FayeBlue 目次☆過去☆未来
音と共に花火や星たちの パレードなんかもあったり とってもそうぞうしいものだけど 終わりというものはとってもあっけない
ランドロードにTELしての日々。 そうです。 Fayeアパート探しの真っ只中。 WVにいた頃とはアパート探しの手順も何もかも違い 思い通りに上手くいかないことに少々、いえ、イライラしてます。 昨日レンタカーを借りて、久しぶりに日中外に出た。 昨日はちょっとLAをドライブするのにビビッてた私。 でも今日はせっかく借りた車 使わなきゃ損!!!!って事で地図片手にLAを走っちゃいました。 とりあえずネットで調べたアパートにTELし 言われた住所のあたりを下見程度&アパート探しのドライブ。 いい気分転換になりました。 ここのところ朝と夜が少々逆になってたのもあり プラスちょっと鬱になりかけてた私。 (車なくては何もできないLAで家に閉じこもってたため。) 今日はサイコーだったぁ。 しかも車で色々テキトーに地図を見ながら走ってると NOW LEASINGなんてだしてるアパートと そのTEL番号がビルに貼られてるではありませんかぁ。 運転しつつ、ペン片手にメモりながら たくさんTEL# ゲットしてきました。 夕方VONSっていうスーパーに行ってちょっと買い物して アパートに戻り、さっそくアパートにTELしたり メッセージを残したり。 イヌがいると本当にアパート探しは大変で。 今日かけたところのアパートは全て NO PETだった。 ちょっと手ごろな値段のアパートはNO PETが多い。 高いアパートもしくは汚くて古いアパートくらいなのだ。 LAにはたくさんイヌを飼ってる人がいるのに・・・・。 一体みんなは何処に住んでるのかしらねぇ・・・・。 と不思議に思うくらい。 まぁ、気長にやりますアパート探し。 頑張ります。 早く見つかれ!! 私のアパート。
LA来てからも夜更かし、不規則な食生活。 相当疲れが溜まっていたのか、とうとう今日ダウンしてしまった私。 今朝早くおなかの痛みで目が覚めた私。 キリキリ痛む胃とゴロゴロ鳴いている私の腸。 トイレへ行くとくだしてました。 さらに昨日の食事をすべてもどしてしまった。 くだしては、もどして、一眠り。 そしてその数分後にまた くだしては、もどしては・・・のその繰り返し。 朝出しきった私の胃と腸は落ち着いた様に見えたけど、 まだおなかが痛む。 今日は出かけるのをやめ、一人で言えで横になっていた。 すると今度は頭がボーっとし始め、顔がほてりだした。 どうやら熱も出始めたらしい。 一人で眠っていると電話がなった。 TELに出ると私の母からのTELだった。 母:「眠ってたの?」 私:「う〜ん、今日体を壊してしまって・・・・。 熱もあるみたい。」 母:「そうだったの・・・・。」 その時の母の声が妙に暗かった。 母:「あのねぇ、おばあちゃん今朝4時くらいに亡くなったのよ。」 私の熱でもうろうとしている頭では 最初母が何を言ってるのかよく分からなかった。 母:「今日27日(日本では)に息をひきとったの・・・。」 と言って、母もたまっていた感情と共に泣き出した。 やっと理解した私はそれでも信じられず、 「うそ、うそだぁ・・・。」 それしか言ってなかった。 母:「よく頑張ってたよ。」 とその言葉と共に私も涙が止まらなかった。 私の祖母は去年の暮れに舌に口内炎のような腫れ物ができた。 バイキンか何かが入ったものなのだろうと思い そのままにしていたのだ。 私が今年の正月に日本に帰った時もその話をチラっとしていた。 80も過ぎてるのに、ゲートボールしたりして 一人で何でもする祖母は 「腕が痛むのよぉ。」 なんて腱鞘炎気味の手首に白いサポーターを巻いて 話してるおばあちゃんに 「あんまり無理しちゃだめだよぉ。ちゃんとマッサージして 冷やさないようにね。」 なんて私は言っていた。 でも年が明けて、まもなくした頃、その腫れ物が だんだん大きくなってくてるのに気がついた祖母は 住んでいる田舎の小さな病院へと行ったのだ。 するとその病院ですぐ大きな病院へ行って 精密検査をするよう言われたのだ。 そして仙台の大学病院へ行くと その日に即入院となった。 それから私の母が毎日病院へ、朝と夕方仕事の合間に 行ってお世話をしていた。 その検査の結果、祖母は舌に悪性の腫瘍ができていた。 いわゆるガンだ。 それからどこへ転移してるのとか さらに精密検査が行われ、手術日も決められた。 私が知ったのは2月の中旬だった。 私に余計な心配をかけたくないと思っていた母は 最初私には言うつもりがなかったらしい。 でも万が一にために後で教えてくれた。 3月中旬に無事手術を終え、その時点では転移は見られなかった。 祖母自身にはガンであることはその時言ってなかったらしい。 手術後順調に回復しているように見えていた。 がしかし、それはほんのつかの間だった。 一度は退院し、食べ物もやわらかい物を口にできるようになって まごまごしてるが、話せるようになっていたが、 手術後の検診で祖母のリンパ腺に 転移してるのが発見されたのだ。 その時点では先生が祖母、母、母の兄を前に ガンの転移の話をしていたらしいが、 祖母は悪性の腫瘍イコールガンっていうのが よく分かってなかったらしく、また入院するのも よく分かっていなかったらしい。 母は私に逆にそれでいいのかもと言っていた。 入院している間(その頃は体もぴんぴんしていたので) 暇らしく一人で寂しいからと言っていると言ってたので 私はカードを送った。 届いたカードをとても喜んで見ていたと母は 後で教えてくれた。 それから祖母は2度目の手術に挑んだ。 しかし80過ぎてる祖母の心臓はその手術に耐えられる 力がなかったのだ。 そのためガンの摘出手術は途中でやめさせられ 後は薬と放射線治療のみとなった。 いわゆるこれは慰めにしかならない 最後の手段だ。 一日一分でも長く入生きらせるための治療。 それが5月くらいだった。 母:「もしかしたら卒業したら帰って来なくちゃいけないかも。」 とこの頃よく母は言っていた。 その後私も忙しく毎日を過ごして、母からも特に連絡もなく たまに話しても、「大丈夫だよ。元気に頑張ってるよ。」と 言われていたため。私も安心していた。 その間に私は卒業し、新しいVISAも取得していた。 このVISAがまたやっかいなもので、このVISAは 一度アメリカをでるとこれではアメリカにもう一度入ることは できないのだ。しかも申請できるのも一回。 すでに取得していた私はこれでもし日本に帰ることになったら 今まで学校に行き、それでやっと手にいれたVISAも 台無しにすることになってしまう。 でも私も最悪のことは考えていた。 帰らなくちゃいけなくなったら、帰ろうと。 ガン発見から、8ヶ月後。 私の祖母は亡くなった。 悪性の腫瘍が年をとった祖母の体を食いつくるのに 時間はかからなかった。 ガンとその治療でひどく痛みつけられながらも 祖母はその痛みに耐えながら、頑張っていた。 私は数週間前に3枚ほど写真屋さんが撮った 卒業式の写真を日本に送った。 1つは母へ、もう1つは兄へ、そしてもう1つは祖母へ という手紙を添えて。 祖母が亡くなる一週間ほど前に写真は届いていたらしいが その写真をしっかり見ることはできないくらい 祖母の体は弱っていた。 祖母は私の卒業を心配していた。 母似の性格の私をとても心配していた。 3年前、私の両親は離婚した。 その頃の私の家族は色々な問題があり 辛い時期だった。 その時日本に帰って、祖母と話をした時 母の離婚と再婚のに単なる興味を批判の目と共に 同情しながら話すいとこやおじさんに 「平気、平気。母が幸せになればそれでいいわけだし。」 なんて私自身整理もできてなかったのに 強がって言っていた私を祖母はしっかり分かっていた。 母も祖母と似ている性格だからだろうか。 それともそれが昔の日本人女性という物だのだろうか。 祖母はそんな私を本当に心配していた。 「大丈夫かぁ?」とよく聞いてくれて。 それに決して、祖母が悪いわけでもないのに 「ごめんなぁ・・・・。」と謝っていた。 電話では母は 「あんたはこれからが大事なんだから今回は日本に 帰ってこなくてもいいからねぇ。おばあさんが一番 心配していたんだから、頑張りなさい。」 とだけ言っていた。 居たたまれない気持ちになった。 その日私は夢をみた。 おばあちゃんの家に私がいて、お風呂かトイレの戸を 開けるとおばあちゃんがいたのだ。 私は抱きつきながら、おばあちゃんに 「ごめんねぇ・・・。」と謝っていた。 そしたらおばあちゃんはただ笑顔で 私を抱いてくれていた。 温かいぬくもりが確かにあった。 あ〜、おばあちゃん怒ってないんだぁ。 って安心した時私は目が覚めた。 私は信じてる。 きっと心配したおばあちゃんがきてくれたのだと。 「いいのよ。頑張りなさい。」 って言ってるように思えた。 私にはおばあちゃんがついていると思った。 今まで頑張ったね。 ごくろうさま。 天国で安らかに眠ってね。 大好きなおばあちゃん。
そこにお世話になってる私も一緒に 連れて行ってもらってる。 今日はチャッピーと友達のイヌを VETに連れて行かなくてはならなかった。 決してチャッピーに何かがあった・・・・ っていう訳じゃないんですよ。 彼はいたって前と変わらず元気です。 ただ単にこっちに来たら1度はチャッピーを VETで診てもらおうと思ってたのです。 LAのVETに登録しておきたかったんだよね。 しかも友達の情報によると・・・・ そこのVETに今日までに行くと FLEA&TICKの予防に使うドロップを 6ヶ月分買うと、1ヶ月分ただでついてくるっていう キャンペーン中だったのよ。 それで友達の行ってるそのVETについでに チャッピーも連れて行っちゃえ〜!!ってカンジでした。 まぁ〜、都会というのは素晴らすぃ〜。 VETには日本人のスタッフと先生がいるのよ。 だから、英語で説明しなくても・・・・・ そして訳の分からない動物&医学用語を 英語で説明されなくて済むのです。 なんてすごいのでしょう。 こっち来る前に定期検診も済んでたし、 一応一通りの予防接種も終わっていたチャッピー。 異常なし!健康そのものと言われました。 そしてドロップも買い、私らはDOG BEACHへ行った。 その帰り、私は5ヶ月ぶりに ボバ ティーと 再会したのです。 あれは今年の3月。 短い春休みを利用し、初めてLAへ来た時 友達は私をCAFEに連れて行ってくれた。 「FAYEもボバ ティー飲むでしょう?」 ????「ボバ ティー?」 何の事かしら?p(^_^)q 訳も分からず言われるままてオーダーした私。 出てきたものには ミルクティーの中に、何だか黒い物体が ゴロゴロ入ってる。 「おいしんだよ!!!」なんて言う友達を横に 私は恐る恐る一口飲んでみた。 「う、うま〜い!!!!!!」 ショックでした。 世の中にはこんなにおいしい 飲み物があったのに知らなかった私。 そもそもBOU BA TEAっていうのは チン ジュ ナイ チャって言われる 台湾の飲みもの。 ミルクティーをはじめとする味からフルーツ味や HOTそしてSMOOTHIEなど 色々な味を種類からなるそれぞれのベースの飲み物に タピオカの粒が入ってる、台湾ではフツーの飲みのも。 (日本でも名古屋辺りではでてるらしい) 黒い大きなタピオカが まるで黒真珠のようにも見えるため ブラック パール ティーなんて 呼び方もあったり。 ミルクティーと一緒に太いストローで ボバを飲むとそれがまた絶妙な味。 もちろんこんな洒落た飲み物が存在していることすら WVにいた私はしりませんでした。 そのボバティーを今日私は飲む機械に 出会えたのです。 ミルクティーを前回飲んだ私。 今回は別のものにしようと思い COFEE味のSMOOTHIEに ボバを入れてもらったものをオーダー。 ミルクティーとはまた違って とってもおいしかったです。 幸せ〜!!!(*^_^*) って思いました。 そしてやっぱりまた観光気分にひたってしまったのです。
お世話になってる彼女と彼氏は二人とも社会人。
4年間過ごしたここともお別れなんです。 前にも書いてたけど、無事学校を卒業し FayeこれからLAで仕事を探しにこの町を去るのです。 今日最後の夜はここに一緒に来た友達の家にお世話になり 明日の10時にはこの町を出て、 PITの空港へと向かいます。 今日はその友達の家で最後の飲み会・・・というか 皆で集まってくれました。 日本に帰ってる友達は来れなかったけどね。 今年来たばっかりで知り合って3ヶ月しかたってない後輩や 去年来た後輩、一昨年来た後輩、ほぼ皆来てた。 一気に最後に皆と会えて嬉しかった。 写真は取りまくり。 まだ自分がここを去るっていうのが実感ない。 不思議。 ずっとここにいるような感覚が今まではあったし、 (それも怖いけど) 住めば都じゃないけど、ほんと私の青春時代をすごした場所で 夏休みや冬休みがあるたび、日本に帰った時はここに帰ってくるのが 当たり前になってて、町の人も知ってて、 場所も当たり前のように色々知ってて。 (まぁ、4年もいればこんな小さな町誰でも覚えるけどね) 日本人ってことで目立ち、学校でも色々な友達できたし。 慣れてきた頃には知らない人にも平気で 「ハァ〜イ!!」なんて声もかけてたっけ。 来た1〜2年は色々あったっけ。 たくさん泣いたし、たくさん笑ったし 全てが新鮮で、全てに興味を持っていたっけ。 今はいい意味で過去があるから沢山学んだこともあれば 失ったものもあれば、得たものもあり。 成長したのかなぁ。 今日来てくれた後輩達と出来るだけ 沢山話しをしたよ。でも自分んがいなくなる実感がないから また明日ねぇ・・・って感じで。 今年来た後輩の子に泣いてくれた子がいた。 私自身ほんと去るっていう感じがしなくて その子が泣いた時まで、全然ウルウルとか悲しい気分に なって無かったんだけど、さすがにその子が泣いた時 一瞬ウルって来ました。 でも何故一瞬?! って思った方いるでしょう? それはその子がまたやってくれて。 とっても嬉しかったし、悲しくなったけど、 笑わずにはいられなかった。 泣き方が、とってもおもしろくて・・・・。 (悪い意味じゃないのよ。誤解しないでね。) 最初はフツーだったのよ。 「Fayeさぁ〜ん!!」って。 そのうち・・・・・ 「ウホォ、ウホォ、ウホォ、ウホォ・・・・」 って泣きだしちゃって・・・。 そりゃぁ、皆で笑ってしまいました。 今でも思い出すと元気が出てくるよ。 彼女から最高の元気のもとをもらった気がする。 後輩の男の中にはかなり酔っ払っていたけど 「Fayeさんが出るまで 俺は絶対寝ない!!」 なんて言って最後の最後まで頑張ってくれてた子もいた。 さすがに最後の方は寝ちゃってたけど、 なんだかすごく嬉しかった。 私が眠ってる時に少し会話が聞こえてきた。 彼は何度となく 「Fayeさんは今日が 最後なんだよ!!」 って酔っ払いながら皆に言ってたっけ。 まだ知り合って3ヶ月くらいなのに、嬉しかったよ。 他の子達も最後の見送りまで居てくれたり。 皆にありがとうです。 そして泊めてくれた私と同じ名前の友達にも とってもとっても感謝です。 ありがとう。 この何日間か泊めてもらったり、お世話になりました。 ありがとう。 そして私の青春であるここフェアモント。 色々体験、経験させてくれてありがとよ。 何気に大好きな町だよ。 私の沢山の思い出が詰まってる町です。
昼間は学校に行って、色々手続きをしたりしていた。 夜になってお互い何もすることがなかったので、 その後輩の部屋でビデオを見ていたんだ。 あれは9時過ぎとかだったのかなぁ・・・・。 ビデオを見てる途中から外がやたらガヤガヤうるさくなってきた。 (p・・q)? 「はて?何事やら?」 ( ^_^)/U ( ^_^)/U☆U\(^_^ ) U\(^_^ ) ガヤガヤ お互い気になりつつ、ビデオを見ていた。 途中あまりにも気になり始め、私達は窓から覗き始めた。 ( ^_^)/U ( ^_^)/U☆U\(^_^ ) U\(^_^ ) ガヤガヤ [壁]_・)チラ | 「たくさん人いるよぉ〜!!」 (*^3^)/〜☆ (T□T) (T□T;) 「手振ってる?私らに?!」 そうなんです、明かりをつけたまま部屋から覗いてた私らは 外から丸見えだったのです。 その後少したったら、コンコンとノックする音が・・・。 隣りのアメ人(主催者)が私らを外から見て、誘いに来たのです。 (^O^)/C□ 「What's U〜p?」 (- -) (- -) (- -) (- -) 「え?!何?!この人・・・・・。」 別に私達、パーティーが嫌いとか苦手っていう訳ではありません。 でもこの人は・・・・って思ってしまったのです。 だから一回目はなんとかビデオを見てるので 見終わってから・・・・なんて理由を付けて帰らせた。 ビデオを見終わってから、私と友達はポーチにいた。 そしたら、さっきの男の人がまた来た。 隣りでパーティーやってるから来なよ!!との事。 一瞬迷ったけど、暇だったので(しかもただビール) 二人で行くことにした。 そしたらビックリ!! 何と何と、かなりの人数の生徒がいるではありませんか!! 白人のパーティーと思っていたけど、黒人もワンサカいたし。 しかも私の友達や、知り合いの人がワンサカ。 誘ってくれた男の人がビールを持って来てくれて、 私達は人数の多さに圧倒され、しかも落着いていられる場所もなかったので 二人でビールだけもらって、またポーチに戻った。 ( ^^)Y☆Y(^^ ) 「カンパ〜イ」 二人でそっとポーチで座りながらビールを飲んでいたら またさっきの白人の男のこが・・・・。 (^O^)/C□ 「何で帰っちゃったの?」 (=^^ゞ 「いやぁ〜、人があまりにも多すぎている場所なかったから・・・。」 この後から彼はずっ〜と私らと一緒にポーチにいたのです。 私らがどんなに帰れムードを出していても、居続けたのです。 しかも彼とっても慣れなれしかった。 人の体とかをさりげなく触ってきたり・・・。 しかもしまいにはお酒を買って来て欲しいなどと言ってきた。 (⌒ー⌒メ) 凸 「いちいち触るなよぉ〜」 どうにか帰るタイミングを作り、私達は家に入った。 そしたらまたドアをノックする音が聞こえたきた。 (⌒ー⌒メ 「どうしたの?」 「ポリスが来てて、 今家にはいれないんだ。 だから少し居てもいいかなぁ・・・。」 OKとも何とも言ってないのに勝手に入ってきた奴。 とっても不愉快だったので、さりげなく 「外に行って、ポリスがみたぁ〜い。」 と言いつつ、敢えて私らも外にでた。 すると奴は道歩く人々に 「ホント誰だよぉ〜。うるさいパーティーだったなぁ〜!」 「参っちゃうんだよなぁ〜。」なんて馬鹿みたいく演技を始めた。 ホント二人で冷めてたね。 たしかに外にはポリスの車が2台止まってて、 4人以上のポリスのがウロウロしていた。 未成年で今回この街が初めてな彼はそうとう動揺してたっけ。 私らはちゃんとお酒も飲める年でしたので、 何ともなくポリスとかを見てたけど。 だからちょっとだけ見て、 「たいした事ないよ。大丈夫だよ、家に帰っても。」なんて 軽く言って、彼と別れた。 このパーティー、もっと前から知ってて 早くから行っていたら、 とっても楽しかったと思うのよね。 いつもいく大きいパーティー並の人の多さだったし 来ている人もCoolな人達も多かったし。 残念だったわ。 でも何となく “学校がもうすぐで始まるんだなぁ〜”って 感じた夜でした。
昨日は夏セメの最後の日だった。 心のなかではこんな事を繰り返し言っていた。 言われるがままに外にでて、私は人生初ポリスの車に乗った。 車の中で私の免許を無線で調べて、クライムヒストリーが無いことや 違反のヒストリーが無いことを調べて、クリアーと分かったら 彼は私に質問をし始めた。書類に書き込みながら・・・。 P:「今日はパーティーでもしてたの?」 私:「いいえ・・・。」(こういう時はウソつくでしょう・・・) P:「お酒は飲んでるの?」 私:「いいえ・・・。」 (誰がホントの事いいますか!) P:「他に後に乗ってる子達は飲んでるの?」 私:「いいえ・・・・。」(皆未成年だもん。言えないじゃん。) P:「君はどこから来たの?」 私:「フェアモントです。」 P:「君は35のところを43もだしていたんだよ!」 私:「すみません・・・・。」(。_。;) P:「こんなに急いで、どこへ行く気だったの?」 待ってました、この質問!!(*^▽^*) 私:「いやぁ〜、あの子達が今日の6時に日本に帰るので空港まで 送っていかなくちゃいけなくて・・・。」 なんとそしたら、そのポリス今まで書いていた書類に 書くのを止めたった一言私に・・・・ P:「Slow Down」 とだけ言って、私を行かせてくれたのです。 なんていいポリスさんだったのでしょう!!!! そのおかげで、私はチケットを切られるわけでもなく そのまますんなり何事もなく空港へ向かうことができたのです。 私の5年間の無事故無違反はこれでまた 破られることなく済んだのでした。 空港に連れて行かなくてはいけなくて・・・っていうの なかなか使えますね。 ホントに連れて行かなくては行けなかったから、ウソではないけど それを理由に言ってしまう私も、私。 でもそれを理由で行かせてくれたポリスさんに とっても感謝。 まぁ、なんで車から出されたかっていうと、多分後輩が飲んでたため 車の中が酒臭かったんだと思うんだよね。 それで彼は不信に思ったのでしょう。 とにかくフェアモント・シティー・ポリスの彼には 感謝だよ。融通が利く人でホント良かった。 後輩も車の中でビビってたけど、きっと貴重な経験をしたはず。 (なんて勝手な考えな私・・・・。)
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