昨日に続いてレストラン特集だ。 今日は京都は四条河原町の鼎泰豊(ディンタイフォン)に行った。要するに飲茶とか点心のお店なのだけれども、かの有名なニューヨーク・タイムズ紙に「世界10大レストラン」の一つとして選ばれたことで有名。中でも小籠包(しょうろんぽう)がこの上なく美味しいと聞く。皮に包まれたに肉汁が口の中でじゅわ~と溶け出すのがなんとも言えないそうだ。 あ、そうだ。四条河原町のどこにあるのか書くの忘れてた。とても分かりやすい所にあるので、京都の土地に不馴れな人でも大丈夫。
空遊がフレンチのレストランに行くことは結構少なく、考えてみるとここ半年くらいは行ってないのですが、久しぶりに神戸の三宮のラミティエ・コム・シノワというフレンチレストランに行きました。←エンピツ投票ボタン 火曜日と水曜日が休みという身分を生かして、平日だけのサービスランチ1000円をいただきました。フレンチと言っても地中海沿岸の南フランスの家庭料理が中心のメニューです。だから、フレンチというよりも、スペイン料理やイタリア料理に近いイメージかもしれません。事実、タパスもあればパスタも美味しい。1000円のコースはパスタがメインで、内容は、・ガーリックの効いたおいしい焼き立てパン・サラダあるいは冷製スープ・ひいかのパスタあるいは牛肉の煮込みとパスタ(パスタの名前忘れました)でした。200円プラスで珈琲か紅茶が付きます。二人で行って、1000円コースを二つ取ってメインとサラダかスープの選択は、それぞれ別のものをオーダーしたのですが、結構量があってしっかりお腹が大きくなりました。隣の席には2000円とか3000円のコースを食べているカップルが居ましたが、どうも前菜だけでかなり満腹になってしまったようすでした。ウェイターに、「まだほんのアンティパストでございますから」とたしなめられていました(笑)。食後にはアイスコーヒーをたのんだのですが、かなり濃いめの空遊好みの味でした。一言で言うなら、スモーキーな味わいとでも言うのでしょうか。かなりのフレンチローストの豆を使っているのでしょう。もちろん料理も南フランスらしい美味しさで、空遊は4年半前に行った南フランスの事を思い出しました。ニースの眩しい太陽、海岸沿いに続くプロムナード・ド・ザングレ、碧い海コート・ダ・ジュール・・・。まず冷製スープからおいしかったのです。ポタージュにじゃがいもがさりげなく入っていて、他にもいろんなものが隠し味に入っているけど表に出過ぎない奥ゆかしさ。口当たりは爽やかで、夏にベストマッチです。ひいかのパスタ。茹で加減はしっかりアルデンテ。オリーブオイルの絡み方も、ひいかと野菜とのバランスも流石という感じ。にんにくも適度に効いてます。牛肉の煮込みとパスタ。ある種のトマトソースと肉の相性が良く、決して胃に軽い肉ではないにも関わらず、胃に重たくならなかったです。パスタに絡めながら食べていました。単品で1500円とか2000円してもおかしくないレベル。 お店を出る頃には、すっかり上機嫌でした。
先程、午後6時のニュースを見ていたら、USJがエアコン用の用水を誤って、飲料水にも使われるようなところに流していたと報道されていた。先日の同社の工業用水がウォータークーラーにつながっていたというニュースに続く、水関連の不祥事である。どちらにしても、到底飲料に耐えうるようなものではなく、もし自分が飲んでいたらと思うとぞっとする。 USJがあるのは大阪市此花区であるが、あの土地は元々住友金属の工場だった。工場が閉鎖された後に、乗馬施設、ゴルフの打ちっ放し、レストラン等の事業が行われていたが、どれも今ひとつ振るわなかったそうだ。今のUSJのヒット振りからは想像しにくいかも知れないけれども、現地事情に詳しい方によると、そういう経緯があったそうだ。 住友金属に勤めていた経験のある知人によると、あの辺りの水道の状態はもともと良質とは言い難いものであったらしい。建物の配水管には戦前に出来たようなものもあり、朝出社して蛇口をひねると、しばらくは赤茶けた錆の混じった水が出てきたそうである。お白湯ではとても飲めないレベルの水である。緑茶にしても変色しているのがやはり分かる。緑茶の成分と鉄の成分の中に相性の良くないものがあり、変色するらしい。だから、お客様にお出しするお茶はコーヒー、紅茶が主体であったそうである。色が濃いいし、味もはっきりと付いているのでばれる可能性が少ないからだそうだ。社内の自動販売機も紙コップにジュース、コーヒー等の飲料が注がれるタイプのものは自販機の裏側が水道につながっており、清潔でない飲み物が出てくるため不評であり、専ら缶入りのものが好まれたそうである。ポットや給水機も使用している内に底に錆なのか何なのかわからないものがたまってきたそうだ。建物をなんとかしないと修繕できないのがわかっているので、社員もみんなあきらめモード。それどころか中には「ここに来ている限り、鉄分不足になることはない。」と言い放つ、つわものもいたそうである。 時代が変わり、今では大阪市の水道にはオゾン、活性炭などを利用した高度浄水が行われている。一時期に比べ、はるかに飲みやすくなったと言う大阪の友人も多い。しかしながら、浄水場が進化したからといってまだ油断できない問題がある。 水道とは、言うまでもなく蛇口をひねって利用するものだ。浄水場できれいな水になっても、浄水場と、家や会社の蛇口の間の水道管に問題があったり、ビルやマンションのように貯水槽を使用していて管理に不行き届きがあった場合には水はやはり汚染されてしまう。 前述の住友金属の工場内の水道の場合、問題はどこにあったのだろう?果たして工場内だけの施設の老朽化だったのだろうか?それは建物が取り壊された今となっては誰にも分からないことだ。その後にその一帯でどれくらい水道管が交換されたかも問い合わせないとわからないことだし。 USJの今回の一連の事件とはもちろん無関係(なはず)である。壊された住金の工場の祟りと言う訳でもあるまい。ただ、この日記の情報提供者であるその方は、水道に問題のあった施設の跡地に出来たUSJが、これまた水道関連の不祥事を連発するものだと、感心していた。土地の因縁かと思う人がいても不思議ではない。 なお、USJの辺りは第二次世界大戦中には軍事工場が多数存在していたので米軍により何度も空襲を受けたという悲惨な過去がある。戦後不発弾が発見されたりしたこともある。私の友人も片足のない兵隊さんの幽霊をよく見たそうである。資料室で残業していると出てくるそうで、普段は霊感などと縁のないような方まで、彼のことは見てしまうそうであった。 そのような土地に出来たのがアメリカ文化の象徴ともいえるUSJであるのも歴史的な皮肉であろうか。工場がなくなり、USJになった今、片足がなく、松葉杖をつき、片目に包帯をした幽霊さんはどうされているのだろうか? 猛暑をやわらげようと最後は少し涼しくなる話でしめる空遊であった(笑)。
先日、通っている学校の食堂で、定食の味噌汁にゴキブリが混入するという(私的には結構)ショッキングな出来事があった。今まではお店でゴキブリが歩いているのを見たことこそあれ、中に入っているというどうしようもない事態には直面したことはなかったのだ。 正確に言えば、それは私の味噌汁に入っていたのでは無く、一緒に食事をとっていた人の味噌汁に入っていたのだが、大鍋で煮込んでいる以上、私のものとか彼のものとか区別することは意味を為さなかった。 それまで食堂で定食を残すようなことはなかったのだが、さすがにその日は味噌汁は飲めなかった。 尼崎市の保健所に報告してやろうかとも一瞬考えた。 そんなことは個人的にする必要もないのでやめたが、さすがに次の日になっても気持ち悪く、食堂には足が向かわない。 7-11に行く。酢豚弁当を食べる。コンビニはコンビニで弁当に異物が混入していたというテレビのニュースも見聞きしているが(7-11ではない)「目の前の人の味噌汁の中に」という現実感のショックの方が、伝聞の恐怖よりもはるかに大きかった。 多分明日も明後日も食堂には行かない、いや行けないだろう。同じクラスの人達が、今日もそこで食事をしているとしても。 近所に良いお店のない場所柄、多分昼はほかほか弁当と7-11弁当で8/30まで過ごすのだと思う。朝と晩はそれなりにしっかり食べているし、身体を壊すこともないだろう。自ら弁当を作るということも出来るが、この暑さでは、かえって危険な気もする。 なお、今後の身の安全のために食堂がどこにあるのか知りたい人には、メールででもたずねてくれれば教えましょう。多分大半の方はそこには一生行かれることはないでしょうが。
取り立てて、どうということのない一日。そんな日もある。そんな日のほうが、多分多いのかも知れない。建物から一歩外に出ると、そこは熱帯と化していた。熱で空間が歪んで見える。その歪みのなかで、忘れ去られたものが錯乱しながら複雑に結びつきあっている。それが何なのか、たずねても仕方が無い。たずねるたびにそれはその形を変化させつづけていくのだから。時を歪ませ、空間をねじまげ、光を屈折させる何か。エレキギターのディストーションよりは、WOWペダルに近いその何か。それは熱帯の中に姿をあらわし、追い掛けると再び消えて行く。どこか遠くの別の場所に姿を現しているに違いない。それは、人の心の中に入り込んで、幻想を四次元的なものにする。束縛する現実を一瞬にして溶かし去り、手に入らないものが手に入るような気にさせる。万華鏡のビジョンのように無限の形を取るそれは、熱帯の空気の中で踊っていた。「捕らえることのできないもの」さしあたっては、そう呼ぶより他に無いもの。
昨日ヤフ-!ジャパンのニュースを読んでたら、ようやく梅雨が明けたとのこと。なんだか短い梅雨だったような気もする。人は居る場所の習慣が身に着いてしまうものらしく、去年まで某地方自治体の水道係にいた空遊は、梅雨が短いと「渇水、だいじょうぶかなあ?」とか、今でも思ってしまう。今年の降雨量は足りているのかしら? 梅雨の時は不意に訪れる雨に困らされた。逆に雨が降ってたのが止んでしまうと、3回に2回は傘を忘れてしまう。忘れたのが学校とかなら、後で気が付いて取りに来ることもできるけど、その場所が「神戸のどこか」とか「大阪のどこか」となると、とても探す気にはなれない。学校に通うにしても、朝電車で行くか、バスで行くか結構微妙な判断だったりする。 梅雨が明けて、そういう心配が少し減るのはうれしい。が、昨日と今日でそれどころではないということを身に持って分かった。日焼けが尋常ではない。日焼けしたところがぴりぴりする。腕や足が若干ぴりぴりするのは耐えられるが、額や鼻の頭がぴりぴりするのは、なんとも苦手。日焼けの理由はよくわかっている。自転車。学校まで1時間弱乗ったり、昨日みたいに丸一日乗ったり。だから手の裏と表の色が違う(爆)。半袖、半ズボン、靴下のラインなど非常にはっきりとわかれている。プリンのカラメルの層とプリン本体の層のように。裸になって、浴室の鏡の前に立つと、手足の先端だけ色が全然違うので、なんだか宇宙人のようにすら見える。さすがに今日は日焼け止めクリームを付けていったが、道中汗で流れてしまうので、あんまり効果が期待できない。よってまたピリピリ。帰宅すると即座に水風呂に入るのが日課のようになってしまった。 いっそのこと、ブルカでもかぶろうか。それともメキシコのソンブレロにしようかしら。日焼けしないためには帽子をかぶって黒い長袖長ズボンを履けば一番間違いがないのだが、とてつもなく暑そうなので却下。 なお、肌のケアは忘れがちな空遊であるが、さすがに目のことだけは気を使う。しっかりした紫外線カットのサングラスを使用している。しかし、これすらも災いとなる側面もある。御想像のとおり、現在逆パンダ状態が進行中だ。 夏の太陽、貯金しといて冬使いたいのは私に限ったことではないと思われ。
朝起きる。通学しようとした。よく調べてみると、というか考えれば分かることだが、今日は祝日なので休みだった(笑)。 今日一日どう過ごそうかと、、、。金回りの良い時には美味しいレストランに行ったり、遠くに出掛けたり、ショッピングしてたりもするのだが、生憎そんなに手持ちの残っていない今日この頃。しかも、水曜日に期待して行った梅田阪急ダイニングステージ4階のポンテベッキオがまさかのおおはずれだったので新しい店に食べに行くのに積極的になれない現在である。私は飲食店についていい加減なことは書きたくないので、何がどう自分の好みに合わなかったかは、具体的に書いておく。1.ウェイターの姿勢・態度が良くない。 言葉の発音も不明瞭で聞いているのが分かり辛かった。 その上耳も遠いのか、「パンを持って来て」と言うと ウェイターは「取り皿ですね」と答えた(爆)。 なぜわざわざ「パンを持って来て」と言ったかというと、 パスタの前に持って来るべきパンをパスタを出した後も忘れていたから で、しかも何度も頼んでもなかなか持ってこなかった。2.パスタの茹で具合。 なぜか分からないがふにゃふにゃの茹で過ぎだった。 まるでカップラーメンのように柔らかかった。 テレビ等では、「パスタにはこだわっています」と宣伝されていたので 正直ショックであった。3.料理を持ってくるタイミング。 テレビ(ちちんぷいぷい)では、客をさばくために工夫がなされている 様子が放映されていた。場所柄もあり、短時間にたくさんの客をさばき たいようであった。そのせいだろうか、一つの料理を食べ終わる前に 次の料理を持って来たりする。例えば、パスタを食べ終わる前に、 メインディッシュを持ってくる。その結果として、折角のメインディッシュ は冷めてしまう。客がその料理本来の美味しさを味わえないような料理の 運び方をどうしてするのか?4.メニューの左側に記載されているワインのチョイスには疑問。 試しにフランス製白ワインのミニボトルを注文してみたが、 はっきり言って安ワイン丸出しの味。安くて美味しいワインがたくさん あるのに、安くて不味いワインをメニューに載せている。まとめ:何よりもサービスの悪さが目立った。いくら安くした分手を抜かざるを得ないところがあると言っても、サービスでここまで客の神経を逆撫でしてはどうしようもない。この店の本店はかなり高価な料理を出すそうだがランチで2000円というのは常識的に見て決して安くはない。それなりに美味しく食べられればいいなら、800円や1000円でいくらでも美味しい店がころがっている。2000円をランチに払わせるのなら、サービスもそれに相応しいものにするべきである。何も一流ホテルのホテルマンのようなサービスを要求しているわけではない。注文をちゃんと聞いて、適切なタイミングで運ぶという全くの基本。それが出来ていなかった。ちなみにこの後新しく出来たスタバに行ったが、とてもしっかりした接客だった。丁寧で、親切だった。 なお、散々だったこの店も、食後のエスプレッソについては流石と思えるほど美味しかった。デミダスカップもデザインのいいセンスのあるものを使っていた。デザートにも問題は無かった。メインディッシュのローストビーフについては、おいしかったが、若干胡椒その他の調味量がかかり過ぎている感があった。 話を元に戻す。今日一日をどう過ごすか?。結局サイクリングに行くことにした。あれこれコースを考えたり、地図を見たりするのも面倒なので、とりあえず須磨・舞子方面を海沿いに走ることにした。晴れた日のこのあたりの景色は素晴らしい。御影から西へ、西へとどんどん進む。県庁前までは通勤ルートだったので至って慣れたコース。途中県庁前でチェーンが外れて、直していると神戸栄光教会(キリスト教)の中から出て来た御婦人が「どうぞお使いください」と真っ白な雑巾を渡してくれた。「後は捨てておいて構いませんから」と言い残して去っていかれた。手を汚さなくても済むようにとの暖かい心使い。どうもありがとうございました。あなたに主の御加護のあらんことを。なおこの雑巾はその後もチェーンが外れる度に役立つのであった。その後も、何度も通ったことのある道を進み、須磨浦公園までは楽勝。舞子のあたりで景色をみながらくつろぐ。しばらくしてふと考えた。「これからどうしよっか?」以前に明石の魚住までは自転車で行ったことがある。今日はまだ時間も早いし、、、、、、、。「姫路まで行ってしまえ!」(爆)。私の内なる声はそう告げるのであった。知らない道で迷うのは嫌なので、国道2号線をひたすら進む。神戸市内とは違って、信号も交通量も比較的少なく、快適速度で巡行できる。実は今週の木曜日に三宮の東急ハンズでProfileのBoxerというバーエンドバーを購入したところだったので、その効果を試すと言う目的もあった。実際使ってみたところ、なかなか握りやすく、サイクリングが随分楽になった。気分はブルホーンハンドルである。しかしさすがに姫路は近くはない。遠いと言う程ではないが、近くもない。神戸市→明石市→加古川市→高砂市→姫路市という順番であるが、それぞれ東西に長い(高砂はそんなに長くないかな)。姫路市は、神戸市、西宮市、尼崎市と並ぶ兵庫県内の政令指定都市であるが、市の周辺部の田舎っぽさは群を抜いている。良く言えば、市の周りに自然が残っている。目的の姫路市に近付けば近付く程、田舎っぽくなっていくので道を間違えているのでは無いかとちょっと不安になった(笑)。道案内を信頼して進んだら無事着いたので問題なかったけど。姫路城を少し見て、Uターン。街を観光するとかよりも、走ること自体が目的って感じだったので。帰りはさすがにほんの少しペースダウン。でも太陽が下がって来たので暑さも減少。のんびりとした良いサイクリングだ。行きはスピードを落とすと暑くなるので、極力ハイスピードで進むようにしていたのだ。家に帰ると、日焼けに改めて気付く。ぬるま湯のお風呂に浸かる。その後スペイン風に、オリーブオイルを塗ってケア。(スペインでは蜂に刺されてもオリーブオイルを塗る習慣があるくらい)帰宅後、Yahooの路線情報で調べると、御影-姫路間で片道62.8kmも距離があることが判明。これは鉄道の距離。鉄道は、特権的と言っても良い程に最短距離を走っているものなので、実際には片道70?、往復にして140?くらい走ったのだろう。日々のコンピューターストレスは綺麗にリセットされた(笑)。明日からまた学校だ。
昨日のことだが、三宮のジュンク堂の一階の雑誌コーナーに行った。普通の本屋にはまず置いていないような雑誌もたくさんおいてある。日本の古典文学に関する週刊誌から、アンタエウスオオクワガタの育て方に関する月刊誌まで、いろいろである。 好奇心だけで生きている空遊である。こういうところで長居をするのが大好きだ。 ただし、話題書のコーナーにあった、「なぜジュンク堂に人が集まるか」といった題名の本には、爆笑させていただいた。確かに集客能力は高いが、何もジュンク堂自ら、話題書のコーナーに置かなくても、である。 色々な雑誌コーナーを見て回ったが、今回は旅行コーナーで長居した。まず、サマルカンドの本。サマルカンドは空遊が一度訪れてみたい都市の5本の指に入る。中央アジアの中でも、イスラム文化の美しさが、ずばぬけて花開いている。街にそびえたつモスクをはじめとするイスラム建築を見ると空遊はなぜか非常なる郷愁を感じる。まるで故郷のような何かを感じる。それは、偉大なるものへの憧憬というよりは、「おじいちゃんはここのモスクに毎日祈りに行って、 お母さんは市場で野菜を売っている。」と言った、妙に具体的なイメージである。自分が生活していた、という確信がある。あの美しい街で。 今住んでいるところからは遥かに遠いその街に思いを馳せた後、日本の街道の本を読んだ。歴史の中の街道は、現在とは違い、それぞれ非常に個性的であった。勿論現在も街それぞれの個性と言うものは存在するが、どこに行っても同じようなチェーン店やファーストフードのお店が林立しているせいで、なんとなく他所に出て来た気が薄れてしまうし、道に至っては、規格の同じアスファルトの道が全国一律で続いているので街道の個性とかいうことには考えが及びにくい。おそらく地方に行けば昔の雰囲気を残した街道にも巡りあえるだろうか。篠山とか長浜に行った時には街の雰囲気を強く感じた。神戸や奈良にもそれぞれ良い街並みがあるのだが、慣れてしまって日常風景である。東大寺や法隆寺など、幼少から連れられ過ぎたお陰でもう何の感慨もなくなってしまった。これからちょっとネットサーフして検索してみようかな、、、。
何かを掴み、行おうとする手も腕もなく、ここから別のどこかに歩いて行こうとする足もない。故に、何ごとも気にかける必要もなく、あくせくもせず。生きることにも死ぬことにも煩わされず。時の流れも、彼が今までに為したと言われる業も、彼に害を与えることは出来ない。天上の光はいつも彼に降り注ぐ。それが、達磨だ。
妹の日記 http://www.enpitu.ne.jp/usr9/97080/を読んでいると、私が勝手に夢に現われていじめたことになっていた。人の夢と言うのは勝手なものだ。人の掲示板への書き込みと言うのも、やはり勝手なもので、とある研修医さんの日記を愛読していたのだが、どこかの馬鹿が「カキコに全てレスをしろ」とか阿呆な要求を繰り返して、先生は辛くなって日記を休筆されてしまわれた。子供の頃は狭い世界に住んでいたから、誰がひどいやつで、誰がいいやつで、という風に考えていたが、大人になってみると誰が良くて誰が悪くてというよりも、人間と言うのは状況次第で良い人、悪い人、様々な役割を演じるものだなあと思う。誰かがした何かについて、その当人に責任があるのは否めないとしても、その当人のみに責任があるとは言い難いとも思う。私のしたことの影響は私にとどまらず、私が何かをした原因も私に限定されるものではない。その意味で、私は他の誰かであり、他の誰かは私だ。私はこの世界の祈りと憎しみと救済と殺人である。
夏である。わざわざ宣言しなくてもわかってるって。ここ数日間の猛暑ときたら凄まじい。自転車に乗っている時、普通なら向い風は嫌うものであるが、最近はあまりに暑いので向い風の空冷作用に感謝すら覚えるのだ。 夏に六甲山の方から吹いてくる風もやはり六甲おろしなのか?と思っていたらオールスター戦は阪神勢が大活躍しているようだ。ワールドカップが終わった今、阪神が勝たないことには誰も道頓堀に飛び込む者がいなくなってしまう。野球など1回から9回まで通して見たことは無い空遊であるが、それでも道頓堀に飛び込む人の姿を見るのは爽快なものである。是非とも阪神にがんばってもらいたい。 さて空遊の近況はというと、相変わらず武庫之荘までLinuxのサーバー構築の勉強のために通っている。別にネットワークエンジニアとして就職しようという訳では無いが、知っておいて損のないことであるし、この季節、金を払わずに昼間冷房の効いた場所に居られることは、空遊にとってとても大事なことでもあるし、8月いっぱいまで通ってきちんとコースを終了するものと思われる。 それから先? 知らないってば。 ところで日記の題名を見てもわかるとおり、空遊は珈琲好き、というかエスプレッソ好きである。以前の職場は神戸の元町にあったので周りにお洒落なカフェ等も多く、ランチ後のエスプレッソには事欠かなかった。ところが今通ってる学校は武庫豊町。エスプレッソなど、どこで手に入るやら。言うまでもなく私はコンビニで売ってる紙パックのエスプレッソはエスプレッソと認めていない。「飲んではいけない」とは言わないが、「別の種類の飲み物だよ」とは言う。 こんな環境では自分の珈琲は自分で持参するより他に無い。ただエスプレッソという飲み物は保存に向いていない。まずくなる。煎れたてしか美味しく飲めない。普通のドリップ式コーヒー以上に。 どうしたものかなあ?と思っていたら、彼女が水出しコーヒーをつくってくれた。本来の水出しコーヒーにはそれ専用の機具が必要だが、今回のは手法的には簡易版。家にあったスターバックスのコーヒープレスにコーヒー豆の粉と水を入れ、一晩おいといて冷蔵庫で冷やす。専門店の水出しコーヒーと比べると若干アメリカンというか、少し薄いのだけれども、すっきりと美味しい味わいである。普通のコーヒーは苦手だけどこれなら飲めるという人もいるかもしれない。 そんなこんなで今日は自販機の紙パック飲料の御世話にならずにすんだ。水出しコーヒーが、普通のコーヒーと比べて時間の経過による味の劣化が少ないことも確認できた。 これからしばらく、「Espressoを飲みながら」は、実質的に「水出し珈琲を飲みながら」にかわるかもしれない(笑)。
すんごい熱帯状態だねえ。シンガポールに行ったことがあるけれども、この蒸し蒸し状態は張り合えるものがある。というか、張り合うなよ。そもそも違う気候なんだから。 空遊にしてみれば、今日はお休み。公共機関の学校にしては珍しく、なぜか火と水がお休み。月曜の夜からが週末という世間と少しずれたサイクルで生活している。遠い未来と思ってたJava Scriptの授業も近づきつつある、、、。
学校の実習はWindows2000Serverが昨日で一応(本当に一応)終了し、今日からはLinuxの実習に入る。 既に御存じの方も多いと思われるが、筆者の復習も兼ねて一応説明。Linuxとは、1991年当時フィンランドのUniversity of Helsinkiの学生、Linus B.Torvaldsが卒業研究の題材として開発したオペレーションシステムを基礎とするプログラムのこと。UNIXと同じように動作するけれども、UNIXではなく、Minixのシステム上でUNIXと同じように動作するオペレーションシステムである。"Linux is not UNIX"というフレーズは有名。 Linuxは制作者Torvaldsによりインターネットに公開され、各地に伝わり、世界規模で開発が行われることになる。Linuxはプログラムのソースコードが一般公開され、開発者は自由に昨日を追加したり、問題を修正することができる。そしてそれはさらに世界に向けて公開され、成果は共有される。このような手法はオープンソースと呼ばれ、Linuxの最も大きな特徴だ。 ソースコードが公開されていて、開発者の意思でプログラムの追加・変更が可能なため、Windows等とくらべてセキュリティー面でメリットがあり、また安価であるため、最近企業・研究機関等でブレイクしている。そんな経緯でとうとうポリテクセンター兵庫という職業訓練所の授業にまで登場することとなった。 Linuxにはいくつかのディストリビューションが存在するが、今日授業で使ったのはその中でも最もメジャーなLinuxの一つであるRed Hat Linux7.2。なお現在では最新版の7.3も出回っている。ダウンロードやCD-ROMで入手可能だが、今回は株式会社ソ-テック社の「Red Hat Linux7.2サーバー構築入門」に付属していたインストールCD-ROMを使用した。 今日はまだインストールしてユーザー設定のさわりをやっただけ。で、この本の値段が3800円+税なのだけれども、付属のOSにはワープロ・表計算・グラフィック・簡単なゲームソフト(上海とか)が含まれていた。これだけ見ても、マイクロソフトよりははるかにコストパフォーマンスが高いことがよくわかる。 操作方法は若干難しいらしいけれども、どんなことができるのか、楽しみ、楽しみ。
生きていると、便宜上どうしても「私」という言葉を使うことになる。「私はお腹が空きました。」とか「私は今日用事があります。」とか、etc,etc...。余りにも長い間、余りにもたくさんの回数、繰り返して使うので、どうも「私」という実体があるかのように感じられる。「おもしろい」とか「楽しい」とか「~ができる」とか「~は苦手な」とか「あんまり働きたがらない」とか、いろんな形容詞のついた「私」という実体があるかのように感じられる。けれども、「じゃあその「私」とやらを見せてみろ」と言われたら、どうしたらいいのか?どうしようもない。レントゲンにもCTスキャンにもMRIにも映らない。その実体をほいっと見せてあげることは出来ない。「私」の存在というものを客観的に他者に説明するのは難しいようだ。じゃあせめて自分自身では「私」というものを感じられるのだろうか?自分の手、足などの身体なら感じられる。怒りや悲しみといった感情なら感じられる。「これはこうだ」とか「あれはああだ」とかいった思考なら見ることも出来る。でもそれらは、あるいはそれらの集合は果たして「私」なのだろうか?誰かが私の右手をナイフで斬り付けてきたら、「私を傷つけないで」と言うことだろう。けれども、仮に右手が無くなったところで、大変な不便や苦しみはあるだろうが、「私」そのものが消滅するわけではない。いろんなことがあると、「私は悲しい」と人に言うかもしれない。でも、悲しみが無くなっても、「私」が消滅してしまうわけではない。「私の考えはこうです」とか「私もこう考えています」と言うことは日常茶飯事だが、考えを変えたとしても私自身が何か別のものに変わってしまうわけではない。 「私」に仮に属性があるとすれば、その属性は全て変化しているように見える。そして一つのことを形容する言葉が全て変化してしまうのならば、元々のそれの意味自体が大きく変わってしまうだろう。例えば、「エンジンが無くて、人力で動く自動車」と言えば、それはすでに自動車ではなくて自転車である。 デカルトは、「我思う故に我あり」と言った。しかし人には誰でも、何も思っていない時がある。何も考えていない時にはあなたは存在していないのだろうか?また、「私」というものはそこまで思考によって規定されうるのだろうか? あらゆる属性を外した私というもの、それだけが私と呼ぶに値する。そしてそれは属性が無い故に個人ですらない。何ものとも隔たれておらず、かといってくっついている訳でも無い。一つでもなければ二つでもない。 それだけが、あらゆる言葉の終焉するところ。