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ラヂオスターの悲劇
トマーシ
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2005年03月27日(日)
古典的悲劇としてのサッカー

サッカー選手は闘牛士みたいだなと思う。その周辺にはカルメンみたいなロマンスを転がして…
恋に破れたカルチョスタの話はでもやっぱり悲壮的とはならないかもしれない。闘牛士みたいに。とはいえサッカーなんて、僕にとってはすっかり忘れてたこと。マラドーナ以来、必見に値するサッカー選手なんて出てきてはいない。ただボールを触っているだけで絵になる選手は彼だけだ。一流のジャズプレイヤーが一音でその存在を知らしめてしまうように、グラウンドに立つマラドーナの一挙手一踏足がその場にある全てを集約しているように見えた遠い記憶がサッカー選手を闘牛士みたいに尊厳あるものにまで高めてしまうのかもしれない。今いるどんな選手にもあんなビリビリとした興奮を感じることはない。そしてそれはそれで全然構わないわけだった。



2005年03月22日(火)
ある一日

朝、目が覚めると部屋はなんだか薄ボンヤリとしていた。こんなことはとても稀だ。いつも僕は部屋で一番明るい照明を夜通し付けっぱなしにしているのだから。なにも闇が恐いというわけでもなく、ただ単純に面倒なのだ。眠る刹那に心掛けていることといえば、ステレオに音楽を掛けて、その音楽が切れてしまうまでに眠りに付くこと。といって沈黙に耐えられないというわけでもない。音楽なんてあっても無くてもどっちでもいい。音楽が切れて、自分が立てる衣擦れの音しか聞こえなくなっても、僕は結局眠ってしまう。外に明るい、月の光が気になって眠れないことなんてついぞないのだから。
でも朝、目が覚めてその窓から外を伺うとそれはすっかり春の日差しだった。肌寒い。ストーブをつける。コーヒーを沸かす。食事を作る。弁当も作る。でも起き上がって一番はじめに体が欲しているのは煙草で、そそくさと換気扇のそばによって煙草を吸っていると、不思議だけれど音楽でも鳴っていればいいと思えてくる。なので吸いかけの煙草をシンクの縁にのっけてまたリビングの方に戻ってステレオにシーディなレコードなりをセットするのだけど、そんな僕を自分で相当不器用に感じる。また忘れた頃に音楽は切れ、煙草は切れる。でもいちいちわざわざそのたびにキッチンとリビングを往復する自分にはまた妙に不自然なものを感じてしまうのだ。総じて、そんな不自然な隙間は逐一チェックしておくべきだと思う。定期的に、出来ればそれは確認しあうべきなのだけれど、今のところ無理だ。相手がいないのだから。仕方がない。
「まぁ仕方が無い。今のところそれが人生だ。」
朝、仕事に出るためにバイクを押して道路端に出て、イグニクションキーを廻すまで、いつもそんな気分だ。大抵の人が言うことに反して、朝に作られるものは僕の場合少ない。エンジンを廻して何度も何度もカーブを切っていくうちに、色々なことが現実的に形を取ってくる。今日しなければいけないこと。今日しておきたいこと。そして最終的には今日出来ること。でも考えがまとまるのは稀だ。車を軽トラに乗り換えると、もう後はリズムで半日をこなしていくことになる。ほとんど息継ぎ無しに。暗い休憩室、テレビは画面がブラックアウトしていて音声だけが聞こえてくる。くたびれたホットカーペットはいつも温度が高すぎる。弁当を持っていく習慣がついたので弁当箱に不釣合いなリュックも職場に持っていってもいるけれど、そこから本を取り出して読むこともない。本は雨にぬれて固くなってしまっている。雨に濡れたフィッツジェラルドの「夜はやさし」
なかなか叙情的といえる。
休憩から上がると、店の外に目を向けながら仕事をする。あるいは背を向けて
タンタンタン!
午前中はラジオから音楽が流れる。でも午後からは心の中に自分で音楽を流さなければいけない。
やがて終業。行きに通った道と全く同じ道を通って帰る。家はいつもでてきたときより一層重い。自分の体もガラスの粉でもまぶされたみたいに重い。
何も出来ぬまま気を失うようにして眠ってしまう。
たぶん電気はついたままだろう。