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2004年06月05日(土) ヒューマニズムで児童犯罪は防止できない

またも痛ましい児童犯罪が起きてしまった。
長崎県の11才小学生女児が同級生を殺害した事件のことだ。
児童・少年犯罪に対する私のスタンスは昨年、同じ長崎県で起きた12才少年による4
才児殺害事件について、この日記で既に書いた通りであり、今回も意見は全く変らな
いので参照して欲しい。
03年7月
14日「なぜ人を殺してはいけないのか」

つまり、この手の犯罪には、年齢を問わず厳罰に処するしか防止策はないという考え
だ。
ところが、相も変らずエセ・ヒューマニストたちは、何とも脳天気な楽観論を並べて
いるようである。

例えば、4日付新聞のテレビ欄を見ると、テレ朝の「ワイド・スクランブル」に作家
の五木寛之が出演して、「今こそ命の尊さを・・・」と語ったらしい。
いや、私は見ていないし、ただ予告にそう書いてあっただけだから実際に五木が何を
言ったのかは知らない。
が、少なくともテレ朝が念仏のように「命の尊さ」を唱えていれば万事OKという生
ぬるい姿勢に浸っていることだけは理解できる。
全くバカバカしい発想である。

「命の尊さ」を説くことは、勿論大切である。
しかし、そのような観念が、犯罪防止の何の役に立つのだろう。

私は今まで人を殺した事はないし、殺そうと思った事もない。
いや、「殺してやりたい」と思うぐらいに他人を憎んだ事ぐらいは数知れず、あるか
もしれない。
でも、現実に実行しなかったのは、何故だろう・・・。
「殺してやりたい」と「思う」ことと、殺す「行為」は、全く別の次元にあるから
だ。

殆どの人間は、犯罪を行うことなく生きている。
まして、殺人ともなれば、なおさらだ。
だがそれは「命の尊い」からだろうか。
そうではあるまい。
犯罪行為に歯止めを掛けているのは、それによってもたらされる自分の不利益を考慮
するからではないか。
あるいは、現実の諸関係が自分の行動を制約するからである。

子供の「いたずら」を例にとってみよう。

善悪の見境もなくただ自分の欲望のまま発してしまう行為が、結果的に「悪いこと」
であると悟るのは、
何によってであるか。
それは、「親が怒る」から、であったり、そして更には「親が悲む」からであったり
する。
それが全てである。
逆に言えば、「親に怒られる」ようなことはしないし、まして「親を悲しませたり」
するようなことはしたくないと
思うからだ。
もろもろの躾や教育が理性となって子供の規範となるのである。

これは古臭いだろうか。
時代が違うと言われれば、それまでだ。
だったら、他の有効な抑止策を提示して欲しい。
善悪は、「命の尊さ」などと下らぬ観念を百万扁唱えて押しつけて身に付くものでは
ない。
まして、「テレビやゲームの悪影響」を槍玉に挙げていれば片付く問題ではない。

「テレビの真似をした」犯罪なんて、昔っから、いくらでもある。
だがテレビ表現を規制して、犯罪が減った事は全くない。
テレ朝の「土曜ワイド劇場」なんて、昔はエロ・グロのオンパーレドだった。
例えば天知茂の「明智小五郎シリーズ」なんて毎回、死体をバラバラにする話ばっか
りだった。
でもそれに影響されて犯罪に走った小学生の事例は、聞いた事がない。
にもかかわらず今般、件の殺人犯女児が「テレビの真似をした」と口走ったとなる
や、
慌てて各テレビ局は、犯罪場面の自主規制に走ったらしい。
愚の骨頂とはこのことだ。
綺麗事で表面だけ塗色しても、その結果、裏側がもっとドロドロしている方が
悪質ではあるまいか。
確かに20年前に比べてテレビドラマの露骨な表現は大幅に少なくなった。
だがその結果、どれだけ少年犯罪が減ったのか、統計を出して欲しいものだ。
つまりは、テレビドラマの影響は全くカンケイない。

結局は、個々人の教育と躾の問題である。


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