エース 8 - 2007年03月22日(木) ■彩華 2 ―3年後。 大学の一人暮らし生活から久々に実家に帰った私に、清美は聞いてきた。 「お姉ちゃん、まだ彼氏作る気ないの?」 「いい人がいればね」 「理想が高すぎるんだなぁ。あの時の神山さんは、もういないんだから」 「まるで死んだような言い方じゃない」 「…まだ、会いたい?」 「………会えるんならね」 私がそう言うと、清美は自分の財布からバッティングセンターの小さなチラシを取り出して、私の前に置いた。 「そこにいるよ。行って見たら?」 偶然にも、一人暮らしをしている部屋からそのバッティングセンターは近いところにあるらしい。道路で看板を見かけたこともあるが、まさかそこに彼が居るとは。私のことを見て、何か思い出してくれるだろうか。髪の色、黒に戻して…眼鏡もかけていこうか。 結局そのままで、後日そのバッティングセンターに行ってみた。清美からもらったチラシと、千円札だけ、ジーンズのポケットの中に入れて。 自動ドアが開いた瞬間、目が会う。胸と耳に、熱さを感じる。神山康次が、そこにいた。 「いらっしゃいませ」 機械的な挨拶。違う、思い出して欲しい。私の顔を見て、もっと顔の色を変えて欲しい。 「…?どうかしました?」 自分のことをじっと見る客に疑問を抱くだけ。…ただの客。 「…いいえ、ごめんなさい」 今度は変に思われないように、遠目から彼の事を見てみると。昔の面影は無かった。あの、猛々しいボールを放つ腕も、感じられなかった。 「神山さーん」 茶髪の可愛らしい女性店員が、彼の名を呼んだ。 「どうしたの?」 「なんだか、カメラの調子が悪くて」 …カメラ?どうしてバッティングセンターにカメラがあるのだろうか。 ふと、周りを見渡すと、たくさん写真が貼られた掲示板のようなものがあった。 ―今月のホームラン賞 なるほど。あのカメラで、この写真が。 …あの女の子も。神山君の事が好きなんだろうか。 『そこでバイトすればいいじゃん!』 電話越しの清美は、幾らか興奮している。 「嫌よ」 『なんで?』 「別に。仕事になりそうにないから」 『はぁ!?神山さんに見惚れて、とか?そんなのお姉ちゃんじゃありえない』 「…そうね」 私は毎日のように、あのバッティングセンターに足を運んでいた。 彼のバイトのシフトまで、概ね研究した甲斐あってか、神山君と私はもう顔見知りの仲になっていて、私が来店するたび、彼は一声掛けてくれるようになっていた。しかし、その反面、今更昔の話しがし難くなるし、遠目から恨むような、女の子の店員さんの目線が、気になる。 それでも、ホームラン賞を打って彼に写真を撮ってもらうのは、嬉しかった。 「…今日くらい、少し笑いませんか?」 でもやはり、駄目か。これでも笑ってるつもりなのに。少し自己中心的で皮肉めいた感情に押されそうになる。 「じゃあ、何か面白い事言ってもらえませんか?」 私がそう言うと彼は、何も言わずにシャッターを押した。 「私…やっぱり、彼の事好き」 『……なんだか、お姉ちゃんからちゃんとそういう言葉で聞いたら、泣けてくる』 清美の声まで、弱々しくなっていた。 「どうすれば、良いと思う?私、わかんなくて」 『そうだね、あとは、きっかけと行動だけだよ』 「だから、それを…」 『一緒に帰ったり、してみたらいいじゃん』 「通算、1000号記念ですね。」 「えっ?」 全然数えていなかった。そんなに打ったのか。私は。 「あ、数えてなかったんですか?今日最後のホームラン賞で、1000本目だったんですよ?」 「はぁ…数えてませんでした」 「え?だって今日は14本で止めたじゃないですか。意識してたんじゃないですか?」 それは違う、あなたの事を考えてたから身が入りませんでした。なんて、言えない。 「今日はなんだか、あの、ボーっとしてました」 「はは、そんな日もあるんですね。でも帰り道気をつけてくださいよ、最近この辺痴漢が出るそうだから」 痴漢か…。痴漢が出るんなら…。そうだ。これをきっかけにしよう。 「あのっ」 「あー、タイミング悪かったですね。口開いてますよ、これ。撮り直しますか?」 「……一緒に」 「え?一緒に?」 「あ、の、今日…は歩きなので、その」 どうしよう、絶対変に思われる。早く言わないと。 「歩き、なんですか。いつもの自転車じゃなくて」 「はい、だから、一緒に帰ってくれませんか?」 一生分の勇気を、そこで使った気がした。 しかし、そのきっかけは私と彼の距離を明らかに縮ませていた。今なら、彼に自分の想いを打ち明けられるかも知れない。 『えー?部屋に呼ぶの!?もう?』 「…まずいかしら」 『男は絶対勘違いするね。付き合っていようとなかろうと。もう終電だから、さようならってわけには、いかなくなるよ』 「…別に良いけど」 『……まぁ、それくらい好きなんだよね。でもいきなり誘うんなら。買っといた方が良いよ、アレ』 「アレって?」 『…まだ「おばさん」になりたくないの、あたし』 明日は金曜日。明日も、ホームランを打って。写真撮る時に彼の髪のことを話題にして、私の部屋に誘う。今日も明日も、彼のシフトは入っているので、まだ髪を切っていないはず。どういうお酒が好みか知らないから、色んな種類を用意して。部屋の掃除も、バッチリだ。そして「アレ」も。これを使うときばかりは、少し怖いかもしれない。 「…髪、伸ばしてるんですか?」 「いえ、そろそろ切ろうかなと思ってますけど」 「…私が切りましょうか?」 「い、いいんですか?」 「えぇ、週末ですから」 計画は、ほぼ完璧に実行されていった。投手としての彼は、あれだけ猛々しかったのに。酔いつぶれた彼は、完全に折れてしまっていた。少し、悲しい。私が、なんとかしたい。 でも、無理かもしれない。無理だろう。 「……気を遣ってくれなくてもいいんだよ」 「そんなこと」 私に対して「壁」みたいな物を感じたのか、彼は急に私に背を向けたような事を言い始める。 「いくらッスか?」 「…何が?」 「今日のお金ですよ」 「…神山君、もう自分の家に帰るような時間じゃないし、例えあなたが男の人でもこんな状態で一人で夜道、歩かせる訳にはいかないわ」 嫌。嫌だ。帰らないで欲しい、朝までで良いから、一緒に居て欲しい。 「今日は泊まって行けばいい。明日朝一に帰ればいいの」 私は、必死だった。自分に無理を感じる。 「…蒼衣さん、悪いけど、俺はそんなたいした奴じゃないよ。こんな優遇してもらえるのは凄く嬉しいけどさ」 「俺は…わかんないですよ、どうすればいいのかわからないですよ」 何も言えない。清美なら、ここでなんて言うだろうか。歯痒い。 「…………」 「でも、自分の部屋に戻れば、結果は一つしかないんですよ」 それには、その結果には、そこから先は、あるんだろうか。縋って欲しい。私に、縋って欲しい。少しでも、必要として欲しい。私は初めて彼の手を握り、精一杯の言葉で彼に伝える。 「…好きにすればいいと思う。あなたの好きに。そしてまた帰っても、またここに来ていいと思う」 「あんたは…」 「お願い。帰らないで。…一緒にいて」 私の中に彼が入ってきたときの痛みは、想像を遥かに越えるものだった。しかし、だんだんそれは消えていって、何時の間にか私も快楽に溺れていた。 神山君、そんな顔して、苦しいの? 男の人にとって、これって気持ち良い事じゃないの? もっと嬉しそうにしてよ、笑ってよ。 私には、こんなことしかできないけど。 もっと必要として欲しいよ。 二人の間には、何かの想いが交わりあっていたのかも知れない。しかし、そこにいたのは、間違いなく二つの生き物だった。痛みが取れていくにつれ、私もただの動物になっていてしまった。 それから、初めて彼が私のことを「彼女」と呼んだのは1ヶ月も後の事。それとほぼ同じく、彼の肩は再起不能ではないことも、判明した。 「私が、インフルエンザにかかったとき。何日か練習休んじゃって。一度みんなに責められそうになったことがあって、その時ね、ある男の子がそこに入ってきて…なんて言ったと思う?」 「…お前ら、こいつがどんだけ努力してんのかわかってんのかよ、練習終わった後、そこの河原に行ってみろよ。って?」 「覚えてて、くれたんだ…」 「今思ったら…確か蒼衣さんって眼鏡かけてたよな、あと苗字違ったしね。あの時は秋野さんだったっけ」 「私、私ね…ほんとに嬉しかったんだから」 ようやく交わった、二人の時間。 私が彼にできることも、広がったのかも知れない。 もう一度、彼を、マウンドに立たせてあげたい。 それを見ているのが、私の夢なのだ。 - エース 7 - 2007年03月21日(水) ■彩華 1 あの夏、甲子園での出来事は、私にとっても衝撃的だった。一人の観客としてあの暑い中、大盛り上がりのスタンドから彼の勇士を見ていた。 私が今歩いている道を切り開いてくれたのは、間違いなく彼。女性と言う立場では、野球に携わる事なんて、正直今の状態で頭打ちだったのだ。それでも私は、もがきながらもここまでこれた。 しかし、私の所まで飛んできたボールは、彼と、そして私の人生を大きく変えてしまうものだった。 「昨日さぁ、キャッチャーいないからすごく困ったんだけど」 「…ごめんなさい」 「なにー?そのマスク。病人っぽく見られたいワケ?」 風邪がひどくて、今日こそは病院に行こうと思っていた日だった。1時間目でも憂鬱なのに、私の席は朝からソフトボール部の嫌味な連中に取り囲まれてしまった。 「先頭たってチームを導こうって人がぁ、それでいいの?」 「あんた目当ての男子どもが、あんたいないって気付いた瞬間どっかいっちゃうんだもんねぇ。何勘違いしてるのかわかんないよねぇ」 私だって好きでキャプテンになったわけじゃない。男子だって迷惑なものだ。普段はチヤホヤしといて、肝心なところで助けてくれない。今だってこちらを見てみぬフリをしている。後になって「大変だったね」と、慰めてくれるんだろうが。格好つけているつもりなのかと、疑いたくなる。 美人も才能も、そんなもの、なければいいんだ。 「今日は出るんだよねぇ?部活」 確信犯的な質問だった。 「ごめんなさい。今日は、病院に行くから」 私がそう言うと、案の定、はやし立てられ非難を浴びせられる。でも、耐えればいいんだ。そうすれば、部活ができる。 「おい、やめろよ」 後ろに気配を感じたと思った瞬間、声がした。振り返ると、神山君がいた。 「お前ら、普段勉強理由にしてサボってんだろうが、明らかに風邪引いてる人間に、よくそんなこと言えるな」 信じられない。クラス一の人気株が私をかばっている。 「な、なによ。神山君には関係ないことじゃない」 「あるよ」 神山君がそう言った瞬間、目が合った。 「俺は、秋野がどんくらい頑張ってる奴か、知ってるから」 「…………」 「ウソだと思うんだったら、部活後に河原の広場に行ってみろよ」 何もいえなくなった私の前にいる人たちは、まとめて私の机の前から離れいていった。気付いたら、私は彼の顔をじっと見ていた 「…ありがとう」 「いや、いいよ。大事にしなよ」 そう言って、彼は去っていく。男子のグループに戻った彼を、彼の友人達はからかっていた。 風邪が治り、部活に戻ったけど、状況は前と変わりなかった。ただ、私は部活中も野球部のグランドが気になって仕方なくなった。神山君は野球部のエース。遠くから見ていても、その異彩は私のところまで届く。 天才や、才能という言葉を嫌う彼の努力は、私も知っている。普段良くそんな姿を見かける。しかし、彼の投球は紛れもなく天性のものに違いなかった。 でも、なんだろうか。彼を見ているときの、この感覚は。 「白馬の王子さまだね」 「…何言ってるのよ」 二つ下の中学一年生の妹は、最近の私を見て誰かにに恋をしているのだと思い込んでいた。 「すごーい。お姉ちゃんが惚れる相手なんて、よっぽどカッコいいんだね」 「馬鹿なこと言わないで。あんたとは違うわ」 読書の邪魔だったのもあるが。こんな時まで彼のことを思い出したくない。頭が一杯になってしまう。 「なに、もしかして野球部の神山先輩!?」 「き、清美!」 妹にしてみたら、してやったりだ。私のリアクションは、あからさま過ぎたようだ。 「えっ!?マジなのっ?キャー!ライバル多そう!バスケ部の友達もさぁ、バレンタインのチョコあげようって子が何人かいたんだよ?」 それこそ申し訳ない話だ。彼みたいな人気者に、私みたいな女子はどこかの枷になるに決まってる。手だろうか、足だろうかと考えていると、清美は続けた。 「お姉ちゃんも、普通の女の子だもんね」 「…そうだと良いわね」 …素直な感想だった。 私の両親が離婚したのは、私が中学を卒業してから直ぐのことだった。父親の不倫が原因だったので、母さんは別に要らない慰謝料でも父親から巻き上げた。私も清美も、とうとうこの時が来たかという感じで。父親が余り好きではなかったし、清美に至っては父親の不倫現場を目撃していたので、むしろ喜んでいるようだった。 内心、彼の行く高校へ進路を取ろうかとも考えたけど。その希望は見事に打ち砕かれる。彼は県外では無いが、地元から大分離れた理系の高校へ進むらしい。また試合に勝つたびに、女子にもてはやされるのが嫌だったのだろうか。気持ちは解る。 私も、敢えてソフトボール部で名を聞かない高校へ進んだ。さすがに、ソフト部の無い学校は見つけられなかった。 「…あのな、蒼衣」 「はい、野球部に入れてください」 「せめて書き間違いであってくれと思っていたが…。試合には出れんぞ?」 認めたくないことではあったけど、どうやら私にも天性のものがあったらしい。公式戦には出られないものの、打撃・守備・走塁どれをとっても、野球部の上位に位置し続けていた。「勿体無い人」と、よく言われた。 その上、時にはマネージャー以上の仕事もしながら。 「監督、今日の須藤君はあんまり調子よくないみたいです。でも先発は変えずにセットアッパー※に加藤君を登板させてはどうでしょうか。状況次第で早くなるかもしれませんけど、次の試合もありますし」 (※先発投手の後を投げる投手。救援投手ともよばれる。) 「あ、あぁ、そうしようか」 でも、それが楽しかった。神山康次という人間の後を追っていた感じはずっと拭えかったけど、こんなにもスポーツが楽しいんだ、みんなとこうやって色々考えながら、練習して試合に勝つっていうのは、こんなにも嬉しい事なんだと。自分は参戦できないが、チームが勝つたび、神山君の姿がを少しずつぼやけてくるのを、私は感じていた。 「取材?」 突然、監督に呼び出されたと思うと。ある野球雑誌が私の特集を組みたいと言ってきたそうだ。神山君も、それに載った事がある。今でも、私の宝物だった。 「まぁ、これからの高校野球を変える人材になるかも知れん。みたいなテーマらしいぞ。面白くないか?お前としては」 ―期待の新星(!?)無敵の高校女子野球児 この記事は、えらく話題を呼んでしまった。言い寄って来る男子に留まらず、女子からのラブレターも相当な物になり、私は正直、管理に困るほどだった。神山君の目に留まるかもしれないと思って受けてしまったことを、深く後悔する。しかし彼からの連絡は、無い。もしかしたら、友達伝いに、何かあると思ったのに。彼のことに対しては、いつまでも積極的になれないままだった。 しかし、3年目の夏、ついにこの日が来た。神山康次が野球部に在籍している、S高との試合だ。高が地区予選の3回戦なのに、まるで決勝戦前日のような緊張感に襲われているのを、妹の清美には見抜かれてしまう。 「…ねぇ、お姉ちゃん、明日の試合、あたしも観に行っていい?」 「なんで許可なんて取るのよ」 私が緊張している事を察しての言葉だったのかは、わからなかったが、素直に疑問に思った。 「だってさぁ、あたしもナマで神山さん見ちゃったら…多分」 滅多に見ることの無い、虚ろな清美の表情を見て、寒気がした。 「え…な、なに?」 「だってさぁ、この雑誌もさ…あたし何回も見ちゃってるんだ…」 その時清美が手にしていたのは、私も取材を受けた雑誌の、神山君の事が特集になっていた号だった。しかしこの家の中では私の机の中にあるはずなのに。 「ちょっとそれ、私の!?」 「あたしの!あたしも買ったもん」 「…あ、そう。でも、別に良いんじゃないの?好きになっても」 私はそう言うと、気を紛らわすかのようにそこにあった携帯電話を弄りだした。押すボタンも幾分適当だ。 「何それ。余裕の発言?」 「…別に。私は、彼のことそんな風に見てないから。…そうね、好敵手よ。ライバルライバル」 そうだ、私が彼に、恋心なんて。そもそも、そんな事一度も実感したことなかったので、自分に言い聞かす事くらい、できるはずだ。 「よく言うね、そんなに緊張してるのに」 「誰がよ」 言い掛かりだ。心の中で、そう反論した。 「お姉ちゃん?」 「……何?」 「それ、私のケータイ。返して?」 今思えば、別に清見じゃなくても、私が何を考えているのかわかったかも知れない。 私は、全力で試合に挑んだつもりだった。選手のコンディション、相手投手、クリーンナップへの対策。ここ数週間、この試合のためだけに考えを練ってきた。しかし、それさえ甘かった。 初回、S高の4番打者、堺将馬による3ランホームランは、士気を打ち砕くものだった。加えてエース、神山康次の猛々しいピッチングは、私さえも、見惚れてしまう。 負けた。きっと、私が試合に出ても、敵わない。しかし悔しさ以上に、胸が高鳴っている。私はどうして、彼のいるチームと対戦したかったのか。本当に勝ちたかった為なんだろうか。 ……………。 違う、「頑張ったな」って、頭を撫でてもらいたかった。 甲子園、7回表の神山康次は、もう私の手の届かないところにいた。彼の腕から放たれた白球は、まるで猛獣のように打者に向かっていく。荒々しく、正確に。 もう、あの時私を助けてくれた人は、あんな所にいる。私は、あの人に助けてもらった。些細な事だけど、忘れた事は無かった。今になって、涙が流れた。 しかし、8回。彼の肩が壊れた。ただのボールは高々と舞い。私の前の席に、突き刺さった。 -
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