セクサロイドは眠らない
MAIL
My追加
All Rights Reserved
※ここに掲載されている文章は、全てフィクションです。
※長いこと休んでいてすみません。普通に元気にやっています。
※古いメールアドレス掲載してました。直しました。(2011.10.12)
※以下のところから、更新報告・新着情報が確認できます。 →
[エンピツ自由表現(成人向け)新着情報]
※My Selection(過去ログから幾つか選んでみました) → 金魚 トンネル 放火 風船 蝶 薔薇 砂男 流星群 クリスマス 銀のリボン 死んだ犬 バク ドラゴン テレフォンセックス 今、キスをしよう
俺はさ、男の子だから
愛人業
DiaryINDEX|past|will
2003年11月27日(木) |
「それから、私の事。幾つかの大事な事を、あなた知らないわ。」「何だろう?」「ひとつめ。私、・・・」 |
彼女は美しかった。初めて会った時、心臓が止まるかと思った。一生を共にしたいと思った。
彼女の美しさはをどう説明しようか。彼女は何というか、純粋な結晶のような存在なのだ。何度も何度も純度を高めながら抽出した結晶。
僕らは、社会人のテニスサークルで出会った。
一年後、僕は、彼女に結婚を申し込んだ。
--
「いいけど。あなた、私の事なにも知らないわよね。」 「ああ。確かに。」 「随分と無謀な人ね。」 「しかたない。出会った時から決めていた。」 「まず、父に会ってくれなくちゃ。」 「ああ。それは大事な事だね。」 「それから、私の事。幾つかの大事な事を、あなた知らないわ。」 「何だろう?」 「ひとつめ。私、離婚歴があるの。いわゆる、バツイチってやつね。」 「知らなかった・・・。」 「どう?引き返したくなった?」 「いや。もっと奥に踏み込みたくなったよ。」 「勇気があるわね。」 彼女は笑った。
本当に。僕は彼女の何も知らない。金融関係のシステム屋。それしか取り柄のない僕だ。
「ふたつめ。子供がいるの。」 「何人?」 「一人。」 「男?女?」 「男の子よ。」
まったく。随分と間の抜けた質問しかできなかった。子供か。知らなかった。だが、しかし、それも大きな障害とは言えない。子供なら、姉貴の子供の面倒を見るのだって得意だ。
「知らなかったよ。きみに子供がいたなんて。」 「訊かなかったでしょう?」 「そうだな。本当に。想像もできなかった。第一、きみ、子供がいるなて素振りを微塵も見せなかったんだもの。」 「ええ。」 「こう言ったら何だけど。わざと隠していた?」 「・・・。」 「なんで?」 「急に何もかも訊かないで。お願い。」 「よく分からないな。」 「ごめんなさい。」 「謝らなくていい。時間はある。これから少しずつ知るつもりだよ。」 「ありがとう。」 「じゃあ、オーケーしてくれるんだね?」 「あのね。もう一つだけ。私の父の事なんだけど。」 「ああ。そうだ。確かに大事な事だね。」 「いろいろあなたの事訊ねると思うの。」 「構わないよ。」 「本当に些細な事まで訊ねるのよ。」 「平気だ。何でも訊いてくれたらいい。」 「ありがとう。」
彼女は初めて笑顔を見せる。
僕は彼女を抱き締める。
--
「で?きみは金融システムのプロフェッショナルというわけだね。そのジャンルでなら誰にも負けないという自信はあるかね?」 「自信・・・。というほどでもないですが。」 「謙遜は良くないな。きみの事は既に調べてある。昨年の・・銀行と・・銀行の合併では、きみが指揮を取って見事にシステムを稼動させたそうじゃないか。」
そこまで知っているなら、何も僕が僕について説明することはないじゃないか。皮肉の一つも言いたくなる。が、未来の父となる男性にそんな事は言えない。ましてや、数え切れない程の会社を経営し、日に何億もの金を動かしている男には。
「きみには、私の経営している会社の一つに入ってもらいたい。」 「はい。」
結婚の条件が幾つかあるの。彼女が言いにくそうに切り出した内容の一つだった。
「コンサルタント会社でしたっけ?」 「そうだ。」 「一体、どんなジャンルのコンサルタントを?」 「ありとあらゆることだ。」 「ありとあらゆる・・・。」 「人の人生は、全て繋がっている。どこからどこまでという切り分けができるものではない。ならば、相談に来た者のありとあらゆる不安を取り除いてやるような気持ちで接するのだ。」 「そんな事が僕にできるんでしょうか?」 「きみならできる。」
義父になる男は、きっぱりと言った。そして、鷹揚な笑みを浮かべた。その一言で、僕の体内に力が湧く。
「それと。コンサルタントにとって大事なことは、決して、ノーとか不可能とか言わないことだ。オーケイです。大丈夫。あなたならできます。そうやって常に励ます事が重要だ。」
僕は、そこでようやく笑い返す。なるほど。大した男だ。
「娘を大事にしてやってくれ。あれは私の子供の中でも一番出来のいい子なんだ。あれが男だったら。と、思わなかった事がないでもないぐらいな。」 「分かります。」 「だがな。女で良かったのかもしれん。女なら、子が産める。」
--
新しい生活が始まった。
僕は、妻のためなら多少の犠牲は払うつもりでいた。
息子となった少年も、とてもいい子だった。毎日、真っ黒になってサッカーに打ち込んでいる。当分、我々の子供は作らずにいよう。そう思った。
だが、子供を欲しがったのは妻の方だった。
「自然にまかせよう。」 そう言う僕に、それじゃ駄目なの、と焦りの言葉をぶつけてくる。
僕は妻の激しさにあっさりと折れて、子作りに積極的に取り組む事を約束した。いずれにしても、子作りという目的を抜きにしても僕は妻をたっぷりと愛するつもりではいたのだから、同じことだ。
そうして、ほどなく妻は妊娠した。
もちろん、妻は大喜びした。義父も大いに喜んでくれた。
--
不思議なのは、妻が前の結婚相手との間に作った少年の事だった。マモルという名の少年は、気立ても良く、成績もそこそこで、何よりサッカーが上手い。だが、妻は、マモル以外に子供を欲しがっているようだった。女の子が欲しいのだろうか。
少しずつ大きくなるお腹を大事に抱え込んでは、妻は幸福そうな表情を見せる。
十ヶ月はあっという間に経過した。いよいよ陣痛が始まった妻を義父が自ら病院に運んだ。そして、分娩台に上るまで、義父は妻を励まし続けた。
そう。まるで、僕に出番はなかった。
--
退院した日の夜、僕と妻はベッドの中で手を繋いで、喜びを静かに分かち合った。
「あなた。ありがとう。」 「きみが頑張ったからだよ。」 「父も喜んでいるわ。」 「それは良かった。」
妻の言葉はそこで途切れる。
泣いているようだった。
「どうしたの?何が悲しいの?」 「お別れだから。」 「お別れ?」 「ええ。子供が生まれたら、あなたはもう用がないのよ。」 「どういうこと?」 「前の主人もそうだったの。」 「僕はどうなるの?」 「父が始末するわ。」 「始末って。そんな・・・。」 「マモルが生まれた時も父は大喜びだったわ。だけど、父の目からしたら、もっと優秀な子が欲しかったのね。」 「じゃあ、僕らの子が社長の希望にそぐわなかったら?」 「私は、また結婚する事になるわ。」 「そんな。人を何だと思ってるんだ。第一、始末って。」 「父になら簡単よ。どうにでもするわ。人一人の命ぐらい。」 「きみはそれでいいのか?」 「仕方がないわ。父が決めた事なら。」
僕は呆然とする。
だが、妻は、悲しみこそすれ、事の理不尽さには気付いていないようだった。無理もない。生まれてこのかた、彼女にとって父親こそが世界だったのだ。そして、彼女自身こそが、そうやって、最も優秀な血として残された子供なのだ。
僕は、ただ無言で妻を抱き締める。
ひとしきり泣いた後、彼女は低い声でささやく。 「私達、一緒にいられる方法が一つだけあるわ。」 「なんだ?」 「父を・・・。父を殺すの。」
僕は、しばらく妻の言葉について考える。
「無理だ。」 社会的影響力だけとっても、僕があの男を抹殺する事など不可能だ。
「なら、お別れね。」 妻の声が冷たく響く。
2003年11月26日(水) |
男の体の上に乗り、その肩に爪を食い込ませる。だが、その皮膚は、ひどく固い。クライマックスを迎えようとする瞬間、 |
新しい恋人とベッドを共にした夜。彼はすっかり満足した顔で、うつ伏せのまま枕元の煙草に手を伸ばす。私は、その肩から背中にかけての美しい線に見とれて、指でなぞる。
彼は笑って、私を引き寄せる。
彼の丸く艶やかな肩が唇に触れる。私は、思わず唇を開く。彼の弾力のある肌。
「っつー。やめろって。」 彼がいきなり私を押し退ける。その肩に血がにじむ。
「ごめんなさい。」 「なんだよ。吸血鬼かっての。ってーなあ。あーあ。血が出てら。」 「ほんと、ごめん。」 「いいけどさ。子供じゃないんだし。何やってんだよ。」 彼は怒った顔のまま、背を向ける。
ああ。またやってしまった。私の悪い癖。滑らかな皮膚に歯を食い込ませずにはいられない。
いつもこうだ。一度や二度は、ふざけてやった事にして許される。だけど、そのうち冗談じゃ済まなくなるのだ。
--
噛みたい。
その衝動は唐突に私を襲う。
仕事中でも、デート中でも。
月末の忙しさに気を紛らわせていたつもりだが、あっという間に終わった恋が私を滅入らせ、仕事のミスを増やす。
「どうした。きみらしくないな。」 部長が私のミスに気付き、溜め息をつく。
「すみません。」 「何か心配事でもあるのか。」 「いえ。」 「しかしなあ。もう、これで三回目だぞ。」 「はい。」 「今日は早めに上がりなさい。」 「でも・・・。」 「私もそう遅くならないうちにしまうから。どうだ。ちょっと話でもしないか。」 「はい・・・。」
私は、消えてなくなりたかった。信頼する部長にミスを指摘されてしまった。
厳しい叱責を受ける覚悟を決めた私に、遅れて店に入って来た部長は優しく微笑んだ。 「好きなものを頼みなさい。今日も昼休み返上で頑張ってたのは分かってる。腹が減ってるだろう。」
部長は私を叱ったりはしなかった。それどころか、どことなく憂鬱そうな顔をしてばかりの私が心配でならなかったのだと言い、それから照れたように笑った。 「いい迷惑だってことは分かってるんだ。今日だって、仕事が終わってからも付き合わせて。」 「いえ。いいんです。嬉しいです。そこまで気に掛けてくださってたなんて。」 「覚えてないかもしれないが、きみが我が社に入る時に面接の担当官をさせてもらったのは私だ。きみの家庭の事情も知っている。」
父が家を捨て、母と妹と肩を寄せ合って生きて来た事を言っているのだ。
「私を父親と思って、何でも言って欲しいんだよ。」
私は、その言葉にうなずき、そっと回されたた腕に体を預けた。
--
その夜から始まった部長との逢瀬は、私にとって辛いものだった。既婚の彼は、私を抱いてしまうと、そそくさと洋服を身に付ける。だが、それより何より。
噛みたい。だが、噛めない。
彼の体は、決して傷つけてはならないものだった。
いつだったか。うっかり伸ばした爪が彼の頬をかすめた時、彼は不愉快そうに言ったのだった。 「おい。気をつけてくれよ。」
四十代の働き盛り。ゴルフで日焼けした肌は滑らかで美しい。だが、その肌に戯れに歯を立てる事を許されないのだ。それは、予想以上のストレスを私にもたらした。
彼が帰ってしまった後、私は身もだえして、挙句、自らの体に歯を立てる。腕の内側の柔らかいところ。皮膚が裂け、血が滲み、鉄の味が口の中に広がると、ほんの少しだけ私の心は落ち着きを取り戻す。
--
子供が熱を出して急に会えなくなった。待ち合わせの店で、そんな電話を受けた夜。私は、ふらふらと歩きながら血の味を思う。その時に。
「おっと。危ないよ。」 不思議な笑顔だった。どこか固く。だが、危なげの無い笑顔。
うっかり車道に飛び出しそうになった私の腕を、その男は掴んだ。
「大丈夫かい?」 「ええ。」 「顔色が悪いよ。」 「放っておいて。」 「そうはいかない。きみ、まるで病気みたいだもの。」
抵抗しきれない私を、男はタクシーに押し込み自分の部屋まで運ぶと、温かいココアの入ったカップを渡してきた。 「お飲みよ。きみの顔、真っ青だ。」 「ありがとう。」
私は、カップを両手で包むように持ったまま、男を観察する。
「僕ら、友達になれるよ。きっと。」 男は笑う。
抜け殻のようになっている私は、 「抱いてよ。」 と、服を脱ぐ。
私は、男の体の上に乗り、その肩に爪を食い込ませる。だが、その皮膚は、ひどく固い。クライマックスを迎えようとする瞬間、私は上半身を折り曲げて、男の耳たぶを強く噛む。
だが、果たして。その耳は、私の歯型の痕跡を残さない。
「あなた、何者?」 「僕は、ゴム男さ。」 男は笑う。少し自嘲気味に。
--
二人の男。一人は、私を愛さない。もう一人は、私が愛さない。
決して愛してはいないゴム男の部屋を時折訪れては、その傷付かない皮膚に、何度も何度も歯を立てる。
--
そんな日は長くは続かなかった。
私の心が耐えられなくなったのだ。愛する男は、決して私を選ばない。長い時間を掛けて、たったそれっぽっちのことをようやく知った。
私は、自らの手首に歯を食い込ませる。アルコールのせいで朦朧とした意識の中、火を放つ。 「さようなら。」
熱気が迫る。もう、体が動かない。壊れた人形みたいな私は、こうやって死ぬのがお似合いなのだ。
だが、しかし。誰かが私を呼び、抱き起こす。ゴム男だ。お願い、死なせて。そうつぶやいた瞬間、私は意識を失った。
--
「気が付いた?」 ゴム男が、ベッドのそばで心配そうに私を見ている。
「私・・・。」 「きみは死ぬべきじゃない。」 「でも、もう、生きてる意味なんてないの。」 「なんでだよ。なんで、あいつなんだ?」 「さあ。どうしてかしら。きっと。噛むことが許されなかったからだわ。いつも、無傷の綺麗な背を向けて、私の元を離れて行くのよ。あの人。」
私は、まだひどく疲れていて、もう一度眠りに引き込まれた。
--
退院して、真っ先にゴム男のアパートに向かった。
空は晴れていて、気持ちが良かった。
私はゴム男のお陰で、傷を負わずに済んだ。お礼だけでも言わなくては。許してもらえないかもしれないけれど。私は、最後に会った時のゴム男を思い出す。
ドアを開けたゴム男は、私をまぶしそうに眺める。
「久しぶり。」 私は照れ笑い。
「もう、来ないかと思ってたよ。」 「うん。私も。合わせる顔がないなって思ってた。だけどね。」
私は、ゴム男の耳たぶから顎にかけてのラインをそっと手でなぞる。
「ねえ。ひどく溶けちゃったわね。もう、戻らないの?」 「うん。こんな体だからね。熱には弱いんだよ。」 「私のせいね。」 「気にしてないよ。」 「・・・でも。ずっと素敵だわ。この顔。」 「僕もそう思ってる。ずっと。きみが傷をつけた男達に嫉妬してたんだよ。僕。」
私は、ゴム男の首に手を回し、その傷を唇でなぞる。ゴム男は、もう、無傷なゴム男ではなかった。それ故に、私は愛した。
2003年11月25日(火) |
数ヶ月に一度。任務の合間を縫い、激しく抱き合って、もう翌朝には、お互い町ですれ違っても知らぬ顔をする恋人。 |
窓の方からコツコツと音がする。
「おかえり。」 私は、窓を開ける。
ハトが飛び込んで来て、私の肩に。
その羽に触れてやると、安心したようにその生き物は私の肩を離れ、今度は犬に姿を変えて床に降り立つ。
「疲れたでしょう?しばらく休んでいなさい。」 そう声を掛けると、彼は少し離れた場所に伏せる。だが、私への視線をはずさない。
愛らしい犬の姿をしているが本当は姿を持たない、その生き物は、「運び屋」だ。組織から支給され、ある一定期間を一緒に暮らす。スパイ活動を手助けするように訓練され、飼い主への忠誠心は絶対だ。どんなものにでも姿を変え体の中にありとあらゆるものを飲み込むと、指示したところまで届けてくれる。この数年間、彼なしでは、任務をこなすことは出来なかっただろう。
時に、傷を負って戻って来ることがあるため、一回外に出すと彼が無事な姿を見せるまでは、いつも落ち着かない。
だが、その心配も今日で最後。
私の運び屋は、最後の任務を終えて戻って来たのだ。
--
運び屋を充分に休ませると、私は彼に姿を変えるように命じる。
彼はうなずいて、犬から、青年の姿に。
美しい茶色の瞳の青年に。
私は、満足して、彼のために衣装を選ぶ。タキシードが良く似合う体は私のお気に入りで、任務がない時はいつもこの姿に変身させるのだ。私も着替えを済ませると、彼の姿を前に一瞬動けなくなる。
泣いては駄目。
今、この瞬間の彼を目に焼き付けて。
それから、彼の差し出す腕に手を絡ませると、既に待っている車に乗り込む。
今夜が最後。それから、運び屋とはお別れだ。運び屋には引退の時期がある。変身能力が衰えるからだ。引退の時期を迎えると、運び屋は組織によって始末される。それが組織の掟。そして、また、新しい運び屋が支給される。若くて訓練を受けた運び屋。
運び屋と私は、レストランでの食事をしながら無言だ。彼は話が出来ない。それも大事なことだ。いざ、運び屋が捕らえられても、話ができなければ尋問されて情報が引き出される危険もないから。私が教えたテーブルマナーは完璧で、優雅だ。愛らしい生き物。教えられたように姿を変え、望むような働きをする。私達は無言で。それでも、時折、指と指を触れ合わせる。そうすれば、物言わぬ運び屋の気持ちが伝わってくる。今日の彼は穏やかで、満足しているようだ。もちろん、最後の夜だという事も知っている。
多分、任務を離れて姿を変えていられる事に満足しているのだ。
素敵な食事を終え、私達は私の部屋に戻る。
スパイという仕事柄、居場所も転々としなくてはならないため、簡素な作りのベッドルームで、私は運び屋と一緒にベッドの縁に座る。運び屋が私の腰に手を回す。運び屋には何でも分かるのだ。私がどうして欲しいか。私が何を望んでいるか。
彼は特別なのだ。
普通、この生き物は、ほとんど感情を持たない。もともと、あまり思考能力もない。だからこそ、スパイ活動にうってつけなのだ。だが、彼は違う。何匹かに一匹。この子のようなのが混ざっている。
私は組織の一員として彼に特別な感情を持つことは許されない。だたの道具。それ以上ではない。時期が来れば破棄し、新しい道具を手に取るべきなのだ。
できる事なら、このまま、運び屋に飲み込まれてどこか誰も知らないところまで運んばれたい。そうして、二人で暮らすのだ。むろん、それは出来ない。すぐさま組織が追って来て、二人共始末されてしまう。
私は、運び屋の腕の中でまどろむ。夢を見る。南の島。ただ、二人だけで暮らす。私達の間には、任務も言葉もない。微笑み合って暮らすだけ。
--
南の島は組織の手によってめちゃくちゃにされる。
私は悲鳴を上げる。
そうして、目が覚める。
私はシーツの上に起き上がって運び屋を探す。運び屋は、少し離れた場所で、こちらを見ている。タキシードを脱ぎ、簡素な服に着替えている。
「行きましょう。」 私は、立ち上がる。
--
ボスの背中に向かって、私は、無理とわかる依頼をしている。
「駄目だ。三年。もう、そいつは引退だ。お前も分かっているだろう。」 ボスは言う。
傍らには、背の高い男性が控えている。私の恋人だ。スパイ仲間。有能な男。ベッドの中でも有能だが、もう随分と会っていない。お互いの仕事が忙し過ぎるのだ。数ヶ月に一度。任務の合間を縫い、激しく抱き合って、もう翌朝には、お互い町ですれ違っても知らぬ顔をする恋人。
私のそばには、物言わぬ運び屋が、黙って立っている。
恋人は、私の運び屋を見詰めている。この三年、恋人よりずっと長い時間私のそばにいた、この生き物を。
「お前は、私が連れて来て育てた女だ。組織の掟は良く知っている筈だ。それに従わぬなら、どうなるか。分かってるな。」 「はい。」
ボスは、恋人の方にかすかに顔を動かす。恋人はうなずく。私達の命が、今、ボスに忠実なその男にゆだねられた。
運び屋の手を強く握りしめ、目を閉じる。
今、恋人が私達に向かって一歩踏み出したところだ。
組織に忠実な恋人。
ねえ。私達、組織にいることで、いろいろなもの捧げ過ぎたわ。だから、一つぐらい、手にしたまま離さないものがあったって・・・。
2003年11月21日(金) |
「なのに。他の人と結婚するって。なんだか、腹立って。最後の時間を上手く過ごせなくて。彼に置いてかれて。」 |
仕事を早めに終え、私は急いでいた。雨が激しく、傘を差していてもスラックスの裾が濡れてしまう。
皆、急ぎ足で歩いている歩道に、一人の女性が立っていた。傘も差さず。みな、少し体をねじりながら除けている。私も同様にその女性を避けようとして。振り向いて立ち止まる。その女性のことを良く知っていたから。 「どうしたんだ?こんなところで。びしょ濡れじゃないか。」 「課長・・・。」 「皆の邪魔になってる。さ。行こう。」 「嫌です。」 「どうして?」 「だって・・・。」
頬を伝うのは、涙なのか雨なのか。
しかし、私は少し乱暴に彼女の腕を掴み、歩き出す。
「待って。ねえ。待ってったら。」 彼女は叫ぶ。
とりあえず、手近な喫茶店に飛び込む。彼女は僕の部下で、普段は明るい女性だ。
「どうしたの?」 「すみません。個人的なことなんで。」 「そうか。だが、あの場合、見過ごすわけにはいかなかった。」 「分かってます。」
彼女の体は小刻みに震えていた。
「寒いか?」 「ちょっと。」
だが、震えているのは、彼女の体ではなく心だろう。
「もう会えないって言われたんです。それで、私。」
コーヒーでは彼女の体はとても暖まりそうにない。
「おいで。」 私は、伝票を掴み、レジに向かう。
「どこへ行くんですか?」 「ホテル。」
私は、黙って彼女の手を引いて歩き始める。
ビジネスホテルが立ち並ぶ道に差し掛かる。 「適当に入るよ。最近のホテルは設備がいい。服だって乾かせる。」 「はい。」
小奇麗なホテルを適当に選び、フロントに向かう。
私は思う。
これで、花束が買えなくなるな。
--
「落ち着いた?」 「ええ。」 「シャワー、浴びてきなさい。」 「でも・・・。」 「大丈夫。変なことはしない。それより、このままじゃ風邪をひく。」 「分かりました。」
素直にうなずくと、彼女は立ち上がる。
シャワーの音が響き始めたところで、私は部屋を出て、ホテルを出たすぐのところにあるコンビニでビールのパックを買う。
私は、また、思う。
これでケーキが買えなくなるな。
--
彼女がバスタオルを巻いた体でベッドの縁に腰掛けている。
「ビール。飲むだろう?」 「はい。」
もう、声も落ち着いていて、震えは泊まっている。
私は、ビールを差し出しながら、自分の分も手にする。
「ありがとうございます。」 彼女は小さな声で礼を言う。
「まったく。びっくりするじゃないか。君らしくもない。」 「ほんとですよね。私もびっくり。」
彼女はビールをぐいっと飲んで、へへっと笑う。
ああ。いつもの彼女だ。元気だけが取り柄で。男性が多い部署で、ただ一人の女性。みんなのマスコット的存在だ。
「大学の時、バイトで知り合ったんです。バイト先のマネージャで、私に仕事を教えてくれたりして。もう、五年ぐらい。ずっとあの人のことだけを考えて生活してたんです。」 「・・・。」 「なのに。他の人と結婚するって。なんだか、腹立って。最後の時間を上手く過ごせなくて。彼に置いてかれて。」 「なあ。」 「はい?」 「お前、幾つになったっけ?」 「25です。」 「若いなあ。」 「若くないですよ。全然。」 「いや。若いよ。うん。悪い意味じゃなくて。」
いつのまにか、彼女が私のすぐそばまで移動して、寄り添うような格好になっている。
「でもね。分かってたんです。私。彼に甘えてたって。私よりずっと大人で。無理言って会ってもらって。本当は対等には扱ってもらえてなかった。妹っていうか。で、彼も弱くて、私が頼んだら拒めなくて。」
私は、ビールには口をつけず、二本目の煙草。
「ねえ。課長。私のこと、今晩抱いてくれませんか?今日だけ。彼の代わりに。駄目ですか?」 「・・・。」 「明日からは普通にして。今日のことは全部忘れますから。ね。だから。」 「駄目だ。」 「どうしてですか?奥さんのことが気になりますか?それとも、私が魅力的じゃないから?」 「いや。きみは魅力的だ。」 「だったら・・・。」 「それはできないよ。」
私は立ち上がり、もう一枚大きなバスタオルを彼女の肩に掛ける。
「服、乾いたか見てきてやるから。」 「課長。」 「今なら、まだ、そんなに遅くない。な。」
私は、彼女を残し部屋を出る。
--
戻って来た時には、彼女は少しばかり明るい表情。
「早く着替えなさい。待ってるから。」 もう一度部屋を出る。
--
ホテルから出ると、もう雨は止んでいる。
「ねえ。本当のこと教えてください。課長、本当はどうだったの?私を抱きたくなかった?」 「うん。かなり迷ったけどね。でもさ。明日。」 「明日?」 「ああ。明日。いつもみたいに部署のみんなと笑って仕事がしたい。もちろん、きみとも、いつもみたいに冗談言い合って笑って仕事がしたかった。その幸福とは引き換えにできなかったんだ。」 「分かります。多分、私も。」 「そうか。じゃ、明日もしっかり仕事してくれよな。」 「やだ。ひどい。」
私達は、笑う。
まだ電車がある時間だったが、心配だったから彼女をタクシーに乗せる。 「真っ直ぐ帰るんだぞ。」 「はーい。」
私は走り去る車が消えるまで、そこで見送る。
それから、慌てて。今なら終電に間に合う。走った。
私は走りながら計算する。
今渡したタクシー代で、レストランの食事代が飛んでったな。
--
自宅の玄関前で、私は大きく息を吸う。玄関の向こうでは、妻が起きて待っていることだろう。
11回目の結婚記念日。花束も、ケーキも、レストランの食事も、今日は何もない。
きっと、きみは、僕が一番恐れる笑顔で、ドアの向こうにいるだろう。
一晩中。僕は、一晩かけて君をなだめる。朝を迎える頃、僕は、勝ち誇った君を前に、従順なしもべとなることだろう。なぜなら僕は君にぞっこんだから。
そうして、あらためて、仲直りのキスと結婚生活の継続に、乾杯をすることだろう。
2003年11月20日(木) |
彼にさえ苛立ち始めた。私に必要なのは、抱き締めてもらうこと。だが、彼にはそれが出来ない。 |
彼と出会ったのは、一年中カラリと晴れた南の島だった。短大の卒業旅行で友達と一緒の予定が、急に友達の都合が悪くなり、私一人でその島を訪れたのだ。
なぜ、そんな島を選んだのか分からない。友達が見つけたその島は、何もない島だった。日本からの添乗員は同行してくれず、旅行会社の人が空港まで見送ってくれただけだった。「生水は飲まないでくださいね。それから、正露丸。これでたいがい何とかなります。」そんな簡単なアドバイスだけで送り出された。
島は、風もなく暑かった。
着いた日の翌日の午後、退屈して浜まで出てみた。
男がいた。男は熱心に海の向こうを眺めていた。
「何かあるんですか?海の向こうに。」 思わず、訊ねた。
「何もないよ。何もないけど。海は、向こう側と繋がってるから。待ってるんだ。」 「何を?」 「何か。うん。僕にも分からない。」
男は初めて、振り向いた。彼は、体が砂で出来ていた。
目をパチパチとしばたかせて、私を見て、 「海の向こうから来たんですか?」 と、言う。
「ええ。」 「良かったら。その。一緒に歩きませんか?」 「そうですね。」
私達は、歩いた。それから話をした。短大を出るまで異性と付き合った経験のない私は、ただ、歩くだけのデートにときめいた。
私達は、ただ、歩いて歩いて。歩いた先にあった、「結婚」という文字を手に取った。
--
私達は、そんな島で、宿泊客を泊める仕事を始めた。
私は、その島があまり好きではなかった。風は止まり、滅多に海の向こうからは人が訪れない。海の向こうを眺めているしかすることがない。
仕事は楽だったが、退屈だった。家は砂でザラつき、何度掃除しても皮膚に砂がまとわりつく。料理もベッドメイクも、砂男ではなく私の仕事だ。
最初のうちは、砂男との生活に有頂天になり、それら全部に満足していた。日本では得られないシンプルな生活。島の人の飾らない性格。島で挙げたささやかな結婚式。両親は心配してくれたが、末の娘のわがままだと割り切り、「いつでも日本に戻っておいで。」とささやいて帰って行った。
砂男は、いつでもそんな私を心配してくれた。私は、そんな彼にさえ苛立ち始めた。私に必要なのは、抱き締めてもらうこと。だが、彼にはそれが出来ない。強く抱き締めた途端、ばらばらに崩れてしまう。そばに愛する人がいるのに抱き合えない寂しさが、私を次第に蝕んで行く。
--
ある日。珍しく客が来た。私は嬉しかった。砂男と二人の生活で息が詰まりそうだったのだ。
顔の半分が髭で覆われていて、沢山の金貨をちらつかせた。お金など必要のない島だったが、私はその金貨に目を奪われた。
「少し長く泊まりたい。」 「分かりました。」
私は、男のために、久しぶりに腕を振るい、熱いスープを作り、表面がパリッと香ばしいパンを焼いた。砂男は何も食べることができない体だから、私はいつも私の分しか食べるものを作らないのだ。
私は男の部屋に料理を持って行った。
男はすぐさま、パンをちぎり口に入れた。 「うん。うまい。」
私は、顔を赤らめた。そんな風に物を食べる姿に見とれてしまっていた。
物を美味しそうに食べる人が放つエロティックな空気が、あまりにも濃厚だったのだ。
「いえ。あの。良かったら、見ていていいですか?」 「いいよ。」
男は黙って食べる。私は黙って眺める。
「日本から来たのか。」 一息ついて、男は訊ねる。
「はい。」 「こんな何もない島に?」 「ええ。」 「変わった女だな。」
私は、顔をますます赤らめる。
「ごちそうさま。美味しかったよ。」
私は、慌てて食器を片付けるために部屋を出る。
その夜。砂男の隣で私は眠れない。
--
それが恋だと言われたら、素直に認めましょう。砂男との生活に飽き飽きしていた私には、泊り客が放つ圧倒的な雰囲気に酔い、いつまでもそこにいてくれることを願うようになった。
砂男は何も言わない。確かに気付いている筈なのに。何も言わないことが余計に悲しくて、私は、泊り客の部屋に行っては会話する。海の向こうの話。どこかに残して来た、彼の恋人の話。
「どうして恋人を置いて来たの?」 「若かったからな。さんざん迷惑を掛けた。酒は飲むし、他に女は作るし。」 「でも、彼女はあなたが好きだったのね。」 「ああ。だが、それが鬱陶しかった。愛することに夢中で、愛されることに不慣れだった。追い掛けている方が楽しくて、追い掛けられると逃げ回った。」 「今は?」 「今か。どうかな。」 「彼女の元にはもう戻らないの?」 「ああ。」
私は、ふいに彼と二人きりで部屋にいることを強く意識し、手が震えた。
「なあ。亭主を大事にしろよ。いつもあんたを見ている。」 「あなたと一緒よ。私は愛され過ぎるのに上手く馴染めないの。」 「それでも、彼を大事にしろよ。」 「・・・。分かったわ。」
私は、彼が何を言おうとしているのか分からずに部屋を出た。
部屋の外の廊下にはザラリとした砂の感触。
ああ。あなた。今、ちゃんと名前を呼んでくださらないと、私。
--
年に一度、嵐が来る。小さなラジオで、いつも嵐の情報を聞く。砂男は、嵐が来たら、一歩も外に出られない。
泊り客の男は、その時期になってもまだ出て行く気配がない。
もちろん、私は嬉しかった。夫は、その心配症の脳みそで、嵐の心配ばかりしていることだろう。それをいい事に、客の部屋に日に何度も足を運んだ。
「もうすぐ嵐が来るの。」 「そうか。」 「うちの人はあんな体だから、外には出られないの。」 「厄介な体だな。」 「生まれてからずっとああだから。」 「うん。」 「でも、私は違う。もっと沢山の刺激を受けて生きていたいわ。」 「まだ若いからなあ。」 「ええ。若いのに。こんな寂しい島で。」
私は、男の髭にそっと触れる。 「髭、剃らないの?」 「うん。恥ずかしいからな。こんなにも変わってしまった俺を、女に気付かれないように。」 「ねえ。その人のこと、まだ好き?」 「ああ。好きだ。」 「それでもいいから。ねえ。抱いて。」
男は、私をじっと見る。
その時、階下でドアが激しく音を立てる。 「嵐だわ。」
慌てて私は部屋を出て、駆け下りる。
だが。
夫がいない。どこにも。どうしよう。あんな体で、嵐の中になど出て行くわけにはいかないのに。
私は、嵐の中、飛び出す。砂男の名前を呼んで、浜辺をさまよう。
--
男は荷造りをしていた。
「行っちゃうのね。」 「ああ。」 「今度はどこに行くの?」 「俺を待ってる女のところ。」 「そう。」 「悪いことしたな。俺が、ぐずぐずしていたから。」 「いいの。どっちにしても、私は、私の寂しさしか考えない身勝手な女だったもの。」 「亭主は帰って来るよ。多分。バラバラになるのと死ぬのは一緒じゃない。」 「そうだといいけど。」
私は、男を見送る。
再び、乾きと静けさを取り戻したその島で、私は一人ぼっち。
--
それから、一ヶ月程して。私は、砂を。たくさんの砂を。吐く。このところずっと気分が悪かったことを思い出す。
私が吐いた砂の山に手を入れると、そこに小さな小さな人間の形をした砂の固まりが。
ああ。あなた。私達の赤ちゃんよ。
私は、ただ、そっと、砂の赤ちゃんを救い上げる。
その子は、砂男に良く似ていた。それから私にも。
パパはいつか帰って来るわ。
私は、その子に向かって言う。
男の人っていうのはね。そういうところがあるの。焼きもち焼きで。意地っぱりで。愛の言葉を求められると逃げ出しちゃうところがね。だけど、きっと帰って来るわよ。きっと。
2003年11月17日(月) |
真っ白な美しい肌。長い真っ黒な髪。体全体がきゅっと締まっていてな。無駄な肉はついてない。 |
昨夜はひどく海が荒れた。
カラリと晴れた浜辺を歩く。
嵐の残骸に混じって老人が倒れていた。
「おい。大丈夫か?」 返事の代わりに、薄く目を開く。
仕方がないので、老人を肩に担いで帰る。老人の体はひどく軽い。もう、魂の重さすら無いんじゃないかと思えるほど。
--
私は、粥を作って老人の口元に持って行く。老人はノロノロと口を開けるが、半分以上こぼしてしまう。
「食べなきゃ死ぬぞ。」 私は怒鳴る。
そうやって幾日かして、老人は何とか起き上がって布団の上に座るまでに回復した。だが、その目は虚ろで、気が違っているとしか思えなかった。
「じいさん。おい。聞こえてるか?」 「ああ。」 「死にたかったのか?」 「あ?」 「だから。じいさん、なんで倒れてたんだよ。」 「探してた。」 「何を?」 「人魚。」
言葉すら忘れたかのように、ようやく絞り出す声。
「人魚?」 「そう。人魚。」 「じいさん、気は確かか?」 「ああ。一緒に暮らしてた。」 「一緒に?」 「三年。」 「はは。三年ね。」 「うん。三年。」 「で、いなくなっちまったのか?」 「ああ。逃げられた。」
それでも、老人は、結局、単語を並べただけのようなしゃべり方で、人魚の話を語り始めた。
--
あれは、まだ、私が元気で沖に毎日出てた頃の話だ。あの日も海が荒れた翌日だった。網に人魚が掛かったんだ。
「人魚ってのは、あれか?別嬪なのか?」
ああ。そうとも。とても美しい。人間の女の比じゃあない。人魚は、俺に捉まえられても抵抗が出来ないぐらい弱ってた。俺は一目で人魚が気に入り、連れて帰った。尻尾にな。深い傷を負っていた。俺は、毎日、真水で綺麗に洗ってやった。
人魚は、最初はひどく怯えていた。そのうち、俺に気を許すようになり、俺の手から食べ物を食べるようになった。それから、少しずつ言葉を覚えた。
人魚は素晴らしかったよ。陽に焼けていない、真っ白な美しい肌。長い真っ黒な髪。体全体がきゅっと締まっていてな。無駄な肉はついてない。俺は、人魚に惚れちまったさ。人魚に嫌われたくない一心で人魚の世話をした。そんな生活がずっと続けばいいと思っていた。大した事は望まなかった。美しいその生き物を眺めていられるだけで良かった。
最初の一年の間は良かったよ。
だがな。あの声を聞いてから、俺はおかしくなっちまった。
あの夜は暑かった。蒸し暑くて眠れなかったんだよ。だから、水を飲みに起きた。ついでに人魚の体も水で湿してやろうって思ったのさ。その時だよ。うん、うん、と苦しそうな声を人魚が出していたから、俺は慌ててね。だが、俺がそばにいるのに全然気付かない顔で、ただ、背をそらし、口をぽっかりと開けて、何かを欲しがるように身をねじっているんだ。俺は人魚の肩を揺さぶったが、全然俺に気付きやしない。そのまま、三時間ぐらい、人魚は苦しいような悲しいような声を出し続けたよ。
ようやく、ぐったりとした人魚が眠り始めた頃になって、俺は気付いたのさ。自分の体が異様な興奮に包まれていることをね。
ああ。声さ。それから、あの暗闇の中で悶える白い肌。まるで男に抱かれているようだった。
次の晩も。その次の晩もね。
当の本人は、翌朝になると夜の事はすっかり忘れてケロリとしてやがる。
だが、俺はとうとう我慢できなくてね。人魚に問い詰めた。
そうしたらな。自分は知らないと言うんだ。だが、姉さんかもしれないと。
「姉さん?」
ああ。そうなんだ。双子の姉がいると言うんだ。
「それがどう関係するんだ?」
それはな。姉の方は、自分と全く逆だというんだ。魚の上半身と、人間の下半身。それから泣き出した。きっと、どこかの漁師に捕まって、体を弄ばれているんじゃないかとね。
「そんな人魚の噂など、聞いた事ない。」
ああ。最初は俺も否定したさ。だが、しまいには信じるようになった。人魚の出す声が、あまりにも切ないからだ。白い肌が赤く染まり、よじれるところを見たら、お前さんだって・・・。
「それで?どうした?」
そのうち、俺の人魚は、昼間の様子もおかしくなったのさ。最初のうちは、ろくに食べなくなった。だが、半年もしないうちに今度はやたらと飯を沢山食べるようになった。
そう。まるで、お腹に赤ん坊でもいるみたいに食べるようになった。顔は浮腫んでな。
俺は怖れた。その日が来るのを。
だが、とうとう来ちまったのさ。その日がな。朝から大変なことだった。大声でわめき続けてな。脂汗をダラダラ流して。本当に息が止まるかと思ったさ。そうやって、丸一日苦しんだ挙句、本当に死んじまうんじゃないかというような悲鳴を上げてな。
あとはぐったりさ。
--
老人は何度もまばたきをした。泣いているようだった。
「馬鹿なことだがな。俺は信じてしまったんだよ。人魚のお腹の子は、俺の子。ってな。」 「それで?」 「もちろん、赤ん坊なんぞどこにもいない。だが、人魚の乳はたっぷりと張ってなあ。」
老人は、そこで言葉を切る。しばらく口を閉じたまま。
「なあ。男というのは馬鹿だなあ。本当に馬鹿だ。そこにはない女の下半身すら、俺のものと思ってしまう。だがな。だが、ある日気付いた。人魚の目はあらぬ場所を見ていた。俺の顔を見ずに微笑んでいた。俺は、だから、腹が立ったんだよ。この裏切り者ってな。人魚の首を絞めたんだ。」 「殺したのか?」 「いや。殺しきれなかった。俺の子供の母親だぜ?殺せるわけがない。気を失わせただけだった。」
老人は、その場で一緒に気を失ったという。
「気がついた時には、人魚はいなかった。俺の元からいなくなってしまった。」
老人の手が、私の腕をきつく握っている。 「なあ。」 「なんだ?」 「あいつが俺を呼んでるんだよ。海の中から。」 「たとえ生きてたとして、どうするつもりだ?」 「俺の赤ん坊。俺の妻。二つに体を裂かれた女。」
それから、ふらふらと立ち上がり、止めるのも振り切って、老人はどこかへ消えて行った。
--
今日も海が荒れている。
老人は、もう、海にその体を投げ出してしまったのだろうか。
波のまにまに、白い足が跳ねたように見えた。
2003年11月16日(日) |
三年の月日はとてつもなく重かった。多分、私にとっても。だからこそ、それをゼロにしてしまうのが怖かった。 |
■第六回雑文祭■参加作品
私が育ったのは、小さな町だった。
誰もがお互いの名前を知っていて、郵便物には住所なんか書かなくても届く。そんな町だった。
その日、小学生の私は、親友のチカと一緒に帰っている最中、誰かから聞いた噂を口にした。 「ねえねえ。このポストさ。手紙が届いたり、届かなかったりする、変なポストなんだって。」 「へえ。変なの。」 「ねえ。私チカに手紙書くからさ。チカは私に手紙書いて。それで、こっから出してみよう。」 ふとした思い付きが口から飛び出す。
「うん。そうだね。じゃ、私はアケミちゃんに出すわ。」 じゃあ、明日。ちゃんと切手貼ったものを持って来ようね。
そんな約束をして、私達は別れた。
--
次の日。私達は、お母さんに頼んで切手をもらった手紙を持ち寄った。もちろん、毎日一緒に遊んでいるから、大した内容ではない。学校から帰る途中、思い切って、せーの、で、手紙を投函した。それから、意味もなくきゃーきゃーと興奮してその場を離れた。
だが、手紙は、予想に反して二日後にはちゃんと届いた。私達はがっかりして、何度か試してみたが結果は同じだった。もっとも、私の住んでいる町では、きっと、切手なんか貼らなくても、道端に落としておけば、きっと誰かがその相手に手紙を届けてしまうに違いない。そんな町だった。
それからは、そんな噂があったことすらすっかり忘れて、私は、何度もそのポストを使った。いつも読んでいる雑誌の全員プレゼントの応募券も、一足先に町を出てしまった友達への年賀状も。いつもちゃんと届いていた。
--
時が過ぎ、大学に行くために、私はその町を出た。チカは病気の母のために大学をあきらめ、その町に残ることになった。
「じゃあね。手紙出す。」 「あのポストから?」 「そう。あのポストから。」
私達は、幼い日の出来事を思い出して笑い合った。
それから、走り出す電車の中から手を振った。
--
大学を終えた私は、そのまま町に戻らず就職をした。今でも、故郷の町を思い出す。離れてみて、改めて、あの町の良さが思い出される。まとまった休みが取れたら必ず帰っていた。
その日も、まだ、冬に入る前。私は、チカに電話を掛け、町に立ち寄る約束をした。チカは同級生との間に子供を三人もうけ、すっかりいいお母さんになっていた。
「久しぶり。」 「あはは。すっかりお母さんしてるわねえ。」 「アケミは変わらないわねえ。いいなあ。キャリアウーマンでしょう?」 「そんないいもんじゃないわよ。この不景気で給料も減らされちゃうしさ。で?今日は子供は?」 「アケミんちのお母さんが預かってくれてる。いいお母さんねえ。」 「あはは。私がいつまでも結婚しないもんだから、チカのところの子供が自分の孫みたいに思ってるのよね。」 「今夜は遅くなるって言ってるから。」 「了解。付き合ってもらうわよ。」 「ね。ちゃんと話てよね。」 「え?何を?」 「何って。なんか上手くいってないんでしょ。だから帰って来てるんでしょ。アケミはいつもそうなんだから。」 「まいったなあ。」
私達は、これまた小学生の頃からの同級生のタクヤがやっている店に入った。 「お。久しぶり。」
タクヤは、すっかりたくましくなっていい男になっていた。カウンターの向こう側から私に手を差し出して来た。私はその分厚い手をぎゅっと握る。
「奥の席に行くね。今日は女同士、じっくり話すんだからさ。」 「オッケー。」
それから、店のサービスといっては出てくるピザやパスタをつつきながら、私達は小学生のあの頃の気分に戻っておしゃべりをする。他愛のない話。 「ね。タクヤね。すごい若い奥さんもらったんだって。」 「へえ。」 「まだ19よお。」 「えー?この町の子?」 「違うって。」 なんてこと、噂しながら。
もう、酔いもすっかり回った頃、 「そろそろ話しちゃいなさいよ。」 と促されて。
私はポツリポツリと、会社の上司との行き場のない恋愛が、ついに終わった事を打ち明ける。 「馬鹿みたい。私。よく分かったわ。あの年齢の男はね。ちゃんと決着のつけ方が分かってるの。そりゃ見事なものよ。私じゃなくて自分が振られたように演出できるの。」 「私は、旦那一筋だから分からないけどさあ。アケミ、いっぱい傷付いて、すごく大人になったね。」
私は、ただ、泣いていたかった。この町で泣いて、それから朝を迎えれば、元気になる気がしていた。
どれくらい飲んだかも分からない。
チカが、 「ちょっと、タクヤ。アケミ頼んだよ。」 と言ったのは覚えている。
--
「どう?具合?」 そこは、簡素な四畳半のアパートの一室だった。
「頭痛いー。」 「そりゃ、すげえ飲んでたもんな。」 「何か食う?」 「ううん。いらない。」
タクヤが笑って、私にグレープフルーツジュースを差し出す。私はそれを一気に飲み干す。
「何か、チカから聞いた?」 「いや。何も。」 「そっか。馬鹿みたいね。この町に来ると安心しちゃって、飲み過ぎちゃうの。」 「嬉しいよ。」 「・・・。」 「俺、アケミが帰って来るの、すげえ嬉しいよ。」 「やだ。そんなマジな顔して言わないでよ。」
私は、布団にもぐる。
私は、急に思い出したのだ。やっぱり小学生の頃、私とチカで、タクヤの事が好きだって打ち明けあった事。
「なあ。俺、アケミの事好きだったんだぜ。でもさ。お前、学級委員までしててさ。俺のことなんか眼中にないって感じで。俺、落ちこぼれだっただろう。だから、相手にしてもらえないって。内心そうだと思い込んでいたよ。」 「・・・。」 「だからさあ。球技大会の前の晩、お前が俺に電話掛けて来た時は、ものすごく嬉しくてさ。」
私は、布団の中で泣いていた。ねえ。何で今、そんな話をするの?
「変な話してごめんな。なんか、こういう時でもないと言えないと思ってさ。とにかく、お前、今でもいい女だよ。無理すんな。ここにいつでも帰って来て、休んで。」
--
私と、くだんの上司は、まだ、ほんの少しズルズルと続いた。それはもう、愛でも恋でもない。お互い、わずかばかりのメリットのために、体だけ重ねた。
すっかり疲れた私は、会社を辞め、実家に戻ることにした。
上司は、 「寂しくなるな。」 と言ったが、その顔は重荷が降ろせると安堵している男の顔だった。男と続いた三年の月日はとてつもなく重かった。多分、私にとっても。だからこそ、それをゼロにしてしまうのが怖かった。
--
故郷に帰る事は、チカにさえ言わなかった。狭い町だから、すぐに伝わってしまうだろうけど。私は、しばらく一人になって考えたかった。チカにも、タクヤにも、他の友人にも、甘えるのは嫌だった。
「手紙、来てるよ。」 母が差し出した手紙。
なぜか、東京の住所が書かれていた。
中身はタクヤだった。
「昨日はごめん。」 から始まっていた。
昨日?
タクヤと会ったのは、半年も前だ。
先を読み進む。
そこには、若い妻とは上手くいってないこと。私と会って、やっぱり私のことを好きな自分に気づいたこと。今、離婚手続き中だが、きちんと決着がついたら、また逢いたいこと。などが書かれていた。
その日は、日曜で、タクヤの店は休みの筈だった。
だが、私は、タクヤの店に走る。
店には、タクヤが一人で煙草をふかしていた。
「アケミ。帰って来てたのか?」 「うん。誰にも内緒でね。」 「そっか。」 「手紙・・・。」 「ああ。あれね。届いたとは思わなかったな。ほら。あのポスト。あそこから手紙出しても、手紙届かない事があるっていう噂、あったじゃん。だから、届いてないかもって思った。正直、お前から返事がなくてホッとしたよ。つまんない手紙で、俺らの友情まで壊しちゃうのって怖いからな。」 「ね。離婚したの?」 「ああ。やっぱ、この町を好き過ぎなんだな。俺。他所から来た嫁さんには、そういうのが我慢できなかったみたい。」 「私も、この町が好き。」 「そっか。」 「だから、帰って来た。」 「何か飲むか?」 「うん。」 「待ってな。」
うん。待ってる。時間は、たっぷりあるから。
手紙をもっと早くにもらってたら、私は、急ぎ過ぎて駄目にしていたかもしれない。寂しさを埋めるために、タクヤに抱かれていたかもしれない。タクヤもきっとそうで。
だから。あのポストのいたずらに感謝を。
2003年11月15日(土) |
三年前に離婚した。お互いの仕事の都合だとか、何やら分からない説明をしていたが、小学二年生の僕にだって。 |
■第六回雑文祭■参加作品
日曜日。僕の誕生日。父さんは、 「じゃあ、仕事に行ってくるから。」 と言って出かけてしまった。
入れ替わりに母さんとお姉ちゃんが何やら買い物袋とか、沢山持ってやって来る。
「お誕生日おめでとう!トオル。」 母さんが僕にでかい箱を差し出す。
「聞いてない。」 怒っているような声が口から飛び出す。
「え?」 「今日、父さんが仕事なんて聞いてなかった。」 「しょうがないじゃない。急に仕事が入ったって。」 「母さんが来るからだろう?」 「・・・。」
僕の父さんと母さんは三年前に離婚した。その時は、お互いの仕事の都合で別に暮らすことになったとか、何やら分からない説明をしていたが、小学二年生の僕にだって分かっていた。
お姉ちゃんは、母さんに付いていく事になった。なら、僕は父さんと一緒にいる。咄嗟にそう言ったものの、何でどちらかを選ばないといけないのか、全然分からなかった。分かるわけないじゃないか。今日だって。父さんも、僕の誕生日を祝ってくれると思ってたのに。母さんが来るから、父さんは顔を合わせなくて済むように出掛けてしまった。
そうだ。
僕はずっとずっと怒っていた。
母さんは、エプロンを着け、お姉ちゃんに「手伝って。」と声を掛けて、台所に立った。
僕の好きな鶏の唐揚げや、ポテトサラダが並び始めた。おいしそうなパウンドケーキの匂いもし始めた。
僕は、部屋に閉じこもって、何だか悔しくて泣きそうだった。
ノックの音がする。僕は返事をしない。
「入るよ。」 お姉ちゃんが入って来た。
「出てけよ。」 「ね。おいでよ。お母さん、あんたの好きなものばっか用意してくれたんだし。」 「要らない。」 「そんな事言わないで。」 「要らないったら。」 「あの。さ。これ、今日は言わないつもりだったんだけどね。あたしたち、もう、今までみたいに月に一回とか、あんたに会いにこれないんだよ。」 「・・・。」 「これ、内緒なんだけどさ。母さん、さ来週の日曜日、結婚するんだ。」 「・・・。」
何?結婚って。僕は、腹が立って声が出なかった。ねえ。どうして、母さんだけで決めるんだよ。どうして、お姉ちゃんはそういうこと、腹が立たないんだよ。
「あんただって、もう五年でしょ?いつまでも拗ねてないでさ。母さんと話ししてあげてよ。母さん、ずっと悩んでたんだから。」 「悩むなら・・・。悩むなら、うちを出て行かなきゃ良かったんだよっ。」
僕は、姉ちゃんを突き飛ばして、部屋を出て、そのままの勢いで玄関を飛び出した。靴も履かず。
それから、河原まで走ってった。
そういえば、さっきお姉ちゃんも泣いてた。僕は、いきなり思い出した。お姉ちゃん、なぜか泣いてた。母さんと一緒だと思ってた。いろんな事がもう、中学生になったお姉ちゃんには分かってて、だから平気なんだと。内心そうだと思い込んでいた。
何十分か。何時間か。僕は、河原で雲を見ていた。
パッパー。
背後でクラクションが鳴るから振り返ると、父さんの軽トラが見えた。父さんが、うなずく。僕はノロノロと立ち上がり、助手席に乗った。
「どうした?」 父さんが訊いた。
「ん。」 「母さんが待ってるんじゃないのか。」 「ああ。」 「帰ろう。」
僕らは無言で帰った。
家には母さんがいて、お姉ちゃんが僕の顔を見て、軽くおでこを小突いて来た。
僕らはそのまま何も言わずに料理を食べた。
母さんは、帰り際、 「じゃあね。」 とだけ言った。他に何か言いたそうだったけど、何も言わなかった。
僕はどうしてそんな事をとっさに言ったのか、分からない。 「ねえ。さ来週の日曜、僕、野球の地区大会があるんだ。来てよ。」
母さんは、無言でうなずいた。
ほんと、どうしてあんなこと言っちゃったんだろ。きっと、何も言わない母さんに腹が立って、意地悪してみたくなったんだ。
--
当日はよく晴れていた。
僕は、実際のところ、補欠だった。本当は、だから、母さんに見に来て欲しいっていうのは本心じゃなかったんだ。ま、来るわけないけどさ。母さんの花嫁姿を想像しようとするが、どうしても出来ない。母さんは、花嫁じゃなくて、母さんだ。
「おーい。トオル!」 振り返ると、応援している父兄に混じって、父さんがいた。いつもみたいにカーキ色の作業着じゃなくて、スーツを着ていた。変なの。僕はなんだか笑えた。僕がいつも、父さんの作業着を恥ずかしがってるのを知ってて、スーツを着てきたんかな。どうせ、出番ないのに。
僕は、負け試合を精一杯応援した。点差は一点。
とうとう一点差のまま、最終回を迎えた。
「トオル。代打。行け。」 監督が言った。
僕はびっくりして監督の顔を見た。 「トオル。思い切って行けよ。」
僕は、うなずく。正直、何で僕か分からなかった。去年、四番を外されてから、ずっと打ててなかったし。
僕は、バットをぎゅっと握って、応援席を振り向く。
母さん?何で母さんが?
花嫁さんの格好をしてるわけじゃない。普通の服を着て、母が何か口に手を当てて叫んでいた。お姉ちゃんも横で僕に手を振ってた。
僕は、大きく息を吸って、ピッチャーからのボールを待つ。体がふうっと大きく軽くなった気がした。
それからは、ゆっくりと飛んでくる玉を、これまたゆっくりと大きく振ったバットが捉えて、とても綺麗な音が響いた。ボールは、空へ空へ高く飛んだ。
ああ。
その時、僕は全部分かったんだ。母さんは、僕と離れて、知らない誰かと暮らしても母さんで。お姉ちゃんだって、いつまでも僕のお姉ちゃんで。僕らは永遠に家族だってこと。
そんな事が急に分かって。
秋の空、歓声が響く中、僕は走り始める。
僕は、後で、母さんに「おめでとう。」って。そう言える気がしていた。
2003年11月13日(木) |
そうして、無理矢理どこかに行こうとしない感じで抱き合う。それだけで良かった。彼の前では、何かを望むことすら無意味に思えた。 |
いろんなものを求め過ぎると何もかもが逃げて行き、求めることをしなければ向こうから押し寄せて来るものだ。
私にとって、生きるとはそういうこと。
資産家で、幾つもの会社を持ち、月の大半をあちらこちらと飛び回って過ごす夫の元で私は退屈な主婦だった。あんまり退屈だったからインポートの雑貨をネットで販売する商売を始めたところ思った以上に売れ行きが良く、いつの間にか50人あまりのスタッフを使うようになっていた。自分から望んで手を広げたわけではない。周囲があれこれと助言してくる中、私の小さな脳みそが理解できることを言う人にだけ従っていたら、気付けばちょっとした規模の会社に成長してしまったのだ。
夫は、 「きみのセンスが良かったからだよ。」 と言ってくれた。
今では、片手間とは言っていられず、会社でひっきりなしに判断を下していかなければならなかった。もはや、私の仕事は判断し、決断すること。主婦のままごとみたいな会社ではなくなっていた。子供のいない私は、夢中になって会社経営に打ち込んだ。
夫とも、いつの間にか、対等にビジネスの話をするようになっていた。
それはそれでとても楽しかったのだけれど。
--
息抜きがしたくなったのだと思う。
久しぶりに仲間内の集まりに出掛け、立場も忘れて学生の時のようにはしゃいだ。そこで再会したのが、彼だった。
冴えない服装。無口で、みんなの話をニコニコと聞きながらお酒を飲んでいる男が沢木だった。
昔から物静かな男で掴みどころが無かった。
「久しぶりね。」 私は、グラスを持って彼の隣に移動した。
「うん。久しぶりだ。何年ぶりかな。」 「もう、五年ぐらいになるかしら。」 「綺麗になったね。」 「やだわ。」 「本当だよ。仕事が上手くいってるんだって?」 「お陰様でね。遊び半分で始めたのが、いつの間にか本気になったってところ。」 「もともと才能があったんだね。きみが結婚と同時に仕事を辞めて家に入ってしまうなんて不自然だと思ったよ。」 「子供でもいたら良かったんでしょうけどね。」
私は、煙草を取り出す。 「いいかしら?」 「ああ。構わないよ。」 「煙草を吸って、お仕事の話ばかり。男みたいな生活よ。それよりあなたは?」 「僕?僕は、何もしていない。」 「お仕事は?」 「辞めた。」 「じゃあ、どうやって食べてるの?」 「アルバイトしてる。」 「将来はどうするの?」 「さあ。どうするかな。いいんだ。養わないといけない家族がいるわけじゃないし。」
沢木は、それ以上でもそれ以下でもなかった。ただ、最低限の「生きる」という事を誠実にやるだけで満足する男だった。
それが心地良かった。私が仕事の話をしても、それを自分に結びつけてあれこれと言うこともしない。そのもどかしいような踏み込めなさが却って新鮮だった。
「ねえ。あなたの部屋に行きたい。」 「いいけど・・・。やっぱり、まずいんじゃない?」 「だって。」 「しょうがないなあ。わがままな子だね。」
彼も、また、心のどこかで私との再会を喜んでいるように見えた。
私と彼は、そっと席を立ち、冷たくなり始めた秋の風に頬をさらした。
--
それだけで良かったとも言えるし、もっと沢山のものを望んだとも言える。
私は、沢木にのめり込んで行った。
彼がお金のことで引け目を感じないよう、もっぱら彼の部屋で午後を過ごす。私は、他人に指示を求められる生活から逃れるように、彼の部屋に通った。
彼の前では、値の張るアクセサリーが恥ずかしかった。隙のないメイクも。今年流行りの色のスーツも。
そうして、無理矢理どこかに行こうとしない感じで抱き合う。
それだけで良かった。彼の前では、何かを望むことすら無意味に思えた。
--
ふいを突かれて、私は立ちすくむ。
夫の手には、分厚い封筒。
頬を打った痛みに、ゆっくりと手をやる。
「調べたよ。きみの行動。」 「あなた・・・。」 「ちょっとぐらいなら見逃すつもりだった。短い間で終わるならね。だが、少しずつ会う時間が長くなっている。どこかで手を打たないとどうにもならなくなると思ってね。」 「ひどい。」 「ひどいのはどっちだ?」
私はどうなるのだろう?彼との時間は、どうなってしまうのだろう?
「明日、沢木とかいうやつと会う事にしている。」 「ねえ。お願い。私の問題よ。私が彼に言うわ。」 「駄目だ。もう、きみだけの問題じゃない。」
私は、泣き喚いて夫にすがりつく。夫は、私の手をそっと外すと、背を向けた。
--
沢木がどうなったかは、知らない。夫のことだ。きっと、私が二度と会えない場所で暮らすように、金も住まいも手配したに違いない。沢木もまた、黙って従う男なのだ。女を巡って誰かと争うようなことは決してしない男だ。
ベッドで横になっている私に向かって、夫は言う。 「しばらく仕事は休みなさい。何もかも、元通りになるまで。」
私は返事をしない。
せめて、私がなぜ沢木にのめりこんだかを訊いてくれたなら。せめて、どうすれば元に戻れるか一緒に考えてくれたなら。
だが、夫は、 「仕事に行く。」 と言って、部屋を出て行った。
私は、ようやくベッドから起き上がり、会社に電話を入れる。一番有能なスタッフを呼んでもらい、 「しばらく休むわ。ええ。ちょっと働き過ぎだったから。その間、会社の方はあなたに任せるわ。大丈夫。」 とだけ。
それから、薬を。ずっと長く眠りに就く事ができる薬を沢山。
もう、何もかもが元には戻せない。
ちょっとした事だったのに。どこにも行かずにとどまる生き方を、沢木に教えて欲しかった。思い出させて欲しかった。それは、もう、叶わない。
2003年11月12日(水) |
そんなことがあると驚いてしまって、ちょっぴり目をそむけてしまうことがあるみたいだけど。 |
日曜日の午後、僕らはいつも動物園でデートする。
どの動物も、愛想笑いの一つもできなくなっている、日曜日の午後。
--
「ねえ。お姉ちゃんに赤ちゃんが生まれたの。見に行かない?」 彼女が土曜の朝電話をしてきた。
「眠い。」 「いいじゃん。行こうよう。」
僕はしぶしぶ起き上がり、着替える。
「眠い。」 彼女の顔を見ても、まだ僕はぼんやりしている。
「昨日、遅くまで飲んだんでしょ。」 「うん。」 「しょうがないわね。ね。こっち。302号室。」 「いいのかな。僕なんかが行ってさ。バイキン移らないかな。」 「あはは。大丈夫よ。赤ちゃんはガラス越しにしか見られないもん。」
彼女が病室に入って行くと、先に彼女のご両親が来ていた。こういう時、僕はどういう態度でいればいいんだ?あなたの娘さんの恋人ですって自己紹介すればいいのか?迷っているうちに、僕は友人という事で軽く流され、あとはただ、女同士で、出産がわりと楽だったの、男の子だから大変だの、という会話が交わされる間、僕はすることもなくただ馬鹿みたいに突っ立っていた。
--
「ね。赤ちゃん、可愛かったね。」 「うーん。よく分からない。」 「だって、あんなにちっちゃいのに人間の形してて、ちっちゃい指が動いて。」 「眠い。」 「もうっ。」
申し訳ないが、僕は、昨日生まれた赤ちゃんの事はどうだっていい。ただ、彼女の部屋に寄って一眠りさせてもらった後、楽しい夜を過ごしたかった。
だが、彼女は驚いたことに涙ぐんでいて、僕は彼女の部屋に入れてもらえない。
「なあ。怒るなよ。」 「いいの。今日はそういう気分じゃない。一人になりたい。」 「そんなあ。」
僕は、彼女が何でそんなに怒ってるのかが分からなくて途方にくれて。それからあきらめて地下鉄で帰る。
女の子は難しいな。
--
その夜、電話をしても彼女は出なかった。
何度も何度も掛けてみたが、出なかった。
僕は不安になる。
それから、夜の動物園に出掛ける。何で動物園なんか行ったんだろう。
動物達は、夜の方が活き活きとしているみたいだった。しきりに何か会話しているみたいだったし、昼間は眠っていただけのライオンが起きてウロウロしている。
僕が檻の前を歩くと、キーキーとうるさかったりもする。僕は「マントヒヒ」の檻の前で立った。 「ねえ。」 「おや。めずらしい。あんたが話し掛けてくるなんて。」 「僕の彼女、知らない?」 「知らないな。喧嘩でもしたのかい?」 「うん。あ。いや。」 「何だ。煮え切らないな。」 「それがよく分からないんだ。」 「女心なんてのは、大概、男は分かってないからな。気がついたら、男の方はまだ付き合ってるつもりでいて、女はとっくに別れたつもりでいたりする。」 「なんだよ。サルのくせに。嫌な事言うなあ。」 「そういう言い方はよくない。それに僕はサルじゃない。マントヒヒだ。あんたの彼女は、いい子だよ。いつも話し掛けてくれる。僕だってちょっといいかなって思えるぐらいだ。マントヒヒの女の子には負けるけどさ。」 「そうかい。で、彼女のことは知らないんだね。」 「ああ。でも、そうだな。ペンギンなら知ってるかもしれない。」
僕はペンギンの所に行く。ペンギンは、ゾウなら知っているかもしれないと言う。ゾウは、キリンに。キリンは、フラミンゴに。
そうして、ようやく辿りついたカンガルーの柵の前。
「あら。まあ。あなたの彼女が?そりゃ、大変ね。ね。それより、彼女が何で怒ったのか、あなたちゃんと考えるべきだわ。それから謝罪の言葉を考える。それが一番にすべきことよ。」 「じゃあ、彼女は何で怒ったんだろう?」
その時、カンガルーのポケットから、カンガルーの子供がひょっこりと顔を出す。 「ねえ。僕、生まれて来る前のことを覚えているよ。あなたのところの赤ちゃんとも一緒だった。僕の方が一足先にこっちに来ちゃったけどさ。」 「何だって?」
カンガルーの母親は微笑む。 「おめでとう。随分と素敵じゃない?ねえ。男の人は、そんなことがあると驚いてしまって、ちょっぴり目をそむけてしまうことがあるみたいだけど。でも、女の子は不安なのよね。彼が一緒になって喜んでくれるかしらって。」
僕は、慌てて駆け出す。彼女に電話を掛けるため。
カンガルーの親子に「さようなら」を言い忘れた。
--
電話のベルが何度も鳴っていて、誰も出ない。彼女はまだいないんだろうか。しばらくしてそれは僕の部屋の電話だと気付く。 「もしもし?」 「遅い。」 「ああ。ごめん。きみ、帰ってたんだ。」 「ずっと部屋にいたよ。それよかさ。今日、動物園行くんでしょう?」 「ああ。」 「昨日はごめんね。なんだか・・・。」 「いいんだ。僕こそ。あんな態度は良くない。」
--
動物園を歩く僕らは、手を繋いでいる。
マントヒヒ、ペンギン、ゾウ、キリン、フラミンゴ、カンガルー。
みな黙り込んで知らん顔してる。でも、僕の横で彼女はみんなに話し掛ける。
「ねえ。動物に話し掛けるのって、どんな気分?」 「あはは。馬鹿みたいだって分かってても、やめられないのよねえ。」 僕は、そんな彼女が、やっぱり素敵だと思う。
「ねえ。僕らの子供だけどさ。」 「え?何?そんなこと、考えてるの?まだ先でいいよ。あたし、昨日も生理で気分悪くてさ。機嫌悪かったみたい。ごめんなさい。」 「でも、いつか。」 「うん。いつかはね。」
僕は知ってる。僕らの赤ちゃんはもう、どこかで待っていて。その時は、ちゃんと逃げ出さず、僕は僕の赤ちゃんと向かい合おう。
2003年11月11日(火) |
「可愛い?」「ああ。可愛いさ。最初はよく分からなかったんだけど、だんだん可愛いと思うようになった。」 |
伊藤早紀。二年前担任した光男の妹か。
担任の寺田は、あらためて早紀の顔を見た。小学校の二年生とは思えない、落ち着いた表情。なのに、どこかぼんやりとしていて、休み時間も友達と遊ばずに窓の外をながめてばかりだ。
そうか。
窓から見える校庭では、光男が友達と遊んでいる。それを見ていたのか。
寺田は、早紀に声を掛ける。 「外で遊ばないのか?」
早紀は、黙ってうなずいて、また視線を窓の外に向けてしまう。
成績もいいし、しっかりしている。だが、子供らしさがない。やりにくいな。寺田は思った。
--
早紀の母親の加代子は、地味ながらも溢れんばかりの母性が感じられ、寺田は以前、光男の担任になった時から好感を抱いていた。
「早紀ちゃん、ですけどね。」 学期末の懇談で、寺田は加代子と向かい合う。
「少し大人しいようですね。」 「はい。」 「光男君がかなり腕白でしたから、意外な気がしましたよ。」 「私も。最近、とくにあんなになりまして。今年の春、光男が骨折してちょっと入院しましたでしょう?あの頃からです。もともと光男のことが大好きでまとわりついていたんですけどね。」 「なるほど。」 「でも、まだ、二年ですから。私としては、どう接していいのか迷うこともあります。」 「失礼ですが、光男君はあなたの実のお子さんではありませんでしたよね。」 「ええ。伊藤の方は再婚なんです。前の奥様が亡くなられて、小さな子供を抱えて困っていたんです。一年の大半を海外で過ごすものですから。それから、早紀が生まれて。でも、私は、二人を同じくらい可愛がって来たつもりです。」 「分かりますよ。光男君も、あなたになついている。」 「かえって、早紀の方とは血が繋がってないと思える事があるんです。」 「女の子の方が難しいですからね。」
寺田は早紀の顔を思い出す。時折、子供とは思えない表情を見せることがある、少女。
--
「早紀。今日は、途中まで一緒に帰ろうか?」 「どうして?」 「こっちに用事があるんだ。」 「いいですけど。」 「最近は何かと危険も多いから、友達と一緒に帰るようにって、先生いつも言ってるだろ?なのに、お前、いつも一人で帰ってるもんな。」 「友達いないし。」 「仲のいい子とか、作らないのか?」 「欲しくない。」 「お前の大好きなのは、光男だけだもんな。」
早紀は、ふいに目を上げて寺田を見つめ、それからすぐ視線を落とす。
「先生、子供はいるの?」 「先生か?先生のところは、赤ちゃんがいるぞ。去年生まれたんだ。」 「可愛い?」 「ああ。可愛いさ。最初はよく分からなかったんだけど、だんだん可愛いと思うようになった。」 「ねえ。子供ってさ。不思議だよね。最初はただ、何となく欲しいからって言って産んで。でも、だんだん家族になっていくの。」 「ああ。」
まるで子供を産んだことがあるような口ぶりだな。
寺田ははっとする。
早紀は、相変わらず、歩を緩めずに一心に歩いている。早く帰って光男と遊びたいと思っているのか。
「じゃあ、先生はここで曲がるから。」 「うん。」 「なあ。早紀。いくら子供が可愛くてもさ。いつかは僕の手元を離れる。そんなもんだよな。」
早紀は、無言で寺田を見つめ、それから急に怒ったような顔で走り去る。
--
「やっぱり、先生もそう思われましたのね。」 「ええ。」 「光男の母親が、早紀の体を借りて戻って来たって。」 「信じられない事ですが。」 「でも。そうね。分からなくもないですわ。」
加代子は、手にしたハンカチで目頭を押さえる。
「これ以上は、ただの教師としては踏み込めない部分だ。あなたがこれからどうするのかは、あなたが決める事です。」 「話をしてみます。」
加代子は立ち上がる。
「ねえ。先生。親っていう生き物は、本当に、子供の事となると見境がなくなるものですね。」 加代子は、そう言い残して、応接室を出て行く。
--
「そう。分かってしまったのね。寺田とかいう男も。」 「ええ。」 「ただ、子供が気がかりだったの。どんな人に育てられるのか。ちゃんと食べさせてもらって、きちんとした服装をさせてもらって、新しい兄弟が出来ても可愛がってもらえるかしらって。」 「分かるわ。」 「分かるなら。ねえ。お願い。もうちょっとあの子の傍にいさせて。」 「それは・・・。」
加代子は、手にしたハンカチをぎゅっと握り、目と閉じて言う。 「ねえ。あなたがお子さんと離れて辛かったのなら、分かるでしょう?私にも早紀という娘がいて、その子が傍にいないと感じる時、とても辛いこと。」
早紀の顔をした女は、途端に泣き出す。子供らしい泣き方ではない。ひどく長い年月を生きた人の泣き方だった。
ひとしきり泣いて、それから、涙を手でぬぐうと。 「分かったわ。ごめんなさい。分かってたの。あなたが光男のこと、大事にしてくれてること。なのに、私・・・。」 「いいのよ。」
加代子は、その女と抱き合った。一瞬のこと。
それから、ふいに。
早紀の体はふうわりと柔らかく。
「ねえ。ママ。お腹空いた。」 もう、加代子の手元にいるのは、あどけない少女だった。
「あらあら。」 加代子は微笑む。
「お兄ちゃん呼んでらっしゃい。おやつあるわよ。」 「はあい。」
ありがとう。ごめんなさい。二人共、大切に育てます。加代子は心でつぶやく。
2003年11月09日(日) |
「綺麗だとかって、そんなことは何の関係もないわ。綺麗でも、幸福になれるとは限らないもの。」 |
私は、奥様の身の回りのお世話をするために雇われた。奥様は、目が見えない上に車椅子なので、いつも傍にいてお世話をする人が必要なのだ。
若くて美しくてお金持ちなのに、とても不幸な奥様。そもそも、目が見えなくなって、歩くこともできなくなったのは、旦那様が他所に女性を作って却って来なくなったからだと聞いた。
--
月に一度、奥様の主治医が奥様の目と足を見にいらっしゃる。
「どうなんですか?もう治らないんですか?」 雇われて間がない頃、私はお医者様にそう訊ねた。
「さあねえ。私には何とも。奥様の目は、何度検査しても異常がないのです。光にだってちゃんと反応している。なのに、奥様は何も見えないとおっしゃる。足だって同じです。」 「ショックのせいですか?」 「さあねえ。どうでしょうか。」
医者は、老眼鏡を外しながら言う。 「まだお若いんですね。」 「はい。」 「奥様を大事になさってあげてくださいよ。」 「もちろんです。」
医者は微笑み、うなずく。それから、奥様が三歳の頃から奥様の主治医として長いお付き合いをして来たと。奥様の気性は知り尽くしていると。そんな話をしてくれた。
--
夜、奥様の美しい髪の毛をブラッシングしていると、奥様が急に話しかけてきた。 「恋をしたことがある?」 「私がですか?恋を?」 「ええ。恋よ。」 「ありません。私、奥様みたいに綺麗じゃありませんもの。」 「綺麗だとかって、そんなことは何の関係もないわ。綺麗でも、幸福になれるとは限らないもの。」 「あの・・・。」 私は、奥様が何を言いたいのか良く分からなかったけれど、急に悲しいような、腹立たしいような気持ちになって、手を止めた。
「どうしたの?」 「あの。奥様は、充分にお美しいです。新しい恋だってできます。だから・・・。」 「ふふ。可愛いのね。心配してくれてるの?」 「ええ。だって・・・。神様は残酷です。」 「いいのよ。私なら。新しい恋がしたいわけじゃないんだし。今のままでいいの。」 「今のままでいいなんて・・・。」 「いいのよ。私は充分楽しんでいるわ。あなただっているし。ね。」
私は、奥様の静かな横顔を見てますます悲しくなった。
--
雇われて半年目の事だった。
それはとても急だった。
旦那様が屋敷に戻って来たのだ。何といっても、ここは旦那様のお屋敷だ。誰も止められない。旦那様は、女性を連れていた。美しい人だ。見たことがある。今売り出しの女優だ。旦那様は真っ直ぐに奥様の部屋に入って来た。私は驚いて奥様の顔を見た。
「誰?」 奥様は、見えない目をドアの方に向けた。
「私だ。お前の夫だよ。」 「あら。あなた、お久しぶり。」 「元気そうだな。」 「ええ。この子がよくしてくれて。」 「まだ若いな。」 「そうね。一途に私を慕ってくれてるの。」 「そうか。それはいい。」
それから旦那様は私に向き直り、 「妻を頼むよ。扱いにくい女だがな。」 と言った。
「とんでもございません。奥様は素晴らしい方です。お慕い申し上げています。」 と、私はとっさに叫んだ。
旦那様はニヤリと笑った。
「で?何の用事?誰かいるんでしょう?あなたのそばに。」 奥様は、見えない目で旦那様の方に向き直る。
「ああ。今売り出しの・・・だ。」 「あなたの会社のコマーシャルにも出るんですって?」 「そうだ。」
それまでニヤニヤしていた旦那様は、急に真顔になって、 「なあ。芝居はやめろよ。見えるんだろう?」 と言った。
「何のこと?」 「知ってるよ。お前の目も、足も、芝居だってことはな。」 「何を言ってるのかしら?」 「お前が俺への当てつけに芝居してるってことだよ。」 「知りませんわ。」
旦那様は、傍らの女優を引き寄せ、その顎を手で持ち上げて接吻を。もう片方の手は女優の腰に回されている。
女優は、うっとりとされるがままになっていた。
なんてひどい。妻の前で愛人となんて。奥様の見えない目が宙をさまよう。奥様の目が見えない事だけが救いだ。私の心は怒りで震えた。
「なあ。お前のせいだ。俺はいつだって悪者だ。今更取り繕ったって、周りはみんなお前の味方だ。」 「離婚して差し上げればいいんでしょう?」 「ああ。その方が、いっそ・・・。」 「いいえ。離婚なんてしませんことよ。」
旦那様は、今度は青ざめた顔で。乱暴にドアを開け、部屋を出て行った。残された女優は慌てて後を追った。
私は泣いていた。
「どうしたの?」 奥様が訊いて来た。
「何でもありません。」 私は慌ててエプロンで涙を拭いた。
「泣かないでちょうだい。ね。私のために泣くなんて意味のないことよ。」 「でも・・・。」 「本当に、あなた可愛いのね。」 「奥様はもっと幸福な生活を手に入れるべきです。」 「いいのよ。私はこのままで。」
奥様はいつもの静かな微笑みを浮かべ、 「さ。寝る前に飲み物を持って来て。」 とだけ。
--
今日は休暇だ。
私は、紙切れを握り締め、そこに向かう。
そこではパーティが開かれ、大勢の男女が酒を飲み過ぎて騒いでいた。
「おや。きみはこの前の子だね?」 旦那様がすっかり酔った足取りで出て来た。
「二人で話したいんです。」 「分かった。」
静かな部屋で、少し酔いの醒めた旦那様と向かい合う。
「で?何かな?随分と怖い顔だ。」 「奥様と別れてあげてください。」 「それを言いに?」 「ええ。」 「彼女がそう言ってるのか?」 「いいえ。私が勝手に来ただけです。」 「そうか。彼女はきみのこと、随分上手く手なづけたもんだな。」 「違います。」 「いや。いいんだ。ねえ。きみはまだ若いから分からないんだろうが。僕は妻を愛している。」 「ならどうして奥様のところに戻らないんですか?」 「いや。それは違う。彼女が僕を追い出したんだ。あの演技でね。目と足の演技でね。それで僕はあの屋敷にいられなくなった。」 「演技?」 「そうさ。まったく大したもんだ。僕がちょっとした浮気を繰り返していた事に業を煮やした彼女の演技だよ。あれで使用人も世間も、みんな彼女の側についた。」 「それだって、元はといえばあなたが悪いんじゃないですか?」 「そうさ。僕も若かった。だがね。彼女も若かった。些細な事から始めた演技が、もう、やめられなくなった。彼女は一生あのまま、目が見えないふりを続けることだろうよ。」 「分かりません。」 「ああ。分からないだろうね。」 「そんなのが愛情ですか?」 「ああ。愛情だよ。僕は、愛人を作って彼女を苦しめる男の役をする。それが僕の愛。」 「そんなの・・・。変です。」 「変かもしれないがね。もう、今更僕らは与えられた役割以外演じられないのさ。」
気がつけば、私は屋敷までの道を戻らずに、知らない道を走っていた。奥様の主治医だって。屋敷のみんなも。知っているのかもしれない。奥様と旦那様の演技を。
おかしいよ。
そんなの。
私は、ただ、息が切れるまで走り続けた。
それから、胸が痛くなってしゃがみ込んだ。
雇われてから、何度も、若いねと言われた。私は、何も知らずに騙されるのが仕事だった。あの若い女優だって利用されただけなのだ。この、馬鹿げた大掛かりな舞台では、演技をしない者が愚か者なのだ。
2003年11月07日(金) |
「どうすればいいの?モデルをするためには。お話をすればいいのかしら?それとも、服を脱げば?」 |
彼女がいつものように上の空で僕の前を通り過ぎる。少しきつい香水が僕の鼻を突く。
「あの。」 思い切って声を掛ける。
「なあに?」 別段驚きもせず、彼女は優雅に振り返る。
「モデルになっていただきたいんです。」 「モデル?」 「ええ。」 「いいけど。何のモデルかしら?絵?写真?それとも、詩とか小説かしら?」 「どれでもないんです。」 「私を口説きたい時は、みんな回りくどい事を言うのよねえ。」 「コンピュータプログラムです。」 「プログラム?初めて聞くわね。そんなものにモデルが必要なんて、初めて聞くわ。」 「説明が必要なら・・・。」
彼女は微笑んで言った。 「いいわよ。勝手になさい。コンピュータなんて、私はちっとも分からないから。説明なんかされても困るだけ。それより、どうすればいいの?モデルをするためには。お話をすればいいのかしら?それとも、服を脱げば?」 「いいんです。こうやってあなたがいつも散歩で通るこの道で、あなたを不躾に見つめるのを許していただければ。」 「それだけ?いいの?他の人はもっといろんな事を言うわ。きみをもっと知りたいといって。」 「必要ないです。むしろ、あなたを深く知ってしまえば、あなたは僕の一部になってしまう。それじゃあ駄目なんだ。あなたが僕の前に現われた時の驚きが僕の創作意欲をかき立てるんですから。」 「分かったわ。変わった人ね。」 「ありがとうございます。」 「その代わり、作品が出来たら教えてちょうだいね。」 「ええ。あの。それから、名前を教えてください。」 「ジャスミンよ。」
彼女が行ってしまうのを、僕はじっと見送る。
それから、急いで自宅に戻り、パソコンに向かう。
--
僕は急いでいた。彼女がそのうち、散歩をしなくなるのを知っていたから。彼女の目を見たら分かる。何もかもが終わってしまった目をしていた。
次の日、散歩ですれ違った時には、もう、彼女は僕の顔を覚えていないかのように知らん顔だった。
僕はそれでも充分だった。
一週間。それだけあれば充分だ。
目を閉じて、彼女のことを思い出し、それからキーボードに向かう。
--
「ジャスミン。」 僕が呼び掛けると、彼女は物憂げにこちらを見る。
「あら。いつかのコンピュータ屋さん。」 「お時間、よろしいですか?」 「いいわ。うちにいらっしゃいな。聞かせて。あなたの作品について。」 「喜んで。」
彼女は、僕の前に紅茶を、自分のためにワインを持ってくると、ソファに腰掛けて手足を伸ばす。猫のように美しい。
「僕の作品にはジャスミンと名づけました。」 「知ってるわ。私だって新聞くらい読むのよ。新種のウィルスでしょう?」 「そうです。」 「それって、すごいものなの?」 「世間を騒がすには充分です。」 「何が起こるの?」 「コンピュータの主要なプログラムを破壊して、使い物にならなくします。感染は気まぐれで、ルールを掴むのが難しいんです。」 「まあ。なんてひどい。」 彼女は可笑しそうに笑う。
「僕のあなたのイメージです。」 「そうね。すごいわ。今までの人達は、私にもっと素敵な人間像を重ねてくれたけれど、本当はあなたの言う通り。ひどい女よ。」 「でも、魅惑的だ。」 「ウィルスなんか作って、お金になるの?」 「なりません。それに僕らみたいな人種は、お金のためにプログラムを書くんじゃないんです。」 「ねえ。そんなことより。あなた、私のことをよく知ってるみたいだけれど、怖くないの?」 「ええ。」 「あなたも、地下室の彼らのように殺されてしまうかもしれないのに。」 「目を見れば分かる。」 「すごいのね。」 「今夜。僕はあなたを一人にしないためにここに来たんです。」 「一緒よ。誰がいたって私は孤独。あの人が他の女を選んでから、ずっと。」
彼女は、赤ワインを飲み干し、窓の外に目をやる。 「怒りよ。怒りだけだったの。生きてる理由は。一人の男への怒りを肩代わりさせるために、百人殺したわ。だけど、私の心は休まらなかった。それでようやく気付いたの。私の中の怒りを殺す方法を。随分と長く掛かっちゃったわ。」
空のグラスを持つ彼女の手が、ほんの少し震え始める。
「ねえ。ジャスミンの話を聞かせて。次々とコンピュータを破壊して、どうなるの?ワクチンがジャスミンをやっつけてしまうまで、悪さをし続けるの?」 「あなたと一緒です。」 「わたし・・・、と・・・?」 「ええ。あなたと。今夜十二時。ジャスミンは自分で自分を殺します。」 「そう・・・。ね。あなたみたいな人にもっと・・・。」
彼女はソファの肘掛に伏せって。
僕は、彼女の横に座り、その美しい波打つ髪を撫でる。時計が十二時を告げている。
僕のジャスミンは、あなたと一緒。最後には、自分で自分を殺してしまう。僕には分かっていた。あなた一人で逝かせるのは、辛かったから。
僕にはワインを勧めずに、一人でワインを飲み干した。なんて寂しい人だろう。
彼女の手からグラスを外し、僕もワインを。彼女が自分のために用意したワインを、僕もいただこう。こうやって、僕ら寄り添えば、ねえ。恋人同士みたいじゃないか?
2003年11月06日(木) |
「ごめんね、いってらっしゃい」って言えば、それでいい。それなのに、私は一言も言葉が出せない。 |
原因は何だったか。
どうせつまらない事だ。
「あなたがおうちの事ちゃんと手伝ってくれないから。」 とか、何とか、ちょっと嫌な感じで言ってしまった。
出勤前の準備で慌しくしていた夫がカチンときて声を荒げて、私が意固地になって。
それで、もう、一言も言葉が出て来なくなった。
キッチンの椅子に座ってうつむいたまま、石みたいに動けなくて、今謝ればいいと分かっていても謝れなくて、夫が「行ってくるよ」と言っても、振り向くことも出来なくて。
別に大した事じゃない。「ごめんね、いってらっしゃい」って言えば、それでいい。それなのに、私は一言も言葉が出せない。
玄関のドアが閉まる音がする。
--
掃除している最中にも気に掛かる。
もしも。夫が今日事故にあって帰って来なくなったら、私、一生後悔するだろう。仕事中かもしれないけれど、ちょっと電話して謝ることができたら。
けれど、私は、電話を掛ける事ができない。
どうしてしまったんだろう。
夫婦を何年かやってればどこの家にだってある小さなこと。夫が同僚の女の子からネクタイを貰った事を隠していたり、私が育児で忙しいのに夫は日本シリーズに夢中になってたり。そんなことがしこりになっているのだろうか。
義母が以前言っていた。 「ともかく、自分が悪いと思っても謝ってしまいなさい。それが家庭円満の秘訣よ。いいづらい言葉は、言ったが勝ち。ね。分かった?」
ああ。お義母さん、無理です。本当に、どうしたことでしょう?
昼過ぎにスーパーへ買い物に行く。途中、近所の奥さんと出会って、彼女の家で少しお茶をする。亭主の愚痴をこぼす彼女の話を聞きながらも、落ち着かない。
そのうち子供達が学校から帰って来る。もしかしたら子供に任せてしまえるかもしれない。子供らしいわがままを聞きながら笑っていたら、いつの間にか夫と私も、いつものように一緒になって笑っていられるかもしれない。
--
電話をしようと思いながら、すっかり夕方になってしまった。とうとう一日引きずっちゃったな。夫は今頃、朝のささいなトラブルは忘れて仕事に没頭してるにちがいない。電話なんかしたら却って怒られてしまうだろう。
沢山のじゃが芋は、皮を剥くのが大変だ。どんなに主婦の仕事が便利になったって、じゃが芋を剥くのは変わらず大変だ。私は、何も考えないようにしてじゃが芋を剥く。
玉葱は、キツネ色になるまで炒める。あやうく焦がすところだった。今日の私はぼんやりしている。朝、いってらっしゃいを言わなかった事なんか結婚してから初めてかもしれない。
子供達の宿題を見てやりながら、夕飯の支度を仕上げる。
「お母さん、いい匂い!ね。お父さん、また遅いんでしょう?早く食べたいな。」 「駄目よ。パパが帰ってから。」
その時。
電話が掛かって来た。 「もしもし。僕。」 「ああ。あなた。」 「怒ってるの、直ったかと思って。」 「うん。」 「大丈夫?」 「ええ。」
上手く返事が出来なくて、うん、とか、ええ、しか言えない。
「ごめんな。」 「いいの。」 「今日、結婚記念日なのに、付き合い入れちゃったからだろう?それで怒ってるんだろ?」 「・・・。」
そうだっけ?そんなことすっかり忘れていた。
「キャンセルしたから。」 「うん。」 「今から帰るよ。僕の夕飯あるかな。」 「うん。」
私、受話器を置いたら、馬鹿みたいに頬を涙が伝った。固い固いしこりは、一瞬にして吹き飛んだ。意地という名のしこりは不定期に結婚生活の中に現われて、私達を立ち止まらせる。
--
「お帰りなさい。」 「お。今日、カレーなんだ。すごい。ママ、天才。いつもみたいにじゃが芋たくさん入れてくれたよな?」 「ええ。」
子供みたいにカレーを喜ぶ夫は私の手に花束を渡してくれる。それから小さなリボンのかかった小箱も。 「十二年目だね。これからもよろしく。」
私は、もう一度、泣く。
「ママが泣くのには、何年経っても慣れないなあ。」 夫は困ったように言う。
子供達はあきれて見ている。
2003年11月05日(水) |
私は妙な感情が沸き起こり喉元にこみ上げて来るのを抑え、黙ってトーストにジャムを塗り続ける。 |
「ちょっと。早く来て、私をお風呂に入れてちょうだい。」 いつものように大声で呼びつけられて、私は悲しくなる。
車椅子から私をにらみつける祖母に、私は肩をすくめる。 「ごめんなさい。」 「まったく、何をやらせても遅いんだから。」
言い訳でもしようものなら余計にひどいことを言われるのが分かっていて、私は黙って祖母を浴室に連れて行く。
風呂で体を洗っている最中も。
体を拭いて、ベッドに連れて行く最中も。
ひっきりなしに、祖母は私をののしる。
私、知っている。こういうのを、「言葉の暴力」って呼ぶのを。テレビで言ってた。目を閉じて祖母の投げつける言葉だけを受け止めていると、私はそのしゃがれた喉を潰してやりたくなる。だが、目を開けて、祖母の小さな体を見ると、そんなことを考えた自分が恥ずかしくなる。祖母は私の体の半分より小さくて、軽々と抱きかかえられる重さなのだ。あんまりひどい事を言われるから、部屋から逃げ出して涙を流して、それから気を取り直して祖母の部屋に戻ってみると、祖母は子供みたいに眠っていたりする。そんな時、激しい後悔の念に襲われる。自分自身が、夫の暴力から逃れ、私の母を初めとする幼い子供を四人育てあげ、その後、一番可愛がっていた娘である私の母を亡くし、今は体の自由がすっかり利かなくなってしまった、そう幸福とは言えない生涯。
--
「ねえ。私、携帯電話が欲しいんだけど。」 家計は祖母が握っているから、おそるおそる訊ねる。
「え?何?」 「携帯電話。」 「ああ。あれ。ね。あれがどうしたの?」 「あるといいなって思って。」 「誰と話すの?」 「隆志さん。」 「まだあの男と付き合ってたのかい?」 「ええ。」 「駄目。駄目だ。電話なんて許さないよ。」
月に一度、母の世話を人に頼んで恋人とデートするのが私の支えだった。電話も、祖母がいる場所でしかできず息が詰まりそうだった。ほんの少し。ほんの少し、呼吸をさせて。
「ねえ、おねが・・・。」 「うるさいねえ。」 祖母が手元にあったマグカップを投げつける。
カップは私の頬をかすめて、壁に当たって砕ける。
祖母は、それから、ひどい言葉をまくしたて、ついには私が泣き出すまで喚き続ける。
気がつけば、私は子供みたいに泣きじゃくり、祖母は、 「分かればいいんだよ。分かれば。」 と、やさしく声を掛けてくる。
--
大学に行くために家を出ていた私の妹が突然家に戻って来た。 「しばらくいさせて。大学は辞めちゃった。もううんざり。あんなつまらない講義を受けて、就職して、それでなんになるの?」
いつもこの調子だ。東京の大学に行きたいからと、祖母の反対を押し切って出て行ってしまった。妹に仕送りするために、母が残してくれた貯金を随分と使ってしまった。
「おばあちゃん、まだ元気みたいねえ。」 妹はうんざりした顔で言う。
「そんなこと言うもんじゃないわ。」 「あら。お姉ちゃんだっていい加減、おばあちゃんの世話で疲れてるんでしょう?」 「でも、おばあちゃんは体が不自由だし。」 「だったら尚のこと、お姉ちゃんにもっと感謝すべきよ。」 「しっ。」
祖母は耳がいい。寝ているように見えても、聞いている事だってありうる。
妹は、肩をすくめて部屋を出て行く。
--
「あんた、夜うるさかったねえ。」 朝食の時、祖母が言う。
「美咲が電話してたみたい。」 「で、美咲はどうしてるのさ?」 「まだ寝てるわ。」 「まったく。いい加減な子だねえ。」 「本当に、美咲は好き勝手してて困るわ。大学だって辞めちゃって。」 「ま、しょうがないさ。あの子はやりたいことだけやらせるしか。」
驚く事に、祖母はうっすらと笑っていた。 「おばあちゃん、いいの?美咲を叱らなくて。」 「ああ。あの子は昔からそうだった。あんたの母さんに怒られるようなことばっかりして。その癖、ちゃっかりと甘えるのが上手いもんだから、みんなから可愛がられていた。」
私は妙な感情が沸き起こり喉元にこみ上げて来るのを抑え、黙ってトーストにジャムを塗り続ける。
「あんまりジャムを使うんじゃないよ。」 途端に、祖母の声が飛んで来る。
--
「美咲、それが携帯電話って言うのかい?」 祖母が訊ねる。
「うん。そう。」 「あんた、一晩中しゃべってるもんだから、眠れなかったよ。」 「あら。おばあちゃん。私のせいじゃないわよ。夜眠れないのは、おばあちゃんが身の回りのこと全部お姉ちゃんにやらせて、自分はテレビばっかり見てるせいよ。」 「私は体が不自由なんだよ。」 「足だけでしょ。手が動けば、何だってできるわ。」
はらはらと妹と祖母のやり取りを見ていたが、美咲は何か言おうとする祖母を無視して立ち上がると、 「ちょっと出掛けて来る。」 と、言って部屋を出て行った。
「おばあちゃん、ごめんなさい。」 私は慌てて謝る。自分が悪いのでもないのに。
「いいさ。」 祖母は、あっさりと言う。
「ああいうところ。あんたの母さんにそっくりだよ。気が強くて、言いたいことは全部言う。」 「ただ身勝手なだけよ。」
私は、また、喉の奥からせり上がって来るものを感じる。
私は、言葉を続ける。 「携帯電話だって。」 「今頃の若い人はみんな持ってるんだろう?」 「だって。おばあちゃん。私が欲しいって言ったら・・・。」 「美咲なら、私が止めても勝手に買うだろうよ。」
ひどい。
我慢して、我慢して。
祖母の犠牲になっていると言うのに。
私じゃなくて、美咲が可愛い?
その時、電話が鳴る。
「もしもし。」 「ああ。僕だ。隆志だ。」 「明日よね。大丈夫。出られるわ。」 「それなんだが。」 「なあに?都合が悪いの?」 「僕達、別れないか?」 「よく意味が分からない。どうして?」 「ずっと言ってるだろう?きみがおばあさんの言いなりになってる以上、僕らの結婚生活も、きみは全部、おばあさんにお伺いを立てるだろ?」 「だって。おばあちゃんを一人には出来ないわ。」 「違うよ。全然違う。おばあちゃんを見捨てろって言ってるんじゃない。きみがおばあさんに頼るのをやめろって言ってるんだ。」 「何よ?結局私が悪いの?全部私が悪いの?みんな、ひどい。私一人に押し付けて。」
電話が切れた。
喉元までこみ上げて来たものが、抑えられないぐらい大きくなって私を突き動かす。
祖母の方を向き直り、私は、そぼのか細い喉に手を掛ける。
殺してやる。
--
電話が鳴っている。
私はゆっくりと受話器を取る。
「私。美咲よ。」 「どうしたの?」 「ばったり友達に会っちゃってさ。今から飲みに行くことになっちゃった。今夜は帰らないから。」 「駄目。帰って来なさい。」 「だって・・・。」 「言い訳は許さないよ。すぐ帰って来なさい。」 電話を切る。
まったく。近頃の若い子ときたら。
部屋は随分と乱れていた。あの子が帰って来たら片付けさせなくちゃ。床に転がるボロキレのような固まりをよけながら、車椅子でベッドまで移動する。
2003年11月03日(月) |
私は彼と散歩をする。結婚って、何て素敵な制度なんだろう。もう、私は一人じゃない。 |
ある晴れた午後、私は幸福の絶頂だった。少しずつ目だってきたお腹に手を当てて、私は彼と散歩をする。結婚って、何て素敵な制度なんだろう。もう、私は一人じゃない。何もかもを分かち合える人ができたのだから。
その瞬間。
何が起こったか分からなかった。
彼が私を突き飛ばし、大きな音。目の前に飛び込んできた白い車。周囲のざわめき。救急車のサイレン。
気が付くと私は病院にいて、何人もの人に「大丈夫ですか?」と訊かれていた。私が、「主人は?どこ?」と言うと、みんな悲しそうに首を振った。ああ。何てこと。私は一人ぼっちになった?この子は?どうなるの?まだ、あなた、顔も見ていないのに。
--
彼の誕生日。手作りの料理で彼を迎えようと忙しくしていた時。電話が鳴った。
「どうしよう。俺、事故起こしちゃった。」 と、電話の向こうから。
「何?どうしたの?今、どこ?」 「だから。俺、車で事故しちゃって。男の人。奥さんと歩いてたところを・・・。」 「じゃ、今日はお誕生日のお祝いはできないの?」 「だからっ。それどころじゃないんだよ。俺。犯罪者になっちゃった。」
彼が電話を切ってしまうと、私はもう、どうしていいか分からないで何度も彼の携帯に電話する。だが、何度電話しても話し中だった。私は、頭を抱え、長い長い夜を過ごす。
--
夫は、もういない。あの時、夫と一緒に私も死んでいたら良かったのに。あの人がいなくなってしまった今、どうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまった。
夫のお母さんが、 「いつでも電話してくるのよ。」 と言ったけれど。
誰にも電話したくない。
さっきから電話が鳴っている。何度も鳴るから仕方なく出ると、男の人の声。事故を起こした車に乗っていた人だ。
「ですから。もう電話して来ないでください。全部代理の人に任せてますから。お願い。何にもしてくださらなくて結構です。あの人を返してくれるっていうなら別だけど、そんなことどうせ無理でしょう?」 電話を切り、また、泣いてしまう。
ちゃんと食べなくちゃ。赤ちゃんがしきりにお腹の内側から私を蹴っている。お腹が空いたと言っている。
--
彼はすっかりふさぎ込んでしまった。幸福な家庭を壊してしまった今、もう、きみと結婚するわけにはいかないんだ。そう言って、両親に謝りに来た時、私は初めて泣いた。事故で亡くなった人の家族には申し訳ないけれど、私の幸福まで奪われるなんて、納得できない。
彼は、ただ、手紙で謝罪するより他無かった。「謝りたいのに、顔も見たくないと言われた」と、ひどく苦しんでいた。私は、ただ、彼がいつの日か元気を取り戻すのを待つしかないのだ。
私も苦しい。彼も。みんなみんな暗く長いトンネルの中で、明かりが見えない。
--
子供には絵里と名づけた。
とても愛らしく元気な子なのに、ただ一つ。
もう三歳になるというのに、言葉が出ない。医者は事故のせいだろうと言う。夫が事故に遭ったショックで、お腹の赤ちゃんにも影響が出てしまったのだろうと。
ごめんね。お母さんを許して。
あの時は、私、自分のことばかり。でも、今分かった。彼は、私だけを守ったのじゃない。この小さな命も一緒に守ったのだ。
毎日絵本を読む。それでもいつか、「お母さん」って言ってくれるんじゃないかと期待を込めて一言一言、絵里に聞かせる。
--
彼は随分と元気になった。だが、心のどこかで、まだあの事故の事を考えている。いつか償いをしたいと、そればかり考えている。私はもう、すっかり結婚はあきらめた。
彼のために料理を作る。
今日も彼はそれを一口食べて。それから、少し奇妙な表情で私を見る。
「美味しいね。」 って言ってくれないの?
だが、彼は、 「うん。これだよ。」 とだけ、うなずいて。
--
「おい・・・。おいし・・・。」 娘が言葉を出した時の喜びを何て言えばいいだろう?
「絵里ちゃん、美味しい?これ、美味しいの?絵里ちゃんの好きなホットケーキ。」 「美味しい。」
絵里も嬉しかったのだろう。大喜びだ。私は、涙をぬぐい、天に感謝する。あなた、聞こえた?
--
彼は一つ、また一つと言葉を失っている。病院では、もっともらしい病名は言うけれど、何の解決にもならない。
彼は、だが、その運命を静かに受け入れている。
だから、私も泣かない。彼が自分の運命と向き合おうとしている時に私が泣くなんて。だから、誓った。もう今日から泣きませんって。
「真由理。」 彼が私の名前を呼ぶ。
ねえ。いつか、私の名前すら忘れてしまう日が?
--
絵里は随分と沢山の言葉をしゃべる事ができるようになった。パパ、ママ、って。ね。もう一度呼んで。
「パーパ。マーマ。大好き。」
ねえ。あなた。あなたの事もちゃんと呼んでるわよ。こうしていると、三人でいるみたい。
--
ある日、彼は寝室で、悲しい声で私を呼ぶ。何度も何度も呼ぶ。 「真由理。真由理。真由理。」
それが最後の言葉。もう、何もかも失って、最後に残った言葉。
私達は抱き合って眠った。
次の日。彼はいなくなった。多分、私の名前すら失う事を怖れて。
もう、彼とは二度と会えないだろう。それでも私は泣かない。誓ったのだから。私の耳に残った彼の声だけが生きる支え。
--
絵里は、もう、今では言葉が遅かった事が嘘のように、よくしゃべる子になった。
今日はテストで100点取ったご褒美を買いに、二人でショッピングに出掛けた。
絵里が急に立ち止まる。そこには悲しそうな目をした女性がうつむき加減に歩いていた。絵里は呼び掛ける。 「真由理。」
その女性は、驚いて立ち止まり絵里を見る。その目から見る見るうちに涙が溢れて来るから、私は驚いて、 「大丈夫ですか?」 と、問う。
「ええ。お願い。もう一度だけ聞かせて。」 「真由理。」 「あなたがちゃんと持っていてくれたのね。ありがとう。また、明日からも生きていける。ありがとう。」
女性は、次に目を上げた時にはもう泣いてはいなかった。
私は、それを知っていた。泣かないと決意した、悲しい心を。
その夜、絵里に訊ねた。 「あの人、知ってたの?」 「ううん。だけど、私、あの人の名前を預かってたの。」
私はそれ以上は訊かなかった。絵里も何も知らないようだった。だが、私は、感謝を。絵里に言葉をくれた人に感謝を。
|