武ニュースDiary
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2020年07月28日(火) |
「南方人物周刊2017-4-24」金城武インタビュー・3(完) |
撮影が中断したら、待ちます
――あなたが20代のとき撮った南極ドキュメンタリーを見ましたが、 非常に悟ったような感じを受けました。 普通の人なら、おそらく50代でようやくそうなるのでしょうが、 あなたは20代でもう物事がわかってしまっている。なぜでしょう。
金城武 本当ですか? それは南極だったからなんじゃないかなあ。 あの死骸のところのことを言ってるんですか?
――あれだけではありませんよ。 あなたは動物たちの生きている様を観察して、すごくいいと思い、 そこから自身の生活に思いをはせて、万物を傍観する感じがあります。
武 なぜと聞かれても、ぼくもわかりません。 ぼくがものぐさで、あまり積極的ではないからかもしれませんね。 仕事を何年間に何本やるか、これも全部、 そうしようと思ってそうなったわけではない。 ちょうどそのときに、チャンスをくれる人がいて、 内容も面白そうだと思えるもので、時間的にもうまく合って、 そして出演したものばかりです。 決して自分が1年に何本出ようと決めたわけではない。 決めたいと思っても、そんなこと無理です。
――つまり、意識して、仕事間隔をあけているわけではないと?
武 掛け持ちはしたくありませんけど。 前は掛け持ちがとても多くて、すごく疲れました。 あの頃は、それがあまり多いものだから、 今自分が何を演じているのかわからなくなるほどでしたよ。 この現場が終わったら、別の現場に行くというのは、お金をもらえるから、 ここではこの衣装を着て、このせりふを言う、という感じでした。 そういうのはしたくない。1つのことに専念したい。
だから、今は、やるときは1つだけ。 その仕事が中断することもあるけれど、そうしたら、待つ。 でも、そういう中断のとき、他の人は別の仕事に行ってしまうことが多いので、 撮影が遅れて、待つ時間が長くなることもあります。 ぼくは多分、そんなに積極的じゃないんだと思います。
――待つのが長くなっても焦りませんか。
武 もちろん、あまり長くなるのはいやですよ、かなりきついので。 というのは、役の状態をその間キープしないといけないからです。
――例えば「太平輪(ザ・クロッシング)」は何年もかかりましたよね?
武 「太平輪」は本当にくたびれましたね、気持ちがくたびれた。 ああいう悲しい状態をずっと維持しなくちゃいけなかったんですから。 あるとき、泣く芝居をすることになってる日があったんですけど、 携帯に、台湾の台風で金城武の木が倒れたとかいうニュースが次々表示され、 笑ってしまうような写真も次々に目に入てくるわけです。 今日は泣く芝居をしなきゃいけないのに。 あのとき、ああ、自分はずっと厳澤坤(ザークン)の状態でいたんだなと、 初めて気が付きましたよ。
――テレビ番組で、あなたは何かするとき、考えすぎてしまうので、 荷物をまとめるときも、迷いに迷って最後の最後でスーツケースに入れるんだと、話していましたね。 自分ではそういうところを変えたいと思っていますか。
武 変えたいけれど、変えられない。 変えられないことはないのかもしれませんね、でも相変わらずこうなんです。 たくさん物を持っていきたいんだけど、もうじき家を出る時間で、 時間がなくなってるのに、床は入れようと思って出してきたものでいっぱい。 で、持っていったら、現地で簡単に手に入るものだったりして、 ほんとに時間を浪費しているんだけど、どうしていいかわからない。
――ずうっと前のインタビュー動画で見ましたが、 子どもの頃、日本人からは台湾の人間だと見られ、台湾の人からは日本人だと見なされて、 ずいぶん困惑したと話していました。 その後、いつ頃からこだわらなくなりましたか。
武 いつのまにかですね。 実は誰かが君は何人だといっても、多分どれも正しいんですよ。 ならば、あれこれ考えることはないのじゃないかと。
今は、生き物として、でもいいし、1人の人間としてでもいいけれど、 自分の仕事をしっかりやる、 映画を好きな人に、ぼくらが作った作品が見られるようにする、というだけです。 どんな役をもらっても、目標は1つ、その役を生き生きと演じだすことだけ。 映画の出来はぼくにも決めることができないけれど、 人物が描き出せるかどうかは、ぼくにとって重要です。
ぼくは今はやはり「金城武」という俳優に過ぎなくて、 この作品の中では、つまり路晋(ルー・ジン)という人物を演じ切ること。 もし良かったと言ってくれれば、ありがとうと言います。 良くなかったって? そしたらもっと研究して……いや、放っときます(笑)。 だって、審美眼は人によってみんな違いますからね。 (完)
やっと終わりました。ちょっと最後が空き過ぎましたね。 インタビュアーが「台湾の人」と言っているのは、原文では「台湾地区の人」で、 そこは、台湾は別、と認めない中国の雑誌だなと感じさせるところです。
記者は、失敗したインタビューの1つ、と書いていましたが、 どうでしたでしょうか。 (ちなみに写真は、撮りおろしは表紙と最初に挙げた1枚だけで、 あとはスチール写真とか、既出のものの流用ばかりでした)
思い出しましたが、明後日、7月31日は、武ニュースDiary主催の ただ一度のオフ会を開いた日から10年です! 出席・不在参加含めて100人の方が集ってくださいました。 このとき知り合って、今も交流のある方もいらっしゃいます。 当時制作したみなさんのメッセージ集を見直すと、今どうしていらっしゃるかなあと懐かしく思います。
このオフ会は”夜明け前のオフ会“と称し、なかなか次の仕事の話が聞こえてこない武さんを待ちながら、 みんなで元気を分け合おうというものでしたが、 ちょうど、この直後、リプトンのCMや「捜査官X」出演など情報が届き、 本当に夜明け前だったね、と言い合ったものですが、しかし。
氷河期とは言いながら、振り返れば、2009年までは、 年に1回はほぼ公開されていたではないですか(時に複数)。 今は氷河期という言葉も死語になりました。
ファンももうほとんどいないのかなと思いつつ、 ツイッターなど見てみると、案外いらして、ちょっと心強くなったりもします。 ひたすら静かに待つ、という心境にみなさん、なっているのかな。(私もそうです) 頼みの「風林火山」は、監督がもうちょっと頑張って早くに公開してくれてたらなあ。 いろいろ事情があったのでしょうが、 もしもコロナと香港情勢が予知出来ていたら、万難を排してでもやったかもしれませんね。
BBS ネタバレDiary 12:10
2020年07月16日(木) |
「南方人物周刊2017-4-24」金城武インタビュー・2 |
たくさんの喜怒哀楽が引き出しに
――映画以外に出演することは考えませんか?
金城武 基本的に映画ですね。
――以前、映画の道に進むと決めたとき、歌は自分からやめたのですか?
武 はい、あの頃は映画の方がもっと面白いと感じていました。 音楽も、演技も、ぼくはできない、勉強したことがないんです。 チャンスをもらっただけで、人が、多分、顔がよければOK、 この仕事はできる、と考えて、それで始まった。
その頃は映画が面白いと思っていて、 演技がすごく面白いというわけではなかった。 演技をすることで、ぼくは映像制作の過程に参加できるチャンスが もらえるわけなんです。 そしてウォン・カーウァイに出会い、よけい面白くなったんだと思う。 現場で起こることは何でもすごく興味がありました。 監督でも、カメラマンでも、道具係でも、美術でも、録音技師でもなんでもいい、 映像制作ってどうしてこんなに面白いんだろうと思いました。
――そういう人たちと話をして、いろいろ理解したのですか。
武 そうですね。 若かったので、好奇心旺盛だったというのもあるかもしれません。 本当に楽しかった。 ただ観客として見ていた頃には、 その裏側でこんなに様々なことがあるというのは知りませんでした。
CDを作るのが面白くないというのではないんです。 でも、ぼくが本当に得意なものでもないし、 それにみんなで一緒につくりあげるものではない。 当時は両方並行してやっていたので、くたびれてしまって。 例えば、1日に2本の映画の撮影をして、 その後CDの宣伝に行かなくてはならなかったりして、ああ、もうだめだと。
――あなたは、かなり初期の頃に、演劇学校に行って 気持ちや表情のコントロールを勉強しようとは思わない、と言っていますね。 基本的な技術をつかんだら、あとは自分自身の具体的な感覚で演じたいと。 今でもそう考えていますか?
武 ぼくは現場で経験する中で技法を学びました。 そのうち、やっぱり俳優1人1人の違いが見えてくる。 すると、あの人はどうしてこんなにうまくできるのだろうと考えるようになり、 観察するようになります。
演技の先生や学生と話をして、彼らの方法や理論を聞くと、 わあ、すごい、と羨ましくなりますよ。 もし、こういうしっかりした基礎があれば、どんないいいだろうとも考えます。 けれども、ぼくにはそれがないからこそ、今の自分があると思うんです。 それが悪いことともあまり思えないんです。
正直言って、ぼくには人生経験も多くない。 例えば、様々な感情、ぼくらはたくさんの喜怒哀楽の引き出しが必要で、 どの引き出しも更に何層にも分かれている。 自分の記憶をその中に収めていて、 これを演じる、というときに、引き出しを開けてそれを取り出してくる
でも、ぼくの人生がそんなに豊富なわけがないでしょう。 そこで、家族が死ぬこととか思い浮かべたりする。 後で、思うんです、どうして家族の死なんか考えなきゃいけないんだろう、 呪ってるような感じじゃないですか。
あるいは、辛かったことを思い浮かべる。 でも、ぼくは性格的にそういうことはほじくり返したくないし、 忘れたいと思っていることを仕事のために使いたくもない。 やっと心の奥にしまい込んだものを、なんで又出してこなきゃならないのって。 (続く)
BBS ネタバレDiary 21:00
2020年07月14日(火) |
「南方人物周刊2017-4-24」金城武インタビュー・1 |
ぼくは、金城武という俳優であるだけ ――金城武との対話
女の子のこと、全然わからないわけじゃないよな
ーピーター・チャン監督は、3回あなたにオファーして、3回断られたと言っています。 4回目もまず断ったのですか。
金城武 そうではなかったと思います。 なぜかというと、ピーター監督は今回はプロデュースで、 一緒に長く仕事をしてきた優秀な編集者が監督をするのだと、 はっきり言ってくれていましたから。
また、脚本家にも非常にいい人たちが見つかって、若い人たちで、 要するに「七月与安生」の脚本家だと。 彼はこういう陣容で映画を作りたくて、ぼくに来てくれないかと言ったんです。 そのときは、自分が参加することで ピーターの助けになるなら、いいなと思いました。
ーー3本の映画を断ったときは、何かぴったりしないものがあったからですか。
武 1本目のときは、ぼくにはとてもできない、 なんでぼくを選んだんだろうという感じでした。
―――当時は、既に大監督たちといくつも仕事をしていたでしょう?
武 そんなことない、そうでしたか? (マネジャー:チャン・イーモウ監督とか) ああ、チャン監督のときもそうでしたよ。 どうして、ぼくなんだろう、人を間違えてるんじゃないだろうかって。 そのときは、そういう気持ちでした。
ピーター監督のオファーをどうして断ったか、実はもう覚えてないんです。 それに謝絶であって、拒絶じゃないですよ。 彼には本当に感謝しています、ずっと機会を与えてくれて、 本当に申し訳なくなるくらい。
ーーいろんなところで、喜劇が一番好きだとおっしゃてますが、それはなぜですか?
武 喜劇は人を笑わせ、幸せにすることができますよね。 ぼくは喜劇はすごく難しいと思っているんです。 アクションとはまた別の難しさで、アクションは割と物理的な難しさだけど、 喜劇はたくさんのアイディアが必要で、 それを見える形で表現しなくてはならない。
喜劇はいくつかのレベルに分けられるかもしれませんね。 レベルが低いものは良くない、ということではなく、 低いレベルのものには、それなりの作り方があって、それもすごい。 パッと見るとめちゃくちゃだけど、みんな笑い転げるように作ることもできる。 それもすごく難しい。 それから、普通に演じているのに、見る人は大笑いするというのがあって、 それが高いレベルですね。
喜劇がやりたいなと思ったのは、 ぼくは最初の頃、台湾のチュー・イエンピン(朱延平)監督の映画に いくつも出演してるんですけど、とても気楽に見られて笑えるという作品です。 監督はずっと冗談を言っているんですよ。 撮影中は出演者を誰彼となく笑わせていて、とても楽しい現場でした。 だから、あの頃は、喜劇ってどうしてこんなに面白いんだろう、 監督もなんていい人なんだろうと思っていました。 けれども、本当にちゃんと作ろうとしたら、難度はとても高いです。
――それなら、その後10年以上喜劇に出なかったのはどうして?
武 それは、実はマーケットの事情なんです。 喜劇がたくさん製作されているときは、喜劇のオファーが来ます。 中国が市場を解放した時代は、みんな一斉に大作映画や、軍隊物、 時代劇ばかり作ったので、受けるオファーもこうしたジャンルになる。 当時はライト・コメディは撮れなかったんでしょうね。
ーー今回、若い監督や脚本家と一緒位ラブ・コメディを撮った感想は?
武 みんなでわいわい楽しくやっていたという感じかな。 監督も脚本家もそれぞれ自分の考えがあり、もちろん、ぼくにもある。 ピーター監督は、みんなで自由にやりなさい、と言い、 たまに、これはダメだというときだけ、そう言った。 それなら、まあ、ぼくも俳優としての立場は越えないようにやりましょうと。
ーー意見がぶつかることもありましたか?
武 例えば(と、若い女の子の声音で)、 「こうなの! 私たちの年頃はこうなんです!」 (本来の声に戻り)「ああ、わかりましたよ、あなたには勝てないよ」 (また女の子の声になり)「これ、とっても萌える、女の子ならきっとそう感じる」 (元の声に戻り)許監督とぼくは、「ぼくらだって女の子のこと、 わからないわけじゃないよな、北京の子たちだからなのかなあ」 と、よく思いましたよ。 脚本家の彼女たち同士も、ときどき言い争いしたりしてて、面白かったですよ。 (続く)
BBS ネタバレDiary 11:30
2020年07月05日(日) |
「南方人物周刊2017-4-24」 金城武の隠れ身の術・5 |
みんな地球という星で一生懸命生きている
「よく聞かれるんだよ、君と金城武は本当に親しいのか、と」 ピーター・チャンは、目の前の金城武に言った。 「ぼくはこう答えるさ。イエスと答えて、彼がそうじゃないと言ったら、 メンツがないよね、って」 「イエスですよ、イエス。ただ、しょっちゅうは会わないだけで」と金城武は答えた。
こんな長い付き合いでも、金城武が自分との関係をどうとらえているのか わからない、という困惑は、呉里璐も経験している。 以前は映画撮影のとき、今のようにスターが 大勢のスタッフに取り囲まれているということはなかった。
金城武はアシスタントを連れず、撮影の合間には、 腰を下ろして呉里璐とよくおしゃべりしたし、 ネットゲームのやり方を教えてくれたりもした。 2人は共に恥ずかしがり屋で内にこもるタイプであり、 時にはただ何もせずただ座って、ずっとしゃべらないままでも、 気まずくなることなく、心地よくいられた。
その後、何年かは顔を合わす機会がなく、 オンラインゲームの中で出会うと挨拶を交わすぐらいだった。 再び一緒に仕事をしたのは「喜歓你(恋するシェフの最強レシピ)」の 衣装決定の日である。 呉里璐はスタッフルームで準備をしながら、 そうだ、金城武と会うのだと思った。 嬉しくもあり、少し心配でもあった―― 彼は自分のことを親しい人間と思ってくれているだろうか?
結果は――金城武は部屋に入ってくるや、 呉里璐をお姫様抱っこしたのである。 これは全く金城武らしからぬ気持の表現方法だった。 「大勢人がいたけど、みんなびっくりしていました」 呉里璐は今も印象深く思い起こす。
ピーター・チャンと呉里璐が抱いたような心配が、的中した例もある。 1990年代の末近く、金城武は香港で「心動(君のいた永遠)」に出演し、 制作会社は記者たちを伴って、現場訪問をした。 金城武は取材を受けたくなく、気まずい雰囲気であった。
王雅蘭も記者の1人だったが、彼女は金城武とは デビュー作のテレビドラマ「草地状元」のときに早くも知り合っており、 その後も何度か交流があった。 あるとき、王雅蘭が日本にいる金城武を訪ねてインタビューしたとき、 合間を見て、こっそりデパートにウィンドウショッピングに行った。 すると、金城武もこっそり彼女の後をついて階段を上ってきて、 驚かせたこともある。
このとき、王雅蘭は場をとりなそうと、 「大丈夫よ、みんな古いお馴染みばかりじゃないですか」と言った。 金城武が「誰が古いお馴染みだって?」とピシャリと返したので、 一同は静まり返り、気まずさはいや増したのである。
しかし、機嫌のよいときには、 彼は記者会見で会った王雅蘭に自分から挨拶をし、 「雅蘭さん、お久しぶり。 うわあ、スニーカーにショートパンツなんですね」と声をかけてきた。
金城武がしまい込んでいる小さな世界は、 時たまその断片が洩れてくるだけである。 例えば、何かをする前には、あれこれ考えて長いこと迷うとか、 出かける直前まで、まだ荷造りをしているとか。 たあらかじめ時間はたっぷりあったとしても、スーツケースに入れられない。 どの服を入れたらいいかわからないからだ。
また、例えば、ゲームが好きで、「投名状(ウォーロード)」の撮影中、 ピーター・チャンが明日の夜一緒に夕食をしようと誘うと、 約束があるから行けないと言う。 こんな山奥で誰と会うというのか、ピーター・チャンが不思議がると、 オンライン・ゲームを一緒にやる約束をしているのだと答える。
彼の小さな世界は、友人たちの目にはもう少し多く触れるが、 それでもはっきりとした限界がある。 「彼が変わり者だという理由は、 彼には小さな、人に入ってきてほしくない部分があるからです。 でも、そこから出てきたときは、裏表なく、怒るときは怒るし、 喜ぶときは喜びます」 プロデューサーの許月珍は言う。
「ときどき、とてもおかしな風になることがあって、 私たちは、あ、また来た、と思います。 でも、私には彼の感じ方を守ってあげたいという気持ちがあります。 彼のことを知れば、自ずと守ろうとするようになるんです」 この保護しようという気持ちは、50歳を過ぎたピーター・チャンと、 30代の許依萌にも生じている。
2000年に日本のNHKテレビが、 金城武の11日間の南極の旅をカメラに収めた。 これは金城武としては稀に見る、 普段の彼に深く切り込んだものであった。 フィルムの中の彼は時に子ども、時に哲学者のようだ。
様々な動物を見かけると、金城武はいつも興奮して大声をあげる。 匍匐前進でアザラシに近づき、アザラシが横たわったまま、 大きな口を開けて氷をかじるのを見ると、 自分も雪を掘って、塊を口にしながら、こう言う。 「アザラシの気持ちがわかったような気がする。 うまい、ほんと、ほんと」 そして、カメラマンにもどうぞと差し出す。
死んだアザラシを見つけ、長いこと黙って見つめながら、 昔、映画撮影のとき、1羽の小鳥が急に死んでしまったときのことを思い起こす。 「助けなくちゃ」と言うと、 スタッフは、大丈夫、まだあと5羽いるから、と答えた。 動物病院も見つからず、彼はただ、小鳥をずっと掌に乗せているしかなく、 温かかったものが冷たく、柔らかかったものが硬くなるのを感じていた。 奇跡が起きるのを期待したが、結局は、その小鳥を埋めてやった。 「こういう仕事は、本当にやりたくない」と彼は言う。
「生きている、人間として。 この仕事が一番成功する、現状態で一番想像できる ステートメントって何だろう。 ハリウッドの映画スターになって、アカデミー取って、 映画がみんな売れて大金持ちになって、自分の飛行機を持って、 自分の土地を持って、 結婚してもいいし、しなくてもいいし、彼女がいっぱいいてもいいし、 車が10台くらいあって。
で、気が付いたら、50歳とか、60歳とかになり、 それでも、いや、俺は一番有名な俳優なんだよ、とかってなったときに、 どうなんだろうって思うんですよね。 生きているってことを実感したのかなあ、って思っちゃうんですよ」 と金城武は言う。
「動物の生態とか見てみると、生きているんだな、と、思うんですよ。 目的は生きているだけ、一緒に。 ペンギンが山の上から、一生懸命海に行って、魚を獲って食べるのは、 多分幸せじゃないんだけど、幸せだなと思っちゃうんですよね。 みんな、この地球という星に、一生懸命生きているだけなんだなと思う」
金城武は、おそらく、南極で感じたことを実践しているのだろう。 地球という星で一生懸命生きることを。(完)
(ピーター・チャン、リー・チーガイ、呉里璐、許宏宇、許依萌、許月珍、 チュー・イエンピン、そして「一条視頻」に感謝の意を表します)
やっとこの項、終わりました。 最後に謝辞があるのって、珍しいです。特に中国の記事では。 直接、これらの人に取材したんだぞということを示しているんですね。 まともな記事の作り方をしていると思います。
BBS ネタバレDiary 20:30
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