「静かな大地」を遠く離れて
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2006年08月20日(日) 過剰という難問

「光の指で触れよ」の連載が終わった。回数としては『静かな大地』には及ばないものの、
かなりの長編である。『すばらしい新世界』のヴィジョンが「世界に小さな風車を立てよ」
というものだったとすれば『光の指で触れよ』の行き着くところが自給自足のコミュニティ
であったのは、この間の時代状況へのさらなる危機感を示してもいるのだろうか。
とことん追いつめられつつある、という意識。
この場合の自給自足とは、身体を養うものも精神を養うものも含めてのことである。
大量収奪−大量生産−大量流通−大量廃棄のループの中に、ぽっかり浮かぶ島のような
開放定常系を築くこと。その境界を決める主導権を自分の手もとに手繰り寄せる闘い。

こういうコミュニティの姿に、ある懐かしい感慨を抱くのは、遠別=チコロトイを
思い出すからである。悪い連想として、さて林太郎とアユミさんたちのコミュニティは
日本国家に敵対視されるような状況になりうるのだろうか?
当面危ぶまれるのは、キノコが受ける教育の問題。田舎のシュタイナー教育の学校にも
日の丸・君が代の強制や、その延長上のさまざまな圧力の波は寄せてくるだろう。
そのへんで日本に欧州のような懐の深さは求むべくもないと思われる。

別の連想。林太郎の興味は、あくまで田んぼではなく畑。畑、畑と連呼していた。
パーマカルチャーは語っても合鴨農法は語らない。稲という作物はまるで念頭にない。
このあたり、『静かな大地』の中で北海道と稲作について触れていたくだりを思い出す。
コメもろくに出来ないような土地は“化外の地”というのが、ある時代までの“日本人”
の感覚だったのだろうか。『南鳥島特別航路』で水田の風景を取り上げなかったことにも
通じる、日本の稲作イデオロギーみたいなものへの違和感、反発が垣間見えておもしろい。
『バナナと日本人』『ナマコの眼』で知られる鶴見良行氏に関しての講演で、氏の言葉を
引きながら東南アジアの漂海民に事寄せて語られた、国家への認識が参考になる。

■鶴見俊輔、池澤夏樹、吉岡忍ほか『歩く学問ナマコの思想』(コモンズ)より
 「その存在に気づくことは、国家過剰の私たちにとって有効な解毒剤になる」
 国家過剰と言います。つまり、国というものを大きく扱いすぎる、国を育てすぎて、
 そこに権力を預けすぎる。そこからこの国のいまの形が生じるのであり、それは
 相当ゆがんでいるという認識をともにできるかどうか。

コメの話は根が深い。稲作には水利システムというインフラと組織的労働が不可欠。
大規模な貯蔵が可能。結果として人口支持力が高い。要するに戦争に強いクニが作れる。
縄文−弥生戦争が歴史的にどういう様相で展開されたのか具体的に想像するのは難しいが、
コメを携えた集団が時には武力を以て、コメを拒む集団に押しつけたことは確かだろう。
坂上田村麻呂とかそういう時代から、明治期以後の北海道までその過程は続いたのだ。
とはいえ近代の北海道の米農家の方々の艱難辛苦を「支配者側」の営為として断罪できる
者もいないだろう。生きることすなわちコメを作ること、という時代があったのだ。

それにしても以前から疑問なのだが、ヒトという動物は食物の大部分を穀物に頼って
大丈夫なのだろうか。特に日本では「主食」という概念が今でも幅をきかせているが、
ヒトがサルと別れて以後、狩猟−採集で生きのびてきた数百万年という期間、ずっと
葉っぱや果実や魚や肉を摂取してきたはずなのだ。せいぜい長くてもここ1万年という
時期に起こったイノベーションで穀物を大量摂取するという食生活が出来たに過ぎない。

そういう遠大な文明史と関連するかどうかは知らないが、妻はコメのアレルギーで
悩まされている。穀物類を摂ると具合が悪いようで、コメは一切食べなくなった。
小麦粉もセーブしている状態。おいそれと外食もままならないのが不便といえば不便。
「じゃあ一体何を食べて生きているの?」という問いが、 他人からは返ってくる。
食についてはずいぶん楽しんでいるつもりの我々夫婦にとって、心外な質問である。
コメは食物としてみた場合、過剰なエネルギーを内包しているがゆえに、身体に負担
をかけるのだという説をとる医師もいる。玄米ブームの影にこんな事態もあるのだ。
戦略物資としてのコメと稲作イデオロギーが、今に至るまで抑圧をもたらしている!
…などと力んでみたくもなるではないか。

穀物食については高橋迪雄『ヒトはおかしな肉食動物』(講談社)を参照すると面白い。
ヒトという生物が、いかなる戦略で摂食活動をしてきたのかを、必須アミノ酸という
存在に着目しながら展開している。穀物食というのは、バランスは悪いが過剰な
エネルギーを内包するものを安定生産して大量摂取し、不要なエネルギーを重労働や
薄着による寒さの中での熱の発散という手段で、どうにか必須アミノ酸バランスの
帳尻を合わせる、つまり必要なものが一揃い足りるまで食べて身体を養い、余剰を
捨てることで成り立つという、見ようによっては誠に文明的な食体系なのである。

何だかネズミ講みたいに無理があるように見えて、トータルとしては強いシステム。
コメであれ、小麦粉であれ、ジャガイモであれ、それぞれの優位性とデメリットを
測りにかけながら、どうにかこうにか生きのびてきたのがヒトなのだ。食環境が劣悪
な集団や個体は淘汰されてきたということだ。ここからさらに砂糖とか茶、コーヒー
など近世に地球を覆った世界商品に着目して、世界システム論につなげていくと、
今の自分たちの食の基盤の脆弱さ、不格好さに目を覆いたくなってくる。

『光の指で触れよ』で、もう一つ印象に残るのは、風車との決別。正確には風車の存在を
否定したわけではないが“池澤夏樹といえば風力発電!”みたいな力の入りようからは
遠く離れた感じだ。この数年で風車に対して腰が引けたのだろうか、『月刊現代』誌の
連載コラム『虹の彼方に』に「もう一つの原発」という題で“トリウム溶融塩炉”という、
デメリットの少ない新しい形の原発の可能性について、あらためて注意を促している。
『異国の客』の048でも詳しく書かれているので参照されたし。

■異国の客:048「厳寒体験、エネルギー問題、全世界が流謫の地 その2」より
 エネルギー政策はむずかしい。一方では今の生活水準を下げたくないとみなが考えている。
 核や化石燃料は資源が枯渇することを心配しなければいけないし、核については特に事故の
 危険と、廃棄物の始末、燃料の再処理、廃炉のむずかしさなどを考慮しなくてはいけない。
 ではいわゆる自然エネルギーはというと、ぼくはある意味でその信奉者であるのだが、実際
 にはすべてをそちらに移行するのは難しいだろう。われわれはどこかで未来像を持っていた
 くて、その象徴として風力や太陽光を信奉しているのではないか。
 それで、数年前から気になっているのが絶対安全原子力発電の話。
 具体的には『「原発」革命』(古川和男著 文春新書)という本が綿密に書いている。

ここ数年の石油という戦略物資をめぐる絶望的なまでの状況に、ジョーカーのような最強の
カードとして、この“トリウム溶融塩炉”が作用する図を想像するのは面白い。
これがたちどころに普及したら困る勢力が、わかりやすく邪魔することもあるかもしれない。
リナックスみたいに人類共通のテーブルに載せて、こういうオルタナティブがあるのだ、と
知らしめるのは実際の技術の開発と同じくらい意味を持つ仕事だ。

その足枷になりそうなのは、むしろ味方となるべき自然エネルギー信奉者の抵抗感だろう。
今さら「良い原発」に心寄せるには、心理的アレルギーが大きいかもしれない。ここは一つ、
“もう一つの原発”でも“トリウム溶融塩炉”でもない、優れたネーミングが欲しいところ。
…なんて軽薄なことを言ってないで、とりあえず『「原発」革命』くらい読んでおこう。
コトバだって上手く使えば戦略物資たりうるのだ。 老獪に、利用できるものはすべて利用
しながら生きのびるのが、文明の火を持ってしまったヒトの基本姿勢なのだろう。

この流れで栗本慎一郎『パンツを脱いだサル』(現代書館)を再読している。
「過剰」といえばクリモト、なのだ。ほとんど奇書という誹謗あるいは称賛を受けている
この本に書かれていることは、しかし切実だ。名著『パンツをはいたサル』も併せてオススメ。


2006年08月13日(日) 喪失の彼方へ

いつかも書いたけれど、日本の8月は生命溢れる夏というよりも、白い死の季節だ。
お盆の習俗からの連想なのか昭和の記憶による刷り込みなのか、あるいは烈しい太陽の過剰さ故か。
この印象は子供のころからついてまわっている。
1996年の夏、鎮魂の季節としての8月をさらに強く決定づけたのが星野道夫の凶報だった。
あれから10年。のちに『旅をした人』にまとめられた文章を、何かに縋りつくように貪り読んだ
切実さからは、ずいぶん遠く離れている。現代を暮らす鬱屈も悦楽も、およそ精緻な幻影の中に
取り込まれていることには変わりがない。

■池澤夏樹「星野道夫の十年」より
 ある時期、彼の人気のあまりの高さをぼくは危惧した。どういうことになっているのだろうと
 考え込んだ。今の文明に刃を突きつける強烈な思想は手際よく省かれ、美しい風景と可愛い動物
 だけが抽出されて消費される。星野の肉体はヘッド・スープにはならず、カレンダーと絵はがき
 に加工されて、歯ごたえのない安直な食べ物に堕してしまう。
 (中略)
 人は自然を見ず、いよいよ人工的・自閉的な空間にこもって、消費ばかりに明け暮れている。
 だからこそ彼のメッセージは求められるのかもしれない。決して罪から逃れられない人間に
 こそキリストの言葉が働きかけるように。

そんな中でもひとりひとりの人間が、生まれて生きて死んでいく、その不可逆的な過程こそは
決して絵空事ではありえない。池澤氏が星野道夫と別れて十年、その精神宇宙を巡っていた重要な
星々の中でも、とりわけ強い輝きを放っていた巨きな星たちを見送ってきた。
これだけの名前が並ぶと、あらためて眩暈をおぼえる。
この十年とは、そういう歳月であったのだ。

星野道夫 1996年8月8日
須賀敦子 1998年3月20日
辻邦生 1999年7月29日
J・マイヨール 2001年12月23日
日野啓三 2002年10月14日
原條あき子 2003年6月9日
萱野茂 2006年5月6日
米原万理 2006年5月25日

見送る人。見届ける人。そういう役回りが板に付いているのが気の毒に思えてくる。
一般の読者の頭に浮かぶ著名な人物の名前だけでも、これだけ並ぶのだ。
いくつの弔辞をよみ、いくつの追悼文を書いてこられたことだろう。
8月12日、東京の日本科学未来館で開かれた催しでの講演会で星野道夫の記憶を語る池澤氏の
姿は、これまでに見たことがないくらい淋しそうにみえた。気のせいであればいいけれど。
いままで依拠してこられた狩猟民の死生観に加え、イエス・キリストの喩えを補助線として
星野道夫の死の「意味」を語ろうとされたことに、喪失感の大きさをあらためて想う。

現代における一人の人間の死ということについて、正面から取り組んだ作品として初期の短編、
「骨は珊瑚、眼は真珠」がある。死んだ夫の主観で語られる、妻の“喪の仕事”の日々の物語。
1990年に書かれたものだが、今年の4月に配信された「異国の客」に御自身の言及があったこと
を見ても、思い入れの深い作品であることが察せられる。

■「異国の客」045より
 近所の老婦人にお茶に呼ばれた。この人をC夫人と呼ぼう。ぼくより10歳くらい年上だろうか。
 上品で知的な、ある意味でこの町のフランス人の典型のような方で、これまでも時おり話をしたことは
 あるけれど、家に呼ばれたのは初めて。親しくなったきっかけは去年、長らく患っていた夫を亡くして
 落胆している彼女に、あるいは慰めとなるかと遠慮がちに自著の仏訳を進呈したことだった。
 それが夫を亡くした妻の話で、しかも彼女の信じるカトリックとはまったく異なる死生観に基づいている。  
 カトリックでは死は天国に召されることだから、あまり否定的には考えない。
 あるいは、その時が来るまで考えてはいけないことであって、だから自分は長く病床にあった夫との死別
 を覚悟はしていたものの、これほど辛いことだとは思っていなかった。その悲嘆を「骨は珊瑚、眼は真珠」
 というぼくの短篇はあるところまで慰めてくれた、という感想だった。プレゼントは役に立ったらしい。

12日の講演を聞きながら、たびたび「骨は珊瑚、眼は真珠」の中のフレーズを思い出していた。
そしてボブ・サム氏の言葉と会場全体を包んだメガスターの星たちは、「まずもろともにかがやく
宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」という宮澤賢治の希求を体感するかのような光だった。
あれは、その場で終わる体験ではなく、長く反芻することになるであろう儀式のようなものだった。
神話の末裔としての物語が、人の歴史に挑む気概を失わない限り、精神の敗北はないのだ。
汝、魂を語ることを恐れるなかれ。
この十年に地上を去った、言葉の聖者とも言うべき人々の列が、そう告げているようだ。

思えばずっと、境界の“向こう側”へ行く者たちを此岸にとどまり見届ける者の視点で描きつづけてきた
池澤氏が、この人々の列に見守られながら何を書くのか。同時代を伴走できる幸福を噛みしめて行こう。



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