umityanの日記
DiaryINDEXpastwill


2009年09月18日(金) 今日は少々、酩酊だ。

いやああ、人生とは面白くもあり、又有り難いものだ。僕は久しぶりに窮地に立たされている。その窮地も人が救ってくれるから有り難い。

何の事はない。今、独身生活だ。二つの仕事を抱えて、行事を控えて、ここ数日、1人で対応している。この大変さを初めて味わった。学生のころは一人暮らしも良かったが、いざ、娑婆世界に出て、一人で全てのことに対応することの大変さを知った。

広い古びた屋敷の中で一人で寝て、朝になると、今までやっていなかった労働が僕を待っている。玄関とカーテンの開閉。朝食の準備と後片つけ。来訪者の応対。ゴミ捨て。洗濯。清掃。机に向かうと玄関のチャイムが・・・。夜になると、慣れない台所へ。生命維持のために冷蔵庫をあさる。適当にあり合わせで間に合わせる。まあ。デイリーストアーもあるから飢え死にすることはないが。これじゃーーー味気ない。

こういう状態が長く続くと、さすがに僕も疲れてくる。自由奔放に生きてきた日々が懐かしく思い出される。僕の自由はいずこへ・・・・?。

てなわけで、今日は久しぶりに、親しき同僚、「いぐちゃん」と、お兄様とも言うべき、「やすさん」へ電話だ。二人とも快く僕の要請を受諾。たらふくカラオケでおらび、焼酎でとぐろを巻いた。持つべきは友達だ。

学生時代に読んだ本がある。いまや記憶も定かではないが、確か三島由紀夫氏の「捨てて勝つ」と」いうタイトルの本だったと思う。要は、人生を打算で生きてはいけないと言うことだ。特に金銭面ではそうである。自分が損をしてでも許容範囲ならそれもよし。人は損をする人間には集まる。「杜子春」という物語もあった。羽振りが良いときには人は集まり、ちやほやするが、一旦、落ちぶれると誰も寄りつかない。現金なものだ。

それでも、人は損する人生を歩んだが良い。なぜなら、損する人間は、まず、嫌われることがない。心ある人は知らず救ってくれることもある。それを、期待もせず、素直に受け入れる。真の友人とは心ある人に違いない。

今日はそんな二人に出会えた。まさに有り難いことだ。少々、酩酊している。この余韻を残して、明日も頑張ろう。


2009年09月08日(火) 労働が僕を待っている。

十一月に大きなイベントを抱えている。今、その準備で大童。しかるに、こういう時に限って仕事の依頼が舞い込んでくる。今年は出来るだけ仕事を減らそうと思っていたが、それもかなわないようだ。困っている人がいれば、それを見過ごすことが出来ない。頭を切り換え、切り替え対処しているが、こういう時にこそ、僕とうり二つの分身が必要だ。僕と能力を共にするロボットでもいい・・・。仕事の半分をロボットに任せ、僕は重要な案件に一点集中。楽ちん楽ちんだ。

あああああーーーっ、いくら考えてもこれは夢だ。バクのように夢を食っても仕方がない。とりあえず、緻密に、こつこつと、こなしていくしかあるまい。

最近、どらえもん君が頻繁に我が家へやってくる。僕の行事にも参加するので、あれこれと世話を焼いてくれる。有り難いことだ。ずいぶんと準備がはかどっている。まあ、どらえもん君と僕こと、ジャイアンは本来、大の仲良し。一緒に外国を旅した友だ。この行事が終わって、来年はまた、旅へでたいと2人とも思っている。のび太君や、スネ夫君もさそわなくちゃ。ま、そんな楽しみもある。

そうそう、先日はどらえもん君と雑草刈りをしたっけ。ちょっと離れた場所に、現況、畑地があり、草ぼうぼうで、隣接所有者から、作物に被害がでるので、雑草を切って欲しいと要求があった。どらえもん君が「何か野菜を作るから使わせて欲しい」と言っていたので、「いいよ」と言って放っておいたら、何かを作るという気配が一向にない。

それもそうだろう。農業、どしろうとの僕たちに一体、何が出来るというのだ?。腰を痛めて寝込むのがおちだ。そうも言っておられず、僕たちは草刈り機械を持ち、長方形の畑地の雑草を半々に刈り取ることにした。耕作機械で刈れば簡単だろうが、僕たちにそんな機械はない。運動と思い労働にいそしんだわけだ。いやあああ。さすがに骨が折れた。

何とかし終えたのは良かったが、とんだハプニングがおきた。僕は乗用車を畑地の中へ半分、突っ込んで止めていた。労働を終え、いざ、バックして道路へ出ようとしたが、タイヤが畑地のぬめりに食い込み、バックできない。前進しても、益々穴を深くするだけ。数十分格闘したが埒があかない。近くに民家もなく、車も通らない。どらえもん君は客との約束があり、心配しながら引き上げた。

いやああ、こんな時、JAFが役に立った。電話して、30分待ちで危機を脱出。家に帰り洗車だ。大量のぬめったドロが流れ落ちた。こんなの「初めての経験」・・・・。いい経験なら嬉しいが、こんなのは「こまっちゃった」ってやつだ。

まあ、体が無事だったから良しとしなくちゃ。その夜はどらえもん君と流した汗をとりもどすべく、ネオン街へと足を運んだ。飲み屋のママさんとの談笑で午前様だ。

楽しかった日々は瞬く間に過ぎる。その余韻に浸っている暇はない。明日も又、労働が待っている。すべからく乗り切らなくちゃあ・・・・。







2009年09月02日(水) 夏ばて気味の頭で考えたこと。

時々思うことがある。今、この地球上に何千種、何万種の生命体が生きているのか知らないが、皆、何のために生存しているのだろうかって?。また、人間はこの地球上にあって、素晴らしい進化を遂げ、自然界の最高位を得ているように見えるが、果たしてそうなんだろうかって?。

肉を食べた。魚を食べた。野菜も、フルーツも・・・・・。思えば、食する対象物は全て、生命体だ。人間は他の生命体を「餌食」にして、生きているわけだ。それがいいとか悪いとかいう道徳や哲学の問題ではなくて、何の不思議もなく食していることに疑問を覚えた。

昔、生物学で、適者生存、自然淘汰、弱肉強食とかいう言葉を知った。好きな言葉ではないが、人間はまさに適者生存、自然淘汰、弱肉強食を地で行っている。

そこで僕は考えた。自然界の覇者たる我々人間だって、何かの、誰かの「餌食」、「えさ」になっているのでは?と。その、「何か」とか「誰か」というのは何だろう?。言わずもがな、大自然界の総統たる「宇宙様」なのではと。

「我々は宇宙から生かされている。何かの目的を持って」と、色んな本に書いてある。その目的とは何か?。きれい事で考えれば、我々は宇宙の進化の担い手と言うことになる。しかし、きれい事ばかりでは、すまされまい。肉や魚をたらふくまんま、平気で食らっているこの人間達を、宇宙はまさに「格好のえさ」として食らっているのではないかと、ふと、そう思った。

生きとし生けるもの、皆、その生を次の生へバトンタッチして一生を終える。昨今は火葬にふせられ、あるいは時間をかけて分解し、すべては、原子や分子の形となって、宇宙空間へ散らばる。宇宙は「待ってました」とばかりに、まだ生新しいこの原子や分子を取り込む。「おいしいぜ」と、よだれを流しながら食し、宇宙も次の生を育むための準備をするわけだ。そういう目的もあると考えてもいいだろう。

良しに付け悪しきにつけ、人間は「思考する」という能力を持ってしまった。「宇宙の餌食になるなら死なないほうがまし」という考えもあろうが、他の生き物を平気で 食らっている人間にそう言う資格はないだろう。キリストの言葉ではないが、「今日一日の糧に感謝します」という気持ちこそ、肉も魚も救われるわけだ。宇宙もそんな気持ちを持った人間の原子や分子を「うまい」と言って、食べるに違いない。

いやあああ、夏ばてが僕の嗜好・・・、じゃなくて思考を千々に乱れさせる。
もう9月3日だ。ミッドナイトにベッドインだ。


umityan |MAILHomePage

My追加