umityanの日記
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2004年06月24日(木) 涙笑いで顔に雨を降らせよう。

涙笑いで顔に雨を降らせよう。
at 2004 06/24 12:44 編集

やるせない憂鬱さを解消すべき、「何か」はないのだろうか?。テレビを見ても面白くない。かといって、外で羽を伸ばしても、虚無感を感じるばかり。うんんん、スランプなんだろうか?。

やはり、六月なのだ。蒸し暑さで、体がべとべとになり、空を見上げれば灰色のどんよりした雲ばかり。どこに青空があるんだろうか?。そう、思いたくなる。けだるさの中で、ただ、出るはため息ばかり。脳細胞が、ちぢに乱れているのだろう。

反面、草花はその生を謳歌するがごとく、ますます盛んに活動している。今朝も可憐な朝顔が微笑んでくれた。おいしい水と栄養をたっつぷり味わい、僕に感謝の笑顔を振りまいているようだ。僕は一瞥を投げただけで、その笑顔に、なんら応える術をもたない。

いやああ、これじゃあ、あまりに暗すぎるなーー。こ書くと、いかにも、僕が落ち込んでいるように見える。実はさにあらず。多分、僕が、落ち込んだ時は、ああなるに違いないと想像して筆をすべらせた。残念ながら、今の僕には悲しみという言葉はあっても、落ち込むという言葉は辞書にない。

横道にそれてしまったようだ。実はあるのだ。憂鬱を解消し、スランプや落ち込みを解消する最良の手段が。「笑い」、笑いである。笑いこそが最高の良薬なのだ。僕が元気でいられるのも、この笑いがいつもあるからだろう。

「笑い」といって、最近、僕の脳裏に浮かぶのは、あの、綾小路君麻呂さんの漫談である。中高年をターゲットにした話術は見事である。車を運転しながら、CDを聞いていた時、笑いで、一瞬、目がふさがってしまった。それを、笑いながら、「危ない」といって、友人が指摘してくれた。いやはや、本当に危なかった。実のところ、僕は笑い上戸である。いつも、ケタケタと笑って、なかなか止まらない。

綾小路さんの、漫談の、ここかしこを覚えている。特に面白いところは、

 「互いに白髪のはえるまで、一緒にいよ うね。って誓い合ったその夫も、今では つるつる。」

 「どこまでが顔か頭かが分からず、頭が 痒いのか、顔が痒いのかわからない。」
 
長年、連れ添った夫婦に関する、くだりなんか、さらにに面白い。

  「妻の口に一度つけてみたい万歩計」

すかさず、反論として、

  「ゴキブリより、退治したいのは、我   が亭主の方」

まだまだたくさんあるが、こういうことばかりに、精出してしていたのでは仕事にならない。そろそろ、本気に戻って机上に向かおう。


今日は久しぶりに本格的雨だ。僕の好きな雨。雨音を聞きながら、引きつった顔で、今年半期の我が成績を振り返っててみよう。そして、涙笑いで顔に雨をふらせよう。





2004年06月23日(水) 貧しくても、潤いの心は食卓から。

貧しくても、潤いの心は食卓から。
at 2004 06/23 12:28 編集

最近はあまりにやりきれない事件が多すぎるような気がする。年端も行かない子どもが、犠牲になったり、又、加害者も低年齢化している。由々しいことだ。

この、そもそもの原因は、なんと言っても、大人社会が生み出した虚構の構造にあるような気がする。大人は子どもの心を映す鏡。その鏡が曇っていれば、子どもの心も曇るわけだ。その、曇った心に建前論、形式論的な教育をやっても、無意味だろう。心の曇りが晴れるわけではない。

父親は苦労しながら家庭を守ってきた。その懸命な姿に、子どもは子供心に父親を尊敬した。かつ、その父親を影で支えてきた母親を尊敬したものだ。学校でも、出来が良かろうが、悪かろうが、それなりに、愉快に過ごせる環境があった。差別も偏見もすこしはあったかもしれないが、そういうことにめげずに育った。一様に貧しかったが、いつも家庭を支える父、母、兄弟の温かい目があったからだ。かくして、子どもは成長し、社会へと巣立って行ったたわけだ。

そういう家庭はあまたとあるに違いない。
ただ、昨今、目に飛び込んでくる映像や、情報は家庭の中で、個々がばらばらに生きている姿。皆、わが道を行く姿ばかりである。皆、勝手に忙しく、心を通わせる時間とてない状況。個々が独立して生きていく姿は、必ずしも悪いことではない。誰でも、早かれ遅かれ、自立独立して生きていかねばならないからだ。

ただ、昨今では、父親はリストラの影におびえながら、生き生き感を喪失し、母親は生活資金獲得の一部を背負って、パートに精出し、子どもは幾ばくかのお金を与えられ、ゲームやら遊興に興じる。いつの間にか、家庭から食卓が消え、団欒が消失する。問題はそこにあるのだろう。都会のコンクリートジャングルをさまよう若人達は、心の内部では、やはり家庭というものの温かさをもとめているのだろう。たとえ、貧しくても潤いの心は食卓からである。・・・・・。一時的遊興で孤独感を癒し、再び孤独に陥る。孤独感の行き詰まったところに、短絡的で、衝動的な悪魔が顔を出すのだろう。

昔と違って、マスメディアが発達した今日にあっては、あらゆる情報が即座に入手できる。国内の隅ずみまで、同じ情報が共有されるわけだ。このことは大きなメリットかもしれないが、裏を返せば情報過多となり、真実が真実として捉えられなくなる危険がある。建前論、形式論、ゆがんだ孤立主義が、のうのうと、まかり通ってしまう。そういう世の中は健全ではない。やはり、本音で、体当たりしながら、大人が子どもに手本を示し、心豊かな子ども育成することが、21世紀を素晴らしい世の中にする鍵であるように思う。そうなれば、悪魔は顔を出さないだろう。


2004年06月21日(月) 今日は評論家へ変身だ。

今日は評論家へ変身だ。
at 2004 06/21 12:26 編集

六月三週目の月曜日がやって来た。昨夜は台風の動向が気がかりで、眠れそうになかったが、体は正直だ。いつの間にやら、寝込んでしまったようだ。夢を見なかったので、記憶はない。恐らく、死んだ状態はこういうことなんだろうか?。目が覚めてよかったぜ。

幸い台風は、こちとらを避けて、予報どおり、四国に上陸する模様。ただただ、被害が出ないことを願うだけである。

昨夜は、確かに気持ち程度の風が吹いた。それはそれとして良かったが、問題は気温だ。フェーン現象とかなんとかで、温度がうなぎのぼり。人間の体温をはるかに超え、あわや、40度になりはしまいかと、気をもんだ。今は心なしか風の余波の影響で、気温は下がったが、なにせ、湿度が高い。むしむしとして、体から汗がにじんでくる。そういえば、先程、辛口の明太子を朝食のエサとして、食べたのも、汗噴出しの原因の一つか?。いずれにせよ、自然がおりなす現象とあらば、仕方がないか。

巷を見渡すと、世情は年金問題、イラク問題、参院選等で、揺れている。年金改革、これは、人が皆、法の上で平等で、文化的な最低限の生活を営む権利を有するのであれば、制度の一元化を模索し、負担と給付の不平等感を是正することが必要だ。負担も全額、税でまかなっても良いかもしれない。細部については、真摯に、国会の場で、論議してもらいたい。

イラク問題は、まさに、正念場。政権をイラクへ返還し、安定した国家再建を目指すわけであるが、その道はいまなお、暗い。
戦闘が続くかぎり、治安の安定はない。日本の自衛隊も、国連軍の一員として、治安復興、後方支援等に当たるわけだが、全く先が読めず、危機と隣り合わせの状態。ゆゆしいことである。ローマ法王が世界平和を提唱することは、意義あることだが、その言葉さえ、むなしく響く昨今。
神や仏は一体、どこへ行ったのか?。

いわずもがな、神や仏は我々一人一人の心のなかにある。暴力はやはり、肉体ではなく、心で沈めねばならないだろう。そうでなければ、安寧秩序なんて得られない。

僕は時々考える。色々と模索されている世界の平和構築。何かが欠けている。その欠けているものは何だろうって?。

ふと、思ったが、子ども。「子どもの存在、行動」が欠けているのではないかと。純な心を持った子ども達が「世界平和子ども同盟」なるものを構築し、非暴力の世界平和宣言をする。
皆、手を取り合って行動するわけだ。命がけで。大人たちの間違った行動を是正すべく。

果たして、大人たちは、21世紀を担う、この子ども達に銃をむけることが出来るのか?。否。出来まい。もし、それが出来たとしたら、地球文明は一旦、消滅したがいいかも知れない。野となれ、山となれだ。その後、新たな文明が生じればよい。大人達が生み出したこの虚構の世界を救うのは、もはや子ども達しかありえない。何故かそんな気がする。

21世紀を担う子ども達への期待は大きいわけだ。そういうことを考えたとき、戦争を行っていることの空しさ、人をあやめることの非情さ、悲しさを大人たちは忘れてしまったのだろうか?。

どう、僕が吠えても、現状が良くなるわけではない。ただ、神や仏を包含した宇宙は、現実のような社会を想定して、人間を創造されたのではあるまい。知恵を持った人間は、あくまでも、知恵で、物事の解決を図らねばならないだろう。それが、神の意思であり宇宙の意思であると思う。

台風の去った安堵感から、今日は評論家になってしまった。今はただ、間違った方向に進まないように、目を大きく開いて、現状を見据えるだけだ。









2004年06月20日(日) 嵐の前の出陣だーーーーー。

嵐の前の出陣だーーーーー。
at 2004 06/20 18:01 編集

見事に蒸し暑い今日である。メイビ、30度は越えているだろう。真夏日みたいだ。幾分か、風が出てきた。のろのろ台風君が、果たしてどこへ上陸するのやら?。なんでも、四国という情報もある。いずれにせよ、迷惑なことだ。

そんななか、僕は、昨日、剪定していた木の葉っぱを寄せ集め、パワーショベルで掘ってもらった大きな穴に、ほおりこんだ。
風で、あちこちに飛ばされて、みるも無残な姿の庭を見たくないからだ。

それにしても、この蒸し暑さは体にこたえる。ほんの少し動くと汗が体中に湧き出る。もともと、汗濃い体質である。愚痴ばかりを言っておられない。「さあ、ふんばるぞ」と思えど、さすがに昔ほどの体力はなくなった。最近、筋力が落ちたようだ。腕を曲げると固い大きな力瘤が出来ていたが、今では、固さが半減したようだ。

さらに、持続力が半減。やる気はあるのだが、この暑さでは、すぐ、休憩をとってしまう。なかなか、あの、「シュワちゃん」の映画みたいに、タフマックとはいかないものだ。

よく、風呂にはいった時、わが 胸のふくらみや腕の筋肉を眺めては、「逆三角形の筋骨隆々たる上半身」と、オラウンターンみたいに、胸をバチ・バチ叩いては、ほくそえんだものだ。しかるに、今は胸を叩くと、「おお痛い。ゴホン、ゴホン」と、咳き込む始末。
我が体も、「永遠に堅固たる船」というわけにも行かないわけだ。仕方のないことだ。

かかる現状にもかかわらず、山の神の執拗な鞭が、さらなる労働へ僕をいざなうのだ。「あんた、垣根の延びきったところを、切り落とさないと、外から見たら、見苦しいわよ」と来る。「今度にしようか」と言えど、更なる追い討ちの言葉が。「もう、そんなチャンスはないわよ。台風が来る前にやっとかなくちゃ。母が悲しむわよ」と。

こんな時、逆らわないのが僕の良いところかもしれない。逆に、ばあさまは既にいないが、ここらあたりが、ご養子様のつらいところかもしれない。

これじゃあ、僕の面子も丸つぶれ。あえて、弁解すれば、山ノ神も、ばあ様の死によって、親戚も少なく、孤独の身となった。頼るのは僕しかないわけだ。僕としては、日ごろの罪滅ぼし(日夜、仕事と、遊びに奔走している)という意味合いもあって、休日は山の神を、おもりすることにしているわけである。
果たして、どちらがおもりされているのやら。敵もさるもの引っかくもの。おもりしているのは「自分だ」と、思っているやもしれない。まあ、どちらでも、いい事なのだが。

さあ、もう6時前だ。日はまだ高い。やや、外気温度も下がってきただろう。そろそろ、垣根の伐採に赴くことにしよう。
まだ、毛虫がいないようなので、幸いだ。
昨年も、一昨年も、毛虫の出す、粉みたいなのが、汗と共に体に付着して、痒い思いをしてきた。今年はそれがないだけ、幸いというもの。筋力は落ちたが、いざ、嵐の前の出陣だーーーーーー。労働の後の冷えたスイカが俺を待っているぜ。


2004年06月19日(土) 朝顔に朝顔の花が・・・・。

朝顔に朝顔の花が・・・・。
at 2004 06/19 11:23 編集

蒸し暑い毎日が続いている。どんよりとした空。泣き出しそうで、なかなか泣かない空。どうも、中途半端は良くない。すかっと、さわやかに行きたいものだ。

そういえば、大型の台風が接近している。心配だ。風速50メートル級に見舞われると、そりゃああ、たまったものではない。瓦が飛び、ガラスが割れ、木々が折れる。天井から雨が漏れだし、電気がストップする。吠え叫ぶ風声におののき、暗闇の中で、身を寄せ合って、台風の通過を待つ。幾度となく、経験してきた光景である。一夜明けて、あたりは残骸の海。「よくもまあ、ここまで、暴れたものよ」と、感心すると同時に、自然の驚異の前に、あまりにも無力な人間の姿を思う。

窓越しに、朝顔が、その可憐な姿を見せている。風で、ゆらゆらと揺れながら、必死に生きている。その姿に僕はいつも教えられるのだ。バラにバラの花が咲く。桜に桜の花が咲く。朝顔に朝顔の花が咲く。何の不思議はなけれど。当たり前か?。

そう、そうである。「当たり前のことを当たり前にする」。これが自然であり、自然の真実の姿である。我々人間も、この自然の生き方を見習う必要がある。これが、出来そうで、なかなか難しいわけだ。学校教育で、必要なことは、当たり前のことを当たり前にという、この、「自然の生き方」を教えることだろう。

しからば、「日々、酒を飲み、夜遊びにいそしんでいる、お前の姿は、真実の当たり前の姿か?」と、いう、疑問がわいてくる。
僕は答えるだろう。「知恵の水=般若湯=酒で、のどを潤し、娑婆世界のことを少しばかり考えるのも、当たり前の生き方だ」と。うんんんんん、これはどうも詭弁臭い。いや、詭弁である。「当たり前のことを当たり前に生きる」とは、そういうことを言っているのではないだろう。

ゴミが落ちていたら、黙って、そのゴミを拾う。トイレのスリッパが乱れていたら、きちんと、そろえる。要するに、そう言った何気ない行動のすべてが、当たり前に生きることの実践なのだろう。

ちょっと、禅問答的で難しくなった。僕はいつも思うのだ。何故か、人生ってむなしいと。笑って平気で生きている姿も、老いていく姿も、死んでいく姿も・・・・・。

僕がそう感じるのは、恐らく、当たり前のことを当たり前に生きていないからだろう。真実の自然の姿・・・朝顔に朝顔の花が咲くように・・・と一体になって、生きれるようになったら、涙も、笑いも生も死も、肯定も否定もせず、当たり前に受け入れられるのかもしれない。

うんんんん、人は死んだら仏になるというが、生きながらにして、仏になるのは難しいぜ。考えていると、ついつい般若湯が欲しくなる。これはいかがしたものか???。今日はちょっとばかり、哲学的になりすぎたようだ。





2004年06月16日(水) 刹那のすがすがしさ。

刹那のすがすがしさ。
at 2004 06/16 15:16 編集

ここ数日、ばたばたで、日記等書いていなかった。外は梅雨の谷間で、相変わらず、ぼんやりした天気が続いている。「お天気さんよ、梅雨があがったのか否か?、はっきりして欲しいぜ}と言いたい。
そんな中で、僕は珍しく、仕事にいそしみ、遊びに邁進している。

仕事といえば、最近、代表者がなくなったり、会社をたたんだりで、暗い仕事ばかりだ。季節の変わり目。人は体調を崩すし、景気が上向きとはいえ、今まで蓄積した赤字の解消には至らず、やむなく、解散にいたるわけだ。なあにか、スカッと、さわやかなことはないのか?。

そうそう、さわやかと言えば、先日の日曜日は結婚式に参列した。チャペルでの結婚式だった。テレビではよく見かけるが、実際に目の当たりにしたのは初めてだった。牧師さんが聖書を読み上げ、声楽を勉強した、うら若き乙女たちが、美声で賛美歌を歌う。「はい、皆さんも一緒に」と、賛美歌の何番だったっけ?。恐る恐る歌った。いつも、最後にアーメンと唱える。僕は思わず、南無・・・・・と言ってしまいそうになった。なるほど、良いものだ。指輪の交換やら、キスのシーンなどがあり、それはそれは、ほほえましい光景。ほぼ、30分程度の式で、それから披露宴だ。

円卓テーブルに7−−8人が座る。話せば親戚みたいに、近い人たちばかりかもしれないが、アルコールが入る前は、それぞれに緊張し、無口。そのうちに、会話をするようになり、話していると、「あーーっつ、そうなの。そうだったの。なるほどねーーーー」と、打ち解けてしまう。、今度遊びに来いよ。と、最後は、友人みたいになり、別れを惜しむ。よくありがちな光景である。

僕は新婦の母親のいとこに当たるが、親族紹介のとき、新婦から見た場合は、いとこ半になるのに、間違えて、いとこと言ってしまった。「えらい、老けたいとこさんがいるね」と、新郎側に思われたに違いない。まああ、たいしたことではない。恐らくは、以後、付き合いが生じる可能性もないだろうからだ。

それにしても、夫婦とは面白い存在だなあと思った。実は新婦の母親(僕のいとこ)と、その旦那は正式に離婚している。それでも、娘の結婚式には夫婦みたいに紹介され、あいむつましく、臨席しているわけだ。内心はどうかわ分からないが、「よりを戻したらどう?」と聞くと、もう、お互いに、その気はなさそう。「覆水盆にかえらず」で、愛が冷めてしまうと、同居生活を、いまさら営む気にはならないのだろう。まあ、二人共通の生産物たる娘のためとあらば、離婚していても、協力することくらいは、なんら支障はないわけだ。もともと、子供に罪があるわけではないから、当然といえば当然か?。

てなわけで、ほんの刹那の、すがすがしさに遭遇した。今は、再び、仕事にいそしみ、遊びに夢中になり、混沌と、けだるさと、人生のむなしさを感じながら息をしているわけだ。


2004年06月09日(水) 苦しい時でもホップ・ステップ・ジャンプだ。

苦しい時でもホップ・ステップ・ジャンプだ。
at 2004 06/09 00:53 編集

最近は、やたらと仕事が忙しくて、せわしい日々である。よく言えば、嬉しい悲鳴であり、悪く言えば、「何故に又、こんな」である。とはいえ、人様のお役に立てることほど、幸せなことはない。お金は二の次だ。というより、ボスもそうだが、僕も仕事の代金、いわゆる報酬というものの請求が下手で、取り漏れや、値引きなど、結構ある。ボスも僕も、お人よしといえば、お人よしである。

まさか、明日、倒産するやもしれぬ、クライアントや、あまりにに厳しい現状に遭遇している人たちから、料金を取れるはずもない。その場は、成功払いということで、済ませてしまうわけだ。いつの間にやら、記憶の彼方におき忘れ、結局は時効ということになる。今のところ、仕方がないかで済まされるから、いいのだろう。

ずっつと、昔だったと思う。何かで、「生きがい感」についてのアンケートがあった。男が生きがいを感じることの第一位は、やはり仕事のことだったと思う。男から仕事を取りされば、果たして何が残るか?。いわずもがな、「生きるしかばね」である。歌を忘れたカナリヤのように、「ぽかーん」として、目はうつろ。まるで、夢遊病者みたいになってしまう。男にとって仕事は、命である。

屍だけにはなりたくない。てなわけで、体力アップと能力アップに、日々、いそしんでいるわけだ。「それ、本当?」と、疑いの目があるやもしれぬ。弁解するわけではないが、もちろん、時には羽目をはずして、大いに脱線するわけだ。まあ、これがあるから、仕事でも何でも、奮起継続していけるのだろう。

しからば、女性が生きがいを感じる時って、何だろう?。確か、アンケートの一位は、「人から頼りにされること」じゃなかったかと思う。記憶が定jかではない。確かにそうかもしれない。人から振り向きもされず、頼りにもされなかったら、孤独である。これほど、生きていて悲しく、わびしいことはないだろう。若いうちは、ピチピチで孤独も良いかも知れないが、ずっと、生きていく上での孤独は、生きがい感、喪失の最たるものだろう。

ただ、突き詰めて考えれば、男の生きがい感も、女の生きがい感も、心底では一致しているのかもしれない。そう思う。

個々人の心の持ち方は、それぞれに違う。大事なことは、いつも、言葉を交わした相手、触れ合った相手を、一人の人間として、認めてあげることかもしれない。そういう姿勢で臨むと、決まって、道は開けるような気がするし、孤独感に、さい悩まされることもないだろう。

話が思わぬ方向に行ってしまった。仕事がうまくいっているとき、人は優しくなれるのかもしれない。今日の僕はそんな僕みたいだ。

奇麗事ばかり、ほざいているが、何かのきっかけで、失意のどん底に落ちることがあるかもしれない。「そんなときでも、お前は、優しいおまえで、生きがい感を持ったおまえでありえるのか?」と、悪魔の声が聞こえた。うんんんん、非常に難しい質問だ。ただ、僕はめげることなく、培ってきたバネで、再び、ホップ・ステップ・ジャンプと、飛びたいと思う。今はそうとしか言えないか。






2004年06月07日(月) サービス業の原点は何だべ?。

サービス業の原点は何だべ?。
at 2004 06/07 00:01 編集

今日は忙しい日曜日だった。貧乏暇なしというが、まさにそんな感じである。午前中に一つ。午後からもう一つ、本業をこなした。その後は、ばあ様が使っていた部屋の掃除。ベッドが置いてあったので、倉庫へ分解して収納した。もう既に貰い手の予約がついている。結構、立派なベッドだから、捨てるには惜しいと思っていた。とりあえずは倉庫へしまって、部屋を空けた訳である。障子とふすまの張替えはシルバーへ依頼して、既に新品の姿で、収まっている。「一体、この部屋は誰が使うなもし?」。もちろん僕ではない。

さあ、後は夏用の敷物なんか調達しようと、車で出かけたが、目的地の中間あたりで、豪雨に見舞われた。どうも、雲行きが怪しいと思っていたが、まさか、こんなに土砂降りになるとは・・・・。いまさら引き返すわけにも行かず、とりあえずは目的地へ。雨がやんだら店内へ入ろうと車の中で待機した。一向に小ぶりにならない。
店内に居る人たちも困っている様子。その様子を見て、店員さん達が、海水浴場で広げるビーチパラソルみたいな大きな傘を広げて、車まで、送り届けるサービスをしていた。なるほど。こいうサービスは、ありがたいものだ。次回もまたその店へ行きたくなる。子供も思わぬサービスに、はしゃいでいる。「ちょっした気配りがやはり、サービスの原点だ」と、あらためて感じ入った。

そういえば、テレビのコマーシャルで、国際線だろうか?。飛行機に乗って、スチュワーデスさん、今は女性のフライトアテンダントさんが、食事を配る場面がある。
フィッシュとチキンの二種類の食事があり、日本人の気の弱い男性が、自分の番になって、「チキン・プリーズ」というと、そのアテンダントさんが、怖い顔をして、「フィッシュ・オンリー」という。日本人青年はビビッテしまう。いやああ、あの、冷たい言葉には僕も腹が立つ。もう少し、優しい、丁寧な言葉で、いえないものか?。もちろん、フィクションのコマーシャルで、航空会社のものではない。あんな、航空会社だったら、絶対乗らないぞと、思ったものだ。

僕の仕事もサービス業。お金の多寡ではなく心のこもったサービスに徹したいものだ。ただ、サービスが過ぎると、おべっか、二枚舌、自信がない、もしくは、裏がありとかに見え、かえって逆効果になる。
心のこもったサービスとは、やはり、何と言っても、「当たり前のことを当たり前に、さりげなく。。」ではないだろうか?。要するに、自分がしてもらいたいことは 相手もしてもらいたいわけだから、そういう状況に遭遇したとき、自然体で、事がなせたらいいのだろう。まああ、親切みたいなものだ。

今日の僕の格言ーーーちょっとした気配りは親切に等しく、かつ、サービス業の原点である。その逆もまた真なり。

ところで、僕の日常はそどうでしたっけ?。
うんんんん、自らその結論を出すのは難しい。他人の判断にゆだねるしかない。




2004年06月04日(金) 虫歯デーとマッサージ。

虫歯デーとマッサージ。
at 2004 06/04 11:34 編集

今日は六月四日、虫歯デーだ。何気なしに、朝、洗面所で歯を覗いたら、頑丈な真っ白い歯がにっこりと、微笑んでいた。
そりゃあそうだ。手入れがいいもんなああ。今は電動歯ブラシで、ほぼ、食べた後には欠かさず磨いている。歯は老化のバロメーターというから大事である。

歯を大事にするようになったにはわけがある。中学生の頃、走り高跳びをしていたときだ。いろんなとび方があるが、背面ジャンプではなく、何だったっけ?。クロスオーバー?、ロールオーバー?。忘れてしまった。ま、いいか。体育の時間に、バーが歯に当たり、見事、歯が骨折。歯の場合は、歯折というのかな?。以来、数本が継ぎ歯となり、不自由してきたからである。
父に叱られた。「どこを見て飛んでいるんだーーーー」と。

考えてみると、歯のみならず、五感のすべてが大事である。いや、体のすべてが大事な生き物である。なんでも、足のふくらはぎは第二の心臓といわれているらしい。昨日のテレビでそう言っていた。「ほーーーう、そうなんだーーーー」と、びっくり。
腰も、足の裏も。(あまり、人には見せたくないところ。なんとなれば、角質が硬化して、きれいとは言いがたいからである)背中も、お腹も、すべてが大事なところ。

よく、旅行なんかに行くと、僕は決まってマッサージ屋さんを頼むことにしている。
湯船に浸った後のマッサージは、最高のご馳走である。うつぶせになり、マッサージ屋さんの、偏平足みたいな足が腰の上に登る。つま先で、「グイッ、グイッーー」と押し付けられる。「痛いですか?」と、聞いてくる。そりゃあ痛いに決まっている。
でも、僕も男。「いや、大丈夫。もっと、もっとーーー」と、おねだりする始末。
おかげで、マッサージが終わったあとは、腰が、ギクシャクしている。かえって、凝りが増したかなーと思えど、やはり、他人に、揉んでもらうのが最高だ。山ノ神にもんでもらうのも、悪くはないが、どうも、指や態度に誠意が感じられなくて、魔法の手にはほど遠い。やはり、プロに頼むのが一番だぜ。金は少々かかるが。

歯の話がとんだ方向へ脱線だ。今日は午後からボスと、共通の仕事で出かけることになっている。すこぶる良い天気。梅雨の谷間、谷間と叫んできたが、谷間どころか、もう梅雨が去ったって感じだ。いまや遅し。ボス君はまだ来たらず。
今日もつつがなく、頑張らねば。


2004年06月03日(木) 梅雨の谷間の快晴。何故か心は暗い。

梅雨の谷間の快晴。何故か心は暗い。
at 2004 06/03 13:49 編集

蒸し暑い今日を迎えた。梅雨の谷間の刹那の快晴であるが、じとじとと、汗ばんでくる。この、感触は嫌である。

そんな中、朝から、仕事で、クライアントのところへ。ようやく、刹那の時間が取れ、キーボードを叩いている。悪く言えば仕事をサボっているわけだ。最近、おももち、仕事の量が増えている。良い傾向であるが、本来怠け者の僕にとっては、億劫になるときもある。おまんまのためとあらば、いたしかたがない。昔、先輩が言っていた言葉を思い出す。「仕事は遊びと思え」と。うんんん、社交での遊びなら、億劫にならないが、ビジネスとなると、そうも行かないようだ。小市民の僕には、到底、そんな悟ったような心境にはなれない。まああ、おまんま半分、人助け半分と思い、ひたすら鞭打って走るしかないわけだ。

ところで、先日、起こった事件には驚いた。女児が女児を殺害する。なんという、ショッキングな事件だろう。短絡的に行動に出てしまう人間の悲しさ。大人であれ、子供であれ、そんな要素は誰もが持っている。僕にもあるだろう。だからこそ、物事に対して、一歩、踏みとどまって考える習慣というか、癖をもちたい。一歩下がって考えることは決して敗北ではない。子供にはそれが無理なんだろうか?。決してそんなことはないだろう。思うに、過度な競争主義、残酷主義(殺りくを伴うアニメ、映画、戦争、いじめ、差別等)を生み出した社会に、根本原因があることは否めない。虚構と現実が錯綜するところに、短絡的行動が顔を出してしまうのだ。その救いの道は、なんといっても、教育に求められるだろう。

今の学校教育では走ることは教えても、立ち止まって考えることの重要性をを教えないのだろうか?。「ゆとりある教育」」が、スローガンみたいになっているが、ゆとりとは教育環境の整備や、適正人員を配置することではない。場所は掘っ立て小屋でも、窮屈な環境でも、ゆとりある教育は出来るわけだ。要は心の持ち次第であり、それに携わる人の姿勢の問題だろう。

心が立派に育ってこそ、ゆとりある教育というものだ。昨今の現状を見ると、事なかれ主義が蔓延し、平気で他人を中傷し、傷つけていることが多い。やはり、どんな人間関係のなかにあっても、冷静、沈着、思いやりの心を忘れてはいけないだろう。他人を傷つけていると指摘されたら、一歩踏みとどまって考え、素直にあやまるという謙虚さが大事である。教育とはそういうことを教える場ではないのか?。

ただ、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もあるように、ただただ、悲しいj事件といわざるを得ない。
なくなった女児の冥福を心から願い、又、罪をおかした女児の一日も早い更生を期待したい。罪を憎んで人を憎まずとは、そういうことなんだろう。かくして、形式主義ではなく、真からの心の教育に、もっと、抜本的な改革が必要だろう。年金問題以上に、これは大事な問題である。何故か今日の僕の心は暗い。


2004年06月01日(火) 朝顔みたいな女性。

朝顔みたいな女性。
at 2004 06/01 09:51 編集

いよいよ六月一日と相成った。今日は梅雨の谷間。良い天気だ。気温も下がって、すがすがしい朝を迎えた。昨夜の品行方正が功を奏して、五時半に起床。庭の落ち葉を掃き清め、ヘルシアをぐっと飲み干す。かく後、朝食の準備にかかるわけだ。

朝刊に目を通すと、「日記帳」について、ちらっとコメントしてあった。日記に、何月、何日、何曜日と書くのは、世界、どこでも珍しくはないが、その次に、「天気」を書くのは日本独特らしい。やはり、四季がおりなす豊かな自然の風情が、天気のことを書くようになった由縁の一つらしいと。確かにそうだと思う。僕もその例外にもれず、天気のことをよく書いている。
なんというか、日記や手紙などは、最初の出だしに天気のことを書くと、あとの文章を展開しやすくなる。もう、すっかり癖みたいになっているわけだ。

天気のあとは、自然の風景。六月はなんといっても、アジサイと菖蒲。どこの地でも、アジサイ寺や、菖蒲園があり、今の季節の憩いの場となっている。とはいえ、まだ、僕の赴く領域ではない。

男は女性と違い、とりとめて、花をめでる感覚に乏しいようだ。僕もその例外ではない。あえて、花が必要なのは、女性の気を引くために、名も知らない、初めて触ったような花を買い求めて、プレゼントするときくらいか?。「これ、僕の気持ち」とか何とか言っても、花言葉の意味さえしらないで。受け取った女性は「最初はにっこり、別れた後で、くずかごへポン」がいいところである。

ただ、例外の例外もある。男の僕でもめでる花の一つくらいはある。僕にとっての唯一の花は、やはり朝顔だろう。なぜか、この花が好きである。朝咲いて、挨拶を交わし、夕べにはおやすみだ。かくて、翌朝はまた、可憐な姿で、挨拶をしてくれる。必死に竹ざおに絡み付いて、ドンドン登っていく。その姿が、いとおしく、頼もしく、いじらしく、我が人生の姿を見ているかのごとく感じるのだ。ちょっと、大げさだったかな?。要するに育ちやすく、分かりやすい花である。自らを、あでやかに飾ることもなく、質素で、僕にいわせれば女性の鏡みたいなもの。

さる、小料理屋さんで、言ったことがある。「、朝顔みたいに可憐で優しい女性はいないかなーーーー」と。ママ曰く。「今時、そんな女性がいるもんね・・・。どくだみならいっぱいいるけどねえ・・・・」。僕は思ったね。「さもありなん」と。やはり、朝顔みたいな女性は、今の世では、天然記念物なのだと。

まあ、これは僕の独断と偏見である。そもそも、僕が抱いている朝顔のイメージが他人に理解できなければ、いくらほざいても、のれんに腕押しである。したがって、朝顔のような女性といっても、人には分からないことなのだ。ここまで、書いて後悔したが、いまさら書き直す気になれない。
すがすがしい朝の清涼飲料水と思って、このまま記載しておこう。


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