わたしは普段、あまり化粧をしない。買い物に行くときも、仕事に行くときも大抵すっぴんだ。この年で素顔でいるのは、ちょっとまずいのかな、と思うときもあるが、30分化粧をするなら、その時間をべつのことにまわしたくなるのだ。化粧をするのは、夫とどこかにお出かけのときであるとか、誰かの結婚式であるとか、友人と飲み会であるとか、そういったときだ。たまーに気まぐれに、何もないのだが時間があったので化粧をして出かける、ということもあるが。 基本的に化粧の回数が少ないので、化粧品の減りも遅く、ファンデーションなどは、一体いつまでもつのだろう、と首を傾げていたりする。化粧水や乳液や美容液などは毎日使うので、それなりに買い足しもするが、他のものはかなり昔からのを使っている。大丈夫だろうか。たまにお金があるときに買い換えたりもするが、何か非常に贅沢なことをしている気がしてしまう。 そういえば、母はマメに化粧をしていたなーと思い出す。ちょっとそこまで、という買い物でも、きちんとメイクをしていた。すっぴんで買い物をしていたら、店員に「あのう、顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」と言われたこともあるらしい。貧血気味のひとで、そのわりにレバーや魚の血合は嫌いで、増血剤を飲むと吐き気がするといい、吐き気止めを飲み、胃薬を飲みながら薬を飲むなんていやだわ、と薬もやめてしまったひとだった。 なんとなく、母親、というより、「昔わたしを生んで育ててくれた女の人」という感じの、いつまでも若い雰囲気の女性だった。そんなことを、ふと、化粧品ボックスを開いたとき、ぼんやり思い出した。
OLだったころ、年末に、満員電車で、お気に入りの財布をすられたことがある。エンジ色のかわで、表に金の太陽のぼたんがついていて、かちっと開くと、中に銀のお月様のいる、ちょっと変わったデザインのお財布だった。ふだん現金をあまり持ち歩かないのだが、その日に限ってなぜか万札が数枚入っていた。カードも入っていたので、後の処理が非常に面倒くさかった。盗む人にもそれなりの事情はあるのかもしれないので、役に立ったならまあいいか、とも思ったが。 他にもファーストフード店のメンバーズカードだとか、なくて困るものではないがあると楽しいもの、奨学金の返済をした領収書など、お金ではないが重要なものも入っていたので、なんだか非常に虚しく悲しかった。お金が返ってこなくてもいいから、財布本体やお金以外のものを返してほしいなーと思った。そんなことがあるわけもなく、しばらくして別の財布を買ったが、今度は薄紫の、あまりこっていないデザインのものにした。 そういえば、財布を拾ったのもこの時期だ。仕事帰り、飲んだ後か何かで、遅い時間だった。バス道を、酔い覚ましにだらだらと歩いていたら、足元に茶色のかわの財布が落ちていた。広げたら、それなりにお金が入っている。カードもたくさんある。身元のわかるものはないかな、と思ったら、名刺がでてきた。某銀行の、支店長だか専務だか、もう忘れてしまったけれど、それなりに重い位置にあるひとだった。すこし歩いたところに交番があるので、そこへ届けた。 書類作成のため色々聞かれたが、最後にその警察官は、「若い女性がこんな時間に一人歩きをしないように」と諭すのを忘れなかった。数日後、上品な年配の女の人が、水ようかんと、ハンカチを持って家に来たらしい。わたしはその日も仕事で遅く、会えなかったが、受け取った家族は話を聞いていなかった(朝起きたら忘れていた)ので驚いていたらしい。水羊羹は皆で食べて終わったが、そのハンカチはとてもお洒落な感じで、今も愛用している。 年末に向かって、財布をなくすひとや落す人、忘れる人や盗まれる人、は増えるのかもしれない。皆さまもお手回り品には気をつけましょう。
住所を知っているWEB上の知人にカードを送ろうと、文具店を見ていた。季節柄クリスマスカードが多いなー失敗したなーと思いつつ。そのまま売り場を歩いていると、手帳がたくさんある場所にたどり着いた。どことなく、顔を緩めて手帳を眺める。相変わらず、色々あるなぁ、と思う。 わたしが手帳を使っていたのは、主に学生の頃だ。最初の年は、大学の校章が入っている、その大学オリジナルの手帳を使っていた。次の年は、褪せたピンク色のカバーのついた手帳、その次はブルーの小さな花がたくさん咲いている模様だったと思う。大学4年のときは、黒か茶色の、すこし大きめのものを使っていた。サークルの予定、バイトの予定、テストや提出物の予定、就職活動の経過など、あれこれと書きとめて活用していた。 どれも思い出深いのでとってあるが、ひとつ、バイト(テストの採点)の最終日、会場に置いてきてしまい、なくしてしまったものがある。気付いた時点で取りに帰ればよかったのだが、たまたま仲のよい人たちと打ち上げに繰り出していたので、途中で抜けて戻ることができなかったのだ。仕方のないことだが、思い出すと自分の間抜けさがすこし悔しい。 社会人になって初めのころは、やはり手帳をもっていたのだが、どうもあまり書くことがない。仕事以外のプライヴェートな用事は計画的でなく、突発的なものが多くなったので、書いてる暇はあまりなかった。仕事の予定は卓上カレンダーに書きこんでいたし、必ずしも自分だけの都合で予定通りに進むわけでもなかったので、だんだん手帳は使わなくなった。 今もパートの予定などはカレンダーに書き込んでいるし、プライヴェートな用事もさほどない。手帳なしでも日々は過ぎていく。それでも、なんとなく見ていると楽しいのは、手帳から連想した学生時代が、とても楽しいものだったからかもしれない。
勤労感謝の日なので、本当は夫に感謝するべきなのだが(わたしも一応働いているがパートなので)、この日は三渓園に連れて行ってもらった。車を運転するとか、わたしのお守りをするという労働つきなので、おそらくあまり休めなかったのでは、と思う。 振り返ってみると、自分が学生だった頃、ちゃんと父親に感謝したかも自信がない。単純に祝日で休み、としか思っていなかったなような気がする(家事労働も、勿論感謝するべきなのだろうけれど、母には普段お礼を言うときもあったが、父にはあらたまってお礼を言っていた記憶がないので)。 しかし自分がOLだったころも、祝日の意味をあまり考えず、休みだーというところだけを喜んでいたように思う。休めるだけで、感謝されずとも十分嬉しかったのだ。わたしを養ってくれた人、養ってくれている人も、そうだといいな、とむしのいいことを思った。
某ファーストフード店で、夫とブランチを楽しんでいたときのこと。秋の限定販売商品をぱくつきながら、ふと、視線を感じた。「?」と思いそちらを見ると、ショートカットの、30前後の女の人だ。「なんだ?」と思うけれど、心当たりはない。すぐに忘れ食事に戻り、夫とお喋り。が、また視線を感じる。やはり同じ人から。「???」内心首を傾げつつも食べ終えて、席を立つ。まだ見てる。「?????」わからない。 車に戻って夫に話すと、「へーそうだったんだ」とのこと。じゃあ、たいして目立つ見方じゃなかったのかなーとも思う。「同僚かな。お客さんかな。人違いかな」とぶつぶつ呟いていると、「同僚なんじゃない?」と言われる。わたしが勤めているところは、パートの人数が多いので、よく会うひとの顔はなんとかわかるけれど、たまーにしか会わない人や、滅多に会わない人もいるので、忘れていても仕方ない。お客様の顔も、あまり覚えられないほうだし。基本的に人の顔を覚えるのが苦手で、古い友人知人の顔も会わないとすぐ忘れるので、知ってる人じゃないといいなーと思う。 どちらかといえば視線には鈍感で、友人知人にも、「先週どこそこにいたでしょー、全然気付かないんだもーん」と言われてしまうほうだから、自意識過剰とは思いたくないのだが..なんだったのだろう。気になる。人違い、というのが一番気が楽なので、そうであってほしいな、と思う。
空をときどき見る。職場の西側の窓には、夕日が大きくうつる。小さい子が、「わー、くもにおひさまがあかくとけてるー!」と叫んだりするので、ふっと仕事の手をとめて、指差すほうに見とれてしまったりする。「きれーだねぇ..」と、そばにいるおばあさんが相槌をうっている。わたしも心の中で頷く(本当に綺麗だ。ああでも仕事しなきゃ)。 ちなみに南にある窓も日当たりがいい。こちらの窓は、天井近くの壁をずーっと細くくりぬいたような位置にある。開けるときは、大きなねじのようなものを巻くと、ひとつづつ開いていくような仕組みになっている。時間によっては、壁際で働いていると、頭が暑くなったりする。この窓は奥の作業室ともつながっていて、そこでメールを打ち出したり、電話をかけたりしていると、ときどき空が視界に入る。 青い空と白い雲を仕事中に見てしまうと、わたしはとても悲しくなる。何もかもほっったらかしにして、どこか遠くへ逃げたくなってしまうのだ。「どこか」は、特定の場所ではなく、漠然とした..だだっ広い草原であるとか、誰も居ない海とか、そういったイメージの場所。勿論生きていく以上お金はいるし、働かなくて生きていけるほど裕福ではないので、わたしはその場を離れないけれど。 秋の澄んだ空気の中、気持ちは苦しいほどさまよいたがる。
外で働いている人がいる。べつに珍しいことでもなんでもないけれど、雨が降っていると、大変だな、寒くないかな、かぜなどひかないといいが、と、余計なことを思う。20代前半の女の子が、会社の制服に透明のレインコートを着て、何かパンフレットを配っていたりすると、もう反射的に受け取ってしまう。晴れの日だったら、ほとんど受け取らず、一礼して通り過ぎてしまうのだけれど。 20前後の男の子が、うわ、さっみーという声でも聞こえてきそうに、大きな看板をかかえ、からだをふるわせて手をこすっていた日には、ホットコーヒーでも差し入れしたくなってしまう(実際はできないが)。高齢の男性が、警備員らしく立っていて、車に指示を出したり無線で連絡をとっていたり、晴れの日と変わらず、屋外で淡々と仕事をこなしている姿にも、おおーと内心で拍手する。 上にあげたのは、わたしが適当に生きていて、見聞きした範囲内のことでしかないのだけれど。世の中には他にも、悪天候の中、色々な仕事をしている人がいるのだろうな、と思う。慣れている人や、平気な人、まれにそのほうがはかどる人もいるのだろう。でも、晴れている状態のほうが快適な仕事や、寒さに弱い人、苦手な人もやはり少なからずいるだろう。そういうひとが、かぜをひいたり、調子を崩したりしないといいな、と、ある日の傘の中でわたしは思った。
先刻までドラマの「アンティーク」を見ていた。わたしは原作「西洋骨董洋菓子店」という漫画を先に読んでしまったので、ふーんこのエピソードはこう使ったのかー、とか、そういう設定をすると原作のイメージが壊れないだろうか、とか、余計なことを考えながら眺めている。実を言うとこのよしながふみ、というかたの絵はそんなに好みではなかったのだが、ドラマになったんだなーと思って読んだのだ。これがけっこう面白く(わたしはドラマよりこちらのほうが好き。ドラマも頑張って作られていると思うが)、今まで食わず嫌いで読んでなかったけど、読めてよかったなーと思っている。ただ、ドラマを見てこれから原作を読むひとや、以前原作を読んでいてドラマを見た人はどう思っているのかな、と思ったりする。 そういえば最近映画で「陰陽師」も見た。これは昔漫画を読んでいたのだが、もう絵柄は覚えていない。ただ、キャラクターの雰囲気は覚えていて、そのイメージと、役者さんたちのイメージがとても合っていて、また雰囲気も出ていて、「おおー」という感じがした。小説を今読んだら、彼らの映像が浮かんでしまう、かもしれない。 小説を読んでいて、漫画の絵柄が浮かんでしまうものには、「源氏物語」がある。わたしは最初に読んだのが谷崎源氏、次に読んだのが与謝野源氏、その次あたりに「あさきゆめみし」を読んだのだが、一番印象が強かったのが「あさきゆめみし」というのは少し悲しい気がしないでもない。そういえば弟は「あさきゆめみし」を読んだあと、模試のとき古文で源氏物語が出題されると、「ラッキー♪」と言っていたことを思い出す。彼はほぼコマどおり場面が浮かぶのだと言っていた。 イメージを描く能力は人それぞれだろうけれど、画像や実像によってイメージが広がったり限定されたりする、その楽しさと微妙さ。絵の影響や映像の影響をまるで受けない人、というのもこの世にはいるのかもしれない。それは楽しいのだろうか、そうでないのだろうか、等つらつらと夜中に考えていた。
渋滞中の楽しみと言えば、車で聞く音楽と、もうひとつ。周りの車を見ることだろう。ちなみにわたしは助手席にしか乗れない人間だ(普通免許を持っていない)。というわけで以下に書くことは、まったくもって勝手な感想で、真の車好きさんには読むに耐えないかもしれない。その場合、すみやかにバックボタンで戻りましょう。 乗るのなら国産車がいいけれど、見るのならら外車が絶対楽しい。一度見渡す限りTOYOTA車で、「つまらーん」と喚いたら、夫に「一番売れてるんだからしょうがないでしょ」と言われたことがある。「へーそうなの?」と言ったら、夫は「常識。だいたいそれじゃどこがトップだと思ってたんだ?」と言われた。言われてみれば確かにそうかも。わたしは夫が車を持つようになるまで、すこしもそういった方面に興味がなかったのだ。 一番見ていておお!と思ったのは、流線型をした銀のベンツ。なんだか、泥沼を一羽の鳥が飛んでいったようなすがすがしさがあった。そして、ウインカーを出さずに車線変更した黒のコルベット。いいことではないが、みとれてしまうほど滑らかな運転だった。そして東京で見た、白のロータスエスプリは、存在だけでも目を奪われた。あと、アルファロメオとかフェラーリとか、あの国の車も大好きだ。見るたびにわー・・と思う。 国内の車では、丈の高い、はやりのワゴンとかより、セダンやクーペのほうが好み。見ていて楽しいのは、RX-7とかsupraとかS2000とかかなー? あまり名前を覚えていないので、この他にもあるかもしれないけれど。それにしても、車っていろいろあるんだなー、と、夫と話しているとよく思う。「あ・あのスカイラインは二世代前のだ」とか言われると、なんでそんなのを知っているのだー?というか覚えているのだー?と思う。彼に言わせれば「常識」なのだろうけれど。
旅行に行ったとき、JAF、という団体の偉いおじさん(ヘンな言い方ですみません、でも正式な地位を忘れちゃったのよ)が、TVで言っていた。車の中で聞く音楽は、あまりゆっくりなものより、テンポの早いものがいいのだそうだ。そして歌が入っているものは、そんなによくないらしい。歌いながら走ったりすると、注意がそがれる、という理由だったと思う。 確かに、車内でゆっくりな曲をかけると眠くなる。だが、歌が入っていないもの、あるいは洋楽よりは、ごく普通のJ−PopのほうがCDの量も多いし、耳なじみができているので聞きやすい。夫は歌っていることもあるが、とりあえずそれで事故ったことはないので、長距離ドライブの眠気飛ばしや、走る原動力になるならいいのだろう、と思う。 最近夫はRIP SLYME(スペル違ったらごめん)の歌を聞いて、「あーリズム感が狂うー」と言っていた。わたしは彼らがけっこう好きだが、車のチェンジャーには入れないように気をつけよう。ユーロビートとか、あゆmixとかはいい感じで聞けるのだけれど、ああいうのは駄目らしい。また、わたしの好きな女性アーティストのCDというのは、曲調が明るくても、内容は暗いことが多く、夫は「なんかこのまま海につっこみたくなってきた」とか「なんか不思議とくらーい気分になるんですけど」とか言われたことがある。男のバンド系や、ビジュアル系ロックはOKらしいが。 ちなみに夫が運転に疲れたとき、一番<効く>音楽は、イニシャルDの劇場版のサントラだ。運転がちょっとアグレッシブになるのが難点だが、ドライバーの気分がいいならいいか。
祝日、という題で以前書いたことと重複するかもしれないけれど。週休二日制の会社で働いている人は、土曜がお休みでも、なんとなく損をしたような気がしませんか? そうでもない? わたしはあまり関係のない職なので、土曜が休みで嬉しかったのですが。 子供の頃も、土曜、というのは大体午前中で授業が終わるから、午後が自由に使えて好きだった記憶があります。翌日が日曜なのも、どことなく気分がよくて。 そういえば、今は小学校とかも隔週で土曜がお休みなんでしたっけ? わたしは現役小学生の知り合いがいないので、彼らがどう思っているのかはわからないのですが。休みが増え、教科書も薄くなって、習うことも減って..それでも、わたしが小学生だった頃より、状況が厳しくなっている気がするのは、世の中の雰囲気でしょうか。ゆとり教育、と言われても、家族の時間を増やす、と言われても、何かが違うように感じるのです。努力はしないよりしたほうがいいのだろうけれど、何か根本的に大事なことが抜けているような..そういう風にして守ろうとしているのは何なのだろう。
なんだか本のタイトルみたいだな。まあいいか。何を言いたいかと言うと、動物に好かれやすい人と好かれにくい人がいるように、PCや電化製品にも、相性のいい人とよくない人がいるような気がする、という話。単純に感想として思っただけで、科学的に立証できるか、というと違うのだけれど。 この分類で行くと、夫は機械に好かれる人だ。会社でコピー機の調子が悪くなったときも、あちこち適当に触ったら、動くようになったらしい。一人暮らしをはじめたころ、TVのうつりが悪かったのだが、彼がある部分を持つときれいにうつる、ということもあった。本人は仕組みをわかってそうしているわけではないらしいが、基本的に理系なので、カンのようなものがいいのではないか、とわたしは思う。 さて、わたしはといえば、どちらかといえば機械に嫌われるほうだ。事務の仕事をしていたとき、他の子はそんなことがないのに、わたしの使っているPCだけやたら落ちてしまうことがあった(ちなみに単純な入力作業をしていただけで、とくに難しいことはしていなかった)。自分が個人的に使ってるPCは大丈夫なのだが..。 そして最近とても悲しいのは、videoが誤作動すること。なんでテープを取り出すところを押すと巻き戻しが始まるのだ? 夫にも確認してもらったが、べつに巻き戻しを押してるわけじゃないし、夫が押すと普通に取り出せる。なぜだー。まあわたしは文系で、どちらかといえば旧式の、アナログ志向な人間だとはわかっているが。だが、CDプレーヤーがへんな動きをした(CDを変えようとしたら再生された)日には、自分がへんな電波でも流しているのか? と、一瞬不安になった。
どちらがはじめてのおつかいだったかは忘れてしまったが、印象に残っているのはふたつ。 ひとつは近所の八百屋さんに、ぶどうを買いに行ったこと。若いお兄さんが売っていたのだが、ぼうっとしていたら、「何買うの?」と聞いてくれた。ぶどうを買いにきたのだと答えると、「お嬢ちゃん、これおいしいよ」と、並んでいるうちのひとつを包んでくれた。いい人だなーと思って、家に帰り母に渡すと、「どうしてこんな半分駄目になってるようなのを買って来たの」と怒られた。上のほうは綺麗だったので気付かなかったが、下のほうは熟しすぎていたらしい。嬉しい、と思ったぶんとても悲しかった。 もうひとつは、近所のスーパーに、冷凍の枝豆(か空豆)と、ブイヨンとか調味料とかを頼まれたときだ。マメはずぐに見つかったのだが、ブイヨンだか調味料だかは、教わった位置にない。たまたま展示がえをしていたらしく、人に聞いてやっとみつけ、帰った頃にはだいぶ時間がたっていた。「なんですこしの買い物にこんなに時間がかかるの」と怒られたが、説明とともに商品をわたし、また怒られた。「マメが、とけちゃってるじゃないのー!」ああ、いわれてみればそうかも。母は仕方なくマメを調理しはじめた。 だから、というわけでもなく(大きくなっていくにつれ「家事より勉強しなさい」と言われるようになり)、だんだんそういったことはしなくなっていたが。現在主婦になり、ときどき買い物をするようになっても、あまりこころ楽しくない。幸い一人暮らしもしていた夫が、そういう家事だの生活だのを得意としているひとなので、大きな買い物は週末にしてくれて、なんとかなっているけれど。 いまだにわたしは、ひとりで買い物をしているとき、とても心細い、不安な気持ちになることがある。コンビニとかは恐くないんだけどね。
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