役最高齢女優の原ひさ子。
明治、大正、昭和、平成を生きた原さんは、眠るような大往生だったそうだ。
33年に前進座に入団し、新橋演舞場で初舞台を踏んだ。その後、戦前、戦後を
通じて数多くの映画に出演。テレビ放送が始まってからは、40代、50代で、
ドラマの母親役やおばあちゃん役に欠かせない貴重な脇役女優となった。
「ふぞろいの林檎たち」では定食屋のおばあちゃん、映画「悪魔の手毬唄」では
金田一耕助に事件解決の手掛かりとなる手毬唄を教えるおばあちゃん役で出演した。
70歳を過ぎてから、小堺一機のトークバラエティー「いただきます」に出演したのを
きっかけにバラエティー番組に出演。即席ラーメンのCMにも登場し、お茶の間の人気
者になった。80歳を超えても映画「ワンダフルライフ」などに出演し、現役最長老格
の女優として活動した。米紙ニューヨーク・タイムズも「日本最高齢の現役女優」とし
て紹介。昨年撮影され、今年夏公開の「サヨナラCOLOR」(竹中直人監督)が、
70年を超える女優人生の最後の映画になった。
65歳で小唄、70歳で俳句を始め、90歳で「ばばさまの俳句は日記つれづれに」を
出版した。誕生日である8月6日に広島に原爆が落とされた。原さんは8月6日を戦争を
忘れない日として、家族全員ですいとんを食べる「すいとんの日」を60年間続けた。


12月16日 享年70歳

仰木 彬(オリックスパファローズ前監督) 肺癌による呼吸不全
近鉄、オリックスで指揮をとり、3度のリーグ優勝、1度の日本一に輝いた監督。
通算14年に及ぶ監督時代に、イチロー(マリナーズ)、野茂英雄ら名選手を多数
育て、意表を突く采配は「仰木マジック」と呼ばれた。今季は近鉄球団と合併した
新生オリックスの指揮をとったが、体調不良で辞任し、同球団のシニア・アドバイ
ザーに就任。だが、退任後は入退院を繰り返していた。
酒を愛し、野球を愛した…。現役時代は二塁手として西鉄の黄金期を築いた。
「グラウンドで死ねたら本望や」。 それが最近の仰木さんの口癖だった。
昨オフ、近鉄、オリックスの合併により誕生した新球団の監督を引き受けた。すで
に体調を崩していたが、古巣の窮地を見過ごすわけにはいかなかった。シーズン中
も極秘裏に定期検査を繰り返していたが、がんは容赦なく体をむしばみ続けた。
今年は「野球界への最後のご奉公や」と冗談めかしながら、気力を振り絞ってきた
が、ついに力尽きたと言える。
パ・リーグ一筋の野球人生だった。西鉄では、三原監督にその非凡な才能を見いだ
された。中西、稲尾、豊田らと、野武士軍団といわれた常勝チームをけん引。コー
チ業を経て就任した近鉄監督時代、その戦術は“仰木マジック”と称された。
名監督だった三原魔術が仰木野球の原点だった。
18年間のコーチ時代を経て、88年に近鉄監督に就任。梨田、大石、阿波野らを
擁して、伝説の『10・19』の名勝負を演じた。阪神大震災に見舞われた95年、
オリックスで“がんばろう神戸”をスローガンにリーグ優勝。打ちひしがれた被災
者を励まし、勇気づけた。連覇、そして長嶋巨人を破り日本一。熱パ仕掛け人とし
て球界を盛り立てた。
当時まだ2軍選手だった鈴木一朗を「イチロー」とした名付け親だった。天才打者
を世に送り出し、今やメジャーを代表するプレーヤーに育て上げた。体をひねって
投げる野茂の変則フォームも、そのまま奨励するなど、個性重視がその特性だった。
メジャーへ巣立った教え子のもとへ、ここ数年は、毎年のように渡米して激励して
いた。
しかし今オフ、オリックス球団は仰木続投を望んだものの、それもかなわないほど
病状は悪化の一途をたどった。酒豪として知られ、カラオケのマイクをもつと演歌
や、越路吹雪の曲を歌った仰木さん。かつて『ニュースステーション』にゲスト出
演した時に本番中であるにも関わらず、当時まだ独身だった小宮悦子を口説いてた
のは有名。


まだまだ全員は紹介しきれていませんが、今年も本当に多数の有名人が亡くなりま
したね。個人的にはやはり、橋本真也の死が一番驚きましたね。

私が何故このような事を毎年やっているかと言うと、死んで行った人っていつか忘
れられてしまうんですよね。悲しいけれど。今だって、このHPを見るまで忘れて
いた人って居たと思うんですよ。
忘れてしまうのは仕方が無いと思うけれど、夢半ばで死んで行った人だって絶対に
居ると思うんです。

私は逸見政孝さんが亡くなった時に、この企画を考えたんです。
そして最後にこのHPを見てくれた人が、故人の冥福を祈ってくれたら嬉しいなぁ
と思いました。

どうぞ最後に、今年亡くなった方々に目を閉じて手を合わせてあげて下さい。
お願いします。


今年亡くなった著名人の皆様、夢と希望と感動をありがとう。
2006年の私は、自分自身に『飛翔』と言う二文字を背負わせました。
皆さんのように感動を与えられる人になるために飛び立つつもりです。
皆さんどうぞ、安らかに。


合掌


2005年12月29日(木) 大晦日の夜

いよいよ年の瀬が迫ってまいりました。
おっきな親子丼も反省点は多々ありましたが無事に終了し、参加者の皆さんには楽
しんで貰えたようで一安心でした。

さて、その後テレビの仕事は無いのかといろんな方からメールを頂きましたが、実
は先日事務所から

「大晦日の夜、NHKの仕事に登録したいんだけど大丈夫?」

と言う連絡が入りました。
そうです、NHKの大晦日の夜と言えば紅白歌合戦です。
テレビの仕事2つ目にして生放送かよと意気込んでいたのですが、仕事に登録した
いんだけどと言うのが妙に気になります。

「事務所からお薦めタレントをピックアップしてプロフと写真を送り、クライアン
トがその中から選ぶんだよ」

と言う方法です。まあつまり書類選考と言う訳なんですが、この話しを夕鶴みき姉
さんに報告すると

「高木も立ったけど、実質三越の舞台に立つ2人目のKey Stationメンバーが大将
だったでしょ。これで紅白出場が決まれば、これまた私に続いて2人目だよ」

と目を細めてくれました。

紅白なんて大晦日にテレビで見る物と決め込んでいたのに、こう言うチャンスが巡
ってくるなんて、本当ら自分はラッキーでした。

2005年の南風は、どの占いを見ても最良の年と書かれていました。本当に本当
にいい年だったと思います。恋人が出来なかった事を除けば・・・・・
なかなか「いい年だった」と年の瀬に言える機会なんて言うのはありませんよね。
その締めくくりに紅白の仕事とは本当に嬉しかった。

「紅白で何をするんだろう?」「ゴリエと一緒に踊るのかな?」とかいらぬ想像を
膨らましていたのですが、その想像の中にひとつ私を大きく緊張させる事がありま
した。それは、和田アキ子にどつかれる心配でも美川憲一に惚れられる心配でも無
く、私個人の問題だったのですが、紅白出場歌手の中に私の心の師匠が居たのです。


さだまさし


私は今から15年前に、文化放送のスタジオで一緒に番組出演をさせて頂いた上に、
さだまさし本人の目の前でさだまさしの歌を数曲熱唱すると言う、今となっては絶
対に考えられない事をしでかしたんです。
しかも今年の三越公演『はなになったねこ』のオーディションでは、さだまさしの
『二千一夜』を唄って本番のソロを任された経緯がある訳ですから、是が非でもご
本人にお会いして、ご無沙汰をしていた無礼と、さだまさしを好きでいて良かった
と言うお礼を伝えたい。そんな気持ちがふつふつと沸いて来ました。

先日事務所から「紅白落選」の知らせが届きました。
頭の中に『南風、紅白初出場ならず』の文字がスクリーンセーバーの如く流れて行
きました。自分の思いが大きかっただけに、電話の向こうでマネージャーさんが私
の落胆ぶりに驚いたようで

「南風さん、また今度頑張りましょう」

と言われたのに対して・・・・・


































えっ? また来年の紅白?


と、本当に素で思ってしまったくらいだったのです。


「私も実は某ファーストフードのCMの話しが来てたんだけど、年齢とイメージが
合わなかったみたいで落とされたんだ」

と、先日の親子丼に来ていたパトが教えてくれました。
今迄、芝居等のオーディションと言う物に落とされなかった2人が対面したテレビ
界の現実。でも、舞台と違って仕事は山のようにある。きっと来年はもっと大きな
仕事が出来る。そう信じてます。



しかし!!!


運気がイイのも今年まで、来年は細木数子曰く私は『乱気』。中殺界。
がむしゃらに動かず、のんびり行きたいと思ってます。

俺ってネガティブだなぁ。


2005年12月18日(日) 三越公演共演者同窓会

ここのところ毎日私にいろんな変化がある、と言うより有り過ぎるので書きたい事
は沢山あります。
15日はテレビ朝日で初めてのテレビの仕事をし、16日はつい最近幕張に立ちあ
がった劇団ポケットオオカミの稽古を見学に行き、まあ本当にいろいろとネタに尽
きない毎日を過ごしておりますが、昨夜は本当に久し振りに『はなになったねこ』
の仲間達と会いました。
例えば、片柳の公演を千紘と観に行ったり


9月12日のブログより、左から千紘・片柳・南風


Megu、剣、可奈子の公演を観に行ったり



10月9日の日記より、左から可奈子・剣・南風・Megu


偶然、亜美と会ったり



10月9日の日記より、左が亜美。って解るって!!


千紘の公演をきよみさんと片柳と観に行ったり



10月10日のブログより、前が千紘、左から片柳・南風・きよみ


松村の公演をきよみさんと高木と観に行ったり・・・・写真はありません。
室田さんのコンサートを観に行ったり・・・・こちらも写真はありません。

等と、個人的にはいろんな人達との交流を持ってはいたのですが、酒が入ったなん
て言うかざっくばらんな集合は本当に久し振りだった。

昨日は都合で昼の部、夜の部に分かれたのだが、昼の部にはMegu&剣、そして
片柳が来る筈だったのに、約束の時間になっても片柳だけが来ない。携帯に電話を
してみると

「今、起きました・・・・」

彼は『はなねこ』の稽古の時も何回かそれをやらかしていたので、あまりの懐かし
さに怒るどころか笑ってしまいました。

そして夜の部は、松村・高木の男組の他、室田・彼方・千紘親子・今村親子が参加。
この参加者達は決して暇だった訳では無く、本当に掛け付けて来てくれたと言うの
が正しいくらい忙しい中、なんとか時間が作れた人達なんです。
『はなねこ』終了後、皆が一生懸命に頑張っている情報は本当に良く入って来る。
だから人が集まらないのではと言う心配もあったのだが、小人数でも集まると凄く
楽しく、ずっと笑っていられました。



今村佳代と今村ママ


公演終了後からたった4ヶ月なのに、物凄く懐かし顔に会った気がして、思わず涙
を流すなんて事はありませんでしたが、またの再会を誓い新橋を帰ろうと思ったの
に、何故か男達は終電を逃してトボトボと歩いて家路に向かうのでした。

テレビ初出演になったスマステも、私は帰宅後ビデオで見たのでした。


松村と千紘。松村は4年後に千紘を嫁にする計画を着々と進行させていた・・・


2005年12月11日(日) イエーイ・アキラと守屋パトリシアの舞台

私が発行しているメルマガを読んでいる方には同じ話しかよと怒られてしまうかも
しれませんが、携帯用メルマガでは全角250文字しか書けないので、あえて詳細
を南風日記に記したいと思います。

私はいつも大体朝6時半には起きて出掛ける準備をします。しかし私が起きた時に
は既に出掛けていて、私が帰宅する頃には寝ている。同じ屋根の下に住んでいなが
ら顔を会わせるのは1〜2週間に一度。だから久しぶりに顔を見合わせると話した
い事が山のようにあるらしく、今日も出掛る支度をしている後ろをついて来て話し
をしていた。

誰か? そう、知る人ぞ知る私の父、イエーイ・アキラの事だ。

何故イエーイ・アキラと呼ばれるようになったかと言うと、それは今から4〜5年
前だったと記憶しているが、まだ当時私は習志野市の谷津で魚屋を営んでいた。
店頭に当日市場から買い付けて来た魚介類を並べるのに、空いた発砲スチロール等
を台にしていたのだが、定年退職をして時間の空いた父は店の手伝いをしてくれて
いたのだが、不器用なクセに細かい事に気を使う父でして、その並べてある発砲ス
チロールの高さがどれも微妙に違うのを嫌い、ノコギリで良く発砲スチロールの高
さ調整をしていた。
或る日、いつものように発砲スチロールを切っていたら、何処も割れ目が付かずに
見事に切れたのが嬉しかったらしく、その四角い発砲スチロールの枠だけを私に見
せて

「昔、ドリフのとかで、こうやってこの枠を顔の前で持って絵画のコントあったよね」

と父が私に見せた。
思わずその表情がコントチックで非常に可笑しかったので、妙なツボにハマってし
まい、店の作業場で大爆笑をしてしまった。
その時、やはり店を手伝ってくれていた母が売り場から

「うるさいわねぇ、店まで丸聞こえじゃないの!!」

と叱って来たのだが、その母に対して父が同じ仕草をしながら

「遺影」

とやったのだ。
これには母ならずとも私も爆笑してしまい、当時魚屋のHPを開設していた私は、
その写真をどうしても撮ってHPに載せたくなったのだ。すると父は・・・

「どうせやるなら本格的にやろう」

と、枠の上の真ん中から両枠の真ん中までガムテープを張り、黒く自分で塗り始
めたのだ。

あくまでも、自分でそうやり出したので有って、私が強制した物では無い事を再
度ここで強調しておく。

出来あがった枠を再び顔の前に持ち、本格的な遺影撮影をした。

その時だった、私がシャッターを押した瞬間、父は神妙な面持ちだったのに、満
面の笑みを作ってしまったのだ。
それで出来たのが、この写真だ。
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何度見ても笑えるこの写真。
『昭の遺影』と言う題材で撮った写真が『イエーイ・アキラ』に変わってしまった
のだ。

それからと言うもの、魚屋で父はお客様から『イエーイ・アキラ』と言われ親しま
れていたのだが、家族や親戚からは

「なんて不謹慎な写真を載せているんだ!」

と、お叱りを受けたのだが、再度私はここで言っておくが、私がやったのでは無く、
父本人の意思でやった事なのだ。これは本当だ。

で、イエーイ・アキラのネーミングについては解ったと思うが、その父と今朝会う
と、スクッと立ちあがって私の前でモデルのようにクルッと回って「どう?」と聞
いて来た。
いきなり「どう?」と言われても「元気そうだね」としか答えられなかったのだが、
どうやら彼はズボンを私に見せたかったらしい。
良く見るとそのズボン、今迄見た事があるような無いような、記憶の怪しいズボン
だったのだが、少し前まで私の妹がはいていたズボンを父は貰ってはいていたようだ。

66才になった父が、まだ30才チョットの娘のスボンが自分に似合っていたのが
妙に嬉しかったらしいが、正直言って尻の辺りはダボダボだった。
これは父の尻に肉が無い訳では無い。妹の尻がデカ過ぎるだけなのだ。

父よ、自分の子供のお下がりでそんなに嬉しいのなら、孫のお下がりだともっと嬉
しいかもしれないよ。でもそこまで長生きされても正直困るけどな・・・・


と言うそんな今日は、私が大変お世話になった劇団空飛ぶひつじの創立10周年記
念公演を観に行って来た。


イエーイ・アキラの話題で相当なスペースを使ってしまったが、ここからが本題です。


今日の公演は『シンデレラ2005』と言う通常のシンデレラの物語をベースにした新
しい形のシンデレラだった。

今年は何故か2回もシンデレラを題材にしたお芝居を観る事になった。
1回目は『はなになったねこ』で共演した花田千紘が出演したST企画での公演だ
ったのだが、こちらともまた全然違う新しい視点のシンデレラでなかなか勉強になった。



三越公演『はなになったねこ』で子猫・トト役として活躍し、私ととても仲の良い花田千紘
写真提供:スマイル写真企画



実はこの舞台は『金の船・銀の橋』や『泣いた赤鬼』で共演した守屋パトリシアか
らの招待で行って来たのだ。
パトは今度の親子丼にも来てくれるので、会いたい方は是非お越し下さい。

で、今日のお芝居の何が勉強になったか。先日のきよみさんの公演を観に行った時
も痛感したのだが、間の取り方でこうも芝居が客席に与える表現が変わって来るの
かと言うのが良く解った。
特に今日のお芝居は子供達に見せる事が主体であったので、子供をいかに飽きさせ
ないで舞台上に気持ちを引き付けさせる事が出来るかを学びましたね。
何回かご一緒させて頂いた劇団空飛ぶひつじの皆さんのお芝居でしたが、自分が舞
台上に乗っていない不思議さよりも、共演した仲間達が沢山出ているお芝居を観て
居る方がいかに気が楽か解りましたよ。

パトもまだこう言う経験が少ない役者ですが、まだまだ光るだろうし、その光る手
伝いをしてあげなくてはならないと感じた舞台でした。



真ん中が守屋パトリシア。『はなねこ』で共演した本多貴幸も出演していました(左)。


2005年12月09日(金) 村岡きよみ

今、とある女性を口説いている。と言っても彼女になって貰う訳では無い。
Key Stationに入って貰う為に口説いているのだが、今日はその方の公演を拝見し
に行って来た。その女優さんの名は村岡きよみ。私が『はなになったねこ』で共演
した女優さんである。


『はなになったねこ』の宣伝用の写真

彼女の芝居歴はかなり長く、私なんかが同等に扱って貰えるような立場では無いの
だが、フリーの彼女は私と同じで声が掛からないと芝居にはなかなか出る事が出来
ず、いつも何処かの公演のオーディションを受けて参加をしている。
『はなになったねこ』では私ときよみさんはオーディションに合格して参加した共
通点があり、しかもオーディション合格組みでは異例の特別待遇を受けた2人だ。
そんな訳で稽古期間中はお互いに励まし合い、いつも一緒に頑張って来たのだ。
出演者同士で呑みに行く事も何度か有ったが、最初に一緒に呑みに行ったのはこの
きよみさんだった。
呑みに行ったと言っても、清瀬から帰る途中の池袋で本当に軽く呑んだだけで、私
は船橋、きよみさんは渋谷に帰って行くのだが、お互いJRから私鉄に乗り換えて
帰宅しなくてはならないので、終電を気にしながらたった40分だけ呑んで語った
だけだった。

芝居に対するしっかりとした考えを持っている方で、妥協せずにとことん自分が納
得するまで演出家に動きや衣装を問いただす場面を稽古場で何度も見かけた。
長年お芝居をやって来ているので裏方の仕事もこなせるので、こう言う人が役者の
中に一人居ると本当に心強い。
『はなになったねこ』でも衣装担当として、ほとんどの出演者の衣装を手掛け、稽
古の空いてる時間はいつも針と糸を取り出して黙々と針仕事をしていた。


本番一週間前、南風の衣装手直しをしている所  写真提供:スマイル写真企画

私と違って稽古から手を抜かずに一生懸命で、本当に彼女は自分では否定するもの
の愛される天然キャラの為、彼女の周りには自然と笑顔が集まって来るのだ。
勿論、素敵な悲しい表情を見せる時もありますが、きよみさんは笑顔を集められる
不思議な存在でした。


稽古でも彼女の周りには笑顔が自然と集まります  写真提供:スマイル写真企画

今日、そんな彼女が本拠地にしている港区麻布の区民ホールで、井上ひさし作の
『貧乏物語』が行われたので、見て来たのだが、本人は

「カミまくったし台詞は途中で飛ぶしキャラは固まってないし最悪だった・・・」

と落ち込んでいた。
『はなになったねこ』の時はそんな弱音を吐く人では無かった。と言うより私が弱
音を吐くと叱り飛ばしてくれた人だったのに、今日の公演には全然満足していない
ようだった。
『はなになったねこ』の共演者で今日初日の公演を観に来たのは私一人だった。

「初日は南風さんだけの為に頑張ります!」

とメールをくれていたのだが、どうもその言葉通りにならなかったのが自分として
納得出来なかったようでした。


こよみさんと本番のヘアースタイルを打ち合わせ中  写真提供:スマイル写真企画

しかし今日は金曜日でしかもきよみさんの出番は昼の部公演でした。
お客が入るのか凄く心配していましたが、関係者の予想に反してそこそこ入ってい
たみたいでした。
先日「そう言う訳だから、出来たら初日に来て欲しい」と言われていたので私は行っ
たのですが、関係者の間では

「今日来る人は暇な老人達ばかり。若い人はきっとフリーターかニートだよね」

と言っていたそうですが、あんたらは杉村大蔵かとロビーで突っ込んでしまいまし
た。

お蔭様で3月にも公演を控えているきよみさん。
口説かれて本人もKey Station入会に非常に興味を持っているのですが、なかなか
お忙しいようで、いつになったら来て貰えるのだろうと、私はヤキモキしています。


『はなになったねこ』本番後  写真提供:スマイル写真企画

それでは今日撮れたての新鮮画像をお見せ致します。


私が送った花がロビーに飾られていたので、一緒に撮って来ました

しかしこれ、座長クラスの大御所に撮らせたんですよ。だから些か緊張気味な表
情をしてたんですが、きよみさんの天然キャラぶりは健在でした。

きよみさん、Key Stationはいつでも貴方を待っていますからね。


2005年12月07日(水) これでも一応タレントです

実は今月から縁有ってとある芸能プロダクションとタレント契約をした。と言うと
非常に聞こえはいいが、給金は完全歩合制で、出演する度にギャラが決まると言う
極簡単な契約です。
今年はいろんな出会いが有った。特に夏公演『はなになったねこ』に出演した事は
私にとってとてもイイ経験とイイ刺激が有った。

「もう少し自分の進出出来る世界を広げてみたい」

と言う希望から、その芸能プロダクションとタレント契約をしたのだが、やはり流
石はプロのマネージャーさん達が仕事をしている場で有って、実は既に2つ程テレ
ビの仕事が舞い込んで来た。
ひとつは某お笑いコンビがメイン司会のドッキリ系番組での仕掛け人の依頼だった。
そしてもうひとつがとあるドキュメント番組の再現VTRの出演だ。
どちらもスケジュールの都合でお断りをしたのだが、来年は私は舞台だけでは無く
映像の世界でも皆さんにお目に掛かる事が出来るようです。

それにしても最初のドッキリ系の仕事は、演技力とかが評価された訳では無く、全
くの見た目での仕事依頼でした。

まわしをして大銀杏の鬘を被って力士としての出演だったそうです。
来る仕事はなるべく断らない主義なんですが、その私が一瞬だけ躊躇してしまいま
した。(笑)

いずれ本当に出演が決まりましたら、またHPでお知らせ致します。


2005年12月05日(月) マリーンズファンの忘年会

昨日、幕張本郷駅近くにある千葉ロッテマリーンズ公認のスポーツバーでマリーン
ズファンの忘年会が行われました。

その模様を『南風日記写真館』にアップしましたので、今日はそちらをお楽しみ下
さい。


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