新世紀余話
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2005年07月29日(金) |
「電車男」のヒットと2ちゃんねるの落日 |
ちょっとでも2ちゃんねるを知る者であれば、 「電車男は2ちゃんねるでの実話に基づいた」という触れ込みを、一笑に付すだろう。 「ありえねー!」(爆 どのくらい「ありえない話」かといえば、 「アウシュヴィッツで、ユダヤ娘に恋心を抱くユダヤ人をドイツの看守が励ます」ほどにもありえないのである。
この偽の実話にもとづいた物語のメディアでの好評ぶりは、 (かなりの部分、「紀伊国屋マジック」によってつくられたヒットと思うが) 多分に2ちゃんねる運営者らの思惑と反し、 2ちゃんねらなる存在が一般社会で受け入れられるには、 2ちゃんねるらしさを捨てるか、 2ちゃんねるのほうを実社会にそぐわしく改造するしかないことをはからずも実証したと言っていい。
「電車男」をカタチになすための2ちゃんねる関係者の苦労は並大抵ではなかったかもしれない。 なぜなら、平素から2ちゃんねるでやっているような、削除人どもを鞭打ち、 自作自演のスレッドを量産させるようなわけにはいかないからである。
問題のほとんどは2ちゃんねら自身の特異性(というより異常性)に起因する。
疑いもなく2ちゃんねるは、日本のKKKである。 日本社会が旧態なままであれと願う者にとって邪魔になるもの、 進歩主義者と在日異民族を嫌悪する。 ほかにも、身障者、同和関係者、創価学会信者、ニート族や低教育層への差別観を植え付けようと躍起だ。
その倫理上の偏りはあまりにも極端なので、 2ちゃんねるが他の世界で受け入れられるのを、 ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しくしている。 したがって、彼らが外部と共存を図るには、 まず2ちゃんねらとしてのカタチを崩さなければならなかった。
運営者の本意からは、グリフィスの「国民の創生」を日本流に焼き直したみたいのをやりたいに違いないが(笑)、人道主義のルールの下ではそうは問屋が卸さない。
だから「電車男」のような、万人に問題なく受け入れられる感動的な人情話(笑)に落ち着いたわけで、自己の姿をかなり大きく歪めることにより、2ちゃんねる発の「偽実話」はやっと世間でも通用するようになったのだ。 「電車男」とはそうした代物であり、あの物語の内容から2ちゃんねるの生の姿を知るのはむずかしい。 (2ちゃんねるの実情は2ちゃんねるに来てみれば歴然で、だれでも即座に、映画やドラマは嘘だったと気づくだろう。かつて、ある人気時代劇俳優が「TVでの色男ぶり、頼もしさと逆に、実物はものすごい嫌な奴」と書き立てられたことがあるが、そのくらい極端な違いなのだ。)
ともあれ「電車男」にかぎれば、それは世間から受け入れられた。 そして、この表メディアでの成功は逆説的だが、裏メディア2ちゃんねるの凋落をもたらす。 今後さらに、運営者側が社会の中に地歩を築くという高望みをもつ以上、 2ちゃんねるが今のままであり続けるのは至難となるからである。
実際、西村ヒロユキらの名誉欲は、暴虐な海賊が政治家に成り上がろうとするに等しく、 そして社会とはなおも海賊としての営みをあの大掲示板に続けさせる西村を許すほど甘いものではない。 「電車男」を認めたのは、それがまさに「2ちゃんねる製」とは思えぬ出来だったからにすぎないのだ。
しばらく、南京論争から遠ざかっていた。 ネット上では相も変わらず、歴史修正主義者らが 「南京大虐殺を否定する研究はいま、最終段階に入り……」とか、 ここ数年来の常套句を吹聴しているらしい。 (いつになったら、「最終段階」から脱する気だろう?) 懲りない人たちだと呆れる。
さて。 ぼくらが知りたいものこそ歴史の真実だが、 真実の最大の敵は、ネット上で暴れまわる歴史修正主義の一派であろう。 彼らには、ネットも現実と同じで夢想のまかり通る場ではないとの認識に欠ける。 数が揃えば史実も変わると思い込んだ危なさを感じる。 あなたが彼らに言い負かされないよう、 南京事件について歴史修正主義者と議論するときの注意点を挙げておきたい。
南京大虐殺がなかったとして、 日本が中国に侵攻した事実は帳消しになるんですか?
南京問題を論じるときは、つねにこの「最大テーマ」から離れないこと。 修正主義派がなぜ、中国の一都市での日本軍の振る舞いにあれほどこだわるか、 底意を突き詰めるのが重要だ。
南京を攻略した日本軍はあきらかに中央の統制から逸脱しており、 さらに国連と袂を分かった日本国家自体が世界の秩序から逸脱する存在だった。 だから、「国際的に孤立した国の軍隊が独断専行で隣国の首都を占領」 と記述するだけで、大概のことはわかる。 陣中日誌とか部隊編成とか、細かい資料をもとに路地裏で議論しても、この大事実は動かせない。
にもかかわらず。 左翼側はインテリ揃いなのが逆に弱みになるというか、 調べて得たものを自慢する誘惑を抑えられないというか。 それで、「南京大虐殺は捏造だ」と公言する輩をやり込めようと議論を仕掛け、 まんまと修正主義派の仕組んだ罠にはまり、足をすくわれる場面があまりにも多い。 無邪気にも、「正しい資料を示せば、敵方はご印籠を突き付けられたように平伏する」と思うからだろうが、 あいにく修正主義者というのは事実の湾曲を生きがいとする相手なのである。
完璧な資料というものは完璧な人間と同様に存在しない。 どんな資料にも穴があるもので、向こう側では職業的な巧妙さでそこをとらえ、 あなたがいい加減な資料を盾に無謀な勝負を挑んだ愚か者のようにあしらい、 もちろん、あなたの資料調査の労に敬意など表さない。
そうしたうえで、「また馬鹿サヨが轟沈!」とか議論に勝ったように喧伝するわけだ。 とっくに決着のつけられた「南京論争」が永久に終わらないかに見えるカラクリがここにある。
だから、左翼さんには自粛してもらいたいところはある。 「資料や証言の小さな矛盾をしつこくあげつらい、大事実全体を否定する」 のがまさに修正主義派の手口なのだから、 史実の細かく入り組んだ部分でやり合うほど彼らの思う壺にはまりやすくなってしまう。
まこと、南京論争をおのが知識の披露の場にする人たちがどれだけ敵側を有利にしてきただろうか。 あなたの頭の良さを自慢できないのは不満だろうが、 大事実にすべて委ねるのがこの場合の英知というものだ。
ぼくらはまず、一人の身から出発する。 そして、どんなに多勢と交じり合い、「一心同体」化した気になっても、 おのおのの出発点から切り離されることが出来ない。
全体主義体制下だと、この一人一人の根を引き抜かれたあげく(つまり個性を殺され)、 大目的のため束となって奉仕させられるわけだが、 個人主義社会では、実のひとつひとつを全体をあらしめるのに不可欠な要素として尊重してくれる。
ただし、どんな者でも大切にあつかわれるとはかぎらない。
それぞれに自己をしっかり確立し、主張する行為が集団のためにも益をもたらすとする、 この個人主義特有の仕組みを理解できないと、 まったく時代遅れな欠陥人間として社会からはじき出されてしまうのだ。
そんな出来損ないにだけはならないように。 だから……がんばれ個人!
いまや、どこのブログや掲示板も 間違いだらけのネット右翼向けマニュアルの全文書き取りだらけ。 恥ずかしい。
俺が高校のころには、 「他人と同じことを言うのは恥だ」という意識を持ってたがな。 今の若年者だと「みんなと同じに言えないのが恥」なのかな。 小学生みたいだ。
ほんとうに恥ずかしい。
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