umityanの日記 DiaryINDEX|past|will
早、二月の末日。つい先日、正月を迎えたばかりなのに、月日だけは無常にどんどん過ぎていく。中国のことわざで、鳥兎匆匆(うとそうそう)というのがある。鳥は太陽で兎は月を指し、月日のたつのは早いという意味だそうだ。早く大人になりたかった幼年期とは違い、今は「うらむべき日月なり」、である。今日は雨混じりのどんよりした天気だ。温かい。なんでも四月上旬の気温らしい。春の憂鬱というには早すぎるか?。新聞を広げた。どこを見ても心打たれる記事はなさそうだ。不景気の話と、事件で埋め尽くされている。そんな中で、おや、おもしろい記事が一つあった。さすがに、こういう論説やコラムを書く人の視点はすばらしい。カラスと関係がある話だ。あの、憎まれっ子のカラスが、奈良県明日香村のキトラ古墳の壁画に描かれていたらしい。キトラ古墳には東西南北に、それぞれ、青竜、白虎、玄武、朱雀、と、四つの神が描かれているという。神に守られて安眠したいと思うのは現代も古代も同じなんだろう。今度は黒いカラスの絵が見つかり、なんでも、三本足らしい。古代中国では、太陽に三本足のカラスがいると、信じられており、黒点をあらわしていたと言う。又、カラスを金鳥、陽鳥とか呼んで、慕われていたと同時に、空を飛ぶ鳥は霊魂であるとして、尊重されていたようだ。驚いた。さらに、記事は面白く続く。
今日は弟の加入している団体主催の講演会があった。是非、たくさんの人をつれてきて欲しいとの弟からの要請。以前も参加したことがあるが、それはそれはひどいものだった。まああ、弟が精一杯やっているので、悪口もいえないが。とりあえず、義兄弟のよしみで、今回も参加することにした。以前より話はよかったと思うが、僕には、もう一つなじめない。団体の宣伝ばかりは、もう結構といいたい。もちろん、いい団体ではあると思っているが。それはいいとして、講演会の後、行きつけの小料理屋でいっぱいやって帰ることにした。口直しというわけでもないが、食事をしていなかったので、雨宿りだ。まずは、一人でやっているママさんの店。常連客で結構にぎわっていた。僕は、いつも頼む焼酎をやめて、今日はお酒だ。何故って?その理由は簡単。最近見たテレビで、お酒は美肌に効果があると言っていたからである。僕は実に乗りやすいタイプ。お酒にはそういう効果があったのかと、すかさず酒を注文。ママさんが持ってきた徳利は、なんと、二合入り。まあ、二合なら飲みすぎることもあるまいと、飲んだが、さすがに、久しぶりに飲む酒はうまいと同時に、酔いも早いようだ。かわいいお猪口で、お酌を受けながら飲む酒もまた格別だ。グラスでのむ焼酎とは趣が違う。おやあああ、二合でほろ酔い加減。酒はきついぜ。さああ、帰ろうか思ったが、いつもの悪い癖。昔馴染みの、小料理屋へはしごだ。なんと、そこで、一年ぶりに、懐かしい人と出会ってしまった。英語の教師で、面白い人だ。僕も結構、珍しい苗字を持っているが、彼も僕と同年輩で、また、珍しい苗字の持ち主。苗字が取り持つ縁か、意気投合して教育論を戦わせてしまった。楽しい一時を過ごして今ご帰還である。今日は酩酊はしていない。自分で言うからまちがいはない。かつ、酩酊していたら、こんな日記も書けない。おおおおっつ、言い訳はいらないか。鶏が鳴かないうちに、そろそろ休もうか。
今、ブライアン・グリーン著の「エレガントな宇宙」という本を読んでいる。まだ、500ページのうち、40ページしか読んでいないが、超ひも理論について書いてある。アインシュタインにもできなかった、宇宙の統一理論というか、統一原理を説明できる唯一の理論がこの超ひも理論だそうである。最初、「ひも」という言葉を見たとき、少なからずいやな印象を持った。何故って、僕の脳裏には、「僕は、あの子のひもなんだああ。うっしっし」とか言うように、好ましからぬ言葉としてインプットされていたからだ。もっと適切な言葉はなかったものか。むしろ「超ムチ理論」のほうが、痛くてよい。これは冗談。
「初恋」という詩がある。先日、ラジオを聴いていたら、この詩を朗読していた。あまりにも有名な詩だ。「まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛の、花ある君とおもひけり・・・・」。いやあ、すばらしい。ふっと、昔にかえるとき、この詩を思い出すのだ。島崎藤村の作品で「若菜集」という詩集に納まっている。最初、誰の書いた詩だったかなーーと忘れていた。「若菜集」は明治30年に発表された藤村の処女詩集である。明治浪漫主義の時代とあいまって、多くの青年男女に愛されたそうだ。文学青年を自称していた僕も、学生時代、何を血迷ったか、かぶれたか、この詩を広用紙にマジックで書きとめ、壁に貼って観賞したものだ。同級生に絵を描く奴がいて、彼が描いた漫画チックな女性の画を詩集の下に貼りつけていた。女性にふられたり、むなしくなったとき、しげしげと、この理想の女性像を眺め、「わおん、わおん」と泣きたかったのだろう。「おおおおっつ、幼いこと」と笑わないでちょうだい。それにしても、あの頃は純粋だったと思う。この純粋さはいまだに尾を引いていると思うが、自分で言うのもおかしいか?。
何もない日曜日。来客もない。いかにして過ごすか?。外は昨日とは、うって変わって、どんよりした曇り空。時々、小ぬか雨がしとしと降ちてくる。出かけるには忍びない。こういう日は、部屋でじっとしているか、もしくは日ごろ、やっていない掃除なんかするのもいいだろう。僕は本来、じっとしているのが嫌いなので、掃除に励むことにした。いやああ、僕ってまめなんですね。バケツにお湯を汲んで、さああ、雑巾がけだ。その前に掃除機で埃を一網打尽だ。二階から下まで。それにしても、廊下は結構、汚れているものだ。それもそのはず。スリッパをはいたまま、どらネコを外まで追いかけ、そのまま廊下にあがっていることがあるからだ。いやはや、困ったものだ。ネコの挙動に、頭が真っ白になるくらい興奮するなんて。というわけで、今日の大掃除は、年末以来となり、大成功だった。休憩がてら、久しぶりに二階のベランダから娑婆世界を見渡すと、「うんんん平和で静かだ。どこに人がいるのだろう?」って感じだ。ふと、瓦に目が行った、なんと、瓦の間をぬっている雨どいに、枯れた杉の葉が、たんまりと詰まっているではないか。一瞬、瓦に上って、杉を一掃しようかと思ったが、「屋根から落ちたら、もとこうもない」と思い直して、そのまましばらく放っておくことにした。心残りではあったが、部屋は見違えるようにきれいになった。やはり、清潔って気持ちがよい。
久々に、快晴のよい天気。家で仕事をするにはもったいない。おまけに土曜日だ。この陽気に、つい誘われて海を見に行った。今住んでいるところは平野なので、海まで行くには1時間ちょっとのドライブが必要だ。やけに車が多いと思ったら、家族連れやら、カップルやらで一杯。皆、気持ちは一緒なんだと変に納得した。僕は海のすぐ近くで育ったので、海は見すぎるほど見てきた。ただ、何度見ても、一度も飽きたことがない。やはり、海は生命の源であり、母なる存在だからであろうか。やさしく何かを語り、心を癒してくれる海。そんな海の中に海中レストランがある。14−15メーターはあろうかと思われる、ゆらゆら揺れる長い桟橋を渡らねばならない。太い縄で海底に固定されている。何だか酒に酔ったみたいな気分になる。いけない、いけない。海に落ち込んだら大変だ。いくら水泳が達者とはいえ、まだ寒い冬の海だ。僕の心臓もいてつくに違いない。そうこう考えながら歩いていると、やがてレストランの入り口にたどり着く。地階に案内された。こぎれいな座敷があり、ふと、壁に埋め込まれたガラスの窓を見ると、外は海だ。ワカメが縁に付着している。時々、変わった魚が横切っていく。「あれ、何の魚?」「わからない」。うんん、なかなかしゃれている。まさに海中レストランだ。僕はイカ御膳に、うに飯をつけた。昼間からビールは不謹慎。ウーロン茶にした。生きたイカが足を動かしている。透き通ったイカの身は最高だ。甘くて、こりこりした舌触りはなんとも言えない。。ぺろりと平らげた。午後の2時近くだったが、店内は労若男女でにぎわっていた。ここはまさに娑婆世界から隔絶された別天地。不景気もリストラも円安も金融不安もない。あるのは母なる海と、そこで、栄養を補給されている赤ちゃんたちだ。海中レストランは、まさに母のおっぱいみたいなもの。ふうーーっと、そう考えてしまった。あああ、ぼくもまだアダルトチルドレンの域を脱していないようだ。
昨夜は不景気を吹っ飛ばすべく出陣したはよいが、見事に返り討ちにあってしまった。大学時代の友人からテルがあり、ホテルで待ち合わせた。ビールを飲みながら話に興じたが、それにしても、ホテルのビールは高いものだ。まああ彼のおごりだったので、幸いだったが。小一時間ほど話して、いつものごとく、小料理屋へ直行した。ここも彼の行きつけで、こぎれいな店である。以前、日記にも紹介したことがあるが、それはそれは美人ママがひとりで経営していて、カウンターに6人、部屋に4人くらいしか座れない小さなお店である。ママひとりでやるなら十分かもしれない。
清水宏保さん、スピードスケート500メートルの銀メダルおめでとう。長野についでの二連覇にはならなかったが、心よりご苦労様と言いたい。前のめりになるかと思えるくらい姿勢を低くして、僕の胴体ほどもある、モモ肉を前後させ、弾丸のように、氷のリンクを走り抜く姿は、豹が獲物を追っている姿に似ていた。愛称を考えてみた。「和製ポパイちゃん」なんかどうだろう。里谷選手と同じく4年を経て、二大会でメダル獲得することは至難の業である。腰痛に悩まされ、追いかぶさるプレッシャーに、じっと耐えながら精進してきた姿に、涙を禁じえない。再度、4年後の五輪で、活躍してくれることを切に望みたい。
ソルトレーク冬季オリンピックで里谷多英さんがフリースタイル女子モーグルで銅メダルを獲得した。心からおめでとうと言いたい。長野五輪では金メダルだったから、二大会連続のメダル獲得である。二人三脚で歩んできた父親を亡くし、スランプもあったが、めげず、黙々と精進してきた姿には本当に心を打たれた。また、あっけらかんとしたしゃべりと笑顔がじつにかわいい。彼女の飾らない素朴な姿は好感度120パーセントだ。ここで、勝利の雄たけびを。狼の遠吠えではないが、「わおーーーーー」。もう一発。「わおーーーっつ」。
今日も寒い一日だった。建国記念日ということで、土曜日から三連休になる。めでたくもあり、めでたくもなし。ただ、休みはゆっくりできるから好きである。といいながら、実は今日は仕事で遠出した。いやはや、車が混んでいていやになった。皆、お互いに、そう思っているのだろう。車のすれ違いざま、相手車のドライバーの顔をチラッとみると、相手もこちらを見ている。僕と同様、誰もかれも、苦虫をつぶした顔をしているではないか。小雪交じりの空を眺めながら、一人で走るドライブもつまらないものだ。彼女を助手席に乗せて、意気揚々と走っている若者たちがいる。「ばかやろう・・・事故起こすなよ」と言いたくなる。時々、サングラスをかけて、髪をなでなで走っている粋な女性とすれ違うことがある。おっとあぶない。長い時間、目で追うのは禁物だ。「目の毒だから、もっと地味な姿で走ってね」と言えば、「ふん、余計なお世話よ」と、切返えされそうだ。
愛犬、エルが亡くなって、裏玄関が淋しくなった。今は、あちこちから色とりどりの猫たちが我が物顔で、えさを食べにくる。図体のでかい、たらふくまんまの、百戦錬磨のボスネコみたいな奴が、我が家にいついた白猫を無視して、堂々とえさをむさぼっているではないか。僕が遠くから「しーーーっつ」と叫んでも効き目なし。さすがに僕も怒ったぜ。僕は部屋のスリッパをはいたまま、「わおーーーーーー」と叫んで、そのどらネコを追いかけた。逃げ足の速いこと、速いこと。僕だって負けずにしっこく追い回してやった。ドラは一目散に逃げて、やがて、田んぼの中に消えていった。おそらくしばらくはやって来ないだろう。「あそこの家には、わおーーーーっつと叫ぶ変人がいるぞ」とネコ仲間に情報が伝達されることだろう。それが僕のねらいでもある。僕の目玉が黒いうちは好き勝手はさせないぞ。こんなことを書くと動物愛護協会から怒られそうであるが、僕は礼儀を知らない奴らは大嫌いである。たとえ、ネコであっても、恥じらいや遠慮というものがあってもよいだろう。遠巻きに淋しそうにしている姿をみれば僕だって、「おおおい、ここに来いよ」と、声をかけるくらいの情は持っているつもりだ。ところが、驚いたことに、最近はネコだけではなく、すずめ君やカラスまでがネコのえさを食べにきはじめた。不景気は人間の世界ばかりかと思っていたが、どうも違うようだ。他の哺乳動物や、鳥類までが、食糧難であえいでいる。由々しいことだ。実は、今日、一心不乱にえさを食べているすずめ君を捕獲した。いつも、裏玄関で、ピーチクパーチクやっていて、僕たちが出入りしても、まったく警戒心のないようなすずめ君であった。さすがに冷え込んだ今日は、娑婆のえさが不足していたのか、それはもう「ガッツガッツ」とやっていた。そっと静かに背中から、とらえると、何の抵抗もなく、僕のグローブみたいな手の中に納まってしまった。つぶらな瞳が、エルの目に似て、かわいいではないか。「うんんん、どうしようかと」迷ったが、鳥かごが空いていたので、とりあえず、預かることにした。できれば、早く娑婆に戻してあげたい。
二月は一番寒い時期なのに、暖かい日が続いている。北海道では、雪祭りの雪像が溶け出して、修復に大変だそうだ。異常気象なのだろう。ここ、我が住まいの近辺でも、温かさに誘われて、いまや遅しと、血気盛んな若芽たちが、成長への息吹ををあげている。庭の梅の花はすでに咲き誇っている。きれいだ。梅の花が人間であれば、僕は叫ぶだろう。「お慕い申し上げていました。以前から」ということになるだろう。これは飛躍しすぎか?。僕が好きな花の一つである。キリリッツとした花びらは、まさに貴婦人のごとく、気高い感じがする。昨夜、友人と、梅の話をしていたら、「木瓜(ぼけ)の花」が話題になった。僕は「木瓜の花」って、どんなのか知らなかった。何でも、とげがあり、バラ科の落葉潅木らしい。花びらは紅色で見事だそうな。又、桜の花びらよりは少し大きいらしい。へええ、木瓜(ぼけ)ねーーー。少し興味があったので、早速、インターネットで検索をかけたら、それはそれは美しい花が現れた。なるほど。感心した。だが、やはり、梅の花の気高さには劣るようだ。そういえば、正月過ぎた頃、稲荷神社に参拝した。道すがら、植木が売ってあった。そこに、梅の香りによく似た「蝋梅」があった。黄色の光沢のある花びらは、これまた見事。一目で気に入ってしまった。今頃が満開のようだ。2500円で苗木を買い、早速、植えている。今からその成長が楽しみだ。二月、三月は新しい命がいっせいに産声を上げる季節。何故か新鮮でみずみずしい。いつも思うことだが、今の心を持ったまま、僕も生まれ変れたらなあーーと。かなわぬ夢である。「かなわぬ夢としりつつ、エステで磨きをかける中年かな」。なんのこっちゃ。そそろそろお休みしよう。
今日は久しぶりに4時に目が覚めた。しばらくうつろんで、起きたのは5時である。まわりはまだ闇に包まれている。僕はいつものごとく洗面をして、やかんで湯をわかす。もちろん温かいコーヒーを飲むためだ。自分で入れて飲むコーヒーって最高。ミルクや砂糖の加減がよく分かっているからだ。人に入れてもらうと、おいしいときもあるが、結構、不満な味の時が多い。まあ、贅沢も言えないが。誰かが言っていたが、うまいコーヒーを飲みながら夜中か早朝に仕事をするのが一番いいって。確かにそう思う。僕は今、こうやってキーボードをたたいている。頭は冴え渡っているようだ。アルコールはないが絶好調と言いたい。言葉がぽんぽん飛び出す。静寂のなかで、僕の部屋だけが、きんきらきんと明るい。やがて、カーテンの外がまどろみはじめ、景色が見えてくるのだ。いまはまだ、街灯の薄ぼんやりした明かりだけが点々と見える。生活の明かりはほとんど灯っていない。小さい頃は、こんな静寂が嫌いだった。意外と臆病で、ちょっとしたことで、びくっつとするような、怖がりやだった。おどおどしながら夜が明けるのを待っていたものだ。それはそうと、こうやって一人で静かにいると、いろんなことを考えてしまう。生、死、愛、憎しみ、経済、不況、親、兄弟、・・・・・・・。
早、二月。後11ヶ月でまた正月だ。いまから待ち遠しくて仕方がない。僕は年末から正月を迎える頃が何故か好きである。人生のきりかえができるからかも知れない。どっぷりと体に染み付いた穢れを、除夜の鐘とともに払拭し、「我がもろもろの罪をお許しください」と、ひたすら懺悔する。かくして新鮮な細胞を持った肉体とともに新年を迎え、人生を謳歌したいではないか。・・・・・・。「わおーーーっつ」。
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