umityanの日記
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2013年10月30日(水) ネズミ男君の誕生日。

10月が、あれよあれよと言う間に過ぎた。振り返れば、大雨と台風に振り回された月。僕は気象の動向を、一喜一憂しながら見守ってきた。こちらは全く被害はなかった。全国のいたる地域では、被害が生じたようだ。ただただ、お見舞いを申し上げます。

そんな状況とは裏腹に、当地は今日も秋空。雀がチュンチュン鳴き、カラスは、カーカー言いながら空を舞っている。昨日は僕になつかない猫の、モー君が、ネズミを捕まえてきて台所の床に「ポン」と置いた。褒めてもらいたかったのだろう。僕は知らぬ存ぜずだ。残酷ながら、しばらく遊ばせた後、葬ってやった。ごめん、ネズミちゃん。

稲はすっかり刈り取られて、淋しい様を呈している。餅米の刈り取りが一番最後と見えて、まだいくつか残っているはいるが。自然はこんなにも優しい。だが、時には悪魔に変身する。厄介な存在である。生きとし生きるものは、そんな自然と末永く付き合っていかねばならない。宜しくたのんまっせ。

ところで、今日はネズミ男君、〇〇歳の誕生日。先般、会った時、のび太君が、旅仲間が営む店(のび太君の親戚でもある)へ予約を入れておいた。今朝、のび太君から確認の電話があり、早速、ネズミ男君へ連絡すると、うれしそうな声で、「はい、分かったよ」と返事があった。

そこで、僕は一計をもくろんだ。野郎ばかり4人では殺風景だ。のび太君の恋人もどき、シズカちゃんを呼ぼうと。連絡を取ると、「うれしいわ」との返事。よかった。よかった。

実は、以前、シズカちゃんをネズミ男君の嫁さん候補として紹介したことがあった。なにせ、ネズミ男君は130回もお見合いをしてきた兵である。そう簡単には首を縦に振らなかった。というのも、若かりし頃、結婚したいと思っていた女性に振られた経験が、まだ後を引いているようだ。ここ近年の彼の口癖は、「おいらは、とびっきり優しい女性でないと駄目。昨今は気の強い女性が多いからなあーーー」である。。「今時、そんな女性がいるもんね。ある程度で、妥協、我慢しなくちゃあーー」と僕たちが言うが、口を濁すだけ。

シズカちゃんは僕達の目から見ても、優しい、おひな様みたいな、かわいい人である。まあ、X1ではあるが、一人娘を育て立派に成長させている。申し分ない人である。だが、しかし、ばっと、男と女をくっつけるのは、そう簡単にはいかないようだ。シズカちゃんは、「私の方からお断りよ」と思っているのかどうかは知らない。それでも、ネズミ男君の誕生日祝いに来ると言うことは、「押せば脈あり」と言うことなのか?。「わかんなあーーーーい」である。

ネズミ男君は、まだ、シズカちゃんが来ることを知らない。対面した時の彼の表情に注目しよう。照れ笑いして、酒のピッチが早まること間違いなし。僕、ジャイアンも人が悪いぜ。くしくも、ネズミ男君のライバル?、のび太君(妻帯者)が言ったことよ。「ジャイアン!!、シズカちゃんの勘定は、あんた持ちだからね」と。「分かってますたい。でなければ誘わないよ」と、僕は言ってのけた。まあ、そんな具合で、今日は楽しく盃を交わすか。

ただ一つ、気がかりな事。今宵は、小料理屋「梓」の店ではない。梓にはワインを2本預けてある。ネズミ男君の誕生日に線を抜く予定だった。ママの、ひろこさんが、「今や遅し」と待っているかもしれない。時を見計らい、流れて行かねばなるまいて。めでたいことは、その日のうちに消化しなくちゃーー。僕の誕生日ではないが、僕もめでたい男よ。いずれ、顛末記を記載することにしよう。


2013年10月24日(木) 死の迎え方。

今日は終日、雨のようだ。台風の影響だろう。こんな雨の日は出かける気がしない。ちっとも、じっとしておれない僕の性分。何かしたくて仕方がない。「仕事をするか」と思うが、どうも身がはいらない。気が散乱しているのだ。

そんな風で悶々としているところへ、どらえもん君がやってきた。茶を飲みながら話すことひとしきり。お腹の中から「あっと、驚く」情報でもあるかと思ったが、特に無し。彼もでっかい図体をもてあましているようだ。小一時間ばかりで彼は帰って行った。これから義父のところへ、陣中見舞いに行くそうだ。

今日、雨が降っていなければ、少々早いかもしれないが、僕は正月の掃除でもしようと思った。善は急げである。昨日は外の芝垣を剪定ばさみで、頭をきれいにそろえた。見かけが良くなった。後は、例によって雑草刈りが待っている。これは恐らく11月になるだろう。ネズミ男君の力を借りねばなるまい。

そういえば、今月末はネズミ男君の誕生日だ。彼はいつも言っている。「おいどん達も、あと20数年の命だぜ。今のうちにやれることをやっておかなくちゃあーーー。心の優しい嫁さんでも見つけるか?」と。ごもっとも。同感、同感だ。

彼の誕生日祝いと言っては何だが、先日、小料理屋「梓」さんを通じて、ワイン2本を調達してくれるように頼んでいた。梓さんのすぐ近くに、出入りの酒屋さんがある。実は、先週、その酒屋が店じまいとのことで、在庫一掃のイベントをやっていた。ワインは60%引きとのこと。これに便乗しない手はない。ネズミ男君の祝いには、もってこいだ。

店じまいの理由は、経営者の病気である。後継者が店を継がないとのことで、閉店セールをやったのだ。病気なら仕方が無いかと思っていたが、なんと、一昨日亡くなった。顔見知りの経営者だったので、ショックである。58歳だった。祝い酒が供養の酒になりそうだ。ただ、ただ、冥福を祈りたい。

人の死ほど悲しいことはない。特に縁があった人の死はなおさらだ。僕も幾多の死に遭遇してきた。「悔いのない死」ならば、極楽往生を願い、魂を癒やすことも出来ようが、世の中の死は、そればかりではない。不本意な死も多い。事件や戦争、災難による死はそうだろう。そんな死だけはあってほしくない。

死は裕福であれ、貧乏であれ、時の差こそあれ平等に訪れる。偶然に生じた命ならば、悔いのない生を全うしたいものだ。どうしたら悔いのない生を全うできるか?。「生、来たらば生に任せ、死、来たらば死に任す」。うんんん、こういう達観した考えが出来るのは、高僧か仙人ぐらいだろう。僕には出来そうもない。

そこで、気の弱い僕は考えた事よ。いつしか世界中を行脚の旅に出ようと。懐には、当分まかなえる大枚をしのばせている。愛しきマドンナが道連れだ。テクテクと「幸せさん、どこ、どこ?」とおらびながら歩く。日が暮れたら、どこかの御堂や小屋や洞穴に泊まる。そんな日々を過ごす。きっと、淋しくはないだろう。なぜなら、君がいて僕がいるからだ。何かの歌にも、そんな歌詞があったっけ。

旅の途中で僕は病にかかり、行き倒れるかもしれない。マドンナが心配そうに僕の顔をのぞき込む。彼女の涙がしずくとなって僕の頰に落ちる。そこで、僕は言うだろう。「ごめん。はやくに逝きそうで。でも幸せだ。有り難う。死んだらどこかに葬って。あちらの世界で待っているから」と。いやああ、これに勝る幸せがあろうか?。ある。ない。いや、ある。「ある」と信じれば、日々の生活も豊かになるだろう。出来ればこんな死を迎えたい。

僕の妄想も。ここまで行くと病的かもしれない。台風の被害を懸念する心が、この妄想を生じさせたか?。おっと、雨も小康状態になった。そろそろ、妄想を離れて、肉体労働でもするか。







2013年10月22日(火) 今日は二連チャンだ。

今日は太陽が顔を覗かせた。気持ちの良い秋空。すがすがしい。外に出て周囲を見回した。人一人っ子いない。先日までは、刈り取られた稲の田んぼの中を、ゴミ収集車みたいな機械が走っていた。しばらく走ると、「ポン」という大きな音がして、円筒形に丸められ、梱包された大きなわら筩が放り出される。すばらしい機械があったものだ。見ていて面白い。「ポン、ポン」という音が心地よい。あちこちに、わら筩が転がる。

この作業は、男一人でこなしている。今や、農作業も少数精鋭の時代だ。作業が終わると、わら筩をトラックに乗せてどこかへ運んでいく。おそらく、牛などの家畜の飼料となるのだろう。無駄なく稲も利用され本望だろう。カラスの大群が、上空から作業の終わるのを待っている。カラス君達も必死で生きているからなあーーー。

それはそうと、台風27号の進路が心配だ。おまけに、28号も発生したようだ。二人仲良くランデブーでもされると、困った事態になる。ドッキングして消滅するならまだしも、更に大型化する可能性がある。いち早い対策が必要だ。ただ、二つの台風が接近すると進路を予測することが難しくなると報道されていた。とにもかくも、日本列島に被害がないことを願うだけだ。

とkろで、昨夜は「タンゴの調」を堪能する予定だったが、のび太君の手違い?記憶違い?で、一月先の11月21日とのこと。「ばいーーーーっ、じぇじぇじぇー!」である。

まあ、これは仕方が無い。悪いと思ったのか、のび太君が「今日は飲みながら旅行の打ち合わせをしよう」と言うことになった。ネズミ男君も呼んで、旅メンバーの一人、キツツキ男君が経営する小料理屋へ行くことになった。メンバー4人が集合した。あいにく、どらえもん君と夜泣き爺さんは欠席。

丁度、「タンゴ」が催される日は、我々とっちゃん坊やたちは、すでに異境の地にいる。といことで、「タンゴ」を聞く予約は取り消し。そのかわり、僕たちは異境の地で、珍道中を繰り広げていることだろう。

何よりの楽しみは京都の夜。舞妓さんや芸妓さんからお酌を受けることだ。なんでも、舞妓さんは二十歳前の人の事を言うらしい。芸妓さんは二十歳過ぎから、その後の歳は無制限。まさか、70歳を過ぎた祖母みたいな人が現れて、「一杯いかがどっせ」と言われたら、恐れ多くて、おちょこが震えそうだ。まああ、そんなこともあるまい。想像をすればきりが無い。

おっと、5時になった。今日は本間君から久しぶりにTEL.あり。一献傾けようと言うのだ。本来、人の誘いは極力、断らない主義。昨夜に続き二連チャンだ。ストレスを感じない僕のこと。神も許してくれるだろう。さあ、でかけよう。


2013年10月21日(月) 「タンゴ」と「団子」を間違えた。

刻一刻と変化する天気。先ほどまでお天道様が出ていて、今日は「晴れやな」と思っていたところ、にわかに黒雲が広がった。「ポツリ、ポツリ」と雨だれが。
これも台風の影響か?。恐るべし台風。おやっ、また太陽が出てきた。どうなってんの?。「女心と秋の空」とは、まさにこのことか???。

僕は裏庭に出て、ゴミの焼却と、もらった植物(名前は知らない)を植えんがため、スコップで穴を掘った。久しぶりの肉体労働。ちと、腰が痛くなった。これしきで根を上げてはなるまいて。年末までには、ネズミ男君や草刈り男君と、今年最後の雑草刈りが待っている。周囲が美しくなることは、いいものだ。ここで一句。「雑草よ、しばし別れの、さようなら」。今年締めの一句だ。

先ほど、のび太君からTEL.あり。何事かと思えば、「タンゴ」を見に行こうというのだ。タンゴ?。「団子を食いに行こうか」の間違いじゃないかと思ったが、そうではないようだ。「タンゴ」ねえーーーー。テレビで見たことはあるが、直に見るのは初めてだ。

「コンチネンタルタンゴ」という言葉は聞いたことがあるが、よく分からない。まだ調べていないからだ。タンゴと言えば、躍りながら首を90度ばかり回転させたり、タップを踏んだりしながら、激しく躍るやつかなあーー?。ふと、オカルト映画で、悪魔が首を回転させる光景を思い出した。首が折れるぜ。おおおお、怖い。これはタンゴに失礼か。まあ、見てのお楽しみだ。

のび太君と言えば、昨日、ホームセンターで出会った。全く偶然の出会いだ。僕は買い物。のび太君もそうだった。僕の後方に彼は駐車していた。僕の車を見つけたらしい。彼は近づいてきた。僕は一瞬、たじろぎ驚いた。「なんで、彼が、ここに、また、どうして?」。彼は「ここで何してんの?」と僕に問うた。「買い物だよ」と応えると、彼は「折りたたみ自転車を買いに来たんだ」という。年に数回も乗らないらしいのに、「なんで?」と聞くと、「車に乗せられるし、子供達が自由に使うことが出来るから」との配慮らしい。なるほど。ごもっともである。

人の心の裏を読むことが下手な僕は、下手なりに思った事よ。「車に自転車を乗せておくと、酒を飲んだ時、代行車を呼ばずに自転車で帰れるからなあーー。翌日、自転車で車を取りに来れば良い。お子様用自転車で両足が着くから安全だ」と。無料駐車場なら費用も掛からない。「僕も見習うべきかなあーーー」と思ったが、僕の場合は市内まで遠い。自転車で帰るのも大変だ。止めておこう。

自転車を見せてもらった。お子様サイズの6段ギア。「乗ってみない?」と彼が言うので、試乗させてもらった。サドルが低いので僕の短い足でも、ゆうに地面に両足が届いた。僕はもう、10年以上自転車に乗ったことがない。ふらふらしながら、ペダルを漕いで、「乗りやすいぜ」と笑った事よ。

今宵、彼が我が家に迎えに来るという。恐らく、タンゴが終わった後は、余韻に浸りながら一献、傾けることになるだろう。友、近くより来たり。楽しからずや。




2013年10月19日(土) 「わからない」ことがわかった。

寒くなった。つい最近までは半袖だったが、今はすっかり長袖。「この程度の寒さに負けてはなるまいて」と、腕まくりしながら白々しく明けていく外を眺めた。太陽が雲に隠れている。天気が崩れると予報されていたが、どうもそのようだ。

台風27号が発生したよし。大型らしい。26号と同じようなコースをたどる可能性があるという。コースに近い地域はまたまた大変だ。「台風に魅入られた日本」。そんなニュース記事が浮かんでくる。くれぐれも、被害がないことを願いたい。

僕は水をゴクリと飲んだ。パソコンのスイッチを入れた。昨夜、ウインドウズ8.1にバージョンアップしたので、その成果を見たかったのだ。データ量が多いせいか、インストールには結構、時間がかかった。とりとめて、大きな変化はなかったが、使いやすくなったか?。というより、僕自身がまだ、機能に習熟していない為、変化に気付かないのだろう。これからおいおい勉強していくか。

ニュース、メール、日記等を読んだ。世の中は相変わらず、混沌としていて、索漠としている。目にいれたくないニュースも多い。かといって、娑婆世界の現状に無頓着という訳にもいくまい。

「ああああーーーっ、幸せとは何なのか?。人間は何の為に生きているのか?。おまえは一体、何者ぞ?」と、ふと思った。いつぞや、「国民の幸せ度」とかなんとかいう、アンケート結果がでていた。日本は5本の指に入るほどの幸せな国ではなかったようだ。以前はブータンという国は「国民が世界一幸せな国」と言われていた。最近はそうでもないらしい。というのも、近隣諸国から文明の利器やら、よからぬ物資が流入し、秩序が乱れてきたと聞いた。

いやはや、幸せとは何なのか?。心が満足している、充足している状態か?。確かに幸せ感はそうとも言える。だが、しかし、ばっと、いつも、いつも心は満足ばかりではないだろう。千々に乱れ、揺れ動くのが心だ。幸福と感じる時もあれば、不幸と感じる時もある。嬉しい時もあれば、悲しい時もある。要するに、「塞翁が馬」。僕の結論は「わかんなあーーーーい」である。人それぞれに思いは違う。それぞれに考えれば良いことだ。一義的に定義するのは難しい。

しからば、人間は何のために生きているのか?。「生きているから生きているんだ」。こう言ってしまうと、もう先へ進まない。ものの本には「宇宙、大自然から目的を持って生かされている」と書いてある。生きているんじゃなくて、生かされている。確かにそうだよなあーー。自ら望んで生まれてきたわけではないし。

生かされている目的とは何か?。進化を担うためか。確かに宇宙も、すべての万物も進化している。進化とは生成発展のことを言うのだろうか?。うんんん、分からない。進化は発展か衰退かの、どちらかだろう。人間は、そのどちらかの担い手として生かされている。そう考えることも出来る。

僕の結論はこうだ。生命体はすべて偶然から生じ、偶然に去って行く。その過程で、人間は思考することを覚えた。思考は人間の生に意味や目的を持たせようとした。「進化の担い手」という考えもそうだろう。「幸せ感」もその一貫だろう。科学や医学が発展すればするほど、その執着が強くなった。ただ、それだけの事。従って、生命体は偶然に生じ、偶然に去って行くしかない。宇宙や大自然を神と言うならば、神は生に対して目的など与えてはいない。思考が生に意味や目的を持たせようとしただけだ。現実的には、人間にとって、生に対する目的や意義があった方が生き易いことは間違いない。人間はすべからく生くべしか?。

さ、あれば、「おまえは一体何者ぞ?」。このことは以前、書いたことがあるが、面白い禅問答がある。お師匠さんが弟子に「おまえは何者ぞ?」と問うた。弟子は「わたしは〇〇村の出身の、なにがしで、家族は何人、趣味は何々、云々」と答えた。師匠は「不合格」と言った。

弟子は座禅を組みながら、あれこれと答えを考えた。思いつくとすぐ、師匠の所へ行き答えを述べたが、いつも不合格。座禅しながら考えること8年。あるとき、ふっと答えが浮かんだ。「そうだ。自分の事をあれこれ説明しても、本質を言い述べることは出来ないんだ」と。お師匠さんの前で「わかりません」と答えた。合格である。

「説似一物 則不中」。これだ。まさにこれ。何を言っても本質を言い当てることは出来ない。「わかりません」。この言葉こそ、真実を言い当てている。

従って、僕が今まで述べてきたことは本質をついていない。最終結論は「わかりません」である。「わからない」ことがわかれば、それでいいわけだ。おまんまを得る手立てを考えることが、まず先決だ。朝から頭が疲れたぜ。



2013年10月17日(木) 自分探しの旅。

良い天気になった。青空に真っ白い雲が浮かんでいる。「おーーーい。雲よ」と叫んでみたい。家の周囲の稲が刈られた。切りかぶだけが淋しそうに残っている。以前はこの切りかぶを焼いていたが、今は耕耘機で一緒に耕し土中に埋めてしまうようだ。肥料となり、この方が環境面にとっても良いのだろう。

それはそうと、台風26号が去った。残した爪痕は大きい。伊豆大島では20名近くの人が亡くなり、行方不明の人達も多数いるようだ。ゆゆしいことである。ただただ、お悔やみとお見舞いを申し上げたい。いくら用意周到に準備しても自然の驚異にはかなわない。受け身の立場は弱いものだ。

時々思うが、台風が発生したら、こちらから台風の目に先制攻撃をして、消滅させることは出来ないものかと。又、地震の予知が可能なら、ずれそうな断層に「つっかえ棒」を施して、断層の滑り込みを防止する。将来、科学がもっと発展すれば、これも可能になるかも知れない。ただ、厄介なことは地球も生き物であることだ。地球も言うだろう。「俺の生きる権利はどうしてくれるんだ」と。と言うことは、自然と共存共栄できる最善の方策を構築していくことしか出来ないのかも知れない。

僕もそうだが、日本人には意外と能天気なところがあるようだ。「雨が降るなら濡れていこう」。「生、来たらば生にまかせ、死、来たらば死にまかす」。いかにも風流で人生を達観しているようだが、一般人は禪坊主や仙人ではない。僕ならすぐ、洞穴にかくれたり、「死にたくないよーーー」って泣き叫ぶだろう。とりもなおさず、大自然が穏やかである事を祈り、今できる最善の方法を考えるしかない。

話しは変わるが、先日ラジオで、なるほどと思える話しを聞いた。教育に関する話しである。「ゆとりある教育」と叫ばれて久しいが、その「ゆとり」をもっと増やすべきだと、大学の先生が提言していた。マニュアル化された画一的な教育ではなく、多様化された教育を行い、プロフェッショナルな人材を育てていく。この多様性が今の日本には必要だと言っていた。

そのためには、学校の授業も午前中は、マニュアル化された教育を行ってもよいが、午後からは、個々人が興味を持っている、やりたいと思っている分野に時間をさき、その面での能力を伸ばす。小さい頃から好きなことに専念できる時間と空間を与える。かくして、いろんな分野でのプロフェッショナルが誕生し、外国との競争にも打ち勝っていける。

その端的な例が、最近の若い人達の活躍である。スポーツの分野でも、芸術の分野でも、昔と違い、その活躍は顕著である。「ゆとり」教育の賜物と言っても良いだろう。

興味ある分野の選択肢はいくつもある。10でも20でも良い。その中から、一つくらいは、自分に合ったものを見つけることが出来るだろう。おじさん、おばさん、大人達は、それを支えてやることが必要だ。「愛」さんの卓球や「真央」さんのスケートなど、涙ながらの姿が印象的だ。天才は一日にしてならず。

昔の教育は暗記が最重要だった。大学の受験もいろんな試験も暗記第一。落とし穴はそこにある。太陽系の惑星も昔は「水・金・地・火・木・土。天・海・冥」と、9惑星だったが、今では冥王星がはずれて8つ。歴史も新たな事実が発見されて大きく変わってきている。昔、暗記したことが通用しなくなっている。だが、心配しなくて良い。ネット等で検索すれば最新情報がいとも簡単に手に入る。要するに、暗記はそれほど重要ではないのだ。

従って、入社試験等も、最近は一般常識以外に、論文や、面接が重要になってきた。これは良いことだ。その人物が何に興味を持っているか?。そのことが分かれば、適材適所に配置できる。実力を大いに発揮でき、企業発展の願動力となり得る。

いかんせん、まだ日本はそこまで行っていない。だからこそ、今後は「ゆとりある教育」のさらなる拡大が必要と言うわけだ。世界に通用できるプロフェッショナルの育成こそが、今後の望まれる日本の姿であらねばならない。

「カチン、カチン」の頭となった僕には、いまさら「ゆとりある教育」は手遅れだ。別の意味での「ゆとり」が欲しい。名誉、地位、金、権力


2013年10月15日(火) 秋はやはり旅だぜ。

秋、天高く馬肥ゆる秋だ。今日は曇り空ながら、気持ちが良い。ただ、台風26号が近づいている。最近、日本は災難続きだ。「災難は忘れた頃にやって来る」と言うが、今年は忘れる暇も無く、矢継ぎ早に襲来している。日本よ、世界よ、地球よ、宇宙よ、一体、汝らはどこへ向かおうとしているのか?。早く告げて欲しい。まさか、地球崩壊の前兆ではないだろうなあーーーー。

そんな中、秋になるといつも、旅の事を思い出さずにはいられない。ある旅人が言っていたが、「旅は、観光地や名所旧跡を訪れるのも良いが、人々との出会い、ふれあい、生活の様を垣間見れることが一番楽しい」と。僕もそう思う。

何年前だったか、ベトナムを、とっちゃん坊や達5人衆で訪れたことを思い出す。あちこち見て回り、ただただ感動した。「アオザイ」を製造している工場に立ち寄った。皆でお金を出し合って、一着購入。これは、小料理屋「梓」のママ、ひろこさんへのお土産である。事前に、身長、バスト、ウエスト、ヒップのサイズを聞いていた。工場内では、縫い子の女性達が一心不乱に作業をしていた。募金ボックスに幾ばくかの金子を入れると、一斉にこちらを振り向き「ありがとう」と、ほほえんでくれた。どらえもん君は、あわやタケコプターで宙を舞うかのごとく、そぶりをした。これがおかしかった。

刺繍入りの赤のドレスを購入。帰ってから、ひろこさんへ渡すと、おおきな眼をさらに大きく見開いて喜んでくれた。かくして、クリスマスの当日、店を訪れると、その「アオザイ」を着てくれた。よく似合っている。「孫にも衣装だぜ」と笑った事よ。気をよくしたママは、左右が腰まで割れているドレスの割れ目を更に広げ「どう、似合うかしら?」と、ポーズをとった。なんと、白のパンタロンが、お腹近くまで引き上げられ、裾は床を這っていた。彼女の短い足には、パンタロンがちょっと長すぎたのだ。それでも似合っている。僕たちは、なまめかしく達振る舞うママの姿を見ながら、ワインでのどを潤した。

そうそう、旅で一番圧巻だったのは、サンフランシスコから車で2時間ばかり走った山の中腹にある「ヌード村」である。ここでは老若男女が皆、裸で過ごす。
あてがわれたコッテージの上方にサウナやプールがある。行き交う人は皆、裸だ。

僕たちもサウナに入ることにした。脱衣場で衣服を脱ぎ、いざ、外へ出ると裸のオンパレード。男女が一物を隠すこともなく、堂々と歩いていた。僕たちは最初の頃、小さな一物を手のひらで隠しながら歩いた。外国人は気にとめる様子もない。裸が当たり前なのだ。「さすがに外人の一物は大きいぜ」とかなんとか言いながら・・お子様サイズの僕たちは、ちょっくら恥ずかしかった。目の前を大きなおっぱいを出し、逆三角形のヘアーをモロに出しで、女性が歩いていた。目のやりばに困ったものだ。

サウナに入った。二人ばかり金髪の女性が、あぐらをかいて、「うーーーん、うーーーん」と唸りながら、汗一杯かいて座っていた。僕たちもおそる、おそる、椅子に腰掛けた。しばらくして女性達は出て行った。どらえもん君が「金髪の女性は下も金髪かなーー?」と変な事を呟いた。「そりゃーーそうでしょう」とスネ夫君が言う。残念ながら蒸気が立ちこめて、そこまでは確認できず。

もう、僕たちもすっかり裸になれて、「堂々と」と言いたいが、やや控えめに前屈みになって歩いた。今思い出すと、おかしい限りだ。他にも面白いことはいくつもあるが、紙面が長くなるので、またいつかの機会に書くことにしよう。

とにもかくも、旅は楽しい。「行ける時に行かなくちゃーー」と言うのが僕たちの共通の認識。11月になれば、とっちゃん坊や達6人衆の旅が待っている。のび太君、どらえもん君、夜泣き爺さん、ネズミ男君、ジャイアンの五人に、新たに、のび太君の親戚筋、キツツキ君が加わる。今から楽しみだ。








2013年10月13日(日) 今日は笑ってみたい。

気温21度。快晴。気持ちよい日曜日を迎えた。僕は早朝より、裏庭へゴミの焼却へ出かけた。周囲の田んぼでは米が実もたわわ。黄金色に輝いている。風になびきながら、早く刈って欲しいと訴えているようだ。電線には、真っ黒いカラスが、餌を求めて機をうかがっている。さすがに雀は電線にはいない。もっぱら家の瓦や軒下を行ったり来たりしながら鳴きじゃくっている。生きとし生けるもの、皆精一杯生きている。人間だって同じだ。

あるお母さんが言っていたが、今、子育てが大変らしい。誰か見てくれる人がいれば、自分の時間がもてるのにと嘆いていた、核家族した今日、何から何まで一人でこなさなければならない。一苦労だ。分別が出来る年頃になれば、少しは解放されるんだろうが。なにせ母親任せだから、男親にはその辺のところが理解しずらい。

僕は父が早くになくなったので、母手一つで、男兄弟3人を育ててくれた。喧嘩はするし、衣服は汚すし、食欲も旺盛で、並大抵の苦労ではなかっただろう。時折、近所に住む一人暮らしの親戚筋ばあさんが我が家を訪れていた。夕飯を一緒に食べた。色々と昔話をしてくれた。理解できないところもあったが、兄弟三人「ふーーーん、ふーーーん」と言いいながら、飯をむさぼり食い楽しく笑った。こんな経験が僕たち兄弟にとって良かったように思う。

ばあさんを送り届けるのは決まって、僕の役目だった。家に着くと、ばあさんは仏壇から小銭を取り出し、僕にお駄賃としてくれた。これが嬉しかった。帰り際、言ったものだ。「また来てね」って。他の兄弟には内緒にした。

そうそう、母の話しが出たので、先日の「泣きたい話し」の続きを書いておこう。出た。出た。出ました。ネズミ男君のカラオケゾロ目が。なんと88点。曲目は「ふれあい」ではなくて、「いちご白書をもう一度」。バンバンさんの歌だったっけ。いやああ、これには驚きだ。Mサイズ黒のランクスをゲット。確かに上手だった。僕は涙が出そうになったが、ぐっとこらえた。点数を見た後の彼の台詞がいい。「今日は真剣に歌ったからね」だって。「それじゃやーーー、今までは真剣ではなかったの」と、言いたかったが止めた。大人げない。

僕が「秋桜」を歌ったことは言うまでも無い。もちろん、ネズミ男君の「かあーーーちゃん」という叫び声が聞こえた。61点。「なんで、また、どうして?」。ネズミ男君が追い打ちをかけるように言うではないか。「あんた、ようするに下手なんだよ」って。落胆している僕の姿を見て、カウンターレディーのシズカちゃんが「ジャイアンさんは上手よ。私はジャイアンさんの歌が好きよ」って、慰めてくれた。「僕も慰めをいただくようではおしまいか」と思ったが、気を取り直して数曲歌った。結果は鳴かず飛ばずだ。

それでも、超秘密兵器にしている歌が一曲あった。時期尚早だがお構いなし。クリスマスソング「きよしこの夜」という歌である。歌詞の一番と二番が日本語。三番が英語。「サイレンナイト、ホーリナイト・・・・・・」。ゾロ目ではなかったが、これは点数が良かった。僕の湿った顔も、この曲で名誉挽回。後は野となれ山となれで気分良く過ごした。泣きたかった心境もすつかり晴れ模様。人間の心って現金なものよ。

おっと、午後の休憩タイムが終わろうとしている。今日は仲間内のイベントに4時に出かけなくてはならない。どらえもん君も来る。彼は料理当番になっているようだ。お腹の中から材料を取り出して「今日は温泉豆腐とサラダを作るでえーーー」と張り切っているよし。「温泉豆腐の具は何かなあーーー?」と、僕に聞いてきたが、僕に分かるはずもない。「ネギじゃあーないの」と答えておいた。

さて、今日は温泉豆腐で腹鼓をうつか。先日は泣いて見たかったが、今日は笑ってみたい。




2013年10月11日(金) 今宵は久しぶりに泣いてみるか。

今日は久しぶりに青空が顔をだした。日中はまだ暑いが、秋の気配を感じる。午前午後と仕事を済ませ、先ほど帰還。なんだか今日は泣きたい気分である。泣くと言っても、悲しいから泣くわけではない。ただ、感慨に浸り、思いを馳せてみたいだけだ。

てなわけで、ネズミ男君へ「今宵はネズミ君の歌を聴いて泣いてみたいぜ」と言うと、彼は「やめてよーーー。金もないよ」と言いながら、まんざらでもない様子だ。かくして決定。

まずは、小料理屋「梓」の、ひろこさんの所で腹ごしらえだ。「あら、お二人さん、お久しぶりねえーー」と、ママは、にっこりにんまりするだろう。実は今月30日はネズミ男君の誕生日だ。そのことを、ひろこさんへ告げておくと、シャンペンか、もしくはワインのプレゼントに預かれる。それを期待しているわけだ。僕も一月前に誕生日を迎えたが、そのときはシャンペンだった。4〜5人いたカウンター仲間から祝福を受け、なみなみと注がれた液体を、「ぐっ」と飲み干した経緯がある。歳は取りたくないが、祝いは、それなりに嬉しいものだ。


その後は、画家が経営するスナックへ赴き、点数制カラオケに興じることになるだろう。ここは、酒類の持ち込みがオッケーで、ボトルのキープはない。持ち込んだアルコールを飲み、時間無制限一本勝負である。出されたつまみ(スナック菓子)以外に何も注文しなければ、お一人様3000円。まあ、そんなものだろう。

だが、しかし、ばっと、カラオケ代が高い。一曲200円だ。僕とネズミ男君、さらにはカウンターのレディーたちが歌うと、あっという間に15曲位になる。もちろん、僕とネズミ男君が5曲以上は歌う。時々、ソフィアローレン風ママが、僕たちが歌う曲と同じ歌で挑戦してくる。これがなんと、いつも最高得点をだす。ママが言う台詞が憎らしいではないか。「私にゾロ目が出たら、記念品は、あなたたちにあげるわ」だって。不愉快だあーーと思えど、いまだに、ママの点数を追い越したことはない。

僕が今日、泣きたいと思ったのは、ネズミ男君のレパートリーのひとつ、中村雅俊さんの「ふれあい」を聞きたかったからだ。さらには、石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」。さらに、さらに言えば、「いちご白書をもう一度、神田川、時代遅れ、いっそセレナーデ、ジュリアーノ・ハートブレイク、サザンカの宿」などがある。ネズミ男君の歌には哀愁があり、僕の涙をさそうのだ。

かたや、この僕はどうか?。決まって、ネズミ男君が僕に所望する歌がある。山口百恵さんの「コスモス」である。彼は既に父・母・兄弟の一人を亡くしている。この歌を聴くと特に母親のことを思い出すのだろう。

それを知っている僕は、情感たっぷりに、「薄紅のコスモスが秋の日の、何気ない日だまりに揺れている。涙もろくなった母が・・・・」と、やり出すと、ネズミ男君が曲間に「かあーーーちゃん」と叫ぶのだ。「あんた、ふざけてんの」と言いたいが、これがいつものパターンだ。僕やカウンターレディー達は、いつも、ふき出しそうになる。曲が終わって、さあーーーーー点数は?。59点。「あんたが邪魔するからいけないんだよ」と僕は笑いながら怒る。いつも70点以上を出す彼は、「勝ったーー」と満面の笑みを浮かべる。

「うんんん、悔しい」と言うことで、僕もとっておきの秘密兵器を出す。柏原芳恵さんが歌う「春なのに」である。以前、66点のゾロ目を出した曲である。恐らく、今宵もその曲を歌うだろう。柳の下にドジョウはいないと思うが、昔取った杵柄。再び美酒に酔いしれてみたいものよ。他に、「白いブランコ、ある愛の歌、メリジェーン、名残雪、無縁坂」なども歌うが、なにせ、音程がめちゃめちゃ。力が入りすぎている。英語の発音は、まあーーーまあーーーだと思うんだが?。いかんせん、点数は正直だ。おっと、点数のことは、ここでは述べまい。

さあーー、今宵は久しぶりに泣いてくるか。ゾロ目賞も獲得したいものよ。誰もこの日記を読んでくれないと思うが、結果は後日したためよう。



2013年10月10日(木) とりとめもない話。

今日は終日、曇り空。秋も深まった感じがするが、気温は30度を超す猛暑。この原因は、台風24号の置き土産とニュースで報道していた。台風24号が連れてきた雲と、太平洋高気圧が相乗効果をもたらし、フェーン現象が起きたらしい。かくして気温はうなぎ登り。まあ、これも数日の事らしいが、自然の営みは全く複雑だ。

ただ、ちょっと、気になったことがある。報道されていた「置き土産」という言葉である。「土産」というと、旅先や出張先から父親が買って来た、おいしい物や珍しい小物、来客が持参した「結構な物」を連想してしまう。要するに好ましい物だ。だが、しかし、台風の置き土産となれば話しが違う。好ましい物ではないはずだ。むしろ、「台風が連れてきた魔物」と言った方が当たっているか。

なにげなしに聞いていると、「台風の置き土産」とは名言である。被害を被らなかった人達にとっては、「なるほど」と理解しやすい。反面、被害に遭った人達にとっては、土産どころか、悪魔、魔物である。報道は、津々浦々に、わかりやすく説明することが使命であるならば、あながち批判も出来ないか?。

話しを変えよう。僕が常日頃、気にかけている事は、この宇宙に何か新しい発見はないものかという事である。今日も、ニュースの目次を見ていると、あった。あった。新しい浮遊惑星が発見されたのだ。浮遊惑星とは文字通り、ふわふわと浮遊している惑星。

浮遊惑星は数多くあるらしいが、今度のものは、まだ歳も若く、木星の6倍程度の質量。距離も80光年と、意外と近くにいる。しかも、恒星に従っている様子もなく孤独星のようだ。ガス惑星らしいが、木星と比較研究すれば、新しい発見につながるかもしれない。期待がもてる。

孤独星といえば、地球だって生命体を育む唯一の孤独星だ。もうそろそろ、生命体を育んだ兄弟星が見つかっても良さそうだが。なーーか、なか。以前も書いたが、早く次元をまたがって、別の幕宇宙へ行きたいものだ。マロニーちゃんではないが「次元ちゃん、次元ちゃん、あんたはどこ、どこ?」。「はい、ここよ」と言ってもらいたい。夢食うバクの話しは止めよう。

ようやく日も暮れた。先週、今週と僕にしては珍しく自宅で静かにしている。とりとめた理由はない。あえて言えば、ネオン街をさまよう軍資金が乏しいだけだ。まあ、友人から誘いのTELでもあれば、そそくさと出かけるんだが。

台風も去ったし、夜は事務机に座り、パソコンのキーボードを叩きながら残務整理だ。時折、ため息をつきながら、ネズミ男君が歌う「ジュリアーノ・ハートブレイク」や、「ふれあい」の歌詞や歌う様を思い出し、一人笑いをしている。そうそう、僕自身も歌ったっけ。春でもないのに「春なのに」。ちぎったボタンを投げる様が決まっているぜ。そう思うのは僕だけ。いつわりの拍手に照れ笑いしている僕の姿が見える。

休憩も終わりだ。明日の準備にとりかかろう。


2013年10月09日(水) 台風が去って、ちょっと僕は吠えた。

台風が去った。天気は曇り空。風一つ無い。昨夜の台風が嘘のようである。当地は、たまたま運が良かったのだろう。海岸沿いの地域は被害が起きているようだ。お見舞い申し上げます。

昨日は、準備万端で台風を迎え撃とうと思っていたが、夜になっても一向に強い風が吹かない。だが、安心は出来ない。午後11時過ぎ、ベッドに横になり、風の音に聞き耳を立てていた。木々が揺れる気配もない。時折、思い出したかのように「ゴーーーッ」と、うなり声が聞こえもしたが、ほんの一瞬だ。知らず僕は船を漕いでいたようだ。

朝6時半に起床。薄明るくなった外を見た。昨日と何の変化もない。外に置かれていた物が小屋に片付けられていたので、周囲が異様に広く感ぜられた。「さあ、また、元に戻さなくちゃあーー」と、水をゴクリと飲み、労働に精出した。

やっと、復元できた。時、既に午前8時を回っていた。部屋に戻りテレビをつけると、台風情報を放映していた。なんでも、台風は今年やって来た中で一番大型と言うことらしいが、移動速度が速いこと、暴風圏が広くなかったこと、上陸せず海上を北上したことが幸いだったようだ。だが既に台風25号、26号が機を伺っているという報道もなされていた。今年の地球は一体、どうなってんだ。異常気象がますます進行しているようだ。

台風もさながら、痛ましい事件も報道されていた。女子高校生が刺殺され亡くなったというのだ。人の生も死も日常茶飯事にある。生があれば喜び、死があれば悲しむ。死は死でも天命を全うした死なら、ただただ成仏を願うのみだが、不本意な死ほど悔やまれることはない。

パスカルは言った。「人間は考える葦である」と。そうそう、昔、友人も言っていた。「人間は考えることが出来るから、善しきも、悪しきも、喜びも、悲しみも知ってしまった」と。確かにそうだ。

問題は法治国家にあって、「悪しき事は罪である」と考えることが出来れば、人を殺めるという最大の罪を犯すこともないだろうに。皆、そのことは分かっている。要は「悪しき事」の定義である。法を破ること。これが第一義であろう。それでも、事件に至ってしまう背景は何だろうか?。

思うに、有史以来、人類の歴史は闘いの連続だった。闘い、人を殺戮してきた。人の死を目の当たりにして、さほど人は驚かなくなった。人の死よりも闘いに勝つことが優先された。闘いに勝てば実りがあり、後世の豊かな暮らしが保証されると考えたわけだ。死はその代償だったのか?。あな、恐ろしやである。

これではいけないと考えた人類は、人の命と財産を守るため、国家は法律を作り、主権を国民に与えた。「主権在民」、「議会民主主義」、「基本的人権の尊重」、これはすばらしいことだ。人々は自由を謳歌し始めた。

だが、未だに国家同士の争いは絶えない。なぜ争うのか?。国家の発展度合いは違う。話し合いが物別れに終われば、国交断絶、しまいには戦争になる。種の保存のために闘うわけだ。食料を確保しなければならない。領土を増やさねばならない。宗教が違えば相手を排他する。こうなってしまえば、もはや世界は終わりだ。今はまだ、不安定ながら、かろうじて均衡状態にあるが、この均衡が破れれば一環の終わりだ。「さらば、地球よ」。宇宙戦艦大和に乗って、旅立たねばならない。

こういう、世界の情勢や、国の在りようが、個々の人間の考え方にも大きな影響を与えているように思える。主権在民、基本的人権の尊重とは言っても、豊かになればなるほど、個々人間での生活格差は広がり、差別化が生まれた。人間関係もぎくしゃくしてきた。それでも、自由はあった。ただ、死に対する尊厳の念が薄れてきたことが問題だ。

いつだったか、ラジオで聞いた。祖母が亡くなる時、枕元に親、子供、孫、ひい孫たちが全員集まり、祖母の手を取って「おばあーちゃん、おばーちゃん」と呼びかけると、祖母はにっこり笑って、幸せそうな顔をして旅だったと言うのだ。

これだ。これである。子供にも、孫にも、ひ孫にも、死を間近に経験させること。おばーちゃんの笑顔は子供や孫達の心に、死にたいする尊厳の心を自ずと養わせるだろう。今、日本人に欠けていることは、こういう幸せな死を経験出来ない人達が多いことかもしれない。

事件を起こした青年に、死に対する尊厳の心があれば、人を殺めると言う行為も起きなかったかも知れない。もっと、違った解決の方法もあったはずだ。

そう言いながら、僕も他県にいる母の死に目にも会えないかも知れない。出来るなら母の手を取って、「有り難う」と言いたいが。核家族化が進行し、今や大家族で暮らすことがかなわなくなった。核家族化もやむを得ない今日。出来れば、正月、お盆以外に、たびたび故郷に帰る運動を展開すべきかもしれない。行政、国を挙げて「故郷に帰ろう運動」が始まると、事件も少なくなるかも知れない。


2013年10月08日(火) 宇宙は一つではない。たくさんある。

いよいよ、台風がやってくる。今宵から明日にかけてが勝負だ。備えあれば憂いなしで、僕は対策に乗り出した。近年、当地は台風の洗礼を受けていないので、風雨の脅威に鈍感になっている気がする。出来ることを考えた。まず外にある物を小屋の中にかたづけること。開閉式のフェンスをヒモで固定すること。扉には施錠すること。車庫のシャッターを下ろすこと。雨戸を締めること。雨戸のない扉の隙間から雨が打ち込む可能性があるのでビニールシートが必要だ。ガムテープで隙間を防ぐ。夜の停電に備えて懐中電灯とラジオがいる。頭に布団をかぶせて寝る。物が落下しても大丈夫なように。まあー、そんなところか。

今、キンモクセイの香りが最高潮。恐らく風で、花が散ってしまうだろう。残念ながら、こればかりは防ぎようがない。一番の脅威はやはり屋根瓦である。風で瓦が吹き飛ばされたら危険でもあり、雨漏りがするかも知れない。僕の力ではどうすることも出来ない。高所恐怖症の僕だ。屋根から落ちて亡くなった人もいると聞く。とにかく、被害がなく台風が去ってくれることを願うのみ。目下、「嵐の前の静けさ」ってところだ。この現況がいつ破れるか、僕は緊張感を持続しながら、時の推移を見守っている。

近くに、一人暮らしのご婦人がいる。防災時には僕に面倒を見て欲しいとの依頼があった。今朝、そうそうに家を訪れた。今日はケアハウスに泊まることになっているそうだ。一応安心した。

今日は仕事をする気になれない。話しを変えよう。僕の最近の関心事は人間の生と死についてである。生きとし生けるもの、いかでか生を語らん。生とは、まさに不思議なものだ。いずこともなく生じ、いずくともなく去って行く。宇宙の一生と同じだ。

ところで、つい先日、「宇宙の最前線」についてネットで検索したところ、面白い映像を見た。そもそも宇宙はビッグバンという大爆発によって誕生したと言われるが、じゃあー、そのビッグバンは、なぜ起こったのか?。いまだに明解な回答はない。宇宙の統一原理というものがまだ確立されていないのだ。ただ、それに迫る理論が着々と研究されている。いずれ日の目を見るだろう。

なんでも宇宙は11次元の「膜」の上に乗っかっているそうな。膜ねえーーー?。どんな膜かしら?。我々は普通、3次元(点・線、平面、立体)までのことしか知らない。時間が加わって4次元だ。ところが宇宙は10次元まであり、時間が加わって11次元となる。我々の目には見えないが、空間の至る所に次元があり、膜があるというのだ。ということは次元をまたがれば、違った宇宙に行くことが出来る。

今、我々の知っている宇宙は一つの膜の上にある。この膜は、まるでクラゲのように無数にあり、ゆらゆら揺れている。ということは、いろんな膜の上に宇宙がたくさん存在していることになる。この、ゆらゆらの膜が衝突して、ビッグバンを起こすと言うわけだ。物質が大量に空間に飛び散り、膜宇宙を形作る。同じような爆発は1回のみならず、何度も何度も起きた。従って物質を持った宇宙はいくつも存在していることになる。

驚きだ。宇宙は一つではないのか?。それを説明するため、登場するのが「超ヒモ理論」だ。ヒモかあーーー?。「僕はあなたのヒモになりたい。どうぞ連れてって」と言いたくなるような理論だ。このヒモ理論が証明できれば、宇宙の統一原理となり得るようだ。宇宙のすべてが物理科学的に説明できるわけだ。

別の宇宙にひょっとすれば、僕がいるかもしれない。僕が別の宇宙にいる僕に会いに行くことが出来れば最高だ。僕は僕に言うだろう。「こんにちは。お互いに長生きしようね」と。

何度説明を聞いても定かには理解しがたい。折しも、今日は台風の日。停電にならなければ、夜な夜な、もう一度、ヒモ理論と11次元の宇宙をを垣間見ようと思う。



2013年10月02日(水) 気が抜けて、妄想が顔を出した。

いやあああーーっ、万歳。懸念していた僕の行事がつつがなく終了した。今日は気分爽快だ。天気は、まあまあだが。後は正月を待つだけ。おっと、その前にクリスマスと、とっちゃん坊や達の旅がある。他にも忘年会とかあるが、それは二の次だ。

まずは、たまった仕事に目途をつけねばと、山の中腹にあるクライアントの所まで足を運んだ。蛇行しながら登っていく山道の両側には、紅葉を待ちかねている木々が、優しく僕を迎えてくれた。なにせ、山は空気がおいしい。

昔、思った事よ。こんな美しい山の中で、宇宙からやって来た999のメーテル、顔を見なくて良いなら山姥さん、野墓の近くで現れるという髪を振り乱した幽霊さん、さもなくば真っ白い肌をした雪女のごとき女性達の、いずれかと出会い、心静かに、のんびりと暮らせたら幸せだろうなあーーなんて。メーテルは言うかも知れない。「鉄郎、おっと、ごめんなさい。ジャイアンよ。そろそろ機械の体に入れ替えたら?。永遠の命が授かるのよ。」って。僕、ジャイアンは、ちと考えた後、こう言うだろう。「うんんん、限りある命でも、喜び悲しみの中で、人間らしく暮らしていった方がいいかなあーーー」と。

又、雪女ちゃんは言うだろう。「ジャイアンよ。私の体であなたを溶かしちゃおうかしら。一心同体になれるのよ」って。僕はすかさず「だめ、だめ、それは駄目。まだ生身の体でいたいんだ。僕の寿命が終わる時、その時は君に溶かして欲しいけどね。心だけを残して」とか何とか言うだろう。ちょっと、格好良すぎるぜ!!。

いやはや、妄想もここまで行くと病的だ。確かに僕は、若かりし頃、そんな事を考えたことがある。ところが、ある時から考えが変わった。「なにも、山まで行かなくても、メーテルや、雪女、山姥、口裂け女、女ゾンビ、幽霊ごとき人達は娑婆世界に、わんさといるじゃん。ビジネス街、ネオン街で、ふと、そんな人達と縁があれば、絆も生まれるかも知れない」なんて。

残念ながら、まだそういう縁はない。というより、ジャイアンは気弱である。大言壮語をはたくが、むしろ、そういう状況を避けて通っているのかもしれない。ただ、密かに「ゾクゾク」としたいだけだ。

おっと、気が抜けると、ふうけたことばかり呟いてしまう。方向をチェンジしよう。クライアントの仕事を終え山を下った。その足で、のび太君の事務所へ向かった。よいやく「とっちゃん坊や」達の旅費が集まったのだ。幹事役、のび太君の所へ届けた次第である。彼は相変わらず忙しそうだった。客が来たので、ゆっくり話す時間もなかった。

かくして、僕も我が家へ戻り、この備忘録をしたためている。そろそろ気を引き締めて仕事に邁進しよう。


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