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セクサロイドは眠らない

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2002年06月30日(日) 私は、長いドレスの裾をたくしあげる。膝から下に、醜いやけどの痕。「ねえ。あなた、これを見て笑う?」

少年が浜辺に一人。

まだ、夏真っ盛りというには少し早い季節。

少年と私の他には誰もいない浜辺で、少年は一心に砂の城を作っている。

「そんなに海に近いところでは、お城は波にさらわれてしまうよ。」
と言いかけて。

少年があんまり一生懸命なので、私はその言葉を飲み込んで。代わりに、
「素敵なお城ね。」
と、話し掛ける。

少年は知らん顔で、なおも手を動かし続ける。私はそのそばに腰をおろして、少年の手つきに見惚れる。

随分と時間が経ったところで、少年が急に口を開く。
「みんな、色んな事を僕に言うんだ。」
「そう?」
「そんなところでお城を作っていると波にさらわれるよ、とか。そんなもの作って面白いかい?とか。毎日そんな事してるぐらいなら家に帰って勉強したら、とか。」
「・・・。」
「母さんがここで待っててって言ったから。だから僕はここで砂のお城を作ってる。母さんが海の向こうから舟に乗って帰って来ても、僕のことをすぐ見つけられるように。」
「・・・。」
「毎日、毎日、作る。でも、それはいつも波にさらわれてしまうんだ。誰かが言うんだ。砂のお城じゃなくて、もっと動かないものを目印にして立てておいたら?って。だけど、それは僕、嫌なんだ。だって、僕がいないうちに母さんが来たらどうする?母さんは、とても失望するだろう。だから僕は夜もゆっくり寝てられない。朝、日が昇るとすぐに浜辺に来るんだ。」

波が打ち寄せて来て、私のつま先を洗う。足元までの長いドレスの裾が海水に濡れる。

「待つの、つらい?」
「分からないや。」

相変わらず、人は誰も通らない。

私は、ふと手を伸ばし、陽に焼け、潮風にさらされてゴワゴワになった少年の髪を撫でる。

少年はその時、初めて目を上げて、私を見る。
「消えてしまうんだよ。いつもいつも。」
「そう・・・。」
「それを見て、みんな笑うんだよ。」
「みんなじゃないわ。」
「嘘だ。馬鹿にして、笑ってる。きっと。あんなことしたって、全部波にさらわれて何も残らないのに、って。あんなことしたって、行ってしまった人は帰らないのに、って。」
「嘘じゃないわ。心打たれる人もいる。誰かを待ってることを思い出して、急いで家に帰る人もいる。」
「そうかな・・・。聞こえてくるのは、あざ笑う声ばかりだよ。」
「それはね。あなたの心の声よ。待ってて何になるんだ、って。あなたの心があなたを笑っているのね。」
「そんなの・・・。」
「ねえ。見て。」

私は、長いドレスの裾をたくしあげる。膝から下に、醜いやけどの痕。
「ねえ。あなた、これを見て笑う?」

少年は驚いたように、それを随分と長いこと見つめて。それから首を振る。
「ううん。笑わないよ。」

「本当に?」
私は、少し意地悪く問う。

「だって・・・。浜辺を歩いてくるあなたの足取りは自信に満ちてすごく素敵だった。あなたのやけどが見えていたって、それは変わらない。むしろ・・・。」
「むしろ?」
「感動・・・。うん。感動していたと思うよ。」

私はにっこり笑う。
「やさしいのね。」
「そんな。本当にそう思ったから。」
「分かってるわ。でもね。私は時々、自分の足のやけどが恥かしくてどうしようもなくなるの。見てる人がみんな笑ってるんじゃないかってね。哀れんでるんじゃないかってね。」
「そんな時はどうするの?」
「誰よりも背筋を伸ばして、きれいに歩こうと思うの。」
「すごい。」
「そう思えるようになったのは、つい最近よ。」
「僕もあなたみたいに格好良くなれるかな。」
「なれるわよ。」

少年は溜め息をついて、首を振る。

そんな少年に微笑んで見せて。
「私はラッキーだったかもね。やけどを見るたびに、背筋を伸ばしてきれいに歩こうって、気付くから。」

少年は、今また、波にさらわれていく砂の城をみている。

「そろそろ行くわね。」
私は、すっかり濡れてしまったドレスを、両手でつまんで。歩き始める。波の音と、少年を残して。

そう。誰よりも美しく砂の城を作る少年を残して。

それは、あっという間にさらわれていくほどに儚くて、見るものを感動させる。

「僕達、友達だよ。」
少年の声が背後から響く。

私は、返事代わりに手を上げて。

それから、誰よりも美しく歩くことに集中する。


2002年06月28日(金) 「おじさん、ずるい。」「何が?」「ママのそういうところを知ってて、ママの寂しい部分に踏み込まないんだもん。」

仕事を終えて、ビルを出る。

最近は日が長いので、まだ明るい。こんなに明るいうちに帰るのは久しぶりだな、一杯引っ掛けるかと思いながら歩いていると、高校生の制服を着た女の子が声を掛けて来た。

「ねえ。時間、ある?」
「え?ああ・・・。いや。」
「違う。そういうんじゃないよ。話がしたいだけ。」
「話?」
「うん。おじさんとお話するだけ。」
「いや。やめとく。きみみたいな若い子と話が合うとも思えないんでね。」
「冷たいのね。私、おじさんのこと知ってるんだよ。」
「どんな風に?」
「去年、部長に昇進した。五年前に離婚した。子供は奥さんが引き取ってる。今、付き合ってる恋人とは週に一度か二度、会っている。恋人には娘が一人いて、市内の高校に通っている。」

そこまで聞いて、ピンと来る。

「きみ、まさか、エリコさんの?」
「あたり。」
「なんで、僕の会社を知ってる?ママに聞いたの?」
「まさか。調べたのよ。ママは私にそんなこと言ったりしないわ。私だって、ママに自分の恋人のことは言わないもの。最近の母子って、姉妹だか親友だかみたいにベタベタしてるとこが多いって言うじゃない?私、そういうの嫌いなのよ。気持ち悪いじゃない。」
「なのに、ママの恋人には興味持つんだ?」
「まあね。」
「矛盾してるな。」
「好奇心。」
「好奇心?」
「おじさんが、私から見ても素敵な人だったから、我慢できずに声掛けちゃった。」
「怖いなあ。最近の若い子は。」
「ママに言う?」
「言うかもな。」
「お願い。言わないで。」
「なんで?」
「ママを悲しませたくない。」
「悲しんだりしないよ。」
「いいえ。今のママはすごくナーバスになってるから、たとえ、娘と恋人がお茶しただけでも嫉妬に狂うかもしれないわ。」
「ママのことが好きなんだ?」
「そりゃ、そうよ。」
「ま、歩きながらもなんだから、そこいらの店に入ろう。」
「うんっ。」

その瞬間、彼女のお腹がキュルキュルとなる。

「やだ。」
と、赤くなる彼女を見て、僕は笑う。

「ケーキでも奢るよ。その代わり、遅くなるってママに電話すること。」
「ん。」
「それから。」
「え?」
「腕は組まないこと。さすがに誤解されるよ。」
「はあい。」

--

「で?確か、ミサキちゃんだっけ?」
「ええ。」
「きみのことは、良く聞いてるよ。」
「やだなあ。恥ずかしい。」
「煙草、吸ってもいいかな?」
「いいよ。」

僕は、煙草を吸いながら、目の前の女の子がしゃべるのを黙って聞いている。

「やだ。私ばっかりしゃべって。」
「いいよ。若い女の子が自分に向かって楽しそうにしゃべるのを嫌がる男なんていないよ。」
「ね。じゃ、今度おじさんのこと聞かせてよ。なんで離婚したの?」
「なんでかなあ。ある日急に言われてね。早い離婚だったよ。一ヶ月後には印鑑を押してたなあ。」
「おじさんのほうも別れたかったの?」
「いや。」
「でも、すぐハンコ押しちゃったのね。」
「ああ。彼女は、一旦決めたら絶対曲げない人だったからね。」
「寂しい?」
「そうでもないかな。もともと、一人で自分の身の回りのことをするのは苦にならないし。」
「そっか・・・。うちのママの離婚なんて、最悪だったのよ。」
「長くかかったの?」
「うん。一年ぐらいもめたけど。私のことも、どっちも手元に置きたがったし。だいたい、両方とも離婚したくなかったのよね。なのに、離婚しようとするもんだから、大変だったのよ。」
「なんで離婚したくないのに離婚しちゃったんだろうね。」
「さあ・・・。意地とか、そんなのじゃない?パパ、しょっちゅう浮気してたし。そういうのママから聞かないの?」
「うん。あの人はそういうことは言わないね。絶対に。」
「ママって、変なところで意地っ張りなのよね。」
「そういう人だから、可愛いんだよ。」
「おじさん、ずるい。」
「何が?」
「ママのそういうところを知ってて、ママの寂しい部分に踏み込まないんだもん。」
「もう、若くないからね。あの人のことはあの人が決めるだろう。」
「おじさん、若いじゃない。全然若いよ。」
「だけど、きみにとっては"おじさん"だろう?」
「そうだけど。でも、抱かれてもいいかな、って思うよ。」

僕は、彼女の最後の台詞は聞こえないふりをして、コーヒーを注文するために振り向く。

--

それから、恋人とは別に、ミサキに会うことが増えた。

一方的に電話してくるのだ。

そうして、マンションに押し掛けて来て、時には食事の用意をしたりするのだ。

エリコはそんな風にはしない。エリコは、僕のエリアに勝手に踏み込んだりは、絶対しない。そういう女だ。

ミサキをずるずると受け入れる事は、エリコに悪い気がしないでもなかったが、ミサキとは何もないんだし。わざわざ弁解するのも変だろう。

そんな風にして、そんなあやうい関係をずるずると。

「おじさん、ずるいよね。」
「ママともきみとも付き合ってるから?」
「違うよ。おじさん、私と寝る気もないのに、マンション入れてくれるから。」
「不満なら、来なければいい。」
「だからー。そういうとこがずるいんだって。」

ミサキが急に泣き出す理由が分からなくて、僕は煙草を吸いながら女の子が泣きやむのを待つ。

「落ち着いた?」
「ん。」
「ココア、飲んで帰るといい。」

僕は、カップを差し出す。コクリとうなずくミサキを、可愛いとも思うけれど。

--

夜、眠っていると誰かからの電話。
「もしもし。あたし。」
「ああ。どうした?」
「ねえ。彼女とあたしと。どっちか選んで。」
「どっちかって。選ぶようなもんじゃないだろう。」
「彼女とは始まってて、きみとは最初から始まってもない。」
「・・・。」

電話の向こうで、長い長い、沈黙。

「もしもし?」
僕は、少しさえてきた頭で。

「始まってるの?」
震える声に、僕はいきなり、頭がはっきりとする。

「エリコ?」
「そうよ。誰だと思ったの?」
「ああ・・・。驚いたな。ミサキかと思って・・・。親子って声そっくりなんだな。」
我ながら間の抜けた返事だと思ったけれど、夜中に電話してくるなんて、エリコではあり得ないと思ってたから、てっきりミサキだと。

「ミサキって・・・。あの子、時々あなたに電話してるの?こんな風に。」
「ああ。」
「そう・・・。そうなの。てっきり、私の知らない女だと思ってた。ミサキだったのね。あなたが最近、やけに私を放っておくのはそのせいだったのね。」
「そりゃ、誤解だよ。」
「今ので分かったわ。」
「何が?」
「何もかも。」
「おい。ちょっと待てよ。」

電話は切れる。

僕は、掛け直すけれど、誰も出ない。何度も何度も、掛け直す。

暗闇の中で、両方を失うことを考えてみるけれど。今から、どちらかを追い駆ければ、どちらかを失わずに済むのかもしれないけれど。

さて、本当はどちらが欲しいのか、自分でも分からないのだった。


2002年06月27日(木) 彼が、笑う。僕も、泣かないようにして。だって、僕が泣いたら、ちっちゃいウサギ達がみんな泣いちゃうから。

「しーっ。」
そう言いながら、彼が僕のベッドに入ってくる。

薄い毛布じゃ寒いから、それだけで僕の気持ちはあったかくなる。

「また、見つかったら怒られちゃうよ。」
「そうなったら、またきみに迷惑掛けちゃうねえ。」

彼は、くすくす笑った。ちっとも悪いと思ってない風だった。それで、僕も笑った。

彼と僕は「うさぎ・こどもの・いえ」に引き取られている親のいないウサギの子供だった。

「で。この前の続き、ね。」
と、彼は話し始めた。

彼の話というのは、彼の生まれ育った頃の話やなんか。僕は、それにワクワクして耳を傾ける。

この前までのお話。

彼は、今は、こんなに冴えないウサギの子供だけれども。実は、ライオン国の王子さまなのだ。贅沢し放題。美しい、宮殿。おいしいご馳走。まだ、タテガミも生えてない子供だったけど、毎日、全身の手入れをされてツヤツヤした毛並みが輝く美しい子ライオンだったそうだ。

じゃあ、なぜ、こんなところでウサギの格好でいるかというと。

というのが、今日のお話。

「国内で内乱が起こったんだ。でね。年老いた父を支えながら、王位を継承するべく勉強していた兄の命が危険にさらされたんだよ。」
「うわ。こわい。」
「僕は、まだ幼かったからね。何が起こっているか分からなかった。ただ、やさしかった兄上が、僕の遊び相手をあまりしてくれなくなったことや、城の中が妙に騒がしかったことなんかを覚えている。反乱軍のずる賢いところはね。ウサギ国と手を組んだことだった。ウサギ国の国民は数が多いから、結構な脅威だったみたいだ。そんなある日、兄上が毒を盛られて倒れてしまった。幸い、命は取り留めたけど、体が不自由になってしまって、寝たきりになったんだ。それでね。母上は、ある日悲しい悲しい決断をしたんだよ。」

そこで、彼は言葉を切る。

僕は、唾を飲み込む。
「で?」
「母上はね。僕にウサギの毛皮をかぶせて、城の外に逃がすことにしたんだ。そうじゃないと、次に狙われるのは僕の命だからね。」
「それで、今ここに?」
「ああ。そうさ。僕は、あの日から、年老いたウサギの母に育てられたんだ。母は、昨年、亡くなる間際に、僕の母から預かったというお守りを渡してくれた。いつか内乱が終わったら、僕はライオン国に帰ればいい。その時は、この王位継承者だけが持つお守りを見せなさいってね。やさしい母だった。ウサギのことも、ライオンのことも、同じように愛していた。」

僕は、その話を聞いて、不覚にも涙を流していた。

「あはは。ごめんごめん。暗い話を聞かせちゃったね。明日の夜は楽しい話を聞かせてあげるよ。パーティの話。素敵なパーティのごちそうの話さ。」
彼は笑って、そうして、泣いている僕の耳を撫でてくれて、僕が寝つくまでそばにいてくれた。

朝起きると、いつも彼はいない。夜中のうちに自分のベッドに戻ったんだ。シスターに見つかると大変なことになるからね。

僕らは、そうやって、出会ってからあっという間に親友になって。

--

そんな友情は、そう長くは続かなかった。

僕は、やさしいウサギの夫婦の養子になることが決まったのだ。

明日がお別れという夜。

彼はいつものようにベッドに入って来て。

「ごめんね。僕、きみを置いて行くなんて、すごく辛いんだよ。」
「何言ってるんだい。きみはいつまでもこんなとこにいちゃいけない。幸せになるべきウサギなんだよ。だってさ。きみはここで一番勉強ができる。小さい子の面倒もよく見ていたし、先生からもシスターからも好かれていたからね。」
「落ち着いたら、新しいママに頼んできみも引き取ってもらうよ。」
「馬鹿言わないでくれよ。僕はライオン国に戻るんだぜ。きみが来る頃には、もう、ここにはいないさ。」

彼は、それから、お守り袋の中の緑色の石を取り出して、
「これ、持っててよ。」
と、言う。

「そんな。きみの宝物だろう。それにいつか、ライオン国に戻る時に必要だよ。」
「大丈夫さ。僕にはもう一つある。いつか、きみが大きくなって、ライオン国を訪ねることがあったら、この石を出して見せるといい。そうして、王と友達だって言うんだよ。」
「分かったよ。大きくなったら、必ず、また会えるよね。」

僕達は、その日は、朝まで一つのベッドで眠った。シスターは気付かないふりをしてくれたのか、僕らには何のおとがめも無しだった。

「じゃあな。」
彼が、笑う。

僕も、泣かないようにして。だって、僕が泣いたら、ちっちゃいウサギ達がみんな泣いちゃうから。

笑顔で手を振る。

--

それから、僕は一生懸命勉強して。ライオン語も勉強して。つらい時は、石を握って、友達の笑顔を思い出す。もう、ライオン国に帰ることができただろうか。

僕は、すっかり立派な大人ウサギになって、ライオン国を訪ねることを決意する。

気掛かりなのは、ライオン国とウサギ国の不仲。僕の友達がかつて教えてくれたような、反乱軍とウサギ国が手を組んだという話も聞かないし。

けれど、僕は、継母に作ってもらった袋に石を入れて、ライオン国へと向かう。

国境を越えようとしたところで、僕は、国境を守るライオンの憲兵に止められる。
「忠告する。ここから先は、ウサギは入らないほうがいい。最近じゃ、ウサギ国とライオン国は、まずいことになってるからな。」

僕は、慌てて、友達に会いに来たことを説明する。

それから、石を取り出して見せて、
「これが証拠です。」
と叫んで、何とか友達に会おうと、食い下がる。

ライオン達の笑い声が響く。
「こんな石、そこいらに掃いて捨てるほど転がってるぜ。」

僕は、信じられずに、掴まれた腕を振り切ってライオン国に入ろうとして。

そうして、背後でパンパンと、鉄砲の音が響くのを聞く。

僕は遠のく意識で、友人を恨む。騙したんだ。僕のことを騙したんだ。きみはライオンなんかじゃなかった。ただの嘘吐きなウサギだったんだ・・・。何の価値もない石を握らせて。きみをずっと信じて来たお陰で、僕は今こんなことに。

--

「気がついた?」

目を覚ますと、子供のままの、彼が笑っていた。

痛みはなくて。そこは気持ちいい場所で。

「きみ、まだライオンになってなかったの?」
「ああ。あれからね。冬の風邪にやられて。そのままここに来ちゃった。」
「知らなかったな。」

僕は、何か、彼に言わないといけないことがあったのに、と思って、顔をしかめる。

思い出せない。

「どうしたの?」
彼が、怪訝そうに訊く。

「うん。何かきみに言おうと思ったんだけど。思い出せない。僕、ライオン国にきみを訪ねていったんだった。」
「そうか。」
「きみに会いたくて。」
「僕もさ。ちょうど良かった。今、会えたし。」

彼は微笑む。

僕はその瞬間思い出す。

幼い日、ベッドの中で彼が教えてくれた、夢のような宮殿の話。パーティの話。そんな全部が、僕の夢であり、希望であったことを。冬が長い、陰鬱な「うさぎ・こどもの・いえ」で彼に会えなかったら、僕はひどく寂しい日々を送っていたことだろう。

「あの頃が一番楽しかったよ。」
僕が言う。

「僕もだよ。」
彼が言う。

「また、何かお話を聞かせてよ。」
僕がせがむ。

彼は、黙ってうなずいて、おもむろに口を開く。


2002年06月26日(水) 彼と別れた後も、私は幾人かの男性と寝てみたが、必ず、最後の数分間、眠ってしまうのである。

その奇妙な癖に気付いたのは、大学を卒業して付き合い始めた恋人と三回目に抱き合った時からだった。最初は、それは、単なる体調のせいだと思っていたのだが、次も、その次の時も、同じような状態なので、おかしいなと思うようになった。

だが、私は、どうしても気持ちを隠して、相手に調子を合わせてしまうところがあったので、なかなか言い出せず、結局、そのまま一年ほど付き合って自然に別れてしまうことになった。

彼も私も、どちらかといえば淡白な方で、週に一度、遠慮がちに抱き合う。

そうして、
「どう?」
とか、
「うん。」
とか、そんな短い言葉を交わしながら抱き合うのだが。

私の癖というのは、オーガズムに達した途端に、意識を失うように眠ってしまうことだった。

それは、ほんの五分ほど、目を開けたままのようで。

「どうだった?」
と、聞かれた時は、もう、既に私と彼の体は離れていて、私は、仰向けになっているのだった。

「良かった?」
「うん。」
「なんかさ、僕達、体が馴染んで来たっていうかさあ。そんな感じしない?」
「そうだね。」
そうやって、彼が満足そうに私の体に手を回して、時には眠りに就いてしまう間、私は妙にはっきりした頭で考える。

眠っていたのではなくて、気絶していたのかしら?

だが、私はやはり眠っていたのだと思う。

大体、私は、オーガズムに達していたかどうか、わからないのだ。

そんなわけで、彼と別れた後も、私は幾人かの男性と寝てみたが、必ず、最後の数分間、眠ってしまうのである。

男達が一様に
「どうだった?」
と訪ねて来るので、
「うん。良かったよ。」
とか何とか答えるものの、いつも、私は彼らがそのうち、私がいつもその瞬間眠ってしまうことに気付いてしまうのじゃないかと、落ち着かない気分になるのだった。

--

そんないきさつから、私は、次第に、男性との性交を面倒に思うようになってしまった。

今も、交際中の男性がいないわけではなかったが、お互いにひどく淡白で、下手をすると数ヶ月もそういった行為をしなかったりする。けれど、私も相手も、そういった付き合いで満足していた。一緒に旅行に行ったり、食べ歩きをしたり。そんなことで充分だった。

--

その連休も私と恋人は、京都への小旅行の計画を立てていた。三泊ほどの旅行だけど、私は久しぶりの休みに胸が弾んでいた。

恋人からの電話は、出発の前日の夜、掛かって来た。

「すまない。ちょっと仕事でトラブってしまったんだよ。明日なんだけど、一人で先に行っててもらえるかな?現場が落ち着き次第、すぐ合流するから。」
「うん。分かった。」

私は、少々がっかりしたものの、もともと、一人で過ごすのも好きだったので、旅館で読む文庫本を幾つか荷物に追加すると、気持ちはもう、一人で散策する京都の町を思っていたりもした。

新幹線に乗ると、夕べ興奮していたのか、すぐに睡魔に襲われた。

私は、知らず知らずのうちに、うとうとと舟を漕ぎ始めた。

--

私は、女の子で野原を歩いている。

ふと、気付くと、野原の向こうのほうで男の子が待っている。

私は、その子の事をすごく知っている気がして、駆け寄る。

「やあ。」
彼は、待っていたよ、という顔で笑う。

私はその時、この子に会いたくて会いたくて、しょうがなかったんだと分かって。一緒にしゃがんで。

「いつも、ちょっとしかいられないんだよね。」
「うん。そうだね。」
「僕、ずっと待ってるんだよ。きみが来るの。いつもいつも。」
「私も、もっと遊びに来たいのに。いつ来る事ができるか、自分でも分からないんだもの。」
「じゃ、しょうがないね。」
「うん。しょうがない。」

私達は、それから花を摘む。

「今日は、いつもより長くいられるんだ?」
男の子が聞いてくる。

「そうみたい。」
私は、嬉しくて。うつむいたまま、笑ってる。

「いつも、あの向こうに一緒に行こうと思うのにさあ。きみがすぐいなくなっちゃうから。」
「あの向こうに、何があるの?」

--

私は、そこで目を覚ます。

隣の席に座ってる男性にもたれかかったまま。

「あの。ごめんなさい。」
私は、慌てる。

「いいんですよ。良く眠ってた。すごく嬉しそうな顔して。」
その男性は、ニコニコと私を見ている。山歩きでもするような服装で、よく焼けた顔の中で、細い目が人懐っこい。

「夢を見てたんです。」
「へえ。どんな?」
「男の子の夢。私は、いつもそこで彼を待たせてるんです。で、すごく寂しい思いをさせてるの。」
「そうなんだ。」
「彼はね。私をどこか、野原の向こうに連れて行ってくれるって言うんだけれど。私は、いつも、彼のそばにずっとはいてあげられないの。」
「でも、彼は、きみを待ってるし、きみは、彼に会いに行く。素敵ですね。」
「素敵かしら。ね。いつか、私が彼に会いに行った時には、彼はもうそこにいなかったり、彼が待っても待っても、私が彼のところに行く道を忘れてしまったりしたら、すごく寂しいでしょう?」
「でも、彼は、待ってる。」
「ええ。」
「きっと、ずっと待っててくれてる。」
「そうだといい。」
「あなたは、実生活で、何かをいつも探してるんですね。」
「そうかもしれません。」
本当に、急にそんな気持ちになって。

そこで、背後のほうから車掌の声がする。
「切符を拝見。」

彼は、慌てて、ザックを持って立ち上がる。
「こりゃ、まずいな。僕、指定券持ってないんですよ。」

そう言われて、私は、その席が、本来恋人が座るはずだった指定席にだったことに気付く。

「じゃ、また、どこかで会えたら。」
「待って。ねえ。また、会える?」
「会えるんじゃないかな。」

彼は、その素敵な笑顔を残して、通路の向こうに消えてしまった。

私は、ぼんやりとして、窓の外を見る。

その時、私は、全身にびっしょりと汗をかいているのに気付いて。まだ、もたれかかっていた肩から伝わる鼓動が体の中に残っていて。まるで、オーガズムに達した後のように、体が軽いのを感じて。

「待って。」
私は、立ち上がって、さきほどの男性の後を追う。

ねえ。ずっと待っていてくれたのは、もしかして、あなた?

そんなことも、また、夢の続きかもしれないし。

ただ、どこかで、その先に行こうよと、待っていてくれる男の子の面影は、さっきの人にそっくりだったことを、今、思い出したのだ。


2002年06月25日(火) そうやったら、本当に人形が生きて、「おかあさん。」とでも答えてくれると信じているかのように。

僕は、今日も、ここから外が良く見えるように、ウィンドウのガラスを磨く。

外を歩く一人の婦人が、目をとめて、こちらを覗き込む。それから、連れの別の婦人と言葉を交わし、中に入って来る。

「どれも素敵なお人形ねえ。」
「ええ。ゆっくりご覧になってください。」
「ね。今にも動き出しそうよ。」

その婦人は、人形を一体一体取り上げては、話し掛けてみたり。連れの女性に、あれこれとささやいたり。

「ここのお人形、お値段ついてないわね。お幾らぐらいなの?」
「申し訳ございません。この人形は、どれも売り物ではないんです。」
「まあ。そう。なんて・・・。ああ。ごめんなさいね。なんだか、どの子も可愛らしくて。是非、うちにも一人、って思ったのよ。」
「お客様が謝ることではないです。悪いのはこちらですから。表にはCLOSEDのふだを掛けていたのですが、少し見えにくかったですね。」
「まあ、そうでしたの。嫌だわ。私ったら、お人形さん達を見て興奮してしまって、お店が閉まってるかどうかも確かめずに飛び込んでしまったわ。」
「人形達にも外を見せてやりたくて。」
「そうね。そうよね。」
「この子達、話し掛けられるのも大好きなんですよ。」
「分かるわ。今にも笑い出しそうな口元。ね。こんなに可愛いから、売りたくないのね。」
「ええ。まあ。僕の子供達ですから。」
「あら。男性でそんな風におっしゃるのって、変わってるわねえ。」
「もとは、全部妻のコレクションなんです。」
「そうなの。奥さんは?」
「育児に追われますよ。」
「そう。そうよね。本当の子供のほうが可愛いに決まってるわ。うちの孫もね・・・。」

婦人が連れの女性と楽しそうに話し始めるのを黙ってにこにこと聞きながらも、目は、僕の子供達を。

大丈夫だよ。誰一人、どこにもやらないから。

僕は、そっと目配せをする。

「ねえ。もし、この素敵なコレクションを誰かに譲りたいって思ったら、いつでも連絡くださいな。少々高くても、このお店丸々買い取るぐらいのことはできますから。」
婦人は、連れの女性に命じて、メモ用紙に連絡先を書かせる。

僕は、連絡先の紙を黙って受け取ると、二人のご婦人を、店の外まで送り出す。

外は曇って来たようだ。雨がウィンドウに線を描く。

今日は誰も来ないだろう。だから、人形達と静かに過ごそう。僕は、お茶を。それから、一人じゃ食べきれないほどのクッキーを皿に。

僕は、人形達から見えるようにして、先ほどの婦人が置いていった紙を破ってみせる。

--

以前、僕がまだ、人形に話し掛けることができないでいた頃。妻は、人形作家だった。テレビで、人形制作の模様が放映されてから、妻の作る人形は爆発的な人気を得て、僕は、妻の人形を客に売るのが仕事になった。

それまで貧しかった僕らは、多額の収入を得るようになり、生活は安定した。

だが、僕らは多忙過ぎた。

会話もあまりなくなった。

そんなある日、妻の妊娠が分かった。僕達は大喜びした。人形が売れるまでは、あまりにも貧しいせいで、子供を持つことをあきらめていたから。

それなのに。

僕は、妻がつわりで苦しんでいる時も、人形を作ることを強要し、注文を受け続けた。

そのせいかどうか。

子供は死産だった。

妻は、自分を責めた。僕も自分を責めた。それから、僕は人形を責めた。黙って冷ややかな顔をしている人形達。お前達が赤ちゃんが我が家に来るのを邪魔したんだな。もちろん、そんなものは、ただの言い掛かりだったのだが。

--

一年間、床に伏せっていた妻は、起きて人形作りを始めた。

「もう、人形はいいじゃないか。」
そんな僕の言葉に耳を貸さず。

妻は、一体一体、丹精込めて。最初の一体は、以前作っていたのとは比べ物にならないほどに活き活きとした表情をしていて。

それを僕に見せた時、こう言ったのをよく覚えている。

「ね?私達の赤ちゃん、きっとこんな風だったわ。」
優しく微笑んで。

僕も、その出来の素晴らしさに驚いて、早速、以前から妻の人形を好んでくれていた人々に連絡を取ろうとすると、妻は、言った。
「駄目よ。この子は、私達の子供ですもの。売っちゃ、駄目。」

それだけ言って、部屋に引きこもり、人形を。

もう二度と赤ちゃんが産めないと宣告されたのがよっぽどショックだったのだろうな。

僕は、だから、妻の好きなようにさせていた。

妻は、人形を。たくさんの人形を。全部に名前をつけて。話し掛ける。そうやったら、本当に人形が生きて、「おかあさん。」とでも答えてくれると信じているかのように。

夜は、妻の子守唄が、低く響く。

神もないものだ。

どんなに望んでも。人形は、人形だ。人間の子供にはならない。

時折、妻が僕に、人形のことを、まるで生きている子供のように教えてくれたりすると、僕は、調子を合わせこそすれ、内心は、困惑していた。

そう。ペットを我が子のように扱う人を見た時のような困惑。

妻は、そうやって、たくさんたくさんの人形を。いくら作っても、我が子は帰って来ない。

--

外は、雨が降り始めた。

人形達の顔も曇る。

「大丈夫だよ。誰一人、どこにもやらないから。」
僕は、人形達に微笑んで見せる。

人間というのは、不思議なものだ。

僕は、もう、この子達のうち誰か一人が欠けても、ワーワーと泣いてしまうんじゃないかと思っている。

この子はおしゃまだけど、お兄さん想い。

この子はわんぱくだけど、友達が多い。

この子は泣き虫だけど、誰か困っていたらすぐ手を差しのべる。

どの子も、可愛い。そう、可愛い僕の子供達。

妻は、今頃、天国で先に行って待っていた子の子育てを。僕らは、彼女がいなくなってしまっても泣かないで、一緒に楽しく暮らしている。そうして、午後はお茶を飲みながら、子供達が、ママの噂をするのに耳を傾ける。

こんな風に笑ってきみのことを話題にできるようになるには、僕ら随分時間が掛かったんだよ。

と、いうことも、きみは空から見て、知っているだろう。


2002年06月24日(月) それまではその最中、人形のように横たわっていただけの私は、その夜初めて、自ら動くことを覚えた。

そのままで充分に幸福だったはずだ。

やさしい夫と暮らして。

「いってらっしゃい。」
と、送り出す。

「いってくるよ。」
と、夫は微笑む。

「今日も遅くなるの?」
「今日は・・・。どうかな。遅くなるようだったら連絡するよ。」
「ええ。」

夫を送り出してしまうと、私は、長い一日をもてあましてしまう。

夫の実家からは、「子供はまだか。」としきりに問われる。子供を切望しているのは、私も同じで。姑が「何が悪いのかしらねえ。あなた、随分痩せてるけどちゃんと食べているの?」と、私のことをジロジロ見ると、泣き出したい気分になる。

月に一度か二度の、夫とのその行為は、夫がすべて決める。

夫は几帳面だ。私の排卵日も月経も全部把握していて、その行為をすると決めた日の朝は、夫は出掛けに「じゃあ、今夜、ね。」と言う。夫にそう言われた夜は、早めに布団を敷いて、夫の帰りを待つ。

夫婦で愛を交わすのは、子供を作るためだけなのだろうか?と、思わないでもないが、全ては、夫に委ねて。短い時間で終わるその行為は、取り立てて気持ちがいいとも思えないでいたが、それでも、そういった夜は幸福だった。

多分、私はいつも寂しいのだ。

待つばかりで。

子供ができたらいいのに、と、漠然と思いながら過ごしていると、なぜかとても悲しくなって涙が出てしまうことがあった。

--

その夜、夫は、午前二時を回った頃にようやく帰宅して来た。
「遅かったのね。」
「ああ。」

夫は、その日は、アルコールが過ぎていたように見えたし、何よりも、随分疲れているようで、フラフラと寝室まで行くと、そのまま布団に倒れこんで眠り始めた。

私は、着替えだけでもさせようと、夫の服を脱がせた。

そうして、ふと、私の手が止まった。

夫の胸に刻まれたみみずばれに気付いたから。

私は、胸をドキドキさせながら、夫にパジャマを着せてしまうと、自分も夫の傍らの布団に入る。胸の動機は治まらない。なぜ、あんな場所に?まるで。そう。女の人の爪がつけたみたいに。

私は、朝までまんじりともせずに、夜を明かす。

--

「いってくるよ。」
夫は、相変わらず優しい。

「いってらっしゃい。」
「そういえば、昨日の夜・・・。」
「ええ。あなた、とても疲れてらして。」
「すまなかったな。あんなに飲むつもりはなかったのに。今日は早く帰るよ。」
「分かりました。」

私は、夫を見送りながら、寂しい気持ちでいっぱいになる。あなた、何か隠していらっしゃるの?

--

それから、私は、夫の身辺を探るようになった。今までは全く気にならなかった携帯の履歴をチェックするようになり、夫の手帳を盗み見た。

夫は注意深く振舞っていたが、それでも、私のようなぼんやり屋を妻にしていたから油断していたのだろう。

私は、ある一つの住所を入手した。

夫が一週間の出張に出た、その日。私は、高鳴る胸を抑えて、その住所が示す場所を訪れる。何の変哲もないアパートの一室。

その日は、そこまでが限界だった。私は、その部屋の主に会う勇気もなく、逃げ帰る。変なの。逃げるのは相手のはずなのに。

イソヤマ ミチコ。

名前だけを頭に刻む。

--

夫が出張を終えて帰って来た夜、私は、私達夫婦にとっては異例な行動に出た。夜の行為を、私から誘ったのだ。

夫は、驚いて私を見て。それから、微笑んで。

「知らなかったな。」
と、言った。

私は、その日、初めて、その快楽の本当の意味を知った。

「すごいな・・・。」
夫が驚いたように、それから、嬉しそうに私を攻め立てる。私は、知らぬ間に、声を上げていた。それまではその最中、人形のように横たわっていただけの私は、その夜初めて、自ら動くことを覚えた。

翌朝、夫は上機嫌で家を出る。
「今夜も。いいね。」
その一言で、私は、体の芯が熱くなって、耳を染めながらうなずく。

--

私は、あの女を訪ねる。

イソヤマ ミチコ。

なぜか、勝つ、と確信して。夫に愛されている自信を武器にして、そのアパートに乗り込む。

「ああ。あの人の奥さん?」
色白のその女は、女の私にでも分かるような色気を漂わせていた。

「ええ。入ってもいいかしら?」
「どうぞ。」

女は、お茶を出して来ると、投げやりなしぐさで煙草を吸う。
「言いたいことは分かってるわ。」

私は、頭に血が昇る。
「じゃあ・・・。」
「言っておくけど、あたしじゃないから。離れないのは。あいつだから。むしろ、どっか行っちゃってくれたらどんなにいいか。」
「だって。あなた。」
「お嬢さん育ちのあんたには分からないでしょうよ。きっと、あいつは、あたしにするようなことはあなたにはしないんでしょう。」
「あなたにするようなことって・・・。」
「一体、あんたでも相手ができるのかしらね?」
「失礼ね。その・・・、夜のことでしょう?」
「そうよ。男と女がすることよ。」
「それなら、私にだって。」
「あら。そう。本当に?本当に相手ができるって?あの男は狂ってるよ。この前の夜だって、別れるって言ったら、ライターの火を突き付けて来た。」

それから、女は、着ていたローブの前をはだける。
「見てごらんなさい。」

そこには、色とりどりの傷。痣。

「ねえ。あんたが相手をしてあげられるの?あんたが全部引き受けてくれるなら、あたしは喜んであの男の前から姿を消すわ。」

女は、向こうをむいて、残りの煙草を。

私は、フラフラとした足取りで、アパートを出る。

完全な敗北だった。

--

夜が、怖い。

夫が帰って来た。

「あなた、お食事になさる?」
「いいや。食事はいいよ。それより、先にきみを。」

夫の目つきは、どこかがいつもと違っていた。

「プレゼントも買ってるんだ。」
夫が抱えて来た包みを見て、私は目をそらす。

「ねえ。知らなかったんだよ。きみがそんな女だって、ね。だから、僕は遠慮してたんだ。」
夫は、笑いながら、包みから、一つ一つ、取り出す。それらの道具は、私には使い方は分からなくても、私を不安にさせるに充分だった。

「さ。こっちにおいで。」
夫の目の奥が光る。

私は、そこから動けない。


2002年06月23日(日) その指が私の中で動くと、私は、何とも言えない奇妙な感覚にとらわれて。下半身が溶けていくように、力が入らない。

昼休み。

今日も、他の女性が連れ立ってお昼を食べに出るのを見送ってから、一人、デスクで家から持って来たお弁当を開く。会社に入って二年目なのに、まだ、他の人とうまくしゃべることができない。今年入社の新入社員でさえ、もう、気の合う先輩と飲みに行ったりしてうまくやっているというのに。

人とうまくやっていけない。高校を休みがちになって、結局、同級生よりも卒業が一年遅れてしまった。それさえも、更にコンプレックスになって、私は、うつむいて歩く癖が付いた。就職に奔走してくれた親や教師に悪いから、なんとか仕事は続けているけれど・・・。

「いつもお弁当なんだね。」
背後から声がする。

振り向くと、総務のキムラさんという男性社員がいた。

「はい。」
「何、読んでるの?」

傍らに置いた文庫本は、お昼を食べ終えた後の暇つぶし。

「たいした本じゃないです。」
「本、好きなんだね。」
「ええ。まあ・・・。」

こういう時、会話を続けるのが、私はとても下手だ。

「蛍光灯が切れたって、連絡受けてね。取替えに来たんだよ。」
キムラさんは、蛍光灯がチラチラと点滅している場所に椅子を引っ張って行く。

キムラさんは、いつも、左手に黒い皮のようなピッタリした手袋をしている。誰も、その手袋が何の役割を果たしているのか知らない。時折、女子社員の間で噂に上るが、キムラさんという人そのものが謎の人であるというところで会話が落ち着くようだ。あまりしゃべることもなく、会社の宴会などにも出たりしない、地味な印象のあるキムラさんだが、その手袋のせいだろうか。私は、どこか気になる。

「よし。できた。邪魔したね。」
キムラさんは、私に声を掛けると、部屋を出て行った。

ああ。どうして、こういう時に素直に声を掛けることができないんだろう。もっと話がしたかったのになあ。そんなことを悔いている自分に驚く。変だな。私。人としゃべるのは苦手なのに。

私、多分、キムラさんに興味を持っている。キムラさんなら、私みたいな人間の相手をしてくれそうだって思ってる。私は、勝手に、キムラさんと私を同類だと思い込んでいるだけかもしれない。

--

部長が、所属替えで名古屋に行くことになるというので、今日は、壮行会が行われた。

酒の席で。

またしても、私はポツリと一人、周囲の喧騒から外れている。

ボンヤリと飲んでいると、キムラさんの噂が聞こえて来た。

「ね。ね。キムラさん、ちょっとよくない?」
「え?キムラが?なんか、暗いじゃない?」
「うーん。なんていうかな。クールでさあ。なんか、あの冷たそうな眼がぞくぞくするのよね。」
「やだ。そんな趣味?」
「うん。大人って感じしない?」
「そう言われたら、そうかもねえ。」
「なんか、上手そうじゃない?」
「上手って?」
「だから・・・。」
さすがに声をひそめている女性社員の話を聞こえないふりをしても、自然に顔が赤らむ。

それから、心の中がチクチクしているのに気付く。

え?なに?これ。嫉妬?

そうだ。私は、彼の噂に激しく嫉妬している。彼を素敵だと思うのは、私だけで充分なのに。他の女の子がみんな彼を狙っている気がして。

私は、急に苦しくなって。

席を立つ。

「あら。どうしたの?サワダさん。」
「すいません。なんか・・・。気分が・・・。」
「帰ったほうがいいわよ。」

周囲に言われて、私は、タクシーに乗り込む。

それから、自然と口を突いて出た先は、自分の会社だった。

--

「やっぱり。」
やはり、キムラさんは、まだ仕事をしていた。

「どうしたの?」
「あの。忘れ物して。」
「今日、壮行会だろう?」
「ええ。途中で抜けて来ちゃった。」
「そうか。」
「キムラさんは?どうしていつも、会社の行事には参加しないんですか?」
「苦手なんだよ。僕は、そういうの苦手でね。時間の無駄だし。」
「そう・・・。」
「ちょっと待ってて。もうしまうから。送って行くよ。」
「あの。すいません。」

私は、思わぬ幸福で、足が震える。

「ごめん。待たせちゃったね。」
「いいんです。」
私は、キムラさんと並んで歩いて幸福だ。

「あの。キムラさんは、付き合ってる人とかいるんですか?」
「僕?いないよ。第一、もてないし。」
「でも、割と噂とか聞きますよ。」
「はは。女の子の噂はあてにならないからなあ。サワダさんこそ、もてるでしょう。」
「いえ。全然。」
「そうなの?こんなに可愛いのに。」

可愛い?私が?

少し、自信持っていいのかな。

それから、駅まで黙って歩いて。

最後、私は勇気を振り絞る。今、言わないと。もう二度と。
「あの。私と付き合ってもらえませんか?」
「僕?」
「はい。」
「ごめん。僕、会社の人間とは、そういう付き合いはしたくないんだよ。」

張り詰めた風船は、あっという間にしぼんでしまった。

「やっぱり。」
「誤解しないで。きみが嫌いなわけじゃない。むしろ、同じ会社の人間じゃなかったら、迷わずOKしてたよ。」
「すいません。帰ります。」

逃げるように走る。

ああ。馬鹿みたい。つい。優しくされたからって。言わなきゃ良かった。

--

私は、翌日から仕事を休む。

誰も、私一人がいなくなっても困らないのだ。

最初は仕事内容の問い合わせの電話も何本かあったが、そのうち誰も気にしなくなった。

アパートで一人なのは、気が楽だ。もう、会社で辛い時間をやり過ごすのは限界だったんだ。

そう思って。それから、キムラさんが心の支えだったことに気付く。

ああ。本当に、馬鹿だ。それぐらいのことで。フラれたぐらいで。私は、唯一の社会との繋がりさえ、失おうとしている。

休んで一週間が経った頃だろうか。

電話が鳴る。

「はい。」
「あ。僕。キムラです。」
「キムラさん?」

胸がドキドキする。

「心配してるんだよ。どうしたの?」
「すいません。私、もう、会社辞めます。」
「なんで?僕のせい?」
「そんなんじゃないんです。」
「ともかく。今日帰りにそっちに寄っていいかな?」
「それは・・・。」
「いいだろう?」

そこまで言われて、私は嬉しかったのだ。部屋を片付ける。それから、キムラさんのことはよく分からないけど、灰皿を用意したり、お酒も幾つか。

分かってるよ。キムラさんは、心配して。それだけ。

「押し掛けてごめん。」
「いいんです。嬉しいから。」
「綺麗に片付いてるね。」
「ええ。」

私は、落ち着かなくて。彼のために用意したワインを、一人で空けてしまう。

お酒、弱いのに。

「あの。私、会社辞めるから。だから・・・。」
「いいよ。」
「いいって?」
「服、脱いで。」

彼は、奇妙に冷たい声で言う。

「あの・・・。私、シャワーを・・・。」
「そのままでいいから。」

飲み過ぎてボンヤリした頭で、私は言いなりに服を脱ぐ。

「こういうの、初めてなんです。」
「僕でいいの?」
「はい。」

彼は、その時、左手から手袋を外す。

私は、思わず息を止めて。どんな醜いものを隠しているの?と思ったが。そこにはしなやかな白い指。彼は指の具合を確かめるように、ヒラヒラと動かして。

「おいで。」
と、私に言うから。私は魔法に掛かったように。

彼の愛撫に身を任せる。

指が、その部分にそっと差し込まれた時、私は恥かしさで泣きそうになった。

その指が私の中で動くと、私は、何とも言えない奇妙な感覚にとらわれて。下半身が溶けていくように、力が入らない。

「そうだ。力を入れないで。」
彼は、優しく言う。

「ええ。もう・・・。」
いずれにしても、もう私の意思では下半身は動かせない。彼の指に、体ごと預けたまま。

そのうち、彼は、唇を下半身に滑らせて。私の体を吸っている。音を立てて。あんまり気持ちいいから、私は、つい、声を漏らしてしまう。

「素敵だろう?」

私は、黙ってうなずく。もう、私の下半身はどうやってもうごかせない。

「この左手から出る触手はね。気持ち良くさせて、溶かすんだよ。痛みはないだろう?」

私は、もう、首から下まで動かなくなっている。もうすぐ、考えることもできなくなるだろう。頭がボンヤリして。

私一人がこの世界からいなくなっても、誰も困らないから・・・。

彼の唇が、溶けた私の体をすする音が聞こえている。

私は、幸福だった。生まれて今日までで一番幸福だった。


2002年06月21日(金) 彼女ののけぞった白い喉に男の舌が這うのを見ると、いつも僕はドキドキする。そうして、顔をそらし、双眼鏡を置く。

僕は、川のこちら側で、毎日のように双眼鏡で。

彼女は、川のあちら側で、そうとは知らず。

川は、流れが速く、水量が多く。橋は壊れたまま。誰もこんな場所に橋を掛けようとは思わない。僕は、鳥と共に暮らす。人間とはうまく話すことができなくて。唯一、僕と一緒にいてくれた人は、いたにはいたが、僕は、最終的に鳥と暮らすことを選んだ。

僕は、そういうわけで、対岸を双眼鏡で眺める。

彼女は、その寂しい場所で、いつも男を待っている。

毎日、毎日、見ているものだから、僕は彼女のことを何でも知っている。三枚しかないブラジャーをいつも丁寧に洗う彼女。男が来るのは、木曜と土曜。彼女は、髪を結い上げているのが好きだが、男は下ろしているほうが好きだから、男が来る日は、彼女は、長い長い髪を下ろし、ブラシをあてる。何時間も。何時間も。そうやって、彼女は、その男が来る日だけを生きる理由にしているように見える。

男が来ると、彼女は、嬉しそうに出迎えて。テーブルに載せられた皿は、男が来る前に冷めてしまわないようにと、注意深く計算され、並べられる。だけど、彼女が午後一杯かけて作った料理を、男は食べることもあるけれど、食べないこともある。そんな時、彼女は少しばかり寂しそうな表情を見せる。

食べない日は、男は、部屋に入るなり、彼女の腕を引き寄せる。彼女ののけぞった白い喉に男の舌が這うのを見ると、いつも僕はドキドキする。そうして、顔をそらし、双眼鏡を置く。だけど、やっぱり気になって。僕は、再び双眼鏡を手にする。そうすると、彼女の柔らかい体から、柔らかい布はすっかり剥ぎ取られて。男の背中だけが見える。食卓やら。立ったまま、クローゼットのドアに押しつけられて。彼女は苦しそうに顔を歪めている。あるいはそのほうが、僕にとってはいい。奥の寝室は、ここからじゃ見えないから。

ねえ。僕がやってることは変だろうか。

だが、僕は、彼女を見ることが、なぜか彼女を愛する最良の方法に思うのだ。

だから、僕は双眼鏡を覗く。今日も覗く。

--

女は、もう、随分と長いこと、そこで一人でいた。彼女にとっては、唯一、待つことだけが人生だった。以前には、もっと違う幸福もあったはずなのに、それはもうとっくに忘れ去ってしまって。ただ、男がそこを訪れて来るのを待ちわびて、ただ、髪を梳き、料理を作り、体を洗って暮らした。他は、食べ物や衣類を持って来る老婆だけ。人と会うのはそれだけだったが、それだけで充分だった。

だが、最近の男はうわの空で。

カレンダーだけが唯一時間の流れを思い出させるが、木曜も土曜も来ない日もあって。

そんな日は、女は、川のゴウゴウと流れる音を聞いて過ごす。

--

僕は、彼女の木綿の下着が風に揺れるのを、悲しい気分で眺めている。

この前の木曜日、男は彼女を訪ねては来なかった。その前の土曜日も。

その木綿の下着が、やけに寂しそうで。

この川がなければ、僕は彼女のそばにいって慰めてあげることができるのに。そうして、僕は、鳥の真似をしてあげるだろう。

チチチチチ。

彼女は感心したように目を丸くして、それから、もう一度やって、とせがむだろう。

そうしたら、僕はこう答える。
「気に入ったかい?これは、鳥の求愛なんだよ。」

彼女は、顔を赤らめてうつむく。

「鳥にも発情期があってね。誰からも見初められない雌が、間違えて僕のところに来ることもあるんだ。」
そんなことを教えてあげよう。

そうして・・・。

いけない。また、つまらない妄想を。僕は、長い事、人としゃべっていないから、こんな風に誰かと滑らかにしゃべる自信もなくて。

--

ある日のこと。

もう、何週間も男は来ないままで。本当に久しぶりに、男は現われた。彼女の喜びようといったら、それはもう、見ているこちらの胸が痛くなるほどで。

彼女は、片時も男から目を離さず。

男が不機嫌そうに彼女の作った料理を食べている間、じっとそれを見つめている。

そのうち。

ああ。何ていうことだろう。口論が始まったようだ。もみあって。男の手が、彼女の頬を打つ。彼女の姿が見えなくなる。多分、床に倒れてしまったのだろう。ああ。どうしたらいいんだ?男は、何度もしがみつく彼女を振り払って、振り払って。彼女は、口を覆って泣いている。

ああ。きっと、彼女は彼に捨てられるのだ。

男が部屋を出て行こうとしている。

その時、彼女は、男の背中に体当たりして行った。

あっ。

僕は、こちら側で声を上げる。

ヨロヨロと離れた彼女の手が真っ赤に染まって。あれは、血だ。

一体、何が?

血に染まった背中が、視界から消える。

彼女は、そこに立ち尽くしたまま。随分と長い間、動けずにいた。

ああ。何度目だろう。もし、僕がそばにいてあげられたら。そう願わずにはいられない。

僕がそばにいたら、きっとこう言ってあげることだろう。
「きみは正しいことをしたんだよ。間違ってないよ。だから、絶対に自分を責めないで。」

僕は、その途端、疲労困憊して、双眼鏡を落とすと、意識を失ってしまう。

大丈夫だから。ねえ。

--

翌朝、僕は意識が戻ると、すぐに双眼鏡を覗く。

昨日の血の跡は、もう、どこにもなく。そこには、ただ、静かに泣いている彼女がいるばかりだった。泣いて泣いて。食事も取らず。美しい髪の毛ももつれたままで。ただ、泣いている。

その泣き声が聞こえてくるようで、僕は胸が締め付けられるのだった。

川が。川がなければ。

川は、今日もゴウゴウと音を立てて。

僕は、フラフラと川に近付く。

ねえ。もしかしたら、僕は川を越えて、彼女のそばに行けるかもしれないよ。どうしてそんなことに今日まで気付かなかったんだろう。双眼鏡を覗く。彼女がこちらを見ている。僕に気付いたのだ。ああ。待ってて。きみ、僕を待ってるんだろう?ねえ。今すぐ行くから。すぐ行くから。そうして、きみを慰めてあげるから。

僕は、川に飛び込む。

--

女は、川岸に引っ掛かっている双眼鏡を見つけて、拾い上げる。

誰が落としたものだろう。

ふと、何気なく、双眼鏡を目に当てて。対岸を見ると、そこには、美しい鳥。赤や緑の鮮やかな羽の。

「なんて、綺麗なのかしら。」
彼女は、飽きることなく、対岸の鳥達が戯れる様を。

ああ。鳥ですら、愛を交わし幸福そうだわ。

それは、少しばかり慰められる光景でもあり。

あちら側に行くことができたら。

そんなささやかな希望をくれた双眼鏡は、もはや彼女の宝物になっていた。

彼女は、川のこちら側で、毎日のように双眼鏡で。


2002年06月20日(木) 最初は、遊びのつもりだったのだ。いろんなところに連れて行ってくれる、大人の彼にわがまま言って困らせるのが楽しかった。

「ごめんね。やっぱり、駄目だった。」
と、私は、うつむいたまま。

「わかってたけど。」
その人は、寂しそうにつぶやいて。

「あなたが悪いんじゃないのよ。」
「うん・・・。」
「私のせい。全部、全部、私のせい。」
「何言ってんだよ。結婚は、二人の責任だよ。」
「明日、荷物まとめるから。」
「ああ。」
「今日は、ホテルに泊まるね。」
「ここにいてもいいのに。」
「駄目よ。もう、駄目なの。あなたのそばにいるだけ辛くなるから。」
「離婚届は、明日までに記入しておくから。」
「うん・・・。」

私は、待たせていたタクシーに乗りながら、涙が止まらない。

何とか、あの人を忘れようと思ったのに、駄目だった。そうして、代わりに愛してくれる人と結婚すれば、いつか、その人を愛せると思っていた。最初から、私の心に誰かいると知っていて結婚してくれた優しい人を傷付けて、私は今日、家を出て行こうとしている。

--

最初は、遊びのつもりだったのだ。いろんなところに連れて行ってくれる、大人の彼にわがまま言って困らせるのが楽しかった。結婚して、子供が二人いるというその人は、私のわがままを可愛いと言ってくれた。

私は、並行して、若い子と付き合ってみたり。

男も、女も、恋の波は、高くなったり、低くなったり。

彼の子供が中学生になった頃、男の波は最高潮に高まった。離婚する、というのだ。
「なんで?あんなに子供が可愛いって言ってたのに?」
「だがね。子供が激しく親を求める時期はもう過ぎたんだよ。今なら、私達が離婚すると言ったら、彼らは、もう、両親のどちらかを自分で選ぶことができる年齢になったんだ。」
「そんな。駄目よ。だめ、だめ。」

ちょっと待ってよ、と思った。あなたと違って、私はまだ若いんだし。まだ、遊びたいから。

そのうち、彼の気持ちも落ち着いて。奥さんの体があまりよくないから、そばにいてやると言い始めた頃に、今度は、私の嫉妬が抑えられなくなった。

「結婚したいの。」
と言って、泣く私の前で、彼は困惑していた。

何度も何度も話し合って。

別れを決めたのだった。

これ以上、傷付け合わずに会い続けることは無理なぐらい、私達は、長い期間一緒にい過ぎたから。

「結婚するわ。」
「そうか。幸せになりなさい。」

それが、私達の、最後の会話。

--

「ねえ。おばあちゃん。」
私は、庭に立ったまま、泣いていた。

「おや。どうしたの。道に迷っちゃったんだね。」
「うん。」
「ほら。泣いてばっかりいたら、可愛い顔が台無しだよ。」
「うん。」
「こっちおいで。飴、あげよう。」

おばあちゃんは縁側に座って、かっぽう着のポケットから、飴を出してくれる。

おばあちゃんはいつもそうやって、私が泣いたら飴をくれる。

涙のしょっぱさと、飴の甘さが入り混じる。

「おばあちゃんいつもここに一人で暮らしてて、寂しくないの?」
「そうだねえ。マリちゃんが大きくなるところなんかを想像してたら、一日はあっという間だねえ。」
「おばあちゃんは、マリのことが好き?」
「好きですよ。」
「だったら、マリにずっとずっとそばにいてもらいたいでしょう?マリ、ここにいる。もうおうちには帰らない。」
「それは駄目よ。ここは、なあんにもないところ。マリちゃんがいるようなところじゃないよ。」
「だって。マリ・・・。」

私は、おばあちゃんの膝の上に顔を伏せて、泣き出す。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あたし、いい子でいようと思ったのに。」

おばあちゃんは、そんな私の背中をポンポンと叩いて、
「マリちゃんはいい子だよ。よく頑張ってるよ。不思議だねえ。頑張ってる子ほど、ごめんなさい、って言うんだよね。おばあちゃん、見てるから。マリちゃんが頑張ってるの、見てるから。」
とやさしく言ってくれるけど、そんな言葉に、余計大声を上げて泣いてしまう。

「少し眠っておいき。マリちゃんは、まだ、ここに来ちゃいけないよ。だけど、ちょっと疲れちゃったんだろう?そういう時は、眠るといい。」
おばあちゃんが頭を撫でてくれる。

随分と、泣いて、泣いて。

泣き疲れて。

私は、おばあちゃんの膝でまどろむ。

おばあちゃんが手を握っていてくれるから、私は安心して眠ることができる。ちょっとぐらいいいよね。ちょっとだけ眠ったら、ちゃんと帰るから。おばあちゃんを困らせないように、おうちに帰るから。だから、ちょっとだけ。

--

「気が付いた?」
その声は、暖かくて、優しい。

病院だった。点滴の管が見える。そうだ。薬飲んだんだ。もう、生きてられないと思ったから。

手を握っていてくれてたんだ。

「うん・・・。あたし・・・。」
「いいんだよ。もうちょっと眠っていなさい。」
「あなたは?」
「ああ。僕は、今夜だけは何とか付いててあげられるから。明日には、安心して戻りたいんだよ。」
その声は少し震えていた。

「あたし、ちゃんと幸せになろうと思ったの。あなたがいなくても、ちゃんとやれるように頑張ろうって。あなたが、奥さんのために家に帰ったのなら、私も、ちゃんと夫と幸せになろうって。そうやって、随分と頑張ったのに・・・。」
また、涙が溢れる。

「結局、あの人も傷付けて。」
「きみは、きみで頑張ったんだろう?」
「うん。なのに、結局、あなたにまで迷惑掛けて。」
「迷惑じゃないよ。こうやって、きみに付いていられて嬉しいんだよ。」
「ねえ。もう、無理だって分かったの。他の恋ができると思ったけど、あなたじゃないと駄目だったの。若い頃は、恋なんて、ひとつ失くしても、また、手に入ると思ってた。だけど、大人になってしまったら、もう無理なのよ。」

握ってくる彼の手に少し力がこもる。
「僕もだよ。きみがいて、元気で頑張ってると思うから、僕も頑張れる。」
「ねえ・・・。今夜一晩、手を握ってて。」
「ああ。」
「わがまま言ってごめんなさい。」
「嬉しいよ。」

本当に。

もう、恋の取り替えは利かないんだとしたら、大人って随分と不器用だ。

朝になったら、あなたは帰ってしまう。

今日だけは、まだ、私の元にいて。

ねえ。お願い。


2002年06月19日(水) だって。いなくなると思わなかったから。ずっと、そこにいてくれると思ってたから。だから、僕は、彼女にそれ以上

素直に可愛いと思ったので、声を掛けた。

僕のバイト先のコンビニで働いているショートカットのひと。元気で、キビキビと働いて、声がよく出てて。少し年上かなと思ったけど、構わないと思った。

昼休み、彼女が自前のお弁当食べてたから、僕は声を掛ける。
「ねえ。今度の日曜日、暇?」
「今度の日曜日・・・?」

その時、運悪く、彼女の携帯が鳴る。

彼女は、
「ありゃりゃ。」
とか、声出しながら電話受けてて。

「悪いわね。すぐ帰らなきゃ。緊急事態!」
とか言って、店長に連絡取ってた。

昼から交代のバイトの女性が、
「エツコさん、また、子供かな。」
とつぶやいてたので、
「え?子供?」
って聞き返した。

「うん。エツコさんとこの男の子さ。時々問題起こすのよね。あそこ、女手ひとつで男の子三人だから大変なのよ。」
と教えてくれた。

なんだ。子供いたのか。

それからは、何ていうかな。

女性というより、むしろ、頑張ってるお母さんに手を貸したい、みたいな感じで、僕は、彼女を陰ながら応援させてもらってる。

--

ある日、彼女はいつになく憂鬱そうな顔で仕事をしている。僕は、そんな彼女が気になって、お昼を誘う。

「どうしたんですか?今日、元気ないですね。」
「うーん。そう?」
「それぐらい、分かりますよ。」
「もうすぐ、夏休みだよねえ。」
「ええ。」
「親子キャンプ、さあ。父親じゃなくちゃ駄目だって言うんだ。あ。長男の事なんだけどね。で、無理って知ってて、行かないって言うんでね。可哀想でさ。」
「それって、どんなの?」
「普通の体験学習みたいなやつだよ。テント張ったり。で、もう、母親とか付いてくんのとか、嫌がるしね。六年なんだけど。」
「あの。僕、でもいいですかね。」
「え?」
「僕、そういうのちょっと得意なんですよ。」
「駄目だよ。そんなの頼めないよ。」
「いいんです。」
「うちの子、ヤンチャだしねえ。この前も、友達殴ったってんで、学校から呼び出されたし。」
「はは。元気があっていいじゃないですか。僕、そういう子のほうが好きかも。」
「じゃ、頼もうかな・・・。」
「ええ。任せてくださいよ。」

彼女がうつむいた拍子に、ちょっと泣いたように見えたから、僕はどぎまぎする。

「戻ろうか。」
こっちを向いた彼女は、もう、いつもの笑顔で。

「あ。はい。」
「ね。こないだのさ、お昼。何か言いかけたじゃない?あれ、何?」
「あ。もういいんです。」
「そう。じゃ、キャンプの件は、また電話するから。ほんと、助かる。」

彼女は、そうやって、足早に店に戻ってしまった。僕は、携帯電話に登録したばかりの彼女の電話番号に、心がちょっと、あったかくなった。

--

キャンプは、なるほど。みんな父親が付いて来ていた。僕は、親戚のお兄さんということで付いて行った。

最近の六年生はびっくりするほどしっかりしていて。照れていた僕に、彼女の息子のマサヒロは、向こうから話し掛けて来た。

「まだ、若いね。」
「ああ。大学出て、フリーターしてんだ。」
「ふうん・・・。」

そうやって、ジロジロと僕を見るから。
「何?」
「うん。母さんの恋人にしたら、若いなあって思って。」
「はは・・・。そういうんじゃないよ。」
「前のオジサンより、若い。髪の毛がある。」
「前のって?」
「時々、うちに来てた。俺ら、そのオジサンのことあんまり好きじゃなかったな。ヘラヘラして。」

うわ。駄目だ。そういう話、よくないわ。ああ。これって嫉妬なのかな・・・。

「こないだ友達殴ったって?」
慌てて話題を変える。

「うん。まあ。」
「お母さん、心配してたぞ。」
「うん。」
「どっちが悪かったの。」
「どっちも。だけど、母さんが困るから、先に謝った。」
「ふうん。」

僕らは、大人の男同士みたいに、分かったような顔して。

そんな風にして、一泊のキャンプはあっという間に終わった。

駅に降り立つと、マサヒロの弟達が、「にーちゃん、にーちゃん。」とピョンピョン跳ねて待っていた。

それから僕達は、駅の近くの喫茶店に入って少し休む。マサヒロの弟達が、僕の膝に乗ったりして、はしゃぐ。

「ありがとうね。ほんと、助かった。」
別れ際、彼女が頭を下げる。

「いえ。どっちかっていうと、僕が気を遣って話し相手してもらったみたいになったんです。」
僕は、マサヒロに向かって、
「じゃな。しっかりやれよ。」
と、声を掛ける。

「ああ。お前も頑張れよ。」
と、マサヒロが大人びた口調で言うから、僕はものすごく焦る。

--

それからは、もう、彼女に話し掛けると言っても、子供の話とかばかりで。接点がなかなか持てないままに、夏が過ぎて行く。

やっぱり、彼女のこと、好きみたいだ。

それから、夏が終わって、ある日バイトに出ると、彼女の姿がなかった。

また、子供かな、と思っていたら、
「辞めたみたいよ。田舎に帰るんだって。」
と、教えてくれた人がいた。

そうか。

なんだか、ものすごいショックで。

だって。いなくなると思わなかったから。ずっと、そこにいてくれると思ってたから。だから、僕は、彼女にそれ以上踏み込まなくても平気だったんだと気付いた。

マサヒロの大人びた目を思い出す。

イクヤは、小学校に入っても、オネショが治らないと言ってたけど、大丈夫かな。

ダイキは、最近、すごくおしゃべりになったから、将来はお笑い芸人になるって言ってたな。

なんだか、そんなことをグルグル考えて、どうしようもなく寂しくなってしまった。

ふと思い出して、バイトが終わってから、彼女の携帯に電話してみる。キャンプの打ち合わせ用にと聞いたきり、掛けてみようと思わなかった番号だ。

「もしもし。」
彼女の声。

「あ。俺。」
「どうしたの?」
「どうしたのって。何で俺に一言も言わずに行っちゃうわけ?」
「あなたには関係ないもの。」
「関係あるだろう?マサヒロのことも、イクヤのことも、ダイキのことも。変だけど、俺、自分の家族みたいに勝手に思ってたんだから。」
「そんなこと言われても。」
「それに、俺達、友達だったんじゃないの?違ってたのなら、俺、馬鹿みたいだよな。」
「辛かったんだもん。ほら、あたしって、子供抱えてるじゃない?だから、みんなに助けてもらってばっかりでさ。そういうの、なんか、プライドっていうのかな。時々すごい傷付くんだけど。でも、そんなこと言ってたら、食べてけないから。結局、生活のためだって割り切って、手を貸してもらうわけよね。あなたにも。そういうのが、なんだか、辛くなっちゃったのよね。」
「馬鹿だな。お前ってどうしようもない馬鹿。」
「だって、しょうがないじゃん。どうせあなたには分かんないわよ。」

その時、初めて、僕は、彼女が電話の向こうで泣いてるのを知る。

「今、どこ?」
「どこって。田舎だよ。」
「行くからさ。」
「もう、夜だよ。」
「いいからさあ。それとも、俺が行くの嫌?」
「子供達は喜ぶと思う・・・。」
「エツコさんは?エツコさんはどうなの?」
「そんなことないけど・・・。」
「じゃ、いいよね。俺、押しつけがましくないよね?」
「ほんと言うとね。すごく嬉しい。電話して来てくれたこと。あたし、こんなだから、自分からは出来なかったから。」
「何言ってんだよ。今の言葉で勇気百倍だよ。すぐ行くから。」

待ってなよ。と、慌てて、財布の中身だけ確かめて、駅に向かう。

あ。場所聞いてないや。

ま、いいか。また、電話すれば。

あの時、誘おうと思ってたデートも、まだ誘えてないままだし。多分、これから何度も掛けることになる電話番号は、もうすっかり頭の中にあるから。


2002年06月18日(火) ある日、私は、庭でツルリとした石を拾った。子供の手の平には少し大きいくらいの、その石は、触ると暖かかった。

幼い頃、私は両親が共働きだったので、いつも小学校から帰ると祖母の家に行っていた。祖母の家の近所には同じ年頃の友達がいなかったので、私はいつも退屈して、庭で一人遊んでいることが多かった。

祖母は、おやつを出してくれると、
「かあさん、もうすぐ迎えに来てくれるよ。」
と、繰り返しつぶやいて。それは寂しがる私を慰めてくれようとしていたのだと思う。

ある日、私は、庭でツルリとした石を拾った。子供の手の平には少し大きいくらいの、その石は、触ると暖かかった。撫でると、何か音を立てたので、耳を近づけてみると、笑い声のようなものが聞こえた。キャッキャッとも、クスクスとも、ケラケラともつかない、子供のような笑い声だった。その笑い声は、本当に楽しそうで。私もつられて笑顔になった。

私はその石にケラケラと名付けた。

退屈な時は、そっと石を取り出して石を撫でる。

以前、近所のお姉さんが結婚して出て行って、ある日、赤ちゃんを抱いて帰っていたことがあった。あの時、私も赤ちゃんを触らせてもらったけど、みんなが抱いて、ほっぺたを撫でたりするたびに、あの赤ちゃん、笑い声を立てて。丸々とした顔の中で、目が糸みたいに細くなってた。赤ちゃんを見ているみんなが、赤ちゃんにつられて笑顔になってて。私も何だか嬉しくなって。

あの時のことを思い出す。

ケラケラが笑うたびに、私は、一緒に笑う。そうして、ケラケラを喜ばせようと、祖母に頼んで、きれいな手ぬぐいをもらうと、時間を掛けてピカピカにしたり、手の上で揺すったりして。

そんなわけで、私は寂しくはなかった。

祖母は、私が小学校五年の時に亡くなり、それからは私は自宅で両親の帰宅を待つようになったが、ちっとも寂しくはなかった。

--

私は、多少孤独な幼少期を送ったかもしれないが、中学に入ると友達も増え、短大を経て社会人になるまで、大して悩むこともなく、平凡で甘えた人生を送ることができた。

ケラケラのお陰かもしれない。

それは、私のお守りのように、私の机の片隅で眠っていても、私が取り出すと、私に応えて笑い声を立ててくれる。

そうして、大人になって、私は某メーカーの総務として勤め始めて、そこの営業の男性に申し込まれ、交際を始めた。

--

「ねえ。ケラケラ。あたし、結婚するのよ。」
私は、幸福の絶頂で、その石に向かって告白する。

ケラケラの声は優しかった。

--

結婚と同時に会社を辞めた私は、家で、新妻らしく、一生懸命掃除をし、料理を作って夫を待つ暮らしに入った。もともと、仕事をバリバリとやるというのに向いてなかったせいだろう。私は、家に入っても、それなりに幸福で。

時折、実家に行くと、もう、定年退職した母が出迎えてくれる。

「あの頃は、お前に寂しい思いをさせて悪かったねえ。」
と、母はすまなそうに言うけれど、私は、寂しくなかったよ、って答える。

母の姿を見て育った反動で、専業主婦になったわけじゃないけれど。

早く子供が欲しいと思っていた。

その子供は、きっと、よく笑う愛らしい子供になるだろう。

--

夫の帰宅が遅くなったのは、結婚から半年経った頃で。忙しいんで遅くなる、という電話が続き、次第に、泊まりでの作業だと言って、帰らない日が増え始めて。

私は、ようやく、夫の嘘に気付く。

それまでぬくぬくと生きて来た私には、誰かとぶつかるという経験が不足していたため、どうにか、穏やかに話し合おうとするものの、混乱して泣いてしまい、話し合いすらまともにできない状態が続いた。

そんなある日。夫は、昨日から帰って来ないという状況で、知らない女性から電話が掛かってくる。

「あの人と別れてください。」
と言うのだ。

私は、電話を切ると、自分の部屋に駆け込んで、タンスの奥からケラケラを取り出す。長いこと、放りっぱなしだったケラケラは、声を立てなかった。私は、腹を立てて、ケラケラを壁に投げ付ける。何度も何度も投げ付ける。壊れて粉々になればいいと思って投げ付ける。

けれど、ケラケラは壊れなかった。ただ、つやを失って、冷たくなって、転がっていた。

私は、泣きながらそれを拾って、さすってみるものの、もう、二度とケラケラは声を立てない。

私は、一晩中起きて、ケラケラをさすり続けて。

それから、庭に出て、地面に穴を掘り、ケラケラを埋めた。

「さようなら。」
と。

--

丸三年が掛かった。

夫と、私は、長い長い時間を掛けて、お互いのわだかまりを少しずつ溶かし、素直になることを覚えた。

ケラケラがいてくれたら、と思うことがしょっちゅうあった。暖かくて力強くて、まっさらな笑い声が、今、一番必要なのに、と思うと、少し悲しくなるのだった。

だけど、私は知っていたから。聞くことは出来なくても、そんな笑い声が確かに存在していたことを。だから、夫婦の最悪な時期を、私は何とか乗り切ることができた。

そうして、私は、身ごもって、元気な女の赤ちゃんを生んだ。

丸々と太ったその子に、私と夫は、笑美子と名付けた。

良く笑う子だった。

いつか、この子がもう少し大きくなった時読んで聞かせてやろうと、私は、「ケラケラ」という題名の絵本を描いている最中だ。


2002年06月17日(月) 僕はその時笑えなかった。それどころか、可哀想で泣いてしまった。そうして、彼女を抱き締めて、髪を撫でた。

街を歩いていると、女子高生の格好をした女の子が、
「ねえ。あたしを買ってよ。」
としがみついて来た。

「な・・・。」
僕は、驚いて身を引いた。よく見ると、その子の制服は汚れていたし、靴はボロボロだった。

「とにかく、おいで。」
僕は、少女の手を引いて、自分のマンションに連れて行った。

冷蔵庫から食べ物を出して並べると、
「何か食べろよ。腹空いてんだろう?」
と、言った。

少女は、首を振って、
「先に抱いてよ。」
と、言った。

「無理だよ。僕は、何かと引き換えに誰かを抱くなんて無理だ。」
と答えた。

少女は、僕の答えに構わず、僕の上に乗って来た。

「おい。ちょっと・・・。」
そんな僕の腕を握った手の力は案外と強く。僕らは、少しもみ合って。だが、そのうち少女はあきらめて、僕から体を離す。

「きみ、家は?」
「出て来た。」
「家出?」
「逃げて来た。」

僕は、タオルと着替えを手渡すと、シャワーを浴びるように言った。少女は黙ってうなずいて、バスルームへと入って行った。

--

家を出て来た少女は、しばらくの間、僕の部屋にいた。何かに怯えているようなので、昼間は外に出ないように言い、僕は仕事に行った。帰宅して、僕が作ったささやかな夕飯を食べると、少女は、いつも、僕をベッドに誘う。

最初は拒んでいたが、断ると彼女がひどく傷付いた顔をするのだ。

「何もせずにここにいるわけにはいかないから。」
と、彼女は、服を脱いだ。

その体を初めて見た時、僕は息を飲んだ。

乳房の下から、下腹部にかけて、醜い傷跡があったから。

「どうしたの?これ。」
「父さんにされた。」
「だって・・・。」
「あの時は、病院にも連れてってもらえなかったから、こんなことになっちゃった。」
彼女は、笑って見せるけど、僕はその時笑えなかった。それどころか、可哀想で泣いてしまった。そうして、彼女を抱き締めて、髪を撫でた。それは間違っていることなのかもしれない。つまらない感傷なのかもしれない。

--

翌日も、夕飯の後、彼女は僕をベッドに誘い、服を脱ぐ。そうして、じっとしている僕の服を脱がせ、慣れた手つきで、僕の快楽のポイントを刺激し始めるから、僕は、彼女の小さいお尻を見つめながら、また泣きそうになるのだ。

多分、そうやって、彼女はずっと生きるために自分を売ることを教え込まれて来たのだろう。

「もう、いいよ。」
と、どんなに言っても、彼女はやめない。

それから、僕の手を取って、自分の薄い胸に持って行く。

「ねえ。あたしにも触ってよ。」
彼女が言うから。

僕は、傷に触れないように注意深く、その胸を愛撫する。

はぁ・・・、と、小さく、溜め息が漏れる。

「ねえ。入れてよ。」
と、彼女がささやく。

「できないよ。」
と、僕は答える。

「あたしじゃ、駄目?」
「そういうんじゃないけど。」

僕は、彼女の体に魅惑されている。だが、それは、彼女の傷に対してなのかもしれないと思うと、彼女と交わることがとても怖くなるのだ。理由は良く分からないのだが。

「きみを傷付けたくないんだ。」
その言葉は、自分の耳にすらそらぞらしく聞こえる。

僕は、彼女の傷を指で、唇で、なぞる。だが、彼女の中に入ることはどうしてもできない。

多分、彼女の傷と向かい合うのが怖かったのだと思う。

次の日も。

その次の日も。

僕は、彼女の傷を愛撫するけれど。彼女と交わることはできない。

そうして、ある日、彼女は僕が仕事に行っている間にいなくなっていた。

--

抱いてあげたら良かったのに。と、僕は思う。後悔だけが、残る。それから、僕は彼女の引きつれた傷を思い出して、自慰をする。何度も何度もする。指に残るでこぼこの皮膚の感触を思い出しながら、僕は、その傷に放出する瞬間を想像する。

--

数年後、僕は、上司の紹介で見合いをすることになった。誰とも結婚する気はなかったのだが、どうしても断れなかったので、承諾した。

その席に現われた女性を見て僕は驚いた。あの時の少女とそっくりだったから。いや。良く見れば、あの少女よりもふっくらとして。

二人きりになった時、僕は訊ねた。
「以前、僕達会ったことありませんでしたっけ?」

彼女は不思議そうな顔をして、首を振る。

僕はひどくガッカリして。だが、しぐさの一つ一つから目を離せない。

翌日、上司に、是非、彼女と結婚したい、との意志を告げた。

--

初夜の晩、僕は、期待を込めて彼女の裸体を見て、そうして、ひどく失望する。滑らかな肌には、傷ひとつなく。何よりも、僕に抱かれる様子はぎこちなかった。恥らう姿も喜ぶ姿も、健全に生きて来た女のそれだった。

--

彼が眠ってしまった後、彼女は、一人、バスルームで自分を鏡にうつす。私、バレやしなかったかしら。

最近の技術では、傷跡をこんなに綺麗にしてしまえるのね。

あれから、たくさん働いて、きれいな体と、作られた過去を買い取った。

彼が私を抱けなかったのは、傷のせいだから。傷さえなくなれば、彼は私を愛してくれるのだと思った。

--

僕は、彼女を抱きながら。傷が思い出されてしょうがない。あの傷。彼女はどこに行ってしまったのだろう?もう、二度とあんな風に、誰かに欲情することはない。

傷がなくちゃ、駄目なんだ。

その彼女のなめらかな皮膚に。僕はナイフを滑らせることを考える。そうやって、自分を奮い立たせて、今日も彼女を、嘘の情熱で抱く。

ねえ。傷がなくちゃ、駄目なんだ。

そのうち、僕、本当にきみを・・・。


2002年06月16日(日) まだ、私は、素直になることをためらう。私の服を脱がせようとする彼の手の動きに本気で恥かしがって。

「ねえ。もうちょっと慣れてくれてもいいんじゃない?」
彼が、あきれたように言う。

「うん・・・。」
分かってるのに、反射的に体がこわばってしまう。

何がいけないんだろう。どうして?

付き合って二年になるというのに、まだ、私は、素直になることをためらう。私の服を脱がせようとする彼の手の動きに本気で恥かしがって。

「ねえ。お願い。電気を消してよ。」
と懇願する私の形相が、あんまり必死だったからだろう。

彼は、少しやる気をなくしたように、手を止める。
「こういうの、嫌なの?俺に抱かれるのが、そんなに嫌か?」

私は、黙って首を振る。

だって。恥かしいのだもの。なんでかな。服を脱ぐ時が一番恥かしい。脱いでしまえば、まだ平気なのだけど。服を脱ぐという行為が、なぜかどうしようもなく恥かしくて。

「なんか、無理矢理やるのって、俺、あんま、好きじゃないんだよね。」
「ごめん・・・。」
「いいって。分かってるって。お前の性格は。服、着ろよ。今日はやめとこ。」
「怒ってる?」
「怒ってないって。ちょっと飲みに行かね?俺、今日、金あるし。」
「うん・・・。」
「気にすんなって。」

彼は、笑って。私の頭をポンポンと撫でてくれる。

本当は、抱かれたいの。あなたが望むいろんなこと、もっと自然にできる女の子になりたいの。それに、いい加減にしないと、他の女の子にあなたを取られちゃうかもしれない。バンドやってて、結構モテるもんね。「ああいう大人しそうな子が好きだなんて、ガッカリよねー。男って、やっぱ、そうなのかなー。」って。以前、誰かがそう言ってるのが聞こえた。あの時、ちょっと泣いたっけ。図星だから、泣いたんだ。

--

「奢りだからさ。いっぱい食べろよ。」
「うん。」
「何飲む?えと。俺は生。」
「私は、ウーロン茶。」
「つまんないな。いつもウーロン茶でさあ。本当に飲めないの?」
「うん。なんか、前飲んだ時、心臓がドキドキしたから。」
「そっか。」

彼は、運ばれたビールを一息に飲む。

「おいしい?」
「ああ。」
「一口、もらっていい?」
「ああ。飲めよ。」

私は、顔をしかめながら、ビールを飲む。

「どう?」
「にがい・・・。」
「それが、美味しく思えるようになってくんだよ。」
「そうかなあ。」

私は、少し焦ってるのだ。踏み出すのを怖がってばかりじゃ、何か大事なものを失いそうな気がして。私は、息を止めて、ビールを更に飲む。

「お。いいじゃん。」
彼は、笑って、もう一杯生ビールをオーダーしている。

彼のやさしさに甘えるのも、もう、いい加減にしなくちゃね。

だんだんと、周囲の喧騒が遠ざかる。彼が注文してくれたモスコミュールは、ひんやりと美味しかった。なんだか、私、よくしゃべってる。私の声が随分と遠くからしてる。彼も楽しそうだ。こんなに楽しそうな彼、見たの初めてだな。

私は、随分と飲み過ぎてしまった。

--

明け方、私は、彼の部屋で目が覚める。

肌寒いと思ったら、裸のまま、彼の横で眠っていたのだ。

慌てて、毛布を探す。

「ん?起きた?」
「うん。なんか寒くて。」
「こっち、来いよ。」

彼が私の手を引っ張って、抱き寄せて来る。

「平気か?」
「え?」
「お前、昨日、すごい飲んだろ。頭とか、痛くね?」
「大丈夫みたい。」
「意外と、酒強いんだな。」

彼は、笑って私の下半身に手を伸ばしてくるから。

びっくりして、私は身を固くする。

「駄目か?」
「だって。」
「夕べはあんなにすごかったのになあ。」
「すごかったって?何が?」
「覚えてないの?」
「うん。」
「お前、すごかったよ。俺、ちょっとあの後動けなかったもん。」

私は、カッと頭に血が昇って。

「ごめんね。あたし、帰る。」
「ああ。」

なんだか、それ以上聞きたくなかった。酒の席での醜態は、大体において恥かしいものだが、私が彼のベッドでどんなに振舞ったかなんて、聞いたら舌噛んで死にたくなるだろう。

「また、電話してくれよな。」
彼が、背後で言う。

その声は、妙に期待して来る声で。

一体、夜の間に何があったのだろう?

私は、記憶が全くない事に怯えながら、彼の部屋を出る。

--

結局、授業の間も、バイトの間も、昨夜のことを考えたが、何も思い出せない。だが、明らかに私はいつもと違う振る舞いをして、彼を驚かせたようだ。

次のデートの時、彼は最初から私にカクテルを注文して。

私は、断ることもできずに、それを飲む。

そうして、記憶をなくす。

気が付くと、彼の肌に残された爪の痕。いつもは硬派な彼が、妙に屈服したような表情で私を見る。

--

「ねえ。そんなにすごいの?酔った時の私。」
ある日、私は、とうとう我慢できずに、訊ねる。

「ああ・・・。」
彼は、溜め息のように答える。

その時、私を襲った何とも言えない感情は。そうだ。嫉妬だ。

「おい。何で泣いてんだよ。」
「わからない。」

私は、その日は酔ってもないのに、自分から服を脱ぐ。

「どうしたんだよ?」
「嫌なの。」
「何が?」

彼は、驚いた顔をしながらも、私が投げ出した体を受け止めてくれる。

「どんな風にしたの?私は。」
「どんなって。」
「ねえ。こんなこともした?」

私は、彼の下半身に唇を寄せる。

「おい。落ち着けよ。」
彼は、口ではそう言いながらも、私の行為に身を任せる。

「嫌なの。私の知らない誰かと寝るのは。」
「誰かじゃないだろ。お前だよ。お前だけだよ。」

私は、自分自身への嫉妬に狂って、泣きながら。だが、次第にそれは、忘れ去っていた体の記憶を呼び覚まし、最後には、私は、細い快楽の声を上げている。

--

「なんか、変だったね。あたし。」
「ううん。なんか、すっげえ嬉しいよ。素直になってくれたみたいで。」
「すごく恥かしい。」
「酒飲んだ時のお前もすごいけどさ。今日のお前も、最高だよ。」
「あたし、当分、お酒飲まない。」

恋のライバルは、私自身。ねえ。教えてよ。私の知らなかった私を。

「そうか。でも、無理しなくていいからな。恥かしがるお前も、いい感じだしな。」

私は、くすくす笑って彼の胸に額を寄せる。


2002年06月14日(金) 僕の下で、彼女は無言で泣きながら、僕にしがみついて来る。気持ちいいから・・・、じゃないだろうなあ。何で泣いてんのかなあ。

朝、携帯をツーコールして切る。

モーニングコールという名目で許されている、その行為。しつこく鳴らしたところで、どうせ、朝は出ないのだ。彼は、疲れ切って眠っている。

私は、コーヒーを煎れて、出勤までの長い時間を過ごす。早く目覚め過ぎるのだ。三時間ばかりを持て余して、コーヒーをゆっくり飲んだり、朝の空気を吸うために外に出たり。犬の散歩とすれ違って、言葉を交わしたり。散歩が終わって帰宅すると、シャワーを浴びる。彼は気にならないよ、と言うのだが、私は、夏になると微妙に気になって、こまめにシャワーを浴びる癖がある。

それから、長い髪の水気を丁寧に拭き取り、自然乾燥させる。

それでも、まだ時間がある時は、小説を読んだり日記をつけてみたりするのだが、あまり集中力がないままに、どちらかと言えば、彼のことを考えてぼうっとしている事のほうが多い。

ようやく出勤の時間が来る。

のろのろと立ち上がる。

今日も、鳴らない携帯電話を手にして。長い長い一日が始まる。

--

「はい。すいません。申し訳ありませんでしたっ。」
自分の声に驚いて飛び起きる。

もう、最近では、朝の陽射しがまぶしくて、暑くて目覚めることも多い。

枕元の携帯を見ると、彼女からのモーニングコール。今日も気付かず寝ていたらしい。ったく、朝から、仕事で謝る夢なんか見て、最悪だな。

っとと。

急がないと、遅刻する。今日も朝食は抜きだ。

僕は、慌てて、スーツに着替える。こんな時、朝食を用意していてくれる誰かと暮らしていれば、と思わないでもないが、そんな一瞬の気分のために、この気ままな生活を捨てるわけにはいかない。

携帯は?OK。ちゃんと胸ポケットに入っている。これがないと仕事にならない。

ネクタイを首に引っ掛けて、家を出る。

--

つまらない、電話応対の仕事。アクビが出るような、同僚とのランチ。長々と恋人との痴話喧嘩の模様を聞かされて、私は、どうでもいいおざなりの返事をする。

定時になると、きっちり終わる暇な職場を後にして、私はあてもなく街に出る。

夏は、海に行きたいね、と彼と言っていたから、水着を買おう。そう思って、あれこれとウィンドウを眺める。本当は、昨年買った水着が、一度も使われないままにタンスで眠っている。去年の約束は、彼の急な出張で流れてしまったんだもの。今年も、また、無理かな。楽しみにしている約束は、いつも私を失望させる。

でも、明後日。

明後日には、彼に会える。遅くなっても、行くからって言ってくれたから。

なぜなら、明後日は私の誕生日。

誕生日、何がいい?って聞かれて。何も要らないよ、って答えた。あなたが欲しい。あなたと一緒に過ごす夜が欲しい。それだけ。

夜、電話をする。

会議中は出られないから、と言われている。

案の定、留守電になっている。あきらめて、マニキュアを落とし、今夜も長い夜を持て余す。

--

ああ。ヤバい。客からどんどんクレームが来ているのに、どうやら、現場に回す資材の段取りが遅れているようだ。

電話で謝っている最中にも、事務の子がメモを持って来る。上司が後で来いと言っているらしい。

うわ。勘弁してくれよ。また、説教かな。

それとも・・・。

はあ。やっと納得してくれた。あの客はうるさいが、誠意を見せたら可愛がってくれるんだよな。それにしても。ああ。明後日は、彼女の誕生日だ。マズイなあ。プレゼント買ってないしさ。彼女は何も要らないって言うけど、そういうわけにもいかないだろ。僕の時は、ネクタイにシャンパンに。欲しかったジッポのライターに。とにかく、いろいろしてもらったからね。しょうがないや。女友達に電話する。

「あ。マキ?わりい。俺。」
「なによー。今、飲んでるのよ。おいでよ。最近、付き合い悪いー。」
「ごめん。まだ仕事なんだよ。それよかさあ。女の子の誕生日プレゼント、何がいい?」
「何?彼女の?」
「ああ。」
「つまんないのー。他の子にプレゼントするもの、あたしに相談するなんて。」
「おいおい。そういうの、いいからさ。急いでんだよね。明後日なんだ。なんか、頼む。適当に見繕って。」
「いいよ。この借りは、いつか絶対倍返しだぞ。」
「分かった。とにかく、お願い、な。」

それから、慌てて、上司のところに行く。
「すいません。クレーム処理してて。遅くなりました。」
「ああ。呼びつけてすまんな。」
「あの。なんでしょう。」
「実はな、上海の支社に行ってもらえんかと思って。」
「え?俺?じゃなくて、僕ですか?」
「ああ。現場を管理する人間が欲しいんだ。」
「って。俺?」
「ああ。最近、きみ、よく頑張ってるからなあ。我が社としては、是非、きみに期待したいんだよね。どうかな。行ってくれるかな?三年ほど行ってくれれば、こっちに帰った時はそれなりのポジションを用意しておくから。」
「あの。行きます。行きます。」
「ま、よく考えて。返事は急がなくていいから。」
「はい。ありがとうございます。」

僕は、頭を下げて。やたっ。前から、異動の希望は出しておいたのだ。今は何ていうかな。いろんなこと。やりたくてしょうがないんだよね。海外の現場も見ておきたいし。

胸が高鳴る。

帰りの電車で、ふと、携帯を見る。あちゃ。彼女からの電話が履歴に残っている。掛け直すには遅いな。ま、明後日には会うんだし。いいか。

--

「遅くなった。」
僕は、ネクタイを緩めながら。もう、夜の11時を回っている。

「いいの。忙しかったんでしょう?」
彼女は、微笑む。

実は、遅くなったのは、マキから彼女のプレゼントを受け取るついでに、一杯飲んでたからでもあるんだが。

「お誕生日おめでとう。」
僕は、彼女にプレゼントを渡す。

「ありがとう。いいのに。無理しなくて。選ぶ時間も、なかなか取れなかったんでしょう?」
「いいって。いいって。俺、普段、お前に何もしてやれてないからな。」

それから、ワインで乾杯して。

「今夜、ずっといてくれる?」
「ああ。」

チラッと、明日の朝の会議の事が浮かぶが、目の前の彼女のすがるような目を見ていたら、とても帰るとは言えない。

「シャワー浴びて来るね。」
彼女が立ち上がる。

「待てよ。一緒に浴びよう。」
僕は、彼女の腕を掴む。

「うん。」
彼女は小さくうなずいて。

なんとなく。だけどさ。あんまりににも綺麗に片付いた部屋が、ちょっと悲しいっていうか。

なんだろうな。この感じ。彼女が遠い感じ。こんなに僕のこと見ててくれてるのに。

僕は、そんなことを考えながら、彼女を抱く。何で泣いてるんだろう。僕の下で、彼女は無言で泣きながら、僕にしがみついて来る。気持ちいいから・・・、じゃないだろうなあ。何で泣いてんのかなあ。

僕達は、結局一言も言葉を交わさないまま。

--

終わってから煙草を吸っていると、彼女がつぶやく。
「ね。私達、終わりにしない?」

なんで、と問い掛けて、僕は思い直して答える。
「ああ・・・。」

なんだか、最初から分かっていたような結末だったな。と、そんな風に思ってる自分がおかしかった。

なんで、気付かなかったんだろ。

「私、あなたのこと、待って、待って、待ち過ぎたの。」
「そうか。」

僕は、駆け足できみを愛していたつもりだったのに。変だな。どこかで食い違って来てた。

「すごく、疲れた・・・。」

何が疲れたんだよ?叫びたい気持ちを抑えて。

とにかく、僕もなぜかとても疲れて。

「今日は帰るわ。」
「一緒にいてくれるって言ったのに・・・。」
「俺達、もうとっくに終わってたのにさ。一緒にいるのって変だよ。」

彼女のすすり泣きを後に、僕は部屋を出る。

なんだか、妙にほっとした気持ちで。ああ。ほんとに、僕もちょっと疲れてたんだな。

携帯を取り出す。

マキに電話する。

「ちょっと、今どこよ?まだみんなで飲んでるんだよ。おいでよー。」
「おう。どこで飲んでんだ?すぐ、行くわ。」

明日の会議は、糞くらえ。今楽しくなくちゃな。


2002年06月13日(木) なんか、変だよなあ。俺って。男でもイケるのかな。うーん。ヤバいな。妻が出て行った早々、これだよ。

「じゃ、行くわね。冷蔵庫のマグロ、悪くならないうちに食べちゃってね。」
妻は、そう言って、買い物にでも行くような調子で出て行った。

後に残された私は、結婚って何だったのだろう、と思いつつ、畳の上に寝っ転がる。そうやって、しばらくはいろいろ考えようとするのだが、つい、眠たくなってウトウトとしてしまう。いかんいかん。俺のこういうところが妻には我慢ならなかったのだろう、と思いつつ、起き上がる。

妻が出て行く、と言った時、「男か?」なんて、間の抜けた問いを発したのは、我ながらおかしかった。それなりに動転していたのだろう。妻のような女を欲しがる男などいる筈もないのに、俺は何を考えているんだ、と苦笑する。ま、それは俺も似たようなもんだがな、とも思い直して、冷蔵庫を開け、ビールを取り出す。少し早い時間だが、ま、いいだろう。

--

「最近、奥さんの弁当、ないんスか?珍しいっすね。」
と、職場の後輩のヨシキが声を掛けて来る。

「おう。飯、一緒に行くか。奢ってやるよ。」
「やたっ。行きます、行きます。」
ヨシキとは、最近しゃべるようになった。気持ちのいいやつだ。

最初は、あまり好きじゃなかったのだ。理由は簡単で、ヨシキは、いい男過ぎだったから。男というのは、反射的に、相手の外見が男前だと、中身は馬鹿だと判断して嫌う習性がある。俺もそうだった。

だが、しゃべってみると、案外といいやつだった。いや、そこいらの男より気が合うかもしれない。自分の顔が、そこらじゅうの女を振り向かせるほどの美貌に恵まれているというのに、女にてんで興味がない様子で、俺になついてくる。美しい男に、子犬のようにまとわりつかれると、俺も悪い気はしない。むしろ、可愛くなって来る。

「どこ行く?」
「あ。うどん、行きますか。新しい店できたんですよ。」
「そうするか。」

俺とヨシキは、連れ立って歩く。

「奥さん、病気かなんかですか?」
「いや。出てった。」
「え?」
「だから、出てったって。」
「うそ。マジすか?」
「ああ。なんだ。お前知らなかったのか。もう、みんな知ってると思ってたがな。」
「このまえまで愛妻弁当持って来てたじゃないですか。」
「そうなんだがなあ。」
「なんで?」
「さあ。良く分からんのだよ。ま、俺が愛想尽かされたってことなんだけどな。」
「・・・。」

ふと見ると、ヨシキの目が赤い。

「ん?どしたの?」
泣いてんのか。おい。

「いや。なんか。俺、先輩のこと好きで。先輩みたいな男になりたいって思ってんのに。そんなのありかなあって。」
「お前、馬鹿かよ。泣くなよ。」
「だってー・・・。」
「今晩、暇か?」
「暇です。」
「じゃ、飲みに行こう。付き合え。」
「はい。」

ヨシキは、それでも心配そうに俺の顔をチラチラ見る。ったく、女じゃないんだから、そんな顔して俺のこと気にするなよ。なんか、妙な気分になるじゃないか。

--

「飲め。ほら。もっと。」
俺は、ヨシキが赤い顔をして、もう飲めませんよ、と困ったように言うので、余計にいじめたくなるようだ。

「先輩、勘弁してくださいよぉ。」
「分かった分かった。」
俺も、可愛い後輩に酒を無理強いするなんて、相当酔ってるなあ。

「お前、彼女とかいないの?」
「え?」
「いや。モテるだろ。お前ぐらい格好いいとさ。」
「そんな。モテませんて。」
「いーや。そんな筈はない。」

俺は、もう、ヨシキのすべすべの肌にうっとりと見惚れて。

「いなくはないんですけど。」
「ほほう。」
俺はなぜか少々がっかりする。おい。女なんて、好きになるなよ。男同士のほうがずーっと気持ちいいよ。女なんてのはなあ。要求ばっかり多くて、そのくせ、いざとなったら、平気で自分が得するほうに乗り換えるもんなんだ。

「こんど会わせろよ。」
「そんな。見せるほどのものじゃないです。それに最近、付き合い始めたばっかで。」
「なんだよお。いいじゃねえか。」
俺、相当からんでるよなあ。

「あの、僕、明日、野球の朝練なんで。」
「何?チーム入ってんの?」
「ええ。今度の日曜、長田商店と試合なんですよ。先輩、応援に来てくれます?」
「おう。行くよ、行くよ。」
「じゃ。帰ります。先輩は?」
「もうちょっと飲んでく。」

ああ。逃げられた。

なんか、変だよなあ。俺って。男でもイケるのかな。うーん。ヤバいな。妻が出て行った早々、これだよ。

--

日曜の朝。

よく晴れた。

俺は、なぜか、いそいそとヨシキを応援するために準備する。

いや。俺は、ヨシキじゃなくて、うちの会社を応援するために行くのだ。

なんて、自分に言い聞かせたりして。

「あれ。めずらしいねえ。どしたの?」
なんて、グランドに着くなり、同僚に言われる。

「ああ。ヨシキにね。誘われちゃってさ。」
「そうか。ま、いいけど。」
「いいけど、ってなんだよ。そりゃ。お。あれ、チアリーダー?」
「ああ・・・。メンバーの彼女とか奥さんとかが集まって、こないだから何かやってたみたいだけどね。あのツラで、あの衣装はないだろう、とか、俺なんか思うけど。」

チアリーダーの中に、一人やけに色っぽい女がいる。どう見ても、他の連中の連れよりは突出して年齢も高そうだが、太腿がむっちりとして、俺好みだ。彼女は、体をならしているヨシキに駆け寄って、何かささやいている。二人で笑い合って、仲良さそうだな・・・。

そうか。あれがヨシキの。道理で、紹介したがらないわけだ。だけど、あれなら、俺だって行くよな。他の女にはない色気がある。

「なあ。ナカさん、あの女さあ。色っぽいよなあ。さすがのヨシキも、年上の魅力には勝てなかったってわけか。」

その途端、同僚は、青ざめた顔をして、俺に言う。

「あのさあ。言いにくいんだけどさ。あれ、お前の別れた奥さんだよ。」
「え・・・。」

俺は絶句する。

良く見れば確かに。だが、あんな顔で笑うやつだったか?

俺は、目を何度もしばたかせて、ヨシキと別れた女房を見つめる。

道理で、俺がここに来ると同僚が困った顔してたわけだ。

「ナカさん、俺帰るわ。」
「ああ。」

俺はフラフラと、その場を去る。

帰りに、チラッと、ヨシキに挨拶もしなかったな、とか考えたが、ま、そんなこともどうだっていいのだ。


2002年06月12日(水) もし、神様がいるならば、私を十九に戻してくださいよ。今更、一人になれと言われるには、随分時間が経ち過ぎた。

電話をする。

何度かけても、出ない。

不安がよぎる。

今までもこんなことはしょっちゅうだった。また、男のいつもの癖だ。飽きたら戻ってくる。何度も、私が怒って別れを言い出すたびに、男は泣いて謝って、それから、抱いて来て。私は、もう、男に体を知り尽くされていて、いとも簡単に体と心をほぐされて、元のさやに収められてしまう。

今回もそうだと思っていたのに、なぜか不安で、繰り返し電話を掛けてしまう。

それから、多分、出掛けてるのだと苦笑して、電話の前から離れる。

--

「なあ。別れてもらえるか?」
あっさりと、男はそう言い出した。

「え?」
私は、笑って。

「笑い事じゃなくてさ。すまん。」
「これで、何度目?」
「だから、今度は本当なんだ。」
「どんな子?」
「お前とは全然違う。」
「そうでしょうね。」
「なんにも知らない子なんだ。だから・・・。」
「私なんかが顔出しちゃまずいって?」
「ああ。頼む。」
「男が一人いて、女が二人いて。女のうちの一人はいつも傷付く役回りで、もう一人の女は無傷なせいで愛されるのね。」
「すまん・・・。」

男は、急に、テーブルから立ち上がると、地べたに座り込む。

「ちょっと、やめてよ。」
私は、腹が立ってくる。

「だからさあ。いつもと一緒なんでしょう?そのうち、俺が悪かったとかなんとか言って戻ってくるんでしょう?それでいいじゃない。腹括って待っててあげるからさあ。」
「今回は違うんだよ。」

私は、黙って残りの煙草を吸ってしまうと、
「行きなさいよ。」
と、言う。

自分の煙草の煙が、目に染みて。

「本当にすまん。」
男は立ち上がる。

出て行く男の後姿をぼんやりと眺める。

テーブルに置かれた封筒が、最後に私を打ちのめす。

--

十九の頃からだから・・・。

もう、十七年も、あの人のそばにいたんだ。

いろいろあったなあ。

最初に、あいつが逃げ出したんだ。で、私は、追い駆けて、東京まで来て。働きながら、あちこちに連絡先を伝えて。そうしたら、仕事失敗した男がひょっこり訪ねて来て。私、絶対来ると思ってたよって、男を部屋に上げて。

あん時、籍入れといてもらったら良かったのかな。

一人前になったら、ちゃんとしようって言うから。

子供なんかも、まだ早いとか言われて。

私は、プリンのカップに道端の花を供えて、あの子の供養したんだよね。

生活支えるために、夜、出掛けるようになってから、あの人はしょっちゅう浮気を繰り返すようになった。

ねえ。もし、神様がいるならば、私を十九に戻してくださいよ。今更、一人になれと言われるには、随分時間が経ち過ぎた。そうやって、あの人のためにやって来たことで、私は、どんどん薄汚くなっていって、ついには捨てられた。

もしかしたら。と思う。

私、もっと好き勝手に生きて来たら良かったのかもしれない。あの人が連れていた浮気相手は、いつも、お嬢さんぽい格好をして。何の苦労もしてないような子ばっかりだった。本当は、そういうのが好きな人なんだと気付く。

ねえ。もう一度十九に戻れたら。あの頃は、私もまだ、若くて綺麗で。あの時に戻れたら・・・。

--

神は本当にいるらしい。

私は、十九の姿で、浜辺に立っていた。ポニーテールに結った髪が海風で揺れていた。

男も、まだ、ずっと華奢で。私の手を引いたまま、ずっと浜辺を黙って歩く。

やだ。あなた、そんな無口だっけ?

私は、笑い出しそうになるのを抑えて。

そうやって、とうとう、午後中、私と彼は一言も口を聞かず、海を眺めていた。

日焼けするのが嫌で、縁の広い帽子を抑えて、私は、彼に手を引かれて、黙って歩く。

夕暮れになって、男は、初めて口を開く。
「俺と・・・。付き合ってくれる?」

十七年後の男の口から聞いた台詞とまったく逆の台詞に、私は笑おうとして、なぜかうつむいて泣いてしまう。

そうだ。あの夏の日、私は、泣くほどに純情だったんだっけ。

--

それから、更に一年。

男と私の間は、ひっそりと距離を置いて、続いた。男が時折見せる欲情の色に気付かないふりをして、私は無邪気な少女だった。

夏の日から一年目に、私達は、初めて抱き合って。

男はやさしくしてくれた。私は、また、涙を流した。

そう。これが始まりだったのだ。

--

男は、私が処女だったことを確認すると、安心したように私を抱き締めて。それから、急に、がーがーと眠り始めたので、私はガッカリして、男の寝顔を見つめた。一晩中、愛を語って欲しいと思ったのは、私のわがままだったのかしら。

それから、ふと、私がそこにいる理由を思い出す。

そうだった。

私は、十七年後の私の意思でここにいるのだった。

もし、十九のあの日に戻れたら、と、激しく願った、十七年後の私。

私は、ふらふらと立ち上がり、男のアパートの台所に立つ。そうして包丁を持って、男のところに戻る。

私は、それを振りかざす。

もし、十九の頃に戻れたら。

分かっていれば、私達は、引き返せないほど遠くに行く旅に出ることはしなかった。

私は、何度も何度も、包丁を振り下ろす。

生暖かい血が、私の裸の胸を濡らす。

--

・・・。

あたりが騒がしい。どうしたというのだろう?

誰かが、私の体を布でくるんでいる。

「大丈夫ですか?」

答えようとしても、喉がゴボゴボと音を立てるだけで、言葉が出ない。胸元を伝う血の感触はそのままで。

そうだ。私は、彼を殺したんだった。

私の体は数人の手によって運ばれる。

どこに行くんだろう?

「連絡がありましてね。男性の方から。様子を見て欲しいって言うんで、来てみたんですよ。そしたら、部屋が血だらけでね。」
アパートの管理人の声がする。

誰かが、私の強く握った手を、開こうとしている。

「うわ。相当きつく握ってんな。包丁、離そうとしないよ。」

そうよ。だって、人殺すのって、随分と力が要るの。

ああ。それにしても。なんで起こすのかしらね。私は夢の中で、十九の私でいて、とても幸福だったのに。


2002年06月11日(火) かつて、彼が、何度も何度も痛いくらいに掴んで愛してくれた乳房を。白い乳房は、その都度、彼の手の中で桜色に染まって、震えていた。

もう、連絡をしてくれるな、と言うのである。

お前にはうんざりだ、と言うのである。

私は、最初は、「どうして?」と取りすがってみたものの、彼の心は変えられないと察して、手も足も出せなくなった。

私にしたら、唐突な出来事のようにも思えたが、彼も悩んだ末のことなのだろうし。ずっと前から兆候はあったのだろうし。それでも、あっさりと引き下がったりはしなかった。やりなおせるならば、と、ありとあらゆる努力もしてみた。

だけど、これ以上やったら、ストーカーになっちゃうでしょう。

と思って。

それに、何かやればやるだけ、彼が遠ざかって行くのも感じたし。

だから、あきらめた。

--

海に行く。

海の向こうをずっと眺めている。

かつて、彼は、この浜辺で私の髪を撫でながら「きれいな髪だね。」と言ってくれたのに。もう、この髪の毛は、彼の心に何の感動も呼び起こさない。

ふと、思いついて、私は、自分の長く豊かな髪の毛を切って、瓶に入れると、海に流した。波にさらわれ、消えてゆく、私の髪の毛。

もし、偶然のように、彼の手元に届いたら、彼はそれを見て何と思うだろうか。

幾度も幾度も撫でてくれたこの髪の毛だから、彼は一目見て、私の髪の毛と気付くだろう。それを、たとえ彼が不愉快に思ったとしても、私のせいじゃない。私は何もしていない。ただ、波が勝手に運んだだけ。

そんなことを思いながら、私は、翌日もまた、髪の毛を一房切って海に流す。

私がここでこうやってあなたを思っている事実を、波が、風が、知らせてくれるのを期待して。ねえ。決して忘れたわけじゃないわ。

--

それでも、彼からの返事はない。

分かっていたのだけど、涙が溢れる。

もう、随分と泣いたのに。体中の水分がなくなるくらいに泣いたのに。

私は、その涙をまた、小瓶に詰めて、海に流してみる。波は、あっさりとそれを飲み込んで。

ねえ。今度はちゃんと運んでよ。

--

それでも、彼からの返事はない。

波は、私に話し掛けるようにやさしく打ち寄せるけれど、本当はただ、いたずらに期待させているだけで、何にもしてくれやしないのだわ。

私は思う。

だけど、私は、彼に何か伝えずにはいられないから。

乳房を切り取って、海に流す。

かつて、彼が、何度も何度も痛いくらいに掴んで愛してくれた乳房を。白い乳房は、その都度、彼の手の中で桜色に染まって、震えていた。これを見たら、きっと彼は私のことを思い出すでしょう。もしかしたら、体の奥で消えかかっている炎がまた、燃え上がるかもしれない。

--

それでも、彼からの返事はない。

私は、彼が私を思い出すことができるように、私の一部を切り取っては海に流す。

ある日ふと、涙だけでは駄目かと思い、目をえぐり出して、波に乗せてみる。

私の目を受け取れば、そこから絶えず涙が流れ続けていることが分かるでしょう。

--

それでも、彼からの返事はない。

私は、もう、どこにも行けず、浜辺で。

--

女がいる場所から遠く海を隔てた浜辺では、一人の男が海を見ていた。男は、毎日のように流れつく小瓶を心待ちにしていた。

浜辺には、美しい髪の毛が。乳房が。眼球が。

丁寧に並べられていた。

男は、初めて、その髪の毛を手にした時、その美しさに胸が高鳴ったものだった。そうして、次の日も、その次の日も届く小瓶が愛のメッセージのように思えた。ある日、乳房が届いた。それは手の平に載せると、愛らしく、恥かしそうに揺れたのだった。

そうして、今日は眼球が。

絶えず涙を流し続ける、そのグレーの瞳は、悲しみに曇っていた。男は、その目を見て、胸を痛める。どこかで泣いている心がある。もし、ここに、この美しい女の一部ではなく、体があるなら、抱き締めて慰めてやれるのに。

そうして、男は、また、明日も海の向こうを見つめて、誰かからのメッセージを待つだろう。

一方通行のメッセージを。

男は、待っているばかり。海の向こうで、返事を心待ちにしている女がいるとは思い付かないままで。


2002年06月10日(月) 本当はまだ、あの人の夢を見るんだよ。とか。そんなことも。誰にも言いふらされる心配もないから、私はカシミヤに話し掛ける。

マキが連れて来た犬は、小さくてブルブル震えててみっともなかった。

「ね。お願い。しばらく預かってよ。」
「そう言われても、うちも昼間、留守にしてるし。」
「ね。ね。お願いよ。」
「あんなに可愛がってたじゃない。」
「可愛がってるわよー。今も。」
「なんで、男と別れたら犬も飼えなくなるのよ。」
「だってー。散歩、彼がさせてくれてたんだもの。」
「じゃ、別れる時、彼に連れてってもらえば良かったじゃない。」
「無理よ。もう、ね。子供みたいなものなんだから。彼も、手放したくないって言ってね。結構もめたのよ。」
「ああ。はいはい。無責任な飼い主がいるから、ペットの悲劇は絶えないのよねえ。」
「とにかく、ちょっとの間だけ。お願いよ。私、仕事でいない日が多いから。この子、ノイローゼになっちゃうと思うの。」
「分かったって。」

私は、結局、その、毛のヨレたヨークシャテリヤを預かることになった。貧相に垂れ下がったつやのない毛をした犬の名前が「カシミヤ」だと言うのに、少し笑った。

--

プロジェクトのメンバーが発表になった時、私は、思わず頭に血が昇るのを感じた。同じプロジェクトに、女性は、私と、ハヤセと二人。そのハヤセがプロジェクト・リーダーに任命されていたのだ。

どうして?

私のほうがずっと経験も長い。プロジェクトのリーダーをするのも、これが初めてではない。ハヤセでは、力不足だ。

いろいろと考えたのだが、結局、ハヤセの下になることが嫌なのだと思った。

私は、仕事が終わった後、部長のところに行った。

「どうしてでしょう?」
私の語尾は、かすかに震えていた。

こういう時、冷静になれないのが私の悪い癖だ。欠点は自覚しているので、何とか平静を保とうと努力する。

「きみの実力は知っているよ。」
部長は静かに言う。

「なら・・・。」
「一つには、ハヤセくんにリーダー経験をさせることで、ハヤセくん自身を育てることを考えている。」
「でも、今回のプロジェクトは規模が大きいですし。」
「もう一つ。きみの技術力は買っているが、きみは小さい事に気を取られると、全体を見渡す余裕がなくなるのが欠点だ。だから、今回は、ハヤセくんの技術的サポートに回ってもらって、ハヤセくんの持ち前の大らかさで、チーム全体を見るのがいいんじゃないかと思ったんだよ。」

私は、欠点を指摘され、ショックを受ける。

「私の言うことが間違ってるとは思わないがね。」
部長は、何も言えずにむくれている私の目をとらえると、少し微笑んでいるような表情すら、した。

「分かりました。」
それ以上言えることはなくて、私は、ようやくそれだけ言うと、自分の席に戻った。

--

帰宅する頃には、雷が鳴っていて、私は、慌てて帰宅する。

部屋に入ると、カシミヤは見当たらなかった。

名前を呼んで探し回ると、私の愛用のクッションの上でブルブル震えていた。

「どしたの?ん?あ。そうか、雷が怖いんだね。」
まったく、笑っちゃうほどにみっともない犬だ。

その夜、随分と長いこと雷は続き、犬は興奮して落ち着かない。私は、犬に付き合って、夜、全然眠れない。

ああ。眠れないのは、犬のせいじゃなくて、自分のせいかな。仕事のこと。部長の判断は賢明だった。なのに、考えるたびに、くやしくて。結局、ほとんど眠れないままに朝を迎えた。

--

「あれ。今日、主任、怒らないっすねー。」
入社三年目の、お調子者のカクバが話し掛けてくる。

「うん。犬のせいよ。」
「犬。びっくりするぐらい怖がりでね。」
「あ。分かります。うちの犬も、怖がりなんですよ。だから、むやみに吠えるんで、うるさくてしょうがないんだけど。」
「とにかく、全然眠れなかったのよ。」
「僕としては、叱られなくてラッキーだけど。」
「こら。」

私は、なんだか、カクバに話し掛けられると、おかしくなって笑い出してしまう。そうして、ムードメーカーのカクバを、気の小さい私の隣に配置したのも、部長の配慮だったことを思い出す。

「主任と仕事のこと以外で話しすんの、初めてだなあ。」
「そうだっけ。」
「うん。主任、いつも忙しそうにしてるから。」
「ねえ。私さあ、余裕なさげ?」
「え?」
「いっぱいいっぱいに見える?」
「よく分からないけど・・・。でも、カッコイイなあって思う時もあるから。」
「そっか。」
「気にしてんでしょ。リーダーの人選。」
「そこまで分かられてんじゃ、見栄張ってもしょうがないよね。」
「こんど、デートしましょうよ。主任。たまにはさあ。眉間のシワ、取れなくなるよ。」
「あはは。年下は趣味じゃないんだよねえ。」
「ちぇ。」

私は、つまらない馬鹿話したことで、自分でもびっくりするぐらい気持ちが軽くなって。

--

マキは、いつまでも犬を引き取りに来ない。

「ねえ。あんた、ママに捨てられちゃったみたいよ。」
私は、犬の毛をブラッシングしてやりながら、言う。

頭の上でリボンを結んでやると、結構な美人さんになった。

「あはは。可愛い。」
それから、犬に話しかけるのって、寂しい女みたいかな、と思って、慌ててみたりして。

本当はまだ、あの人の夢を見るんだよ。とか。そんなことも。誰にも言いふらされる心配もないから、私はカシミヤに話し掛ける。

--

そんな夜、マキから電話があった。

「週末にカシミヤを連れて帰るからさあ。長いこと、ごめんね。」
「うん。もう、忘れちゃったのかと思ってたよ。」
「あはは。ほんと、ごめん。感謝してる。」
「どうすんの?ちゃんと飼えるの?」
「えとー。仕事さ、辞めるんだ。」
「え?」
「でね。結婚すんの。」
「誰と?」
「彼と。ヨリ戻したの。」
「はあ?」
「えへへ。ちゃんと言ってなくてごめんね。」

電話切った私は、アホらしくなって、クッションに倒れ込む。そっか。喧嘩の原因は、結婚なのかな、と思ったりもする。

「良かったねえ。カシミヤ。ママに捨てられたんじゃなくて。」
私は、自分でも意外だったのだけど、涙が出てしまった。

「あんたがいなくなったら、別の犬、飼おうかな。」

--

カシミヤは、引き取られていった。マキと、婚約者は、もう夫婦みたいな顔になってて、カシミヤを我が子のように扱っていて。

私は、カシミヤが私と別れるの嫌だってごねてくれないかなと思ったが、そんなこともなくて。

なんだ。

犬って、案外と恩知らずだ、と思った。

--

夜、雷が激しく鳴って。

私は、カシミヤの茶色の毛がついたクッションを抱き締める。

自分のそばで震える子犬がいないのは、随分と寂しかった。

私は、電話を取り上げて、カクバに電話した。

「もしもし。あ、主任?」
「うん。」
「どしたんですか?」
「えと。」

私は、その時、何も話すことがないのに気づいて。

「あ。犬。犬でしょう?」
「え?なんで分かるの?」
「いや。主任が電話してくんのってそれぐらいだから。」
「そう。犬。」
「うちのもね。また、今日、犬小屋で震えてんじゃないかな。」
「あはは。」
「おふくろが、掃除機かけるのも、怖がるし。」
「そっか。」
「ねえ。主任の犬、いつも一人で留守番させてんの?」
「うん。ていうか。」
ああ。なんだか馬鹿みたいに涙が出てしまう。

「どしたんすか?」
「犬、いなくなっちゃった。」
「え?逃げたの?」
「そうじゃなくて。」

私は、そのまま、涙が止まらなくなってしまって。随分と長いこと泣いていた。カクバは、なぜか、私が泣き止むまで、ずっと黙って受話器の向こうにいてくれた。

「ごめん。落ち着いた。切るわ。」
「ちょっと、待ってよ。」
「え?」
「それだけ?」
「それだけって?」
「犬のことだけ?」
「うん。」
「それって、つまんな過ぎ。明日、デートしようよ。」
「デート?」
「でさ。犬。」
「犬?」
「うちの犬、かわいいやついっぱい産んだんだよ。それ、見せに行くから。ね。明日、行くから。」
「ちょっと待ってよ。」
「約束っすよ。」

電話は、切れて。

そんなに急いで切らなくても。

カシミヤのおかげかな・・・。くやしいから、新しい犬はお前よりずっと可愛がっちゃうからね。と、クッションに向かって話し掛ける。


2002年06月09日(日) 強大な感情にとらわれて、夜も昼も、一人の時間は苦しみに悶え、火のついた体を持て余すようになった。

そのお姫様は、国の、どの娘よりも美しく、賢く、気高く、優美だった。

完璧なマナーを教え込まれ、どんな場所でも臆すことなく落ち着いて振舞う。

それはもう、天性のものとも言える。

だが、同時に、お姫様は、かなり自由に振舞うことも可能だった。つまり、籠の中の鳥ではないのだ。

自分の中に女性の欲望が芽生えると、城の専属の主治医に相談しながら、体調を完璧に保ちつつも、その肉の欲望を満たすために楽しむことも覚えた。

そう。

お姫様は、最高の存在である自分に満足していたし、誰に対しても無敵だと信じていた。

だが、どんなに完璧な人間にとっても、それを一瞬にして打ち崩す感情にとらわれることがある。その名も「恋」。

隣国の王子がその国を訪ねて来た時、お姫様は、ひと目で彼が好きになった。本当にそれは理屈抜きの感情で。どこが好きなのだろう。その知性?その容姿?その鍛え抜かれた体?何より、その声。落ち着いた、深みのある声。

その声で、たとえば、王子が興味を持ってやまない、天文学の話などを聞いているだけで、お姫様はうっとりとして、下半身から力が抜け、そこから動けなくなってしまうのだ。

たとえば、お姫様は、気持ちを告げる事も可能だった。身分違いというわけでもない。美貌と知性では、そこいらのどんな女にもひけを取らない。

それでも、お姫様は、その事を隣国の王子に告げることができなかった。自分でも、なぜか分からなかった。それまでのお姫様なら、好ましい男には、自分から欲望を告げることも簡単だったから。そうして、相手が断らないことも、また、確信していた。お姫様は、そこいらの駆け引きについても、充分に長けていて。

あまりに自信に満ちた女では男性が逃げ腰になると思えば、控えめに恥らって見せる術さえ知っていた。

ともかくも、恋すら、ゲームのように取り扱えるものだと信じていた無敵の16歳は、ついに、自分では太刀打ちできない強大な感情にとらわれて、夜も昼も、一人の時間は苦しみに悶え、火のついた体を持て余すようになった。

--

王様も、姫の様子がおかしい、と少し心配になって様子を見に来るのだが、お姫様はその都度、毅然とした態度で王様を追い返す。

そうして、ついには、手紙を書く事にした。

その内容ときたら、恥かしくなるぐらいのもので。

「あなたが好きなんです。」
と。

「夜も眠れません。」
と。

「あなた様に、一晩中、宇宙の、天体の話を聞かせていただきとうございます。」
と。

書いてみて。

そうして、勇気を出して、その手紙を隣国の王子に届けさせた。

王子からの返事が来るまでの日々の、これまた長い事に閉口したお姫様は、葡萄酒を飲み過ぎ、美しい家臣をベッドに幾人もはべらせて。尚も満たされない心は、自分の自堕落な生き方を恥じるばかりで。

そのうち、王子から返事が来た。

「あなたの気持ちは確かに受け取りました。だが、私には、愛している女性が他におります。その女性とは、身分が違うため、一緒にはなれないですが、私の心は一生彼女に捧げるつもりです。」
と。

お姫様は、泣いて。

だが、突如立ち上がると、家来を呼んで、王子の惚れた女性の居場所を探すように命じた。

--

貧しいその女性が住む家に、お姫様は、薄汚い布を身にまとって訪ねる。

「お水を一杯いただきたいの。それから、少し休ませてくださいな。旅の途中で疲れてしまって。」
「それはお気の毒に。」

お姫様はその瞬間、怒りすら覚える。

美しくもないその女。

ぼんやりとした目。

本もろくに読んだことのなさそうな、その女。

王子はどうしてこの女を気に入ったのだろう?

お姫様は、コップを持つ手も震える。

それすら、屈辱で。なぜなら、お姫様は、それまで、どんなに美しい女性を見ても、自分と比べたら物の数ではないわ、と、感情を乱されたことがなかったから。

「大丈夫です?」
女は、問うた。

「ええ。大丈夫。このお水を飲んだら、すぐに行きますわ。」
と、震える手は、半分以上も水をこぼしてしまった。

「それではどうも、ありがとう。」
お姫様は、女に見送られて、そのみすぼらしい部屋を出る。

女が最後に、お姫様に言う。
「あなた様がどうしてうちにいらっしゃったか分かりませんが。並のお方でないことは分かります。その、優美な仕草は、この辺りの人間とはまったく違います。」

お姫様は、ハッとして。
「そう。お分かりになったのね。あなたの愛する人と同じような誇りを持つ立場の人間よ。」
と、微笑んだ顔は、もう、天使のようにやさしく。

女は、顔を赤らめる。

お姫様は、最後までその美しい笑みを絶やさず、女の前を去る。

心の中は悲しみとも怒りともつかない感情が渦巻いて、今にもそこにしゃがみ込んで吐きそうになっていたのだが、それを顔に出すことは、お姫様の立場が許さなかったのだ。

--

お姫様は、自分の城に戻り、ベッドに伏せる。

大声で泣くことすら、お姫様の誇りが許さない。

その高い高い誇りも、たぐい稀なる美貌も、財産も地位も、何もかもを捨てたところで、所詮は誰か一人の人間の心を手に入れることはできないのだ、と、お姫様はよく知っている。

お姫様の旅に同行した家臣が心配で見に来る。
「大丈夫ですか?」

お姫様は、うなずいて。その、名高い、美しい顎をツンと上げたまま。その美しい家臣に言う。
「今夜、私の部屋に来て、相手を。」

家臣は、思わぬ光栄に預かれることに顔を輝かせて、頭を深く下げる。

お姫様の胸がまた、チクリと痛む。


2002年06月07日(金) 男が私の濡れた場所に指を埋めてくるから、私は、ただ、黙って、そこを溢れさせていただけだった。

「なあ。何が欲しい?」
「なんにも・・・。」
「分かってるけどさ。お前が何も欲しがらないことは。でもなあ。なんかしてやりたいんだよなあ。」
「いいよ。本当に。」
「じゃさ、お前が観たがってたヤツあるだろ。映画。アレ、観に行こう。今度の日曜日。」
「映画は一人で観るのがいいって言ってたじゃん。」
「いんだよ。」

男がこういう事を言い出したら、そろそろこの関係も終わりだ。

私は、肩に回された手をそっと外すと、服を着始める。

「帰るの?」
男は慌てて自分も起きて、服を探し始める。

「寝てていいよ。」
「送ってくわ。」
「いいったら。」
「駄目だって。危ないからさ。」

男があんまり一生懸命なので、私は苦笑して、
「分かった。送って。」
と言って、笑って見せる。心配ないよと笑って見せる。

「じゃ、今度、日曜な。」
「ん・・・。」
私は、男の車を降りる。

男の不安は当たっている。私は、もう、男には電話をしないだろう。また、携帯の番号変えなくちゃ。2000円掛かるんだよね。番号だけ変えるのって。もう、何回目かな。番号変えるの。

--

某月某日

雨の中で、激しく頬を打たれて、今日も私は立ち尽くす。

その男の顔をつたうのは、雨だろうか。涙だろうか。

「なんでだよ。なんで分かんないんだよ。」
男が叫ぶ。

あんたこそ、なんで分からないかな。

--

某月某日

曇った日、悲しい目をした男に抱きすくめられて。

「愛を知らないきみがかわいそうでならない。」
と言われる。

何も答えないで黙っていた。

「とうとうきみに愛を教えてあげられなかったね。」
と、あんまりも残念そうに言うから。

ばいばい。そこでそうして、自分に酔ってなさい。

--

某月某日

そろそろ、このアパートも引っ越さなくちゃ。

始めるのは簡単だけど、終わらせるのはどうしてこんなに手間なんだろう。

私は、今日も逃げる。何から?変わらないものがあると、つい信じてしまいそうになる自分から。

誰かの携帯電話の番号も、覚えないようにして。風邪で熱っぽい日、仕事で失敗した日。つい誰かに電話してしまいたくならないように。

なんでって。

別に理由はない。

いつもそうやってきたし、これからもそうやって、私は生きて行く。

そんだけ。

--

私は、体だけの関係を求める。

なぜって聞かれても、理由はない。

昔っからそうだった。もちろん、最初の頃は違っていたのだろう。男のために泣いたりしたことも、確かあったはずだ。

だけど、だんだんと自分が欲しいものが分かって来たから。

私は、自分の欲しいものだけを要求する。

体の快楽を。

それだけ。

愛だとか、恋だとか。お互いが飽きるほど体を貪り合ったなら、相手がそんなことを言い出す前に別れる。

--

「どうして、逃げんだよ。」
仕事帰り、電車に乗ろうとして、いきなり腕を掴まれる。

終わりにしたつもりの男が、立っていた。

「痛い。」
私が眉をしかめると、男は慌てて手を離す。
「ごめん・・・。」

思った以上に強く掴んでいたことに、一番驚いていたのは、男自身のように見えた。
「また、逃げると思ったから・・・。」
「逃げるなんて。」
「言い方悪いの分かってるけど、電話も繋がらなくなるしさあ。」
「・・・。」
「終わりにしたかったのなら、そう言ってくれれば良かったじゃないか。黙って、勝手にヤメにするなんてありかよ。」

ほら。あなた、今、私のこと責めた。

「日曜にさ。お前の観たいって言ってた映画のチケット二枚買ってたんだよ。馬鹿みたいにさ。だから、行きたくないならそう言ってくれれば良かったのに。約束なんかするから。」

約束なんかしてない。そっちが勝手に決めただけ。
「映画代、返そうか?」
「そういう問題じゃないだろっ。」

そういう問題じゃないよね。あんただって分かってるでしょう?

あたし、言ったよね。面倒は苦手だって。付き合い始めの頃。初めて、寝た夜。私は、ベッドで最初に言っておいたのに。恋とか苦手だって。

でも、こういうことは好きなんだろ?って、男が私の濡れた場所に指を埋めてくるから、私は、ただ、黙って、そこを溢れさせていただけだった。

言葉は嫌い。

あの時、ああ言ったじゃないか、とか。

そういうことばっかり覚えていて、責められるから。

そう。責められるのとか怒られるのとかも、嫌いって言ったんだったっけ。そうしたら男は、「誰だってそうだよな。」、って笑って。「大丈夫だよ。お前を責めたりなんかしないからさ。」って笑ったんだった。

なのに、やっぱり。

私は、軽く溜め息を付く。

「もう、俺のことが嫌になったのかよ。」
「最初から、付き合うとか、そういうのヤだって言ってたじゃない。」
「だけど、さ。気も合うし。体だって。いい感じだっただろう?」
「そうかもしれないけど。」
「なんでだよ?急に。俺、お前のこと、束縛したりするつもりないんだよ。お前が好きなようにしてくれたらいいんだって。」
「・・・。」
「だけどさあ。急にいなくなるのだけはヤメてくれよ。」
って、男が泣き出すから。

なんなのよ。そういうのやめてよ。

私は、走る。人をかき分けて。

--

いろんな反応をする男がいた。

怒り出す男。

泣き出す男。

困惑する男。

さげすんで見せる男。

最初は、それでも、私も分からなかったから。謝ったり。なだめたり。泣いてみせたり。そんなことしてみたりしたけど、結局面倒になって、どれもやめた。

なんでって聞かれても、答えようがない。理由なんてない。

体だけ。

他に何も要らないから、私にも何も求めないで欲しいの。

それだけのことを伝えるのは、どうしてこんなに難しいんだろう?

やり方が下手だったのだと思った。体目当ての女に、愛だの恋だのとすがれらて辟易とする男の話はよく聞いていたから。私みたいな女は丁度いいと思っていた。だけど、そういうわけにもいかないことに気付いて。

最近は、ちゃんと言わなくちゃって思い始めた。言わないでいると、勝手に都合良く解釈されるもんだから。

「あたしは、あなたの体だけが目当てなんだよ。」
ってね。

そうしたら、大概の男は、微笑んで。
「分かってるよ。それだけを楽しもう。」
って言ってくれるくせに。

いつのまにか、話、それじゃ、違うよって思う。どうしていつも、失敗しちゃうんだろう。

--

私は、逃げて、逃げて。走り過ぎて。くたびれて。脇腹が痛くなって。しゃがみ込む。

「あの。大丈夫ですか?」
誰かが声を掛ける。

その、見知らぬ誰かの唇が。顎から首筋にかけてのラインが。セクシーだと思った。

「あの。できれば、手を貸してもらえると・・・。」
私は、わざと辛そうな顔を向けて、男に体を預ける。

ゴメンナサイ。急いでなければちょっとだけ。本当にちょっとだけでいいんです。たくさんは要らないから、体を貸してくださいと。心の中でオネガイをする。


2002年06月06日(木) まだ、浅いキスしか交わしたことのない私達。長い長いキスは、だんだん激しいものになり、彼の舌がそっと

高校を卒業すると同時に、タカシは東京へ行くと言い出した。

「なんとか頑張って、オヤジ説得して、大学まで行かせてもらうことにしたんだ。」
「そっか・・・。」

地元のスーパーに就職の決まっている私は、寂しくて泣き出しそうな気持ちを抱えて、黙ってうなずいた。

「これで終わりって訳じゃないから。いつか、絶対、こっちに帰って来るからさ。」
タカシは、私の肩を抱き寄せて、口づける。

まだ、浅いキスしか交わしたことのない私達。長い長いキスは、だんだん激しいものになり、彼の舌がそっと私の唇を割って入って来た時、私は思わず彼の体にしがみつく。息が荒くなり、私の背中に回した彼の手に力がはいる。

「ね。抱いて。」
私は、もう、立ってられなくなって、タカシの体に寄り掛かって、言う。どうしようもないほどに抱いて欲しかった。離れ離れになる前に、何かを体に刻んで、安心しておきたかった。

彼は少し迷ったように、私をきつく抱き締めてじっとしていた。彼の鼓動の音が響いてくるのを感じた。

「いや。嬉しいけどさ。したいけど。今はしちゃいけない気がするんだ。必ず、しっかりした人間になって帰ってくるから。その時、シイちゃんを抱きたい。いい?」

分かったよ。

私は、こっくりとうなずく。

まったく、真面目なんだから。

少し物足らない気分さえ感じながら、私は、彼の真剣な顔がまぶしくてうつむいてしまう。

--

月に最低一回は、手紙出そうね。

私達は、そう約束した。

最初の半年ぐらいは、それでも、私も、寂しくて寂しくて、しょっちゅう手紙を出していた。スーパーの同僚と、ドライブに行った話。夏、バーベキューをした話。職場の人のことぐらいしか書くことはなかったのだけど、私はせっせと手紙を綴った。

--

アパートの鍵を開けて、エアコンも効いてない部屋の敷きっぱなしの布団に倒れ込む。

手には、シズカからの手紙。

僕は、いつものように、遊びに行った話ばかり書いている彼女の手紙の内容は、どうでも良かった。ただ、その内容のくだらなさに、子供っぽかった彼女の横顔が思い出され。読んでいると、切なくなってくる。たまに貼ってあるプリクラに笑ったりして。

読み終わった僕は、起き上がって返事を書く。

最近では、みんな、携帯でメール交換してるから、手紙のやり取りなんて古風だなあなんて自分でも思うが。シズカの手紙にも、メール交換のできる携帯電話を買ったという記述があった。メールアドレスも書いてあった。

恥かしい事に、僕は、携帯電話を持ってない。

オヤジからの仕送りがカツカツで、僕は、必死でアルバイトをしながら、何とか暮らしている状態なのだ。

それなのに、僕は、見栄を張って、シズカの手紙に返事を書く。
「シズカ、毎日楽しそうだね。僕は、今日は合コンで、今帰って来たとこ。男三人と女三人だったんだけどさ。心配しないで!きみみたいに可愛い子は一人もいなかったからさ。」

そんな嘘の手紙を書いて、それから、シズカの誕生日プレゼントを同封して、ポストに投函する。

シズカへのプレゼントは、必死で貯めた三万円をはたいて買った指輪。本当は、一緒に選びたかったけど、無理なので。

今度会う時、指にはめていてくれたら嬉しい。

--

「彼氏から手紙来たの?」
同僚のセイジが聞いてくる。

「うん。」
休み時間に読んでいたのが見つかった。

「なんか、入ってたんだ?」
「指輪。」
「お。すげえっ。」
「今日、あたしの誕生日だもん。」
「さすがだな。東京へ行くやつは、違うよな。」
「やだ。そんなじゃないよ。」
「俺、どうしよっかな。」
「何?」
「はは。指輪には負けるけどな。これ、駅前の店のクッキー。」
「え?並ばないと買えないやつ?」
「ああ。」
「すごっ。嬉しいよお。ありがとう。」

私は、セイジの思いやりに、涙が出そうになる。変だな。あたし。タカシからの手紙が来ると、どうしてこう憂鬱になるんだろ。あっちの華やかな生活に比べると、野暮ったい制服着てやってるスーパーの事務なんて、本当に恥かしくて嫌になる。

私は、セイジが行ってしまった後、そっと、タカシからの指輪を薬指に通してみる。その指輪は馬鹿みたにピッタリで。

私は、泣きそうになる。

いつだって、そつなく愛してくれるタカシ。

だけど、指輪だけじゃ、何も繋ぎとめられないよ。

私は、そっと封筒に指輪を戻す。

--

春が来て、夏が来て、また、春が来て、夏が来て。

どうして、タカシは帰って来ないんだろう?就職活動が忙しい?そんなもの?良く分からない。

--

最後に受けた会社の不採用通知が来た時、僕はガックリと肩を落として。受かったら、シズカに会いに帰ろうと思っていた。カップ麺の器が散乱した部屋で、僕は、どうしようもない毎日を送ってる。

それなのに、そういうことは、ただの一つも手紙に書けなくて。

ただ、
「忙しいんだ。」
と。

それが言い訳にもならないことは知っていて。

僕は、ペンを取り上げ、最後の手紙を書く。

「シズカ。長いこと、僕を励ましてくれてありがとう。今日、第一志望の企業に就職が決まりました。僕も、晴れて社会人です。実は、ここで僕はきみに謝らないといけないことがある。実は、大学の時から付き合っていた彼女と一緒に暮らそうと思うんだ。今まで黙ってて、ごめん。だから、もうきみとは会えない。僕は最低だよね。きみには何て詫びていいものか。」

そこまで書いて、僕は、恥かしいことに泣き出してしまった。

何年も、この東京で頑張れたのは、シズカのおかげだったから。この手紙の束が、僕を支えて来た。そうして、この文通は、いつか会えるという希望に支えられたものだったのに。

--

「やっぱり。」
私は、最後の手紙を読んで。

涙は出なかった。

会わないのがいけなかったのかな。

なんだか、ボーッとして、うまく考えがまとまらなかった。

午後は、セイジに会うことになっている。重い体をノロノロと起こして、私は、待ち合わせ場所へと向かう。

「顔色、悪いな。」
セイジが、ミックスジュースを頼みながら、言う。

「あのさ。出来たみたいなの。」
「ん?何が?」
「子供だよ。馬鹿。」
「おい。なんでそうなんだよ。お前、大丈夫って言ったろ?」
「だって・・・。」

私は、頭がズキズキと痛くて、どうしようもなくて。

店には、「木綿のハンカチーフ」が流れている。都会で流行りの指輪を送るよ・・・。

「産むつもりかよ。」
「産まないわよ。」
「金なら、出すからさ。」
「うん・・・。それからさ。ついて来て。病院。」
「分かったよ。」

私は、言いたいことだけ言うと、店を出る。

--

結局、なんだったんだろうなあ。

私は、机に放り込んだままにしていた封筒から、指輪を取り出す。本当に、馬鹿みたいにピッタリで。

ねえ。私達、なんで会わずにいたんだろう?

たくさんの手紙に、私は何一つ、タカシへの気持ちを書いていなかった。

今度、東京に行ってみよう。

そうして、みっともない自分のこと。話してみよう。

今更と思われるだろうか?それでも、何となく、だけど。

このまま終わりにするのは、自分がズルいと思うんだよね。

それで、目の前にいるタカシが、昔のタカシと全然変わっちゃってたら、そん時、始めて、ふっきれる気がすんだよね。


2002年06月05日(水) そうして、抱き締められて。そのまま私の服の裾をたくし上げて来た男の左手を拒めなかった時。

「いらっしゃい。」
私は、入って来た客を見て、驚く。

「あら、珍しい。」
「久しぶり。」
「何年ぶりかしらね。」
「うん。十年ぶりぐらいかな。」

そう。十年前にここを去って行った、あなた。

「さっき、お客さんが帰ったばかりでね。もうしまおうかと思ってたの。」
「いいのかな。」
「ええ。あなたながら、歓迎よ。ちょっと待って。表はもう、閉めておくから。」

私は、慌てて男のためにグラスと灰皿を並べて。

「あまりゆっくりはできないんだ。」
「わかってます。」
「相変わらず、綺麗だ。」
「うまいこと言って。十年前に捨てた女を、今更誉めるなんてひどい人ねえ。」
「いや。正直、この店も、もうないかと思った。」
「ちゃんと続けて来れたわよ。」

そう。あなたが、もう一度ここに来てくれることを、私は、心のどこかで願っていた。

「あなたは?」
「僕か。僕は、単身赴任を終えてね。今日、あちらの片づけを全部終えて、戻って来たところだ。」
「じゃ、そちらの包みは。」
「そう。娘へのおみやげだ。」
「いいパパね。」
「正直言って、娘ももう、小学校の四年だ。僕にはさっぱり分からんよ。どんなものを買って帰ってやればいいのかもね。今更お人形もないだろうに。」
「何買ったの?」
「同僚に頼んで、適当に選んでもらった。」

その時、店の電話が鳴り出す。

私は、出ない。

「出なくていいのか?」
「ええ。きっと、あの人だわ。」
「旦那か。」
「結構おじいちゃんでね。だから、せっかちで。店が終わったら飛んで行かないと、この調子なのよ。」
「じゃ、出ろよ。」
「いいのよ。お客さん送って行ってたとか、適当に良い訳するから。」

電話には出たくない気分だった。

明日、どう言い繕おう、と思いながら、私はもうそこから動かないで、目の前の男を眺めていたかった。

あの頃と、私、全然変わっていない。

本当に欲しい男を前にすると、未来への計算なんかできなくなってしまう。

--

あの頃はまだ、私は、結婚もしていて。ただし、その頃の結婚相手も、相当な高齢だったので、私は、好きにさせてもらっていた。こういう仕事をしていれば、男の人とはずみで寝ることもあったけれど、そんなことをとやかく言う人ではなかった。私もわきまえていて、男に本気で惚れて夫の顔を潰すような真似はすまいと、思っていた。男女の関係は、自分の欲しいものだけ分かっていれば、大概はうまく行くものなのだ。

そう。

目の前にいる男に会うまでは、私は、男につまづいたことはなかった。世を渡って行く時々、利用していればいいものでしかなかった。

男にも、妻子がいた。

「今日、子供が産まれてさあ。」
と、一人で嬉しそうに祝杯をあげていた男のことを、好もしいと思ったけれど、最初は格別な感慨も持たなかった。

それなのに、男はいつまでも飲み続けて。べろべろになってしまって。

もう、客は男だけになって。

「お客さん、もうやめたほうがいいわ。タクシー呼んであげるから。」
って、受話器を取り上げた手を、男が抑えたから。

そうして、抱き締められて。そのまま私の服の裾をたくし上げて来た男の左手を拒めなかった時。

なぜか、私にも思いもよらない場所に火がついてしまったのだった。

その時から狂ったように男の後を追い掛ける日々が始まった。自分でも理由の分からない激情のようなものが、私を支配していた。

--

今度は、男の携帯が鳴っている。

男は出ようとしない。

「出ないの?」
「ああ。」
「奥さんじゃないの?」
「帰りは、今夜になるか明日になるか、分からないと言ってあるから。」
「起きて待ってらっしゃるわよ。」
「いや。そんな女じゃないよ。」
「でも、帰らないと。」
「ああ。そうだな。」

私は、口ではそう言いながらも、男の空のグラスを、また、満たして。

男がそれに口をつけるのを見て、安堵する。

もう一杯、空けるまでここにいてくれるでしょう?

「あの頃の俺、家庭に取り込まれるのが怖かったんだよな。」
「知ってるわ。」
「お前に甘えてて。」

逃げている男は、いつも激しかった。崖っぷちの欲望は、私をも巻き込んで、熱に浮かされたようだった。

老いた夫の顔を潰さないのが、せめてもの礼儀だったのに、そんなことも守れなくなって、私達は、家庭をほっぽりだして、朝まで何度も抱き合ったものだった。

そんな時、男に東京行きの辞令が下りたのだった。

「連れて行ってもらえるかと思ってたのよ。」
「すまない。」
「黙って行ってしまったのよね。」
「逃げたかった。」

男に捨てられ、結局、この店を手切れに、夫からも離縁を申し渡され、当時は死のうとさえ思ったものだった。

「なんで今頃、来たりするのよ。」
私は、恨みがましい声を出してみせる。

また、携帯が鳴る。

男は、出ない。

「なんでかな。また、きみの顔を見たくなった。」

あの時と、全く同じ感情が私を襲う。

あの頃は、いつも、男が、ふと我に返って「帰らなくては。」と言い出すのに怯えて、一分でも一秒でも、長く抱き合っていたかった。

あの時と同じ。

電話に出ないで。

空のグラスを置いて、立ち上がらないで。

私は、祈る。

--

ふと気付くと、店の外が騒がしい。

ガラスの割れる音が、人々の声が。聞こえてくる。

「どうしたのかしら?見てくるわ。」
その時、消防車のサイレンの音が聞こえて来る。

「行くな。」
カウンターを出て、外を見て来ようとする私に、男は言う。

だって、あなた。

気付けば、店の中にも煙が流れ込んで来て。

店の中の温度が上がっている。

「今夜中に帰れない理由ができた。」
男は、空のグラスを差し出してくる。

私は、黙ってうなずいて、受け取ったグラスを満たす。

本当に。もう、これで怯えなくて済む。今夜このまま、二人でずっといられるのね。


2002年06月04日(火) 僕は返事の代わりに、妻を抱き上げて寝室のベッドまで運ぶ。待ちきれず、妻が僕の服を脱がせにかかる。

妻が自室にこもって出て来ない。

もう少し、待とう。

10分・・・。

15分・・・。

駄目だ。もう待てない。

僕は、妻の部屋のドアをノックする。返事がない。ああ。もう・・・。

僕は、ドアを開ける。

ガチャッ。

「きゃっ。もうっ。何よ。」
妻が、怒ってこっちを振り向く。

「あ。ごめん。忙しかった?返事がなかったからさあ。」
「何?何の用事?」
「別に用事はないんだけど。」
「じゃ、ちょっと待っててよ。」
「う、うん・・・。分かった。」

--

しばらくして部屋を出て来た妻は、明らかに怒っている。

「ねえ。怒ってる?」
「ん。まあね。」
「何してたの?」
「無駄毛のお手入れ。」
「え?」
「んもー。分かってないのねえ。女の子って、一人になってあちこち手を入れる時間が大事なのよ。」
「ご、ごめん。」
「もう。あなたったら。いつもそうよね。あたしがちょっとでも見当たらないと、うるさいんだもの。友達の子供がさあ、最近後追いが激しくて、おちおちトイレにも入ってられないって言ってたけど、あなたも一緒よね。」
「だから、ごめん。」
「いいけどさ。他の人には言えないわよねえ。あたしの友達であなたに憧れてる人も多いのよ。営業課で一番のモテ男が、実は、妻の姿がちょっとでも見えないと探し回る甘えん坊さんだとは、誰も思わないわよね。」

妻は、機嫌が直ったのか、ちょっといたずらっぽい顔をして、僕の顔をいきなり両手ではさむとキスしてくる。
「好きよ。」
「僕も。」
「あなたの、そうねえ・・・。顔が好き。」
「顔だけ?」
「ううん。全部が好きだけど。いつ見ても、ほれぼれするようないい男っぷりよね。」

僕は、笑い出す。正直で、何事もはっきりと物を言う妻が大好きだ。

「ね。しようよ。」
妻は、甘えたように言う。

僕は返事の代わりに、妻を抱き上げて寝室のベッドまで運ぶ。待ちきれず、妻が僕の服を脱がせにかかる。

「そう慌てるなよ。」
「だって。あなたの体も大好きなんですもの。張り詰めた皮膚。その下にある筋肉。ね。後でジムに行ってウェイトトレーニングしましょうよ。」
「うん。」

妻は、美しい男が大好きで、僕は、その妻の審美眼にかなって、見事妻に選ばれた男になったのだ。

僕も、妻の体を点検する。妻の体も、どこにも隙が無く、美しい。僕は、妻の腋に、ビキニラインに口づける。

そう。きみは、いつだって美しい。

だけどさ・・・。

--

妻は、夕飯の後、友達から電話が掛かって来たとかで、ちょっと出掛けてくると言った。

「ああ。行っておいでよ。気をつけて。」
僕は、快く送り出す。

別に、僕は、妻と片時も離れたくないわけではないのだ。僕が気になるのは、家にいる時の妻。

そうして、僕は、今一人。自分の部屋で、コレクションのジャズを聴きながら、いい気分だ。

夕飯にしこたま飲んだワインが効いて、少しウトウトしてしまう。

妻は、車で一時間ばかりかかる場所まで行っている。男は、家の中に妻がいないと、妙な解放感を感じるものだ。

ピンポン。

玄関のチャイムが鳴る。

僕は、ハッとして飛び起きる。そうして、慌てて鏡を見る。

ああ・・・。

そこに映っているのは、恐ろしい顔。ダラリと崩れて、流れ落ちて行きそうな皮膚。もはや、その弛緩した皮膚は、僕の目も鼻も支えられず、僕の目鼻は、首筋のほうまで落ち掛かっている。

ピンポンピンポン。

玄関では、うるさくチャイムが鳴らされる。

落ち着け、落ち着け。

僕は、精神を集中する。すると、僕の皮膚は、少しずつ張りを取り戻し、目や鼻はしかるべき位置に戻って行く。

もう、いいか。

ほぼ、いつもの自分の顔だ。

いや、まだだ。もう少し。肌の張りが。

僕は、両手で、顔の皮膚をパンパンと叩く。

よしっ。これで、いい。

僕は、慌てて階下に降りる。

そこには、妻。少々不貞腐れた顔で。
「何、やってたの?」
「ああ。ごめん。ちょっとワイン飲み過ぎでウトウトしてたんだ。」
「ならいいけど。エッチなビデオでも見てるのかと思っちゃった。」
「まさか。で?早いね。」
「うん。実は、ね。友達が婚約者連れて来るって言うからさあ。じゃ、うちはダンナを連れて行くわ、って言っちゃったのよね。だから、着替えて。」
「分かったけどさあ。きみの友達に付き合うのって疲れるんだよね。」
「うーん。そこをお願い。だって。あなた、私の自慢の夫なんですもの。」
「分かったよ。ネクタイはどれがいい?」
「この前買ったやつにしてよ。黄色は、あなたの日焼けした肌にピッタリなんですもの。」
「じゃ、待ってて。」

僕は、自室に駆け込み、妻の気に入りのスーツを出して急いで着替える。

クローゼットの鏡をチラリと見て、いつもの美貌が健在なことに安堵する。

それにしても。

最近、油断すると、すぐ崩れるようになって来た。元に戻す時間が、やけに掛かるようにもなった。困ったことだ。そのうち、妻の前でボロを出すのも時間の問題じゃないかと思う。結婚して、すぐに、部屋を別々にしようと提案したのは正解だった。

僕以外の人間も、みんな崩れているんだろうか?

妻は?

僕は、妻が自分の部屋に入ってしまうと、気になってしょうがない。

部屋でいつも、何してる?

僕は、夢想する。

ある日突然部屋を開けると、妻がぐにゃぐにゃに崩れてそこにいて。僕に見られたことを恥じて悲鳴を上げる。僕は大丈夫だよ、と、微笑んで。そうして、僕もぐにゃぐにゃになり。どこからが妻で、どこまでが僕か分からない体を絡め合って。

それは、何だかとても素敵ではないだろうか。

だから、僕は、妻が一人で自室にいると、覗かずにはおれない。若干の期待を込めて。

「あなた、まだー?」
妻が、イライラとした口調で聞いて来る。

「今、行くよ。」
答えながら、もう一度鏡を見る。

いかん。また、緩み始めていた。僕は、鏡の自分をぐっとにらんで、瞬時に顔を引き締めてから、階下に降りて行く。


2002年06月03日(月) そっと寝室の窓の下で耳を澄ます。どこか艶っぽいような、彼女の声が、とぎれとぎれに聞こえる。

「ねえ。今夜はゆっくりしてってくれるんでしょう?」
しなだれかかってくるシルビアの手をそっとはずす。

「相変わらず、冷たいのね。」
シルビアは、ふふ、と笑う。

「ああ。すまん。」
「まったく憂鬱そうな顔してんじゃないわよ。まったく、恋した男なんて始末に負えないんだから。」
「悪いな。」
「じゃ、来なきゃいいのに。」
「そういうわけにも行かないんだよ。」
「いいわ。あたしで良ければ、いつだって相手になってあげる。まだ、もう少し、あたしがあんたに惚れてる間だけ、ね。」
「帰るわ。」
「うん。」

僕は、夜道をトボトボと帰る。自分の家なんだから堂々と帰ればいいのだが。

そうして、僕は、意を決して家に入る。

「あら。おかえりなさい。遅かったのね。夕飯、用意してあるわ。」
彼女は、あっけらかんと笑って、僕を見る。

くそ。この輝くばかりの笑顔の理由、分かるぞ。多分、さっきまであいつと電話してたんだろう。なあ。そうだろう?そんなことを考える自分も嫌で、僕は、黙って夕飯を食べる。

全く、僕も情けない男だ。彼女の心が他の男に奪われそうだからって、いつもいつも不機嫌をばらまいて歩いている。彼女が嬉しそうにしていれば、彼女の恋の順調さを思って嫉妬に狂い、彼女が悲しそうにしていれば、彼女を悲しませる男への怒りが抑えられない。

「さきに、寝るね。」
彼女は、僕に一言声を掛けて、さっさと寝室に行ってしまう。今夜は、あいつの夢でも見るんだろう。

僕が寝室に入った頃には、彼女は、スースーと幸福な寝息を立てている。

僕は、そっとベッドの隣に入ると、彼女の顔に口づける。

「んん・・・。くすぐったいよ。」
彼女は、寝ぼけて僕の顔を払いのけると、向こうに寝返りをうってしまった。

僕は、その夜も、眠れない。

ああ。だけど、きみを愛している。誰よりも。ずっとこうやって寄り添って来た。だから、お願いだ。きみの恋が早々に終わりを告げますように。そうして、僕の胸で泣くといい。

--

「で?やっぱり、男が出来たみたいなの?」
シルビアが聞いてくる。

「うん。多分。」
「あれこれ嗅ぎ回るのはやめなさいな。」
「分かってるよ。だけど、しょっちゅう長電話をしてるのは、事実だし。」
「何しゃべってるの?」
「分からないさ。彼女、部屋のドア閉めて電話するから。だけど、すごく楽しそうだ。」
「あらら。」
「俺、もうすぐ捨てられそうだ。」
「まだ決まったわけじゃないんでしょう?」
「ああ。だけど、いざとなったら、さっさと身を引く決意はできてるんだ。」
「彼女、愛されてるのね・・・。」
「当たり前だよ。もう、産まれ落ちた時からずっと、彼女を愛する定めだったのさ。」
「男のロマンティックには付き合ってらんないわねえ。」

シルビアは、今日も、念入りに爪の手入れ。僕は、そのそばで憂鬱な顔。

「なあ。俺達も、随分長い付き合いだよな。」
「そうね。」
「悪いと思ってんだ。こうやって、落ち込んだ時だけお前に頼るの、俺の悪い癖だよな。」
「いいのよ。」

シルビアの顔は向こうを向いていて分からないけれど、多分、心の中で泣いている。ああ。なのに、僕はなんで自分に相応の女を愛することができないんだろう。

「帰るわ。」
「ん・・・。」

--

僕は、家に入ろうとして、ハッと足を止める。アパートの前に見知らぬ車。カーテンの向こうに、彼女以外の人間の影。

そっと寝室の窓の下で耳を澄ます。

どこか艶っぽいような、彼女の声が、とぎれとぎれに聞こえる。

僕は、入るに入れず、庭に身を潜めて。

いや。僕は堂々としていればいいんだ。ここは僕のうちでもあるんだから。そう思ってみるけれど、結局、僕はそこから動けない。

ずいぶんと長い時間そうしていて、ようやく表のほうで、彼女と誰かが別れの挨拶を交わす声が聞こえてくる。

それから、車の走り去る音。

男が帰ってすぐに家に入るのは不自然なので、僕は少し時間を置いてから家に帰る。

「あら。お帰り。今日はちょっと早いのね。」
微笑む彼女の顔は、桜色に輝いて。びっくりするくらい美しい。

そろそろ、身を引く時が来たようだ。

僕は、そう。いつだって用意していた。別れの言葉。君に会ってから、いつかそういう日が来るってずっと分かってた。

そんな僕の悲しそうな視線に気付いたのか、彼女もちょっと悲しそうな顔になって。
「ねえ。私、あなたに言わなくちゃいけないことがあるの。」

分かってるって。

「私、最近親しくお付き合いしている人がいてね。もう、彼とは離れられないの。だから・・・。その。」
彼女は、言いながら、涙を流し始める。

僕は、唇をつけて、その涙をぬぐう。

「今度、彼と一緒に暮らそうと思うんだけど。そのアパート、ね。猫、飼えないのよ。だから・・・。ゴルビーは連れて行けないの。」
彼女は、ワッと泣き出して、僕を抱き上げて泣きじゃくる。

分かってたさ。僕は、猫だ。きみを幸せにはしてやれないってね。だから、泣くなよ。ねえ。お願いだからさ。僕は、彼女の涙で毛が湿ってくるのを感じて。自分も泣いてるみたいな気分になった。

「あなたを飼ってくれるとこ、ちゃんと探すからね。ごめんね。」

いいよいいよ。僕のことはいいからさ。僕のことは、自分でなんとかできるって。

--

「で?」
シルビアは、不機嫌そうに訊ねる。

「だから・・・。その・・・。今日が彼女の引越しの日なんだ。」
「いいわよ。分かったわよ。一緒に行ってあげるわよ。」
「すまん。」
「ったく、最後の最後まで。」

僕は、銀色の毛並みのシルビアと連れ立って、僕と彼女が住んでいたアパートに行く。

もう、トラックが次々と荷物を運び出していて。

彼女は、僕を見つけると、本当に嬉しそうな顔をして、
「ゴルビー!」
って大声で呼ぶから、僕はちょっと恥かしい。

シルビアが、僕についと寄り添って来る。

「あら。彼女?素敵。いつの間に、こんな美人さんと仲良くなったの?」
彼女は、僕らを交互に見て。

「なら、安心ね。」
彼女は、ちょっと寂しそうに微笑む。

違うんだ。これは、ほら。ほんの友達でさ。僕、本当に愛してんのは、生涯きみだけだから。

「猫、いたのかい?」
彼女の背後から、男の声がする。

あんたか。僕の可愛い恋人を奪った憎い男は。

「うわ。可愛い猫だなあ。僕、案外と猫、好きなんだよね。」
なんて、さわやかな笑顔で僕を抱き上げるから。

わわ。やめろ。なんて少し暴れてみたけれど。

彼女が素敵な男と一緒になるみたいでちょっと安心だ。

「じゃあね。」
彼女は、僕らに挨拶を。

ミャ〜。

僕は、できるだけ平気なふりで、見送る。

幸せのトラックは走り去る。

「僕らも帰るか。」

シルビアは、ふふ、と笑って。
「あたしも一緒にいて、いいの?」
「ああ。この憂鬱な男に付き合ってくれる勇気があるならね。」
「慣れてるもの。」

僕らも、精一杯幸せそうなふりをして、道端の虫を追い掛けたりしながらふざけて帰る。


2002年06月02日(日) 「さて。こんなことをするのは久しぶりだな。お前を満足させるのは無理かもしれない。」私は、言い訳めいたことを言いながらも、

うるさい。

なんてうるさいんだ。

私は、エアコンなどという近代的なものもない部屋の中で、汗びっしょりで目覚める。畳の上に敷いた煎餅布団の上で、蝉の声で目覚める。

やれやれ。ここは、住宅街から少し離れたこの場所は、住むには静かでいいのだが、唯一、裏山から聞こえる蝉の声で、夏になるとうるさくてしようがない。

私は起き上がって、洗濯物の中からタオルを取ると、首筋の汗を拭く。

窓を開ける。

蝉の声が一段と増して飛び込んでくる。

やっぱりうるさいか。再び窓を閉める。

夜眠れないせいで、昼間も眠気が抜け切らない。私は、年代ものの扇風機を回して、もう一度眠りに就く。

--

「あんた、誰?」
私は、起こされた不機嫌から、つい語調がきつくなる。

「あなたのお母様から頼まれて。」
女は、黙って私の部屋にズイズイと上がってくる。

「ちょっと待ってくれよ。」
「用が済んだら帰りますから。」

大人しげな癖に、妙にきっぱりとした態度で物を言うから、私は、それ以上何も言えずに女を家に上がらせてしまう。

「暑いだろう?だが、ここは、エアコンとやらもないんでね。」
「これくらいが丁度いいですわ。窓を開けるといい。山の風が入ってくる。」
そうやって、女はさっさと窓を開ける。

「じゃあ。これ。お母様から。」
手荷物の中から、いくつか包みを取り出して。それは全て山で取れたようなものらしかった。

「どうも。はるばるすまなかったね。」
「いいえ。あなたさまにも会いたいと思ってましたから。」
「それはまた、どうした理由で?」

女は答えないで私をじっと見つめている。美しい女だ。肉感的な体。顔には汗で貼りついた後れ毛が。

私は、その時、その女の存在感に圧倒されて。

「ああ・・・。そうだったな。」
私は、自分でも分からぬ返事をしながら、女の手首を掴む。そうして、私が敷きっぱなしの煎餅布団まで連れて行くと、女は自分から服を脱ぎ始める。

「さて。こんなことをするのは久しぶりだな。お前を満足させるのは無理かもしれない。」
私は、言い訳めいたことを言いながらも、手早く自分の服も脱ぐ。痩せた貧相な体が恥かしかったが、下半身は自分でも驚くことに、つまらない心配は無用の状態だった。

「いらして。」
女は、相変わらず、肝の座った声で言う。

「ああ。」
私は、女の上にかぶさる。

「夏だけだもんね。」
女は言う。
「そうだな。」
私は答える。

無言のまま、交わる。

ただ、欲望に任せて。

この女は、いつまでも一人身の私を心配して、母が寄越したんだろうか?と、ふと思ったりした瞬間。

ああ・・・。ああ・・・。

と、泣くような声を出して、女がその腰を激しく動かすから。

あっ・・・。

私は、抑える暇もなく女の中に放出してしまう。

「ありゃりゃ。」
私の声は実に間抜けだった。

「良かったわよ。」
女は表情を変えずに言う。

「出しちゃって大丈夫だったかね。」
「ええ。」

照れている私を見て、女が初めて少し微笑んだ気がした。

--

大体、冴えない感じで生きて来た。女も、たまに街に出て買うぐらいだったし。だが、人間が淡白というか、それでさして不自由もしなかった。結婚したいとも思わなかったし、そんな風に、淡々と生きて、それで人生が終わればいいと思っていた。

もちろん、女を抱く時も、その女を格別にいとおしいと思ったこともなかった。

それでいい。そんなものだ。

誰かが来て、「それでいいのか?」と問い詰めて来たところで、その程度の事しか答えられなかっただろう。

--

夜になっても、女は帰るとも言わず、黙って水浴びをした後の火照った体ですりよって来た。

私は、ちょっと不安だったが、昼間と同じように、私の体は簡単に反応し、女は、また艶っぽい声を上げ、そうして、あっさりとお互いに満足を得てしまうのだった。

翌朝も。昼も。夜も。女は、時折裏山のほうに散歩する以外は、どこにも行かなかった。

この場合、「狂ったように」という表現は当たらない。ただ、黙々と、淡々と、私達は事に励んだ。

もともと自由業みたいなもので、月の半分も働けば充分食べて行ける私は、働きもせず、女の欲望に付き合った。まるで、私の人生の一生分の欲望を使い果たそうとするかのように、私は、女が誘って来ない時は、自分のほうから布団へと女を招き寄せた。

そうやって、七日七晩。

七日目の夜。私達が交わった後、女はふと顔をあげて。妙にさっぱりとした顔をして。

「お世話になりました。」
と、頭を下げた。

私も、黙って頭を下げた。

もう、夜遅くて、電車もないだろうに。女は、身繕いを整えると、すたすたと夜の道を歩いて帰って行ってしまった。

--

なんだったのだろう。

私は、翌日、田舎の母に電話してみる。

「ああ?」
耳の遠い母は、何度説明しても私の言うことが理解できない。

「女?いんや。知らんよ。」
母の言葉で、私はやっぱりと思って電話を切る。

あの女は蝉だったのだ。と思う。

いや。なんの根拠もない話だが。

私は、窓を開け、蝉の声を入れる。いつの間にやら、この、蝉の声がうるさい家から、どこにも行きたくなくなって。ここで死ぬことができたら幸せだと思う私がいた。

あの女は本当に蝉だったのかなあ。

もう一度考えてみる。

だが、そんなことは、すぐにどうでも良くなって。女を恋しいとは思わなかった。あれ以上、長居されちゃ、身が持たんしな。

私は、相変わらず、年代物の扇風機をつけて、トロトロとまどろむ。木の枝に産みつけられた卵の夢を見る。


2002年06月01日(土) 彼女がすれ違った時の彼女の髪の毛の香りを思い出して、僕は欲情する。たまらず、目の前の妻に手を掛けた。

僕が彼女を見たのは、その時が初めてだった。

妻と二人で歩いていた時だった。

その完璧な彼女は、体にピッタリとした服を着ていたため、体の線があらわになっていて。多分、男なら誰でも、目を留めずにはいられない。豊かな胸は、もうしばらくすれば重力に負けてしまうかもしれないが、今のところ、重力に対して威厳を保ち続けていたし、ふくらはぎから足首に掛けてのラインは完璧だった。

そうして何より、歩き方が、誘っていた。

僕は、多分、丸々一分間、彼女が向かいから歩いて来て、僕達のわきをすれ違って通り過ぎるまで、そこに立ち尽くしていたようだ。

彼女が完全に通り過ぎたあと、妻が肘で僕をつついた。僕はそこで我に帰った。

「あなた、今やってたこと、自分で分かってる?」
「え?」
「え、じゃないでしょう。今、あなた、私にものすごく失礼なことをしたのよ。もちろん、あの女性にも失礼だったかもしれないけど、そんなことどうだっていいわ。あなた、私という女性に対して、ひどい仕打ちをしたのよ。」
「ひどいって。ちょっと見惚れてただけじゃないか。」
「だから、最悪なのよ。」
「男なら誰だって、彼女に見惚れるって。」
「誰だって?」
「ああ。」
「なんて・・・、ひどい・・・。」

彼女は、その場で顔を覆って泣き始めたから、僕は訳が分からなくなって、とにかく、彼女を家に連れて戻り、あれこれと弁解したり、もちろんきみのほうがずっと魅力的だなどと言ったりもした。

信じて欲しいが、僕は、平凡な男だ。平凡な妻と二人で、小さな一軒家に住み、ローンを払って行くのがやっとの、ごく平凡な男だ。あんな夢のような女とは、まったく縁のない生活を送っている。

夢のような・・・。

そうだ、夢のようだった。

突然、彼女がすれ違った時の彼女の髪の毛の香りを思い出して、僕は欲情する。たまらず、目の前の妻に手を掛けた。

「ちょっと、何するのよっ。」
妻は、僕の手を払いのけた。

「あんたが今考えてることぐらい、分かるんだから。あの女のこと、考えてたでしょう?あの女のこと考えて、ムラムラしたでしょう?」

まったく、返す言葉もない。僕はうなだれてしまう。何で分かるんだろう?

ともかく、妻はすっかり怒ってしまい、寝室を別にしましょうと言い出した。悪いのは、僕だ。よく分からないが、多分、僕が悪いのだ。妻の言う通り、僕は、寝室を分けた。だが、それでも妻の機嫌は結局直らず、今度は、離婚すると言い出した。

「離婚?なんで?」
「ともかく、駄目なのよ。もう、あなたとはやっていけない。」

彼女は、一旦言い出したら、もう、誰の言うことにも耳を貸さない女だ。僕は、しかたなく、離婚に同意した。

彼女は、さっさと荷物をまとめて出て行った。そこには何の迷いもないようで。僕は、その事実に驚いた。僕らは、五年間、夫婦として一緒に暮らした。それが、彼女の中に何も残していないようで、驚愕したのだ。

彼女は、何も残さなかった。

唯一、ベランダの鉢植えを忘れて行ってしまったので、それは、僕が忘れず水をやった。だが、どう手入れを間違えたのか、ある日、枯れてしまった。そういうものだ。いくら手を掛けたって、駄目になる時は駄目になる。

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時折、僕は妻との離婚の原因を考えてみるが、どうしても理由が分からなくて、考えるのをやめてしまう。それ以上考えていると、どうしても理由を見つけないといけない気分から、僕は、自分を責め始めるだろう。

妻がいるくせに他の女に欲情する自分が悪いとか。

平凡な暮らししかさせてやれなかった自分が悪いとか。

そんなことが理由として成立するのは間違っていることぐらい、僕にも分かる。

だけど、ああ。人は、理由を求めて生きる動物だ。理由なしに何かを納得するのはひどく難しいのだ。ということを、三十過ぎの男は、徹底的に知るはめになったというわけだ。

--

僕は、彼女などいなかったものとして生活を新たにスタートさせるしか、その鬱々とした気分を振り払う術はないと気付いた。

だから、貯金をはたいて、家の外壁を塗り替え、壁紙を張り替えた。自分の髪を、少し違う色に染めて、服装にも少しお金を掛けてみた。

同僚からは、
「なんか雰囲気変わったな。」
と、からかわれた。

不思議な事に女の子からモテ始めた。

もちろん、モテるのは、一番の目的じゃなかったが、悪い気分じゃなかった。女の子が寄ってくれば、寝るが、僕という人間を知ると、みんな僕のもとを去って行った。なんでだろう。多分、僕が、「僕ときみの間には何か理由があって抱き合っている」ということを、まるで信じなくなってしまったからだ。

そうして、僕は、薄っぺらな毎日の中を、上手く渡って行くことについて進化し続ける。こだわりさえ捨てれば、人は案外と世の中の簡単にいろんな法則を見つけられるのだ。

そうして。

毎日。

たまに、酒を飲み過ぎて泣くこともあるが、誰のために涙を流しているのか、もはや分からない。僕のため。妻のため。一度だけ妻の流産で失った生まれてくる筈だった子供のため?

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ある日、僕は息を飲む。

向こうから歩いてくるのは、僕と妻の離婚のきっかけになった、あの女性だ。完璧な歩き方をものにしている、その美しい女。

「あの。」
僕は、思い切って声を掛ける。

「どこかでお会いしたかしら?」
彼女は首をかしげる。

「ええ。去年の今頃、この道で。」
「まあ。そう。」
「すみません。唐突だとは思うのだけど、今夜、付き合ってくれませんか?一晩だけ。あなたと語り合いたい。」

普通の男がこんなこと持ちかけたら、きっと気味が悪い男だと思われるだろう。

だが、もう、僕は必死だった。

「あなたがきっかけで、僕ら夫婦は別れたんです。」
もちろん、そんなこと言いがかりだというのも、よく分かっていて。

「わたしのせいで?」
彼女はとても悲しそうな目をして。

「いいわよ。付き合うわ。」
と、あきらめたようにうなずいた。

僕は、胸が痛んだ。これだけ美しい女だもの。今までだって、不当な言いがかりをつけられて苦しむことは多かったに違いない。なんで僕らの離婚まで持ち出したのだろう。だが、その時は、僕は僕のことしか考えていなかった。

--

僕らは、その夜、飲み過ぎた。

もちろん、僕と妻の離婚のことには一切触れなかった。だって、彼女にはまるで関係のない事だったから。

僕は、ただ、彼女の美しさを称賛し、ベッドまで運んだ。

そうして、その美しい体を抱き締めて、体中に口づけた。

僕は、夢の女を前に緊張のあまりうまく自分を勃たせることができなかった。彼女は、そっと遠慮がちに、それを口に含むと、僕がリラックスして、続きをすることができるようになるまで、舌を動かし続けてくれた。

全てが終わって、僕は泣いていた。

「理由が知りたかっただけなんだ。」
僕は、泣きじゃくっていた。ずっと一年間抱えていたものを、吐き出してしまっていた。

「もしかしたら。」
彼女は口を開く。

「え?」
「もしかしたら、彼女はずっと離婚を考えていて、ただ、あなたを原因に離婚する理由を探していただけだったのかもしれないわね。そこに丁度私が通りがかったってわけ。」
「そんな風に考えたことはなかった。」
「逆転させれば、そんなに理由探しは難しいわけじゃないかもしれないわよ。」
「そうかな。」
「あるいは。あなたは、私と寝るために奥さんと別れた。それでいいんじゃない?」

そうかもしれない。

簡単なことだった。

「女の体は、男が使ってはいけないほど神聖なものじゃないわ−恋愛で失敗した体なら、なおさらよ。
そんなことを悲しい女に言わせたのは、チャンドラーだったかしらね。」
彼女の声は、冷え冷えとして。

僕は、心の中で謝りながら、冷えた体を抱き締める。

結局、理由を探しているふりをして、誰かのぬくもりを待っていただけだった。


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