「静かな大地」を遠く離れて
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先日やっと「硫黄島からの手紙」を観た。「ラストサムライ」とか「太陽」とか 日本の近現代に材を採った外国人の手になる映画というのは気になるもので、 最近映画に無精な割りには見逃さない。 たまたま硫黄島戦や栗林忠道には以前から関心があったので、にわかに注目が 集まっている状況が感慨深い。たとえば他の陸軍軍人の今村均や樋口季一郎や 河本大作が注目されても、ある種の興味は引かれるだろうが、こういう感慨 までには至らなかったであろう。 注目を浴びたきっかけが「クリント・イーストウッドが映画にしたから」 というのは、十数年前に満州がにわかに注目されたのが「ベルトルッチが 『ラストエンペラー』を作ったから」というのを思い出させて面白い。 満州事変から硫黄島戦へ、史実における十数年間と同じくらいの時の隔たりを 経て、より戦争は身近になったような気もするし逆にリアリティを希薄化させて いる気もする。
映画を観ながら考えていたのは、「ひめゆりの搭」とか「きけわだつみの声」 とか、あるいは数多の戦争もののテレビドラマを観てきた時には意識しなかった “リアリティ”の問題だった。端的に言えば昔の日本人の挙措、語調、しぐさ、 のようなものを完璧に再現しながらリアルな歴史ものを作る、ということに腐心 しようとする人は日本にも外国にもいないものだろうか、というようなことだ。 歴史考証の精度に完璧を求めたい、ということではない。数十年前に実在した 日本人たちの肌触りのようなものをもっとリアルに感じながら物語を体験して みたい、あるいはそういうことは可能なのかどうか、追求することの意味を 考えてみたいということか。
「硫黄島からの手紙」で下士官を演じる役者さんたちが“軍人っぽさ”を表現 しようとする芝居が、どこか過去の映画やドラマで観たような型を踏襲している ように感じて、「これは虚構なのだ」という意識に引き戻された。妙なことを 言うようだが、この映画を観ていて、こうした「欠点」には心救われた。 これは賛辞である。その欠点に“逃げ場”を見出して救われるくらい、息苦しい までの状況を体感させられたということだから。もちろん監督は能うものなら 全ての役者の芝居が“リアル”に見えることを望み、目指して作ったのだろうが。 裏を返せば様式的な「時代劇」の一種としてではなく、現在の日本人と地続きな 隣人としての日本の軍人を描き切る映像作品を本気で作るという仕事は、 かろうじてまだ(日本人の手に?)残されている、とも言える。
話は要するに、そんなことを思わせるくらいに洞窟の持久戦を余儀なくされた兵士 たちの視点に同化させられた稀有な映画体験だったということだ。 そしてどうしようもなくシンドイ気分に、どうにか道筋をつけようとする中で手を 伸ばしたのは、日野啓三氏の9・11直後の文章だった。
■日野啓三『落葉 神の小さな庭で』より 米空軍の報復爆撃が本格的に開始されるまで、米本国へのテロ攻撃以後 何日も重苦しい日が続いたが、アメリカの指導者たちが、居丈高に 「正義の報復戦争」を呼号する度に、私はサイゴン北方ジャングルへの B52爆撃の破壊力をまざまざと思い出し、インド亜大陸のどこからでも、 いつでも飛来する空母艦載機群やステルス新爆撃機の編隊を想像して、 爆発音や爆発、破壊の威力に耐えた。 戦火を身近に直接に想像する機会がしばらくぶりだっただけに、その思い は耐え難く、アフガンの岩山の洞窟の奥や地下壕の中で「今か今か」と 待ち怯え続ける緊張感は身体的に苦痛であった。
映画を見終わったあとに頭に浮かんだのは「この苛酷な状況に一般住民を巻き 込んで展開したのが沖縄戦なのだ」という思いだった。沖縄の海軍司令部の地下壕 の記憶も連想を強化した。実際、硫黄島が陥ちてすぐに米軍の慶良間上陸、ついで 4月1日には沖縄本島上陸となる。
■映画「エレニの旅」アレクシスの手紙より 1945年3月31日ケラマ島。 太平洋オキナワの25マイル西の小さな島。 愛しのエレニ。44年12月1日の君の手紙が昨日届いた。 届いただけで奇蹟だ。何ヶ月も世界中を転々とした手紙。 笑って、泣いたよ。君は元気で解放を迎えたんだね。 嬉しくて一人で乾杯した。僕が君を忘れたって? 忘れるものか! この何年、君を思わない日はない。 この誰も知らない島で、黄色い川の泥のなかを銃をかついで進んでいる。 もうすぐ6万の兵が死を覚悟で出撃する。オキナワは地獄だ。
アメリカに憧れたアコーディオン奏者のギリシャ移民青年が、米軍兵士として戦場 から送った手紙。描かずして描き出された、霧の彼方のアメリカの巨大な影が強い 印象を残す映画だった。
■ 目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』より 沖縄戦を見れば、有事=戦争には何が行われるか、よく見えるんですね。 たとえば「本土」における戦争というのは、ほとんど空からの攻撃です。 近代の日本において地上で行われた外国の軍隊との戦闘は、 硫黄島と沖縄だけですね。有事法制の中で、日本が戦場になるということ を想定するなら、当然、沖縄戦のことを検証すべきなんですよ。しかし、 そんな議論はほとんどなかったですよね。 沖縄戦の記述を抹殺したというのは、有事になったときに、日本国内で 何が起こるかということを市民に考えさせたくないからでしょう。
この年末年始、沖縄に滞在していた。妻の実家がたまたま現在、那覇にあるので 帰省したのだ。その前に海音寺潮五郎の『鷲の歌』という小説を読んだ。 前々から読みたいと思いつつ先延ばしにしていたのだが、佐藤優氏の下記の発言を 読んで今こそ読み時、と見定めたのだった。
■姜尚中×佐藤優「愛国心とカラオケボックス」(週刊朝日2006.12.1号)より 私の母は久米島出身なんです。実は江戸末期、日米和親条約の直後に 琉米修好条約が結ばれているんですよ。ペリーが来たときに「琉球の 連中は、砂糖の生産量も中国との関係も嘘をつく」と怒っているんです。 今度、そんな歴史の片隅に埋もれた琉球王国の官僚たちの記録を 読み込んで連載を書く予定(小学館のPR誌)なんです。
西郷隆盛の「奥」にいる島津斉彬の存在がずっと気になっていた。 日本近代のマスタープランを立てたのは結局この師弟コンビだったのかもしれない。 日本の中世から近世への舵を切ったのが織田信長−豊臣秀吉の師弟であったことに なぞらえるとすれば、近世から近代への転換点を担ったのは、島津斉彬−西郷隆盛 だった。「師」のほうが志半ばで頓死し、「弟」が「師」の遺志を忖度しながら 事業を完遂しようとするものの、最終的には挫折する、という図式も同じである。 秀吉の「朝鮮出兵」と西郷の「征韓論」も、何かの必然のなせる相似であろうか。 このあたり、最近、松岡正剛氏も「千夜千冊」で長い西郷論を書かれたし、未だ 定まらぬ歴史の肝だろう。
さて島津斉彬のマスタープランなるもの。大ざっぱに言えば「幕府と朝廷」で形成 される国家のデザインを設計変更して、外国と対峙する、そのために満州へ出て 橋頭堡を築こう、というものだったと思われる。まず手始めに薩摩の富国強兵を図る。 元手となる財源はといえば、もちろん琉球からの搾取。その後、近代日本は斉彬や 西郷が想定したであろう「未来」とは異なる道筋を辿りながら、しかし彼らの倒した ドミノの延長上で、戊辰から西南戦争に至る内戦を乗り越え、不平等条約改正という 宿願を抱えつつ、苦労に苦労を重ねて朝鮮半島から満州、さらに大陸深くまで出張って 行った。挙げ句の果てに世界を敵に回して、1945年8月を迎えたというわけだ。
大日本帝国という“歪んだレンズ”が集めた西洋文明の光が、大陸をジリジリと焦がし ながらその焦点を移動させて行ったプロセスが、日本と北東アジアの近現代史であった、 という見方。 角田房子『閔妃暗殺』、安彦良和『王道の狗』、内藤千珠子『帝国と暗殺』、吉田司 『王道楽土の戦争』、小林英夫氏の満州研究、それに小熊英二氏の『日本という国』 など一連の著作を併せ読めば、「教科書で教えない」歴史がおぼろげに浮かんでくる。 歴史的な価値判断をする以前に、そうした文脈が存在することすら、自分で本を渉猟 してみるまでわからなかった。
歴史上の薩摩という国家を「帝国」であると誹りたいのではない。佐々木譲さんの 『武揚伝』や池澤氏の『静かな大地』などを読んでいると、ほとんど「仮想敵国」 ないし敵国そのものとして立ち上がってくるが、たとえば吉村昭氏の『生麦事件』 では、国としての知力も体力も充実して当事者意識に満ちた大人の国、という 頼もしい印象で描かれている。英国艦隊との闘いが戦争の体をなしていたのは立派だ、 とつい言ってしまいたくなる。同じような境遇の長州が、頭に血ののぼった過激派 学生のテロ集団にしか見えないくらいだ、しかも和平交渉を経て英国と通じ、即座に 軍艦を購入し、英国へ諸分野の留学生を送るなど、生き馬の目を抜く十九世紀の 地球上で日本国がどうにかこうにか滅びもせずに生き延びたについては、薩摩人の 貢献を看過できない。そしてそれらの起点には、島津斉彬が屹立している。
海音寺潮五郎『鷲の歌』は、この斉彬の企図に翻弄され、あるいは夢を抱く琉球の 官僚や民の群像を描いた時代小説だ。実在の人物や事件を題材にして小説にしているの だが、予備知識があまりにもなかったので、どのくらいフィクションなのかもわからず に読みすすめていた。だが、終盤に来て、かなり史実を踏まえた物語であることがわかり、 その展開に戦慄した。なぜなら構図がほとんど『国家の罠』そのものだったからだ。 これは思いがけないことだった。
なので那覇に着くなりパレット久茂地の書店に入って『高等学校 琉球・沖縄史』を 買ったり、書店や空港で『青い目が見た大琉球』、高良倉吉『正・続おきなわ歴史物語』 を見つけたりして、牧志朝忠という人物のあたりを勉強しておこう、と一気に琉球の 近代への関心が高まった。そもそも『高等学校 琉球・沖縄史』が作られ、一般の書店 で売られているのがすばらしい。パラパラ見るに、とてもよくできていて、読んで 面白い歴史教科書だと見受ける。沖縄の高校生は皆この教科書で勉強するのだろうか。 だとしたら近現代史の読解力において、内地の高校生よりもずっとアドバンテージが あるとさえ思えてくる。今後、たとえば『高等学校 蝦夷・東北史』とか『高等学校 アイヌモシリ・北海道史』など、力のこもった地域の歴史教科書が作られれば、日本人 の歴史健忘症に効くのではあるまいか。
■佐藤優『国家の自縛』より 今保守系の政治家たちが、愛国心教育を憲法で重視しろと言って ますが、かたちでやったって絶対に中身は入りません。逆にきちんとした 詰め込み教育で歴史を教える、日本の古典を教えるところから愛国心は出て くるんです。中国も韓国もロシアもドイツも、歴史と古典教育には今、 ますます力を入れているんですよ。 東西冷戦という構造がなくなって、イデオロギーの力がなくなった後、 歴史・民族・国家の力っていうのは実のところますます強まっているんですね、 各国で。そのために一生懸命歴史を勉強してるんですよ。日本はどうも、 それと逆行するようなことをしていて、私は非常に怖いんです。国際的に通用 する日本の国際協調的愛国主義を構築していくには、日本の国体観の伝統を 再検証することから始めるべきだと思うんです。
「きちんとした詰め込み教育」という視点は新鮮で流石だ。 つまり歴史教育なるものは、やってもやらなくてもどうでも良いようなものではなく、 どうせやるなら「読み書きソロバン」的な実効性のあるやり方でしっかりやるべきだ、 ということだろう。国民の幸福追求の基盤となる「国益」を保守するためには、国民 の「歴史力」が必要不可欠である、という論理だろうか。 先ごろ『ローマ人の物語』を完結させた塩野七生氏も、欧州の歴史教育事情について 書いていた。それによると、歴史教育にかけている時間、教科書の作成にかけている 手間、いずれも日本の状況とは比ぶべくもないという感じだ。以下の引用は、塩野氏 による日本の高校世界史教科書の評価。
■塩野七生「日本人へ・四十五 世界史が未履修と知って」(文藝春秋2007・2) なぜ面白くないかと言えば、三千年以上もの歴史を一冊に詰めこんでしまった からである。それでそのすべてをチョコチョコと単語と数字を万遍なく網羅した 散らし寿司のようになっているからだ。散らし寿司よりも悪いのは、あれ一冊を 一年間で学ばなければならないために、個々別々を味わう時間的余裕も与えられ ないところにある。(中略) 一冊で、しかも世界中の歴史を一年で履修するなど、所詮は無理な話なのだ。
少なくとも欧州において歴史は飾りではない。民族と国家の錯綜した経緯をひととおり 踏まえないことには、欧州で「市民」なんぞやって行けないだろう、と想像に難くない。 しかし考えてみれば事情は北東アジアだって同じはずだ。単に日本が冷戦の傘の下で 培った「記憶喪失的多幸症」から脱していない、というだけかもしれない。 大部分の国民が現代史に関心を持たずに生きて来られたというのは、見方によれば幸福 なことだろう。オメデタイ限りだ…とまで言ったら、玉砕も原爆も大空襲もシベリア抑留 も経てきた国民に対して酷に過ぎるだろうが。 しかし朝鮮半島やパレスチナ、旧ユーゴスラビアやコーカサスやカシミールやインドシナ 半島の住人たちは、否応なく「歴史」に直面せざるを得ない。家族史が即、現代史の縮図 というケースが日常的なのだから。
日本の学生が受ける歴史の授業は、短期間に暗記ばかり強要される割りに、ものの役に 立たない「安物買いの銭失い」的な状況に陥っているのではあるまいか。 悪名高い英語教育と同様に。以前、日本の歴史教科書についての私案を冗談交じりに 書いたことがあるが、あながち荒唐無稽なアイデアでもなかったのではないか、 と思えてくる。その時考えた骨子は、日本−オランダ−インドネシアの三地域の関係史 を軸にするということと、テキスト自体を対訳本にして英語のリーダー教材としても活用 する、ということだった。これにユーラシアの遊牧民族の定点を加えれば、文明のありよう と「国家」の成り立ちについて考える素をたっぷり含んだ、「面白くて使い物になる」 歴史教科書が作れそうな気がしてくる。
そういえば正月に那覇で新聞を開いたら、小熊英二のインタビューが大きく載っていた。
■小熊英二インタビュー(沖縄タイムス 2007.1.1)より 日の丸は何の理念も示していない。その点で、珍しい国旗だと思います。 そうなったのは、日本が植民地にされなかったことと、 明治政府が『日本は太古の昔に自然にできた国だ』という印象を国民に 教え込むことに成功したのが大きい(中略) 明治維新後の日本は、理念を掲げずに天皇というシンボルに忠誠を誓わせる ことで国民を統合してきた。近代日本で国家理念を持ちえたチャンスは、 敗戦後に『大日本帝国』から『日本国』に変わった時だったでしょう。 あの時に、新憲法を国家理念にして『平和主義・民主主義・象徴天皇』を表す 三色の国旗でも作っていれば、フランス型のナショナリズムができたでしょう。
「うちの祖父さんはパルチザンとして独立戦争を闘った」というような家族史を持たない ことを、とりあえず“僥倖”と見なしつつ、しかし世界のスタンダードとして国家なるもの がどう出現し、どういう限界を伴うものなのかということについては、きちんと踏まえておく、 そういう姿勢で世界の人々とつきあえるようなベースとなる歴史認識。それをそれぞれの 政治的立場で真摯に掘り下げる努力をしないで、手間も暇もカネもかけない、薄っぺらな カリキュラムの歴史教育を押しつけようとするならば、それは議論の余地もないくらい お粗末な亡国教育だと断じたい。
これを書いている途中で、 「日の丸」を日本の国旗にすべく幕府に献策したのが島津斉彬 その人であったという話を思い出した。なんだかわからないままに物事はつながっていく ものである。
■松本健一『日本の近代1 開国・維新』より 船に国旗をかかげるのは、「異国」がそうしているのと同じく、日本の海に 外国の船が往来するようになった現在にあって「異船」と区別するために ぜひ必要である、というのだ。 この時点では日本はまだ「開国」していないわけだが、にもかかわらず 島津斉彬の脳裏には、すでに日本の海に世界各国の船が入り交じって航行 するさまが思い描かれていた。(中略) 日本が元来「日の本(もと)」のくにとも、「日出ずる国」 とも申している とおり、日章旗こそ国旗にふさわしい、と主張した。その結果、幕府は 嘉永七(一八五四)年七月十一日、「白地日の丸」の日章旗をもって 日本国総船印と定め、全国にその旨布達した。
日本という国家、そしてその理念、あるいは理念の無さ。 日の丸を国旗にした近代日本のデザイナー・島津斉彬が、開明的な名君か、畏れを知らぬ 覇王か、毀誉褒貶の定まらないまま、忘却の彼方に追いやられているところに何か隠れて いそうな感じだ。しかも真偽は知らないが、日章旗はもともと琉球で使われていた旗 だったとも聞いたことがある。 日本の根っこが南方にある、という観念を軽視するわけには行かないようだ。
元日の朝、那覇からバスで知念村を目指した。久高島と斎場御嶽に行ってみたかったのだ。
■池澤夏樹『神々の食』より 久高という島も琉球の島々の中で別格の島である。一言でいえば、 霊的雰囲気がこれほど濃厚な島は他にはない。(中略) しかし不思議な島だ。静まりかえって、人々は現代とは まるで違う時間の中に身を置いているように見える。
久高島へ渡る船に乗っていると何故かアイルランドの西海岸のゴールウェイからアラン島 に渡った時のことを思い出した。そういえばあれも年の初めだった。 久高島の集落を歩いていると冬とはいえ日射しは亜熱帯の強さで、木漏れ日が鋭い。 歩を進めると、光がパルスとなって目を刺す。 “神の島”だけに「こういう木漏れ日がトランス状態を引き起こすのかも」などと思いこむ。
午後の船で島から戻って、斎場御嶽へ向かう。ずいぶん前から名前だけは聞いていたが、 訪問する機会がなかった。鎌田東二氏あたりの本から知ったのか、建築家の故・毛綱毅曠氏 から聞いたのか、山田正紀氏の小説に出てきたのだったか、あるいは下記の日野さんの エッセイを読んだせいなのか、もはや記憶が定かでない。 だが、いつか訪れてみたい、と思いつづけていた場所だった。
■日野啓三『流砂の声』より まがりくねった薄暗い小道の奥に、露出した崖の岩に囲まれた小さな空き地があり、 岩のくぼみに古い香炉が置いてある。頭上には木の枝が重なって仄暗いのだが、 その陰々たる雰囲気にはふしぎな暖かみがある。 よく見るとまわりの岩が黄ばんでいるけれど明らかにやわらかい石灰質の、小穴の 多い隆起した海中の岩だった。 さらにその大岩の一部がずれおちかけたて狭い洞穴のようになっている。 そこを抜けると、いきなり視界が開けて、 眼下に太平洋の海面とその中の優美な姿の小島が見えた。 「あの小島が、神々が天降ると伝えられてきた久高島ですよ」 と案内の記者がそっと言った。晩秋の日ざしが穏やかな小島の上で天女たちが 舞っているような、太古の深い微睡の感情を私は覚えた……。
琉球王国の国家的祭祀が行われた場所ではあるが、「聖地」としての体感は、もっとヒトの 淵源に降りてゆくような、原初的なものを感じさせる。 場所の力。彼方と今ここ。 その「隔たり」と「繋がり」を認識する存在としての人間。 地球を幾度も巡るかのような時間感覚の眩暈。 その“向こう側”へ往還する意志と力。
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