umityanの日記
DiaryINDEXpastwill


2013年06月23日(日) ジョークや、だじゃれが理解できない。

今、やっと一仕事かたづけた。田んぼの真ん中に建っている一軒家で、一人仕事をするのは淋しいものだ。邪魔がなく仕事がはかどるのは幸いだが、時折、外のネオンでも眺めたいという衝動に駆られる。だが、しかし外は真っ暗。物音一つしない。見ないテレビをつけて音を出すのも性に合わない。寝るには早すぎる。てなわけで、この日記をしたためている。

そうそう、昨日、「小料理屋 梓」の、ひろこさんがドイツ旅行から帰ってきた。近々、店に顔を出そうと思っている。その心は?。ちゃっかりしたものよ。お土産をいただきに行くわけだ。

旅立つ前に餞別を渡そうと思ったが、「いらない、いらない」というので、僕、ジャイアンもネズミ男君もその言葉に甘えた。まあ、日頃、あしげく通っているからいいか?。土産は多分、定番のキーホルダーだろう。手頃な値段で、長く使うと思い出になる。おっと、あさましい根性をだすのは止めよう。何はなくとも、無事に帰還されたことが、最高のお土産だ。まだ見ぬ世界の話を聞くのも楽しみである。

話と言えば、先日、この店で、僕だけが知らなくて、のりちゃん先生を含め、周りの人達が、ほとんど知っていた、ジョーク話があった。ひろこさんが僕に尋ねた。「あのねえー、お月様とお日様と雷様が、一緒に旅館に泊まったんよ。朝になったら、お月様とお日様がいなかったんだって。女中さんに、雷さんが、彼らはどこへ行ったのかと聞くと、朝早く立たれましたよと、女中さんが言ったの。その後、雷さんはなんと言ったのでしょう?」

「雷さんが、何と言ったか?」。単細胞の僕に分かるはずもない。のりちゃん先生が、僕に「あんた、これ分からないの?」と、追い打ちをかける、僕が降参すると、ひろこさんが、「雷さんはねえーー、月日がたつのは早いのうと言ったんだって」と、満面笑顔で言う。あまりにもくだらなすぎて、僕は笑った事よ。

ひろこさんが更に言う。「実はねえー、まだ続きがあるの」と。「それは何?」と僕が聞くと、「今度は女中さんが雷さんに聞いたの。雷さんはいつ立ちますかって。さて雷さんは何と答えたでしょう?」。

僕は答える気にもなれなかったが、実は全く分からなかった。ひろこさんは勝ち誇ったように笑みを見せ、「雷さんはねえーー、わしは夕立にしようって、言ったのよ」という。

僕は、「なるほどねえーーー」と言い、焼酎を一気にのどへ流し込んだ。くだらないが、確かに面白い。近々、ネズミ男君と「梓」へ行くことになっているので。彼にも話してやろう。彼はなんと答えるか楽しみだ。既に、僕には彼が答える言葉が分かっている。彼はきっと、「わかんなあーーい」と言うだろう。

そもそも、僕ジャイアンもネズミ男君も能天気で単細胞。深く考えることをしない。ましてや、だじゃれやジョークなど、僕らには通用しないのだ。要するにそういうことを考えるセンスがないわけだ。答えを聞いても、しばらくしてから、「あっははっはあーーー」と笑い出す始末。真に始末に負えないぜ。

さあ、午後11時近くになった。寝るには丁度良い時間か?。


2013年06月21日(金) 風鈴と猫。

昨日は、とある講演を聞く機会を得た。雨降る中を1時間ばかり車を走らせて会場に着いた。開場が12時半。開演は1時からだった。聴衆は1000人位だったか。講師は数え87歳になるかという老禅師だ。こちらには初めて来たようで、来ての第一印象は「いやああ大地が広く、緑豊かですねえー」という言葉だった。折しも、こちらは田植えの時期。見渡す限りの田園は、さながら自然そのもの。僕達には見慣れた風景でも、老師には壮大なスケールに映ったのだろう。

講演が始まった。老師のゆっくりとした語り口は、あたかも子守歌かのごとく、僕は心地よさに、いつの間にか「こっくりこっくり」と船をこいだようだ。それでも、興味深い話はいくつか覚えていた。風鈴の話と猫の話である。

風鈴、これは夏の風物詩である。「人間は風鈴の様に生きられたらいい」と老師は言う。風鈴は風のない時は「じっと」しているが、風が東西南北、いずれの方角から吹いても風に逆らわず、風の強弱に従い、優美な音色を奏でる。とらわれることがなく自由である。「そんな生き方が出来ればいい」と言う。

また、風鈴のごとく生きる生き方は、猫の生き方にも似ていると言う。「猫の生き方ねえーーー?」と、猫嫌いな僕は思わず笑ったが、師が面白い例を引き合いに出した。「ある猫が立派な服を着せられて、高級車に乗り込んだ。その光景を縁の下で見ていた別の猫は、驚く様子もなく、うらやましく思う気持ちもない。淡々と眺めているだけ。自由気ままに生きる猫にとっては、そんなことはどうでも良いわけだ」と。なるほどねえーー。自由に任せるという面では、風鈴も猫も同じか?。

なんでも老師が住む敷地には猫が70〜80匹はいるそうだ。捨て猫や繁殖した猫が年々増えている由し。最近は、猫の為にプレハブ小屋を2棟建てて、冷暖房を完備したらしい。これには皆笑った。猫様々である。寒さを慮っての老師の心遣いであろう。人間様のみが文明の利器に預かるのは贅沢というもの。

さらに面白いことを老師が言った。「猫には自殺がない。皆さん、聞いたことがありますか?。猫が自殺したって」と。なぜって、「猫には悩みがないからです。風鈴が風に任せて自由に音色を奏でるように、猫も自由に、気ままに生きているからです。高級車に乗った猫がうらやましいなんて微塵も思わない」と。「なるほどねえーー」と僕も納得。

そういえば「時の流れに身を任せて」とかいう歌があったっけ。「これも、同じような事を言っているのかなあーーー」と、ふと思った。確かに老師の言うように生きられたら幸いだ。だが、しかし、ばっと、今日、我々は縦横無尽に押し寄せて来るしがらみに、一喜一憂しながら生きているのが実情。そんな中で、「心平和に自由に生きられたら幸いだ」と皆、思っている。それが出来ないから悩みが生じ、自殺まで人を駆り立てる事があるわけだ。

要は、欲をむさぼらず、風鈴が風に任せてなびくように、猫が知らぬ存ぜずの境地で生きているように、自然な生き方を心がければ、悩みや、しがらみも自ずと消滅するのだろう。

聴衆者の一人から質問が出た。「先生は、長年生きてこられましたけど、生と死について、特に死後について、どう思われますか?。極楽ってあるんでしょうか?」と。皆、笑った。師の答えは単純明快だった。「わかりません。。。」である。付け加えて、「私もまた生きていますからね。ただ、輪廻転生。人も物も迷いの世界で何度も生まれ変わるでしょう。自然に即してありのままに生きていれば極楽も地獄もありません。ただ、ひたすら生き、ただひたすら死ぬ。そこには悩みも迷いもない。それだけです」と。

うんんん、納得。単純、単細胞の僕は思った事よ。「これからは、風鈴や猫のように生きよう」って。


2013年06月19日(水) とりとめもない話。

久しぶりに 大雨が降る予感。雨は歓迎だが、大雨は困る。そこを見計らって、昨日は雑草刈りに専念した。雑草のたくましい生命力には脱帽だ。毎年、「これでもか」と、彼らを一網打尽にするが、それをせせら笑うがごとく、どんどん背丈を伸ばしてくる。彼らも生命体だから、本来なら自由に生かしてあげたいが、世間体を気にする人間の欲望がそれを許さない。ジャングルならともかく、ここは人間達の居住地だ。雑草に覆われるより、刈り取って平面にした方が住みやすいし美的である。人間って、勝手な生き物だ。

まあ、そんなわけで、昨日は雑草君達と格闘をしたわけだ。まだまだ刈り残りが山ほどある。隣の田んぼで耕耘機を動かしていた知人が、「シルバーさんに頼めばいいのに」と言ってくれたが、僕、ジャイアンはひねくれ者。「じぶんで出来る内は、じぶんでやりまっせ」と答えておいた。

実はシルバーさんではなく、ネズミ男君から「おいらに刈らせてくれ」と、再三、要求されている。来週あたり、彼を招請しようと思っている。彼はさすがにネズミだ。皿をなめ尽くすかのごとく、きれいに仕上げる。僕としては大助かり。日当5千円ばかり渡して、その金で夜、一献傾ける。これも楽しみの一つだ。彼は妻もいないので自由の身。今は、じっちゃん、ばっちゃんを相手に、ゲートボールにいそしんでいるよし。

昨年までは、土木作業の仕事をしていたが、若い作業員達から、「あれ持ってこい、これ運べ、ばか、このうすのろが」と、叱咤罵倒されるので、「はがいかあーーー」と、憤慨する日々だったらしい。日当は 結構良かったらしいが、なにせ、きつい仕事だ。てなわけで、自ら仕事を放棄した。すでにもらっているらしい年金と、ドラム缶貯金箱があるので、食って行くには支障がないようだ。あとは嫁さんが欲しいだけ。嫁さんと言っても、「すこぶる優しい女性でなくちゃ駄目」という。今時そんな人がいるはずもない。ということは一生独身だぜ。

彼と二人で、雑草を挟み撃ちにしながら刈り取っていく。暑いがペットボトルの水を時折、口に含み、互いに顔を見合わせて、にんまりだ。このにんまり顔が、お互いを元気つかせる。「さあ、一気にいこうぜ」と言うことになる。

「一気にいこうぜ」で思い出したが、彼はスナック等でカラオケを歌う前に、必ず、「今夜も一気にいこうぜ!!。愛とはなんぞや?」とマイクを振り回しながら前口上を述べる。その様が実に滑稽だ。周りから拍手が湧く。憎めないネズミ君だぜ。そんな彼を横目に、僕ジャイアンも負けじと、フォークソングを歌うが、最近は点数も湿りがち。彼に遅れを取ることが多くなった。ネズミ君の鼻高々なそぶりが、しゃくに障るが、これも仕方なかっぺ。これが僕の実力なのだ。

それはさて置き、先日、箸の使い方を勉強したが、その話をネズミ男君に教えてやろうと思っている。くれぐれも、「箸を振り回しながらしゃべるのは止めて欲しい」と、強く促したいと思う。そうそう、書き忘れていたが、講座を受けた時、僕は箸の使い方で先生に質問したっけ。「先生、僕は箸を置く時はいつも、箸の先を自分の方へ向けて置きますが、これはいけないんでしょうか?。食べた先が正面の人や横の人に向いていると、失礼に当たるような気がしますのでね。特に偉い人が正面にいたり横にいたりすると、なおさらそうです。」と。

先生は答えた。「普通は、箸置きが有り、食べた先を左にして置きますね。自分に向けて箸先を置く。うんんんんん、分かりません。調べておきますね」と。よく、小料理屋などで、友人達から「あんた、箸を自分に向けて置くね。変わっているね」と言われる。「相手に向けるのは失礼だからね」と、いつも答えている。この配慮は考えすぎか?

こういう事に良いも悪いもない。要は価値観の問題だろう。僕ジャイアンは、そうすることが習慣になった。そうすることを止めるつもりはない。僕は頑固者
、ジャイアンだ。


2013年06月15日(土) 人間力アップ。

六月十五日、土曜日。曇り空。気温は25〜30度で幾分か暑さは和らいだが、なにせ湿度が高い。むんむんする。そんな中、午前中、一仕事をかたづけた。午後から、のび太君と、「人間力アップ」をテーマとした講義を聴きに行った。講師は紫園来未(しおん くるみ)さんという女傑である。

彼女は社会や町を活性化するためのいろんな活動をしている。近々、さる新聞社の文化サークルで講座を開く事になっている。今日はその予行演習というか、講座のダイジェストを、我々に披露したわけだ。彼女はエッセイストでもあり、旅行家でもある。すでに世界一周旅行を二回成し遂げ、「イルカおばさん」という異名で本を出した。本の出版記念会に、のび太君と僕ジャイアンも招待された。僕達は映し出される美しい映像の数々を、口を「ポカーン」と開きながら眺めていたことを事を思い出す。

さて、婦義のテーマは「人間力アップ」だ。このテーマを見た時、のび太君も、僕ジャイアンも、「僕たちに今更、人間力アップなんて必要かなあーーー?」と、一瞬思った。なぜって、「これ以上人間力をアップしたら神様、仏様だぜ」と、うぬぼれていたからだ。

だが、しかし、ばっと、話を聞いてみると、基本的な常識の至らなさに、ただただ唖然とするばかり。人間力とは「人間としての総合的な魅力」という事らしいが、僕たちは部分的には魅力がありそうだが、総合的ではない。そもそも、総合的に魅力のある人間って、ざらにはいないだろう。だからこそ、少しでも、魅力満載の人間を目指して、基本的常識を養う必要があるわけだ。

来未(くるみ)さんが質問を投げかけた。「はあーーーい、皆さん、椅子の座り方、立ち方」をご存じですか?」と。「えええええーつ、そんなことにも基本があるの?」と、皆、思わず笑った。回答を聞いて、「いやああ、そうだったのか」と改めて知った。椅子は左側から椅子を引いて座り、立つ時も椅子を引いて左側から出るのが基本だそうだ。もちろんそうできない場合もあるが、基本はそうであるらしい。皆が一斉にそうすると、見栄えも良いし、きれいである。「なるほどねー」と、皆、感動。僕も以後はそうすることにしよう。

次の質問は箸の使い方だった。箸はまず左手で中央付近を持ち、右手を右に滑らせ、箸の下をくぐらせて、右手に持ち替える。そして使用する。箸を置く場合も同様。まず左手で箸の中央付近を持ち、今度は逆に右手で箸の下を滑らせ箸の上にいたり、箸の中央付近で右手で持ち、箸置きに収める。要するにこのような何気ない動作が美しく、きれいに見えるという訳だ。習慣的にそうする人は、やはり人間力が高いといえよう。いや、上品である。

箸のことで思い出したが、ネズミ男君は、話に夢中になると、箸を上下左右に振り回しながらしゃべる。あぶないったらありゃしない。僕、ジャイアンはいつも「おい、ねずみちゃんよ、箸を振り回しながら話すのはいかんよ」と、注意しているが、なかなか直らない。要するに箸の使い方の基本がなってないわけだ。今度、教えてやろうと思う。

他にも、いろんな話があった。たとえば、「どんな人が人間力が高いと思うか?。イイ男、イイ女の外見・内面から考えてみよう」。聴講者は思っていることを、めいめい述べた。多々ある。僕ジャイアンは、「相手の話をよく聞く人」とこたえておいた。出てきた答えは、ほとんど、僕が出来ていないことばかりだ。嘆かわしい。

他に興味深かった事は、「第一印象は2〜6秒で決まる」ということ。僕は1秒と答えたが、これはあまり短すぎるか?。また、メラビアンの法則というものがあり、話し手が聞き手に与える影響は、視覚65%、聴覚38%、言語7%ということらしい。僕の回答は、視覚70%、聴覚20%、言語10%。当たらずと言えども遠からずか?。

まあ、こんな具合で1時間半という短い講義だったが、とても為になった。今日の講義を聴いて、僕の自尊心は、砂糖菓子が崩れるように、もろくも葬り去られた。のび太く君は、どうだったか分からない。いずれにせよ、二人とも、更なる人間力アップに邁進する必要がありそうだ。




2013年06月14日(金) スマイル。

今、紫陽花が最高に美しい。紫陽花って英語で何というのか調べてみた。hydrangea(ハイドランジャ)。難しい言葉だ。なんでも花言葉は「非情」ということらしい。非情ねえーーー?。確かに七変化をして人心を揺さぶるから非情と言えば非情か?。それでも、花や葉っぱは薬になるという。非情といっては失礼だろう。僕に言わせれば紫陽花は非情ではない。むしろ有情である。

てなわけで、僕は毎朝、紫陽花にたっぷりと水というご飯を与えている。ぱくぱく食べて元気だ。元気がないのは、この僕。ちょっと労働をすると滝のような汗。水を飲んでクーラーで冷やさないと汗は引かない。仕事もはかどらず。我が地域のみならず、日本列島は六月中旬というのに、35度を超すばかりの灼熱地獄に見舞われている。一体、昨今の気象はどうなっているのか?。昨今、僕の顔からスマイルが消えた。笑っている場合じゃないぜ。

昼寝が体にいいというので、昼寝しながらテレビを見た。世界の情勢に目を向けると、中近東では紛争が相次いでいる。そんな中、子供が銃弾の盾となってかり出されている所もあるそうだ。化学兵器も使われたという報道があった。なんという悲しい現実。

人種の違い、宗教の違い、考え方の違い。言語の違い。そりゃーー、人間、皆、同じというわけには行くまい。だからこそ、意思を疎通する手段として、会議があり、集会があり、話し合いがあるわけだ。ちょっと譲歩すれば解決することも多いはずだ。それが出来ないところが国際問題の厄介なところ。意思の疎通が不調に終わった時、人類は、時として暴力や暴動という行動に走る。罪もない幾多の人の生命が脅かされる。自然災害以上に人類の行う行為は残酷でおぞましい。

世界中の諸国民は誰もが平和を望み愛している。世界中がスマイルに満たされた日々を取り戻すにはどうすればいいのだろうか?。そんなことを考えながら、汗かきかき、深眠りしたようだ、

時々思うが、今や、地球は危機的状況にあるのではないか?。異常な温暖化もその一つである。皆、分かっているんだろうが、今日、明日が大事。「未来は未来の人類が築けば良い」という刹那的な考えが世の中に横行しているようだ。人類の寿命はたかが100年。刹那的生き方も頷ける。だが、未来へのバトンタッチはどうする?。バトンタッチがなければ未来も築けないではないか。

人類が招いた環境破壊。これを食い止めなければ未来はないだろう。もう、そろそろ神も、「堪忍袋の緒を切る時期だ」と思っているかも知れない。いかにして神の堪忍袋の緒を切らせないか。これが今を生きる人類の緊急の課題だ。まずは世界中をスマイルに変える方策を考えることが先決だ。


2013年06月10日(月) 六月の憂鬱。

六月。何となく嫌な月だ。梅雨もさることながら、この得体の知れない、うっとうしさは、心まで暗くなる。台風も近づいている由。例年に比べて結構、早い到来らしい。いやああ、まさに地球規模での異変。どうあがいても自然現象には歯が立たない。ただひたすら、惨事に至らないことを願うのみだ。

そんな中、僕は、六月になってふぬけ状態だ。五月一杯は目白押しの行事をなんとか乗り切り、仕事もぼちぼち片づけた。その反動が今、来ているのかも知れない。最近はうつろな目で、田園風景を眺めていることが多い。

農家はこれから農繁期だ。既に麦が刈られ、田んぼが耕され、今や遅しと水が引かれようとしている。だが、しかし、水が少ない。まとまった雨が降らないからだ。「雨、雨、降れ降れ、もっと降れ・・・・」。八代亜紀さん、なんとかしてよ。

くしくも、昨夜は麦や稲などの、植物に関する話をラジオで聞いた。僕は農業者ではないが、興味深かかった。なぜ、稲には田んぼに水を引くのか?。麦には水を引かない。その違いは一体なんだ?。話を聞いて驚いた。なんと、稲は幼少の頃は根をあまり張らない。稲の中心に管があり、その管が水や栄養を運ぶのだそうだ。えええつ、稲に管が通っている?。見たことがない。麦は管がないから根を張って、水や栄養を補給している。ただ、稲も大きく成長した暁には田んぼの水も既に干上がる。そこで、根を張るらしい。地割れさえ生じている。この地割れが空気を地中に運んで、実りを促すわけだ。単なる地割れではない。うまく自然は出来ているものよ。

また最近は、すっかりレンゲ草が姿を消した。これは安い肥料が手に入るようになったことや、耕地面積の減少等も影響しているようだ。そうそう、レンゲ草の代わりに、近年は菜の花が重宝されているようだ。菜の花は食料や油にもなるし、すばらしい緑肥として利用され、捨てるところがない。まさに天下の宝刀だ。そんな事も知らずに、小さかった頃は、のほほんと菜の花畑を踏み荒らしたものだ。罪深かった僕をお許しください。アーメン。

もう一つ、話の中で面白かったのは、レンコンは水や泥の中にあるが、なぜ、穴があるのか?。レンコンの穴はいくつあるのか?。知るよしもない。確かにレンコンは中央に大きな穴と、その周りに小さな穴がいくつかある。なんでも、大きな穴は水面上の葉っぱから空気を取り込み、小さな穴は稲と同じように栄養分を取り込む管の働きをしているようだ。だてに穴がある訳ではない。知らなかった。ちなみに、真ん中を取り巻く小さな穴は9個あるらしい。これはどのレンコンでも同じ数とのこと。いやああ、植物も生命体。自然に適応しながら、たくましく生きている。そんな彼らが僕たちの生命を支えているのだ。感動した。

人間も自然に適応しているが、悲しいかな。考える能力を持ってしまった。善しにつけ、悪しきにつけ、この能力が人心を狂わすのだ。六月の憂鬱も、この、考える能力が、マイナス面に働いているのだろう。だからといって、せっかく授かった、考えるという能力を捨て去る気にはなれない。他の生命体と同じように、喜び悲しみを享受しながら、運命共同体として天命を全うしなければならない。

六月の憂鬱はやがて灼熱を迎え、心は嫌悪に変わるだろう。また、その後は秋のため息に変わり、厳しい冬はロマンチックな星空を演出する。めぐりめぐって、のどかな春がやってくる。自然はまさに輪廻転生である。


2013年06月05日(水) 心の安寧。

六月になったがとんと雨が降らない。全国的に降雨量が減少しているそうだ。梅雨入りは例年より早かったが、なにせ、梅雨前線が北上しない。太平洋側に押し下げられているとのこと。過去にもそんな時期があったらしいが、その時は六月末あたりから、大雨になったようだ。いやはや、最近の気象は全くおかしい。

おかしいと言えば、人間の心までおかしくなったように思える。日々の変動に心が追いついていかない。追いついていかないから心は焦る。心の回復を求めて、人は知らず、事件を起こすのだろう。まずは生きることの原点ともいえる「心の安寧」を如何にはかるか?。このことが一番大事なことのように思える。口で言うは易いが、心の領域に踏み込むことは難しい。

昨今は情報過多の時代。既に、そう言われて久しい。時々、情報の洪水におぼれそうになる。適当に取捨選択できれば良いのだが、身に振りかかる情報は、いつまでも記憶にとどまるから厄介だ。特に人間関係のしがらみは、心に不安を募らせる。その不安を払拭させるのも又、人間の心。人間の心は、善しにつけ悪しきにつけ行動となって表れる。不思議なるかな心。奇妙なるかな心。この心あって初めて山川草木あり。生きとし生ける物、すべてはこの心より生じ、この心に帰す。

先日、誰かが講演で話していた。人間も含めて動物はなぜ、うろうろと動き回るか?。一つは獲物を確保するため。もう一つは配偶者を探すため。そのとおりだ。同じ動物でも人間社会では、その二つが必ずしもうまくいっていない。所得の格差が是正されることもなく、配偶者探しも、困難を極めている。婚活という言葉もはやっているが、言葉だけが一人歩きし、現実的には実りも少ないようだ。 原因は社会の仕組みにあるのか?。一つの要因はそうかもしれない。又、心の不安がそうさせているのだろう。

植物たちはどうだろう。彼らは動き回ることができない。自然はすばらしい手段を彼らに与えた。植物は、おしべとめしべが一つの花にある。彼らは、よほどのことがない限り、一つの花のおしべとめしべは合体しないそうだ。合体できない構造になっているらしい。なぜか?。理由は簡単だ。外部の強い遺伝子を得んが為である。甘い蜜で昆虫を誘い、彼らが、おしべの花粉を他の花のめしべに受粉させる。かくして、強い子孫を残し、脈々と命が紡がれていくわけだ。まさに自然に即した生き方。

人間も他の動物たちや植物たちと同じように、食料を確保し、結婚をし、心の安寧を維持しながら生きていかねばならない。人間は考える葦である。心の安寧をはかる術は、心が自ずと知っている。すべての行動は心に帰すからだ。則天去私。人間も自然に即して、ひたすら生きよう。



umityan |MAILHomePage

My追加