Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2002年10月31日(木) アニメソング自由闊達 鳥山アニメ編

さあみなさんおまちかね!アニメソング感想の第三弾でごさ〜い。今回は「Dr スランプ アラレちゃん」と「DRAGON BALL」を「鳥山アニメ」と一括りにしてご紹介しちゃいます。御用とお急ぎでない方は、ずずずぃ〜っとお楽しみくださいませ!

●ワイワイワールド
作詩/河岸亜砂 作曲/菊池俊輔 編曲/たかしまあきひこ 歌/水森亜土、こおろぎ'73

「アラレちゃん」ときたら、これを紹介しないでどうする!って程の曲。何なんだ、あのイントロは。もう、たまりにたまったエネルギーが爆発したくてたまらない、その一瞬の躍動を五線譜に収めたといった感じかな。そんじょそこらの出だしとわけが違います。以降のメロディーも明朗で軽快で楽しくて、何より元気が出てくる。いいよねこういう雰囲気。そして、あの後奏ですね。私はね、この曲全体を見渡してみても、後奏が一番好きなんだよね。ほっと一息つけるような、でも永遠にばたばた駆け回ってもいるような、世界そのものを俯瞰でとらえている感じを受けます(少し持ち上げすぎだろうか)。前にも言ったけどこの曲、作曲が菊地俊輔、編曲がたかしまあきひこという布陣。菊地がつくった流麗で人の心を捉えたメロディーを、たかしまがポップでノリのいいリズムに見事にアレンジしている。この2人のタッグは最高だね。何にも勝るものなしだ。
歌詞のほうですが、ぶっ飛んでますね。いかにも80年代的な勢いだけで中身なし、ってな印象ですが、この曲にはこれくらいの荒唐無稽さがちょうど良いのではないでしょうか。アラレちゃんはパワーの塊である訳だし。細かいこと考えない、気にしない。とりあえず集まっちゃおう、ペンギン村というワンダーワールドに。どんなことがおこるかは来てみて(チャンネルをあわせて)からのお楽しみ・・・ああ、ホントにいいなあ。
そんでもって、歌っているのは”あの”水森亜土ちゃんなのだ〜!何故に亜土?ってな気もするけど、とってもユニークでしかも人をわくわくせさせる歌唱力もっているから何ら問題なし。素晴らしい。あと、わすれちゃならんのがこおろぎのコーラスね。これも特筆ものだよ。「みんな集まれ、ペンギン村に・・・」からの高揚感の盛り上げ方なんか神品だよ。いいグループですなあ。ずいぶん前に解散しちゃったのが何とも残念。
余談だが、この曲は劇中で小山茉美の演じるアラレちゃん自身が歌ってたりもしたけど、こっちも味があってよかったなあ。

●ワイワイワールド(リメイク版)
作詩/河岸亜砂 作曲/菊池俊輔 編曲? 歌/水森亜土

これは93年春に映画として「アラレちゃん」が復活した際に、新に作り直されたバージョン。と言っても作詞・作曲は全く同じでアレンジが別な人(名前を失念してしまった)なのと、こおろぎのコーラスが抜けているのが変更点。でもこの変更がはっきし言って痛かった。新アレンジを施した人には悪いが、やはりたかしまあきひこは偉大だった。この曲にはオリジナルのような「勢い」がない。軽快さが足りない。なんか間延びしている印象を受ける。
こおろぎの見事なハーモニーに聞きぼれている私にとっては、彼らが不在なのも何とも不味い。やっぱ高揚感が足りんよ。水森亜土が健在なのは誠に喜ばしきことだがどうせなら彼らにも参加してほしかった(もう解散した後だと思うけど)。

●わいわい行進曲
作詩/河岸亜砂 作曲/菊池俊輔 編曲/たかしまあきひこ 歌/小山茉美.コロムビアゆりかご会  

「ワイワイワールド」に代わって主題歌を務めた曲。非常に良く出来ているのだが、先代があまりに良すぎたので今ひとつ・・・な曲。いや好きなんだけどね。小山茉美も上手いし。でも、いかんせんインパクトが足らんのだよねぇ。う〜ん何とも残念だ。でも冒頭のアラレとセンベエの掛け合いは文句なしに大好きだ。物凄くノリノリなんだよね。

●あれあれアラレちゃん
作詩/冬杜花代子 作曲/サタンタ 編曲/たかしまあきひこ 歌/水森亜土、こおろぎ'73

「アラレちゃん」を見てひとしきり笑った後に待っているのがこのエンディングである。オープニング・本編のとんでもない勢いがウソのようにウイットに富んだ歌が静かに、穏やかにかなでられる。ここら辺のさじ加減はお見事としか言いようがない。水森亜土の歌唱はどこか寂しげでさえある。「ホントは (これナイショ) ロボットよ」のところなんかグッと来るもんなぁ。アラレちゃんは天真爛漫だし、人間じゃないことなんか歯牙にもかけてもないだろうがそれでも一応他人には言えない秘密があるわけで、そのつらさをこの歌詞は上手く体現できていたと思う。「ワイワイワールド」とこの曲は表裏一体、両方聞いて初めてその真価がわかる。

●アラレちゃん音頭
作詩/満都 南 作曲/菊池俊輔 編曲/たかしまあきひこ 歌/小山茉美、コロムビアゆりかご会

キタ!「ワイワイワールド」に勝るとも劣らない強烈なインパクトのある曲が!!私が小さい頃、盆踊りで踊る曲といったらもっぱらこれか「一休さん」の夏祭りバージョンだったね。地域によってはいまだにこの2曲を盆踊りで使っているとこもあるんじゃないのかな?それぐらい知名度も高いし、曲としても完成されている。もうこれ以上、音頭系で優れた歌曲は生まれないだろうねえ・・・時代が時代だし。歌詞なんか相変わらず無茶苦茶だけど(文字通り”めっちゃんこ”だな)そんなことの有無を言わさぬ凄みがあるもんね。どこまでも陽性。親しみやすく、馴染みやすい。そして小山茉美が完璧にアラレちゃんになりきって歌っているからかなわない。素晴らしすぎる。これ以上何を望めと言うのだ。克目して聞くべし。あ、忘れていたが内海=センベエ=賢二の合いの手も重要なポイントですよ。「あ、それぃ!」となんとも小気味良いのだ。

●いちばん星み〜つけた 
作詩/河岸亜砂 作曲/菊池俊輔 編曲/たかしまあきひこ 歌/水森亜土

情感たっぷり、メローな歌。この曲聞いて感傷的にならない人はいないんじゃないかって思うほどセンチな感じだね。でも私は否定しない。むしろ好き。誰もが幼き日に過ごしてきた日常。大人になった今ではそれは過去のことでしかないけど、あの日々の思い出はどこまでも暖かく優しく人を包み込んでくれる―この曲はそれを奇をてらわず表現している。ああ、私は小さい頃、何を考えていたのかな。

●摩訶不思議アドベンチャー
作詞/森由里子 作曲/池毅 編曲/田中公平 歌/高橋洋樹 

凄いぞこの曲は!イントロのリズムの良さ、あれは一体何なんだ?カッチョ良すぎる!んでもってシンバルの音だよ。「ボォォ〜ン」て奴ね。タイミングが絶妙に良いんだよね。そして怒涛の本編に突入する。構成が完璧だなあ。歌詞も良いぞ!いかにもわくわく感を焙り出してくる感じで魑魅魍魎、奇々怪々、摩訶不思議な世界を筋斗雲にのった孫悟空が駆け巡る姿がありありと浮かんでくる。一番の聴きどころは「Let's try try try・・・」からの解放感溢れる歌唱だね。
またまた余談だが冒頭の燃え盛る太陽の炎のタイトルバックもこれから始まる大冒険へのマグマの如き胸の高鳴りを予兆させて見事にマッチしていた。

●ロマンティックあげるよ
作詞/吉田健美 作曲/池毅 編曲/田中公平 歌/橋本潮 

ついにこの曲がきたか・・・ウルトラ級に好きだ、この曲。歌っているのはブルマ役の声優さんではなく、橋本潮という人なのだが(他では『エスパー魔美』などが有名)曲のイメージは完全にブルマから視聴者、特に少年へのメッセージである。ティーン・エージャー必聴の歌だよなあ。厭世的な現代の子供達に対する痛烈なカウンター・パンチになっている。「もっとワイルドに もっとたくましく 生きてごらん」てのはつまり悟空のように生きてごらんと言っているわけである。悟空のように素直に、変に構えたりせず、格好もつけず、穿ちもせず、正直に―と言ってもバカというわけではなく―生きなさいよ、そうすれば「ロマンティックあげるよ(意味深長)」なのである。悟空の取り巻きの中では最古参のブルマの独白だからこそ実に説得力のあるメッセージになっている。「大人のフリしてあきらめちゃ」、奇跡は起こらんよ!

あとがき
「え?もうこれで終わり?」とか思っている人、いるかもしれませんが(100%いないが)これで終わりです。「まだ『DRAGON BALL Z』とか残ってんじゃん!」いう人もいますと思うけど(2000%いない byイエローキャブ社長)私自身「Z」以降の曲はあんまり好きではないのです。やっぱりアニメソングは80年代までだよなあ。渡辺宙明、渡辺岳夫、菊地俊輔、小林亜星、山本正之らが第一線で活躍していて、歌手のほうも水木一郎、ささきいさお、串田アキラ、子門正人、大杉久美子、堀江美都子あたりがバリバリやっていた頃が一番良かった。アニメと曲は決して乖離せず、アニメソングは本編を盛り上げ、本編はアニメソングをより魅力的なものに仕上げていた。「あの頃は良かった」なんて絶対言いたくないんだけど、それでも今のアニメソングはなあ・・・と嘆かずにいられない21歳大学生(どんな肩書きや・・・)なのであった。


2002年10月29日(火) 苦悩と光明の間に・・・

「努力に勝る才能はない」なんてアフォリズムに縋るのもイケてないが、大志を前にして敵前逃亡、てのも情けない。Which the way should I go? 誠に自分の裁量を見極めるのは難しい。

どんな道に進むべきか、どの実が己の器にあっているのか。私は一体何が出来るのか。自分を自分の定規で懸命に測りつつ、それでも真相はなかなか見えてこないものである。後悔はしたくはない。けれど、突っ走って大失敗をこくのも嫌だ、なんてアマちゃん根性丸出しじゃあ大成できないわな、と自らを小突いて独り旅である。

ああ、私はどうすれば良い?どう生きれば良い?
悩めば良い。苦しむが良い。精一杯悩んで、苦しんで、抗って、そしてその先には、いつか一筋の光が見えてくるはず・・・なんてことを思いつつ、そろそろ色んなことを考えなくちゃいけない時期に来ていることをひしひしと実感しています。


2002年10月27日(日) 人に非ざるものが優っている、すなわち俳優

最近、わしは「○○のこういうところが嫌い」とか「この作品は××だからダメだ」とか文句をつけすぎではないだろうか、ということに今更ながら気づいた。これでは、心が貧しいみたいじゃないか。

おまけに昔のアニメばっかり褒め上げちゃって、まるで懐古主義者みたいじゃないか!・・・実際、懐古が好きな傾向はあるけれど。

でもでも、流石にこれではまずいと思っています。わしでも、もっと眼を現代に向けなければ!と痛感する時もあるのです。ですので、今日は最近のドラマ俳優のなかで自分がいいな、と思っている人についてできるだけ褒めたいと思います。

生徒A「はーい先生、しつもーん」

橋本先生「はい、何ですかA君。」

生徒A「ほめる、ったって何でやぶからぼうに俳優なんですか?」

橋本先生「う、うるさい!ごちゃごちゃ言うと単位落としますよ!」

生徒A「・・・・・」

では、始めましょう。

女優
最近はその年のトレンドにあわせてとっかえひっかえしているだけのように思える。これでは女優勘が育まれてこなくなってしまう。もうちょっと「育てあげる」ということに力点を置いて欲しい。

名実ともにトップといえるのは松島奈々子、常盤貴子ぐらいか。あとは、タレントとしてはダメだが女優としての藤原紀香は割合いいのではないかと思っている。演技力はまだおぼつかないが、体当たりの熱演と抜群の存在感を上手く出せれば大成する可能性も大いにあると思う。

若手では広末涼子、竹内祐子、国仲涼子あたりに期待したい。広末はキャリアだけ見れば若手の位置ではないが、まだまだ成長する余力を残しているように見える。上手くゆけば田中裕子のようなタイプの女優として開眼できるだろう。あと、忘れていたが仲間由起恵も推しておきたい。

男優 こちらは同性なだけに評価も厳しくなります(笑)
90年代の連ドラ界を引っ張った2大巨頭といえば木村拓也・織田裕二ということになるだろうが、私はこの2人に今ひとつ魅力を見出せない。木村は存在感はあるものの、演技力となると?となってしまうし逆に織田は存在感がない感じがする(それでも他の俳優よりはずいぶんましだとは思うが・・・)主役級で私が良いなと思っているのは唐沢寿明、江口洋介くらいか。この2人はシリアスからコメディまで自在にこなせる印象がある。多芸だからといって特別に賞賛されるのは間違っているが、それでもドラマにおいて順応性の高い役者をもっと評価しても良いと思う。

若手のほうであるがこちらも払底した状態が続いている。押尾学や窪塚洋介のような「他とは違うんだぜオーラ」は見ていて鼻につくだけだし、実際地に足のついた演技が出来ていない。俺が俺がの表現ではアンサンブルを乱して作品を台無しにしてしまう。主役を張るにはうるさすぎると言えるだろう。ここは藤原竜也や妻夫木聡らに期待したい。彼らはアイドル的な人気に毒されていないぶんまわりを見渡した演技が出来る(と信じたい)。少し前にやっていた時代劇ドラマで両者は共演していたがなかなかの出来だったと思う。是非とも修練を積んで大俳優になってほしいものである。

後記
う、うぅぅぅ・・・わしの感性じゃ生半可な気持ちでは今の俳優を褒めることが出来ん。邦画だと松竹大船映画ばっかり見てきたからなあ。どうしても文句つけたくなってしまう。あ〜あ、これではやっぱり時代錯誤者じゃないか・・・まあそれでも上にあげた俳優はかなりい良いと思っている。これからも頑張って、味わい深い作品を作ってくれることを願う。


2002年10月26日(土) セリフの宝箱

美しいものを見たとき、人はそれをどんな言葉で表現するか。のっけからこんなことを言っては身も蓋もないが「きれい」とか「美しい」とか、それなりにだろう。

この感情表現は内的に芽生えた心情を素直に出しているだけだから何ら問題ない。しかし、これがドラマや映画の中のセリフだったとしたら話は別である。美しいものを単純に「美しい」と言うだけでは作劇方法として失格である。セリフが脚本家の世界で完結してしまって、第3者との間に隔たりを作ってしまうからである。こういう類のセリフでは作品を極めて表面的なよそよそしい解釈しか出来なくなる。これを避けるために書き手は美しいものが何故「美しい」かを映像の出来如何に関わらず客観的に、しかもうそ臭くなく表現しなければならないのだ。では、具体的にはどうあるべきなのか。漫画ではあるが心情表現が突出して成功したものを紹介したい。「美味しんぼ」11巻に収録されている「真夏の氷」という話である。以下、簡単なあらすじ。

主人公・山岡士郎と栗田ゆう子は同僚を連れ立ってとあるバーに趣く。そのバーは山岡の馴染みの店で、美味しい水を探すことに心血を注いでおりその厳選された水で作った水割りは言いも知れぬ味を醸し出すのであった。一同は大満足するがマスターの顔がさえない。聞くと、なんとこの店を今日いっぱいで閉めるというのだ。地下水の汚染などによって良い水を手に入れるのが難しくなったのが原因で、最早美味しい水割りを出すことが出来なくなったのだ。閉店祝いにと大切にとっておいた南極の氷をとかした水で酒を作り、乾杯する一同。店を出た後、同僚の1人が「楽しい思いをしたのか悲しい思いをしたのか解らない」と呟く。しかし栗田は決然と「いいえ、私は楽しい思いをしたと思います」と言い放つのであった。

長年水の素晴らしさを身を持って呈し続けた店の閉店だから事象そのものは悲しいことである。しかし栗田は「楽しかった」と述懐する。悲しいことをあえて「楽しかった」と表現することで物語の悲劇性がより一層あぶり出されてくる。栗田は本当に楽しい思いをしたのかもしれない。だが、楽しさと悲しさの間で栗田の心が激しく振幅しているのは明らかである。ここでの栗田の感情は簡単に説明して断ずることが出来ない。心理のひだに多面な感情が見え隠れして何とも言えない味わいを残す。セリフに情感がこもって出色の余韻たなびくラストシーンになっている。そして作品解釈の多層性を見事に生み出すことに成功している。

転じて、昨今のドラマはどうか。大体にして、セリフに想像力を働かす余地がないものが多いように思われる。それは話を分かりやすくする、という点では意味を為しえているが、一方で作品の深みや多元性を創り出すことは出来ない。あるいは思っていることを全てセリフにしてしまったり、ナレーションであからさまに心情を説明してしまう稚拙な作品もよく目立つ。登場人物の感情から行動、所作・挙動まで全てセリフ・ナレーションで処理してしまう橋田寿賀子の晩歌「渡る世間は鬼ばかり」などがこれに当てはまる。商業的締め付けの多いTVドラマ業界では高望みすることは出来ないのかもしれないが、それでもぎりぎりのところで作家はもっと奮闘するべきである。衰退著しいドラマ界が再び活力を取り戻すためにはこれ以外に方法はないはずである。

今日は午後に山田太一の新作ドラマが放映されたのでビデオに録画しておいた。山田のシナリオはとっかかりの発想の妙と議論的セリフの応酬が魅力である。今の脚本家とは違う、「本格派」の味わい深いセリフを楽しみにしつつ、今日は眠りに就きたい。


2002年10月25日(金) 「ドコカノ町」発「八墓村」行き

「ミンキーモモ」最近忙しくて視聴が滞っていたんですけど、今日やっと「お願いサンタクロース」を観ることが出来ました。いい話でしたねえ。サンタクロースにまつわる「良い話」って世の中にごまんとあるけれど、この話はその中でもトップクラスに入る出来なんじゃないかと個人的に思っています。「クリスマス・キャロル」の次に好きかな、わしは(しかしエライ作品を引き合いに出しちゃったな、ちょっとハンセー)。心が透き通るような、やさしいやさしい物語でした。

次のお話は今回とはガラリと変わって、キューブリック監督作品「博士の異常な愛情」のパロディ「間違いだらけの大作戦」がいよいよ放送されるそうです。「モモ」のことだから物凄く荒唐無稽なドタバタストーリーになるのかな?楽しみでござるな、ニンニン。

・・・でもなあ、この後がなあ。ホントにね、観るのつらそうなんですよ。ちょっと身構えすぎなのかな。でもやっぱり観るの忍びないよ。「モモ」を語るに当たって避けては通れないポイントだから観ないわけにはいかないし・・・・直前までこんなに良い話やっているのにねえ。

そんな思いに浸りながらビデオテープを廻していると、何やら時代がかった映像が出てきました。「何じゃコリャ」とさらに早送りすると世にも恐ろしい落ち武者の姿が・・・ぎゃああ〜!!!こっ、これは野村芳太郎監督の「八墓村」やんけ!うわぁ〜怖すぎるよこれ。気持ち悪いシーンが次から次と・・・もう嫌、直視出来ません。特に小川真由美と山崎努が格別に怖い。演技に狂気が迸ってるよ。特殊効果も気色悪いことこの上ないし、老婆の顔を見た日にゃあ・・・ダメだ、明らかにわしの守備範囲から外れています。じゃあ何でビデオにまで撮っておいたかというと、金田一耕助を演じているのが渥美清だからです(納得)。不評も多いようですが渥美・金田一、結構いいですよ。味があってね、これは彼にしか出せない魅力ですね。ラストの種明かしの語り口など、実に絶妙。金田一は喋りが流暢な人じゃないとやっぱりダメですね。何年か前にこの作品がリメイクされましたが、肝心の金田一が、ええとなんて言うんだっけ、豊川なんちゃらって人だったと思うんですけど、なんかボソボソっとした口調で誠によろしくありませんでしたね。

しっかし、ミンキーモモみて暖か〜い気持ちになった直後にこの作品が出てくるなんて落差が激しすぎます。もうちょっと配慮してくれればいいのに。折角の余韻が一気に吹き飛んじゃいましたよ(おみゃあがとったんだろーが!)。


2002年10月23日(水) 夢のマジカル

だーれかさんが、だーれかさんが、だーれかさんが言いました♪

「夢は見るものではなくて叶えるものだ」

でもねでもね、私、それは違うと思うんです。確かに願った夢が叶えられたらそれが一番素晴らしいことなんでしょうけど、そうはゆかない人の方が圧倒的に多いのが実情です。夢と現実とのギャップを前にして独り打ちひしがれている人も多いでしょう。叶えないと満足できないんだったら世の中は不幸な人ばかりです。こういった人たちは「人生の負け組」とされてしまうのでしょうか。

私の大好きな作曲家・山本正之の歌に「少年の夢は生きている」というものがあります。♪中日ドラゴンズの江藤慎一が・・・というフレーズで始まるこの名曲は少年時代に見た夢、捧げた情熱はいくつになっても心に残っている、というメッセージが込められています。「夢は不滅だ」と高らかに宣言しているのです。

私は「夢」のことをこの曲の「夢」と同質に捉えています。夢は叶えるためだけにあるんじゃない。例え叶えられなくても、昔見た夢は一生消えることなくその人の心を温めてくれる。その夢から得た素晴らしき思いを今日の活力に代えて生きてゆくことが出来たら、それはそれで幸せではないか。そう思えば、夢は持つだけでも意義があることが解る。夢を持つことによって現実が一層の輝きを増して見えてくるのだ。一番残念なのは夢を見ることすら出来ない人、夢を簡単に捨ててしまう人だろう。夢をあきらめるのは意外と楽に出来る。持ち続けているほうがはるかにつらい。そんな思いをしてでも夢は持つ価値がある。夢に立ち向かっていってダメだったのならそれでいい。動かずして終わるより、勝負して敗れたほうがずっと健全なのである。叶う・叶わないに関わらず、その時に傾けた情熱は後の人生においてきっとかけがえのない財産になるはずだ。

いくら白々しいと疎まれても私は迷わず言い続けたい。「夢は持ち続けるものだ」と。人々に無限のエネルギーを与え、生きる糧となり、今日も粛々と希望の彼方、生き生きとした生の躍動をはぐぐませる、たかが夢、されど夢なのである。


2002年10月21日(月) 野を分けて飛びも飛んだり球の跡

今年のプロ野球も全日程が終了した。我が愛すべき中日ドラゴンズは残念ながら優勝することが出来なかったが、個人的には結構楽しめたシーズンであった。福留・川上・朝倉ら若手の台頭、立浪の踏ん張り、新加入・谷繁の大活躍、などなど収穫も多かった。なにより嬉しかったのは監督が代わったことである。思えば私は前監督の粘着固執型イライラ野球に長らく辟易としていたのだった。去年の暮れ、かの男が中日を去り阪神の指揮を執ることが確定した折には悲しみと憎しみがない交ぜになった複雑な気持ちになったが、いざシーズンが始まると山田新監督の肩肘張らないのびのびとした野球理論に親しみを感じ、前監督のことなどたちまちのうちにどうでもよくなった。就任1年目の上、けが人や不調者続出の今シーズンを3位で終えることが出来たのだから山田さんは結構名監督になるかもしれない。今後に多いに期待したいものである。

タイトル争いを巡る醜聞は、これは賛否両論あって仕方ないし、また然るべきである、と私は考えている。福留が最終数試合に打席に立たずして首位打者のタイトルを獲ったことは「タイトルを獲るための当然の措置」と称えられても「最後まで正々堂々と勝負しなかった卑怯者」と貶されてもおかしくはないだろう。複雑な要因が絡んでいる以上、どちらかの意見に断じられるべきではない。因みに私は無論中日ファンであるから、福留がタイトルを獲得したこと自体については嬉しい事に間違いないが、一方で巨人・松井の三冠王獲得という快挙を肉眼で見てみたかったという気持ちもあるのも確かなのである。とにかく球史には「2002年度 首位打者・福留孝介」の事実が残る。福留はこの名誉ある賞に胸を張っていいし、あるいは非難されたとしても仕方がない。野球のタイトルとはもとよりこのような性質を持ったものなのである。

また中日以外のことに目を向けると、やはりホームランを55本打った西武・カブレラのところにゆきつく。しかしこれは良い意味ではない。私はこの記録を快く思っていない人間である。と言うのも、今回の記録はカブレラが凄いというよりはパリーグのピッチャーがふがいないだけだからだと考えているからである。私が見る限り、カブレラのホームランはひたすらに力任せであって「技」の要素がない。1998年の米・大リーグでホームラン新記録を作ったマグワイアに酷似していると思う。すなわちバッティングの穴はいくらでもあるのに投手がそこを上手くつけなかっただけのように思えるのである。一方、去年55本のホームランを打った近鉄・ローズは「力」と「技」を兼ねそえている印象があり、こちらは同じく98年のサミー・ソーサを彷彿とさせる。記録が破られるとしたならば、ローズのような選手にやって欲しかったから、今回また55本止まりだったのは割合幸いであったと言えよう。

もう少しすれば日本シリーズが始まる。それが終われば今度は白熱のストーブリーグが待っている。FA選手はどう動くか、ドラフトはいかような展開を見せるか。DREAM・AGAIN、テスト入団選手はどうなのか、はたまた監督人事は、などなど話題が尽きることはない。野球ファンであることを幸せに思いつつ、新たなプレイボールの幕が下りることを心待ちにしたい。


2002年10月19日(土) ダメな奴の横顔

人生に真剣に立ち向かっているか、と問われれば残念ながら「NO」と答えざるをえない。今まで生きてきた姿勢の中に、逃げ腰の要素があることを否定できないのだ。そんな自分に嫌気がさし、何度かガップリ四つに組んでの大立ち回りを演じたこともあるが、喉もと過ぎればなんとやら、時を隔てれば結局もとの木阿弥である。人は簡単に成長することはできない。私は今を持って受動の世界に生きる人間である。我が身の情けなさを痛感している。

何も肩肘張って生きることを望んでいるわけではない。青春時代にありがちな、物事を誇大に解釈して必要以上に悩んでいるわけでもない。私は石橋を叩いて安全であることを確かめてもなお渡らない性格であり、それで今まで何遍も苦い思いをしてきた。退いてしまった後の空虚感を知っているのに、それでも前に出ることが出来ない。「案ずるより産むが安し」の諺も空しく響き、頭の中でごちゃごちゃと思案の虫。ウジウジとして突き抜けたものがなく、尻込みしてそして結局は後悔する。極めつけの小心者なのである。

さらに付け加えると、私は怠惰の塊でもある。今日やるべきことを明日に廻す。とりあえず今日の闘いから逃げられればそれでいい。明日のことは明日考えよう、ケセラセラでいいじゃないか、と信じて憚らない。無論、ケセラセラ(なるようになる)は悪いことではないのは承知しているが私がこのフレーズをを思い浮かべる時は字面よりももっと消極的な意味としてのものである。言葉を安易に飲み込んで依拠しているというか、言葉を盾に自己擁護してしまう。問題を先送りし、目先の楽しみに興じる。さながら「アリとキリギリス」のキリギリス野郎である。いつか痛烈なしっぺ返しが待っているのは間違いないだろう。その日が来るのも、ひょっとしたら遠くない話かもしれない。

次に何か「前に出るべき時」が来たら今度は正々堂々受けて立ってみよう。そうだ、今度こそそうしよう―そう思っている時点で既にダメである。「今度」は向こうからやって来るものではない。自分で創りあげなければならないのだ。果たして私にそんな能動的なことが出来るのか。それこそやってみなければ分からないが、多分今のままでは無理であろう。生半可な気持ちでは火中に栗は拾いに行けない。それなりの覚悟なり度胸なりが必要である。まずはここから始めなければいけない。だが逆に言えば、この気持ちさえ持つことが出来たら人生の荒波にもまれることがあっても立派に生き抜くことが出来るだろう。格好をつけるつもりはないが、それこそ人生を謳歌する唯一の手段なのに相違はないだろう。肝の据わった人間になる、そう決意してやまない秋の夜長である。


2002年10月18日(金) 週末燃料切れ男

アニメ思い出館もとうとうネタ切れの様相を呈してきました。いや、ストックはまだ少しあるのですが・・・ワタクシ、兼ねてよりアニメファンを自認しておりますが、内容を底辺まで熟知しスルメを食べるが如く味がなくなるまで噛みきった作品は意外と少ないのです。あとは適当な態度で観ていたか、知識として知っているだけ、なんて代物が実に多いです。文句を言いたい作品なら数多くあるんですけど、ここで紹介するのは私が好きなものにしたいですからね。そうするとおのずと数が限られてきてしまう訳です。ま、アニメ番組ばっか見ているのもなんか嫌だし、これはこれでよいと個人的に思っております。とは言えこの企画、結構気に入っているのでおいそれとやめたくないんですよ(このテマエガッテヤローめ!)。普通に観ていた作品なら沢山あります。いまだ紹介していない大好きな作品は別として、こういう種類の作品は記憶の片隅にある断片にメスを入れながら、自前の資料を駆使して何とかやりくりしたいと思います。次回は魔神英雄伝ワタルを取り上げようかなと考えております(この作品はちゃんと観ていたものです)。あと、もうちょっとしたらミンキーモモも書けるようになるかもしれません。現在BSで見ている真っ最中なのでなんとも言えませんが。

あ、そのミンキーモモですが、ついに話が暗くなってきました。いよいよ「あの」衝撃的な第一部ラストに向けての心構えをしなければならない時が来たようです。ああ、なんかやだなあ。最初はあんなに明るい番組だったのに、そんな幕の引きかただなんてちょっと信じたくないです。やっぱり先に結末を知っちゃっているとつらいなあ。

今週のびっくりどっきりシチュエーション!
なんとCBCアナウンサーの多田しげおを見かけてしまった。羨ましいだろ〜!場所は当然ヒミツ。最初はただのそっくりさんだと思っとったんだけど、多田さんである動かぬ証拠を見つけてしまったので間違いない。芸能人を生で見たのこれで何度目かなあ。これまで見たのは武田鉄矢とか江戸屋子猫とか、それに斉藤裕子、安西ひろこ、雨上がり決死隊といった面々ぐらいかなあ。あ、多田さんは別に芸能人じゃないか。とにかく、ちょっと得した気分になってしまったミーハー繁久なのでした。


2002年10月17日(木) 誤読屈辱てんまつ記

昨日のことである。民俗学の授業中、先生に指示されて文章を数行音読することになった。私は詩などを朗読をするのが結構好きなので、今回も調子に乗って抑揚をたっぷりつけていい気になっていたが「悪漢(ゴロツキ)」を「あくかん」と読んですぐさま情けない馬脚をあらわしてしまった。先生は思わず苦笑い。私は顔をゆで上がったタコの如く赤くして虫のように黙りこくってしまった。顔の赤みは授業が終わるまで引くことはなかった。

私が読み間違いをやらかしたのは何も今回に限ったことではない。小学校の5年生の時には「厚生省」を「あっせいしょう」と読んで担任の先生に大笑いされた。中学の漢字テストでは「血眼」を「けつがん」と書いて大ペケをくらった。「怪我」を「かいが」と読んでクラス中を笑いの渦に巻き込んだこともある。緊迫した授業が一瞬にしてに和らぐのだから他の人からすれば愉快なことなのかもしれないが、当人は劣等感に似た感情を植え付けられた気分になってすっかり落ち込んでしまう。

このように文字の読み間違いは大変恥ずかしいことである。だが、私たち素人が間違えたところで大勢に影響することはまずないからまだかわいいほうではある(自分で言うのもなんだが)。しかし文章を読むことにおいてはプロであるはずのニュースキャスターでもとんでもない読み間違いを犯すときがある。ニュースは正確性が重要なのだから滅多なことでは間違いは許されない。にもかかわらず、注意深く耳を傾けていると文章や言葉を誤読しているアナウンサーがかなり多いことに気づく。

特に地名にまつわる間違いが多いようだ。大分昔の話であるが、ある女性キャスターが五街道のひとつ「旧中山道(きゅう・なかせんどう)」を「いちにちぢゅうやまみち」と読んだのを聞いて大爆笑してしまったことがある。「旧」を「1・日」と分けて読んでしまう強引さが凄い。しかもこのキャスターは読んだあともシラっとして悪びれる素振りも見せなかった。読み間違いのマヌケさとのギャップがまた可笑しさを誘った。こんな面白い間違い方をする人はそうそういないだろう。ただ、これは特殊な地名であるし、知名度としてもやや低いのでまだ許そうという気も起こる。しかしこれよりもはるかに有名な地名でさえ信じられない間違い方をする人もいるから困ったものである。確か日本テレビの番組であったと思うが、ある日スポーツニュースの中で近鉄バッファローズの中村紀洋選手のことを「浪速のホームラン王」とテロップつきで紹介していた。だが、担当したアナウンサーはこのフレーズを「ろうそくのホームラン王」と読んだ。「浪速」すら読めない人がアナウンサーをしていてよいのだろうか。「浪速」は大阪の有名な区のひとつだから「旧中山道」を間違えたのとは訳が違う。言うまでもなく、一瞬のうちに私の心のなかで日本テレビの株が暴落してしまった。

もし文章を読んでいるときに見慣れぬ単語を目にしたら、近くにいる誰彼に構わず読み方を聞いたほうがいい。独り善がりの推測で高をくくって、挙句公けの場で読み間違えるよりは何倍もましである。辞書では調べようがないから家族や友達にそういう道に明るい人がいると大変助かる。私の場合、父が結構な読書家であるのが幸いしている。もし父に知らない言葉の読み方を聞いていなかったら、私が恥をかく回数はもっと増えていただろう。ともあれ、人前で惨めな思いをしたくないのならある程度の苦労は覚悟せねばならない。時には涙ぐましい努力も必要なのである。


2002年10月15日(火) アニメ思い出館 第5回 「劇場版 DRAGON BALL 神龍の伝説」 後編

「DRAGON BALL 神龍の伝説」紹介記事の後編です。前回では個人的に好きなシーンを書き上げるところまで終えました。今回はそのシーンの感想からです。前回を読んでない方はお読みくださることをお勧めします。

シーン解析
緊張と解放が交互に奏でられ見事な高揚感を醸し出すことに成功している。ブルマとパスタの対決がこのシーンのメインであるが、両者の対比によってキャラクター性がはっきりとにじみ出てくるから流石である。音楽もそれ行け調で作品を元気付けている。また、このシーンは開巻当初に存在する「映画と観客との溝」を埋め合わせて映画に没入させるきっかけを作ったという点でも重要である。事実、私はこれ以降の展開にぐいぐいと引き寄せられる印象を受けた。それだけこのシーンには吸引性が高い。この”つかみ”の演出しだいで映画の出来はいかようにも変わる。そして本作ではそれが格別に功を奏したのである。

キャスト
まずはTV版にも登場するレギュラーキャラから紹介したい。
主役・孫悟空を演じたのは大ベテランにして少年声の雄・野沢雅子である。悟空の声は野沢氏以外に考えられないだろう。元気があって、素直で、巧まざる茶目っ気も持っている悟空は彼女にしか表現できない。最早言動無用、不世出の名声優である。
ブルマは独特な声を持っているにもかかわらず、ドキンちゃんから美神まで幅広くこなす鶴ひろみが演じた。そのおきゃんで可愛らしい魅力を存分に発揮している。TVシリーズは実に何十年もの歳月をかけた物語であり、その中で当然ブルマも少女から落ち着いた中年の女性へと年輪を重ねてゆくのだがその各時代のブルマを見事に演じ分けていたのが印象的である。

ヤムチャ役は古谷徹。「巨人の星」での力んだ演技から抜け出て2枚目半的なヤムチャを的確に演じている。余談だが扱いが次第に哀れなものになってゆくヤムチャにとって本作は唯一のかっこいいシーンが拝める作品として貴重である。
亀仙人の宮内幸平もまた大ベテランである。「ハイジ」のおんじや「一休さん」の和尚様のような威厳がある役と今回のような役のギャップが凄まじい。声質で演じ分けているのではなく、円熟味溢れる演技によっての演じ分けである。まさしくお見事の一言。

そして忘れてはならないのがナレーションの八奈見乗児である。本作では冒頭にしか出番がないがそれでもおどろおどろしい語り口で強烈な存在感を出している。本来ナレーションは作品世界を邪魔しないような語りが要求されるが八奈見氏の前においてはそんな不文律も通用しない。いや、そもそもナレーターとして成功している人は強力な個性を出しつつも映像と一体化して作品をよりレベルの高いものに昇華させてしまうものなのだ。「タイムボカンシリーズ」の富山敬然り、「ちびまる子ちゃん」のキートン山田然り、である。八奈見氏の声もこの両者に負けず劣らずの力量で「DRAGON BALL」の世界観を立脚する最重要ファクターを構成していたのに間違いないのである。

つづいてゲストキャラ。
パスタはこのコラムではおなじみの小山茉美である。今回の役どころはグルメス王をそそのかして巨万の富を得ようとする冷酷な女性、というものなのだがアラレちゃんともレミー島田とも全く違うこの役をまたしてもしっかり演じきっている。その上手さにただただ感服するのみである。ポンゴ役は納谷悟郎氏。銭形警部でありショッカー首領であり、そして沖田十三である。持ち前の力強い声を全面に出してポンゴを好演している。そしてグルメス王はなんと森山周一郎が担当している。「刑事コジャック」のテリー・サバラスやジャン・ギャバンの吹き替えで知られた低音部から響いてくるような声の凄みをここでもたっぷりと堪能することができる。それにしても、レギュラー声優だけでも文句なしに豪華なのに、森山氏をゲストに招き入れるほどの余裕があるとはなんと贅沢な作品であろうか。このほかにも飯塚昭三もゲスト出演しており「DRAGON BALL」の製作資金の潤沢さを物語っている。

「DRAGON BALL 神龍の伝説」は映画版の記念すべき第1作ということ以外にも沢山の見どころがある作品である。アニメーションの本来あるべき姿の「胸躍る楽しさ」を追求した点でも評価の高い一作と言えるだろう。<第5回 後編 終わり>


2002年10月14日(月) アニメ思い出館 第5回 「劇場版 DRAGON BALL 神龍の伝説」 前編

今回は少し趣向を変えてドラゴンボールの劇場版第1作「神龍の伝説」について語ってみたいと思います。TV版を取り上げないのは話が広くなりすぎるのを回避するためです。何しろ12年も継続したシリーズなので総論として取り扱うには規模が多すぎます。TV版のほうはまた機会があったら改めて取り組んでみたいと思います。なお、今回は書いているうちに長くなりすぎたので2回に分けて紹介することをご了承ください。

簡単あらすじ
昔々のこと。とある山奥に住む少年・孫悟空は都からやってきた少女ブルマと出会う。ブルマは七つ集めるとどんな願いでもひとつだけかなえてくれるというドラゴンボールを探しているのだ。孫悟空の祖父の形見がまさにそのひとつだという。早速ドラゴンボール探しの旅に出ようとする2人であったが、辺境の地に住む暴王・グルメスもまたドラゴンボールを狙っているのであった。

個人的解説
鳥山明原作の大ヒット漫画を映画化。 今作はその記念すべき第1作である。これ以降「DRAGON BALL」の映画は約10年にわたって総計17本作られた。プログラム・ピクチャーでありながらも安定した観客動員を見込める人気作として長らく映画界に君臨することになる。

本作は原作漫画でいうところの孫悟空とブルマの出会いから、初めて神龍が登場するまでをまとめた作品である。となるとTVアニメ版の焼き直しのように思えるが、時間的制約の多さゆえ間延びした演出が多いTV版と違って物語のテンポが良くスピーディーに展開してゆくのが特色のひとつである。また原作には登場しないオリジナルキャラやサブストーリーが挿入されており、新鮮な驚きをもって画面に臨むことができる。

今回は全体的な概論を話すのをやめ、心に残るシーンを挙げることでそれに代えたいと思う。次に紹介するのは孫悟空の家に奉られてあったドラゴンボールを奪ったパスタ・ポンゴと、それを取り戻さんとするブルマが追撃戦を展開するシーンである。
以下、画面からセリフを再録しシナリオ形式で紹介することにする。

○場面・空中

ブルマたちを乗せた飛行機がパスタたちの飛行機を捉える。やがて両機が並ぶ。ブルマ、親指を下に向けるジェスチャア

ブルマ「降りなさ―い。ドラゴンボールを返せ!」
悟空「(金貨を手にして)これ返すからさあ」

それを見ているパスタとポンゴ、余裕の表情。

ボンゴ「へへっ、何か言ってやがるぜパスタ。返事してやったらどうだ?」
パスタ「そうね。折角お代払ってあげたのに、欲の深い人達・・・」

パスタ、銃火器用の操縦席に移動し、ケージを開けてブルマ機に照準を定め狙撃する。あわてふためくブルマと悟空。やがて右翼に直撃し、バランスを崩して降下する。

ブルマ「よ〜し、そっちがその気なら!」

ブルマ機、水面をかすめながらもバーニアを最大噴射してパスタ機に急速接近する。軽快なテーマ。

ブルマ「いっくわよ!」

ブルマ機、機銃を発射、パスタ機のコックピットを攻撃する。ボンゴ、頭を抑えて避ける。その横を銃弾がかすめ、メイン・コックピットが損壊する。さらに右翼にも直撃しパスタ機は降下する。

ブルマ「ヌハハハハ・・・」

あまりに事が上手く運んで興奮するブルマ。

パスタ「大丈夫?」
ボンゴ「ドラゴンレーダーが・・・!」
パスタ「なかなかやるじゃない」

ブルマ「さあ、とどめよ!」

ブルマ、もう一度パスタ機に接近する。
パスタ、操縦席からでて安全用のチェーンを取り付けた後、バズーカ砲を構え照準をセットする。

パスタ「調子に乗るんじゃないわよ!!」

パスタ、ホーミング弾を発射する。
ブルマ機、間一髪避ける。

ブルマ「今だ!」

だがミサイルがもどってきてブルマ機に直撃し爆発四散する。
パスタ、その光景を見ながらバラの花を手に添え、香りを楽しんでいる。

パスタ「(陶酔したような声で)フフフ・・・欲張りは危険なのよ・・・」

パスタ、バラの花を放り、空中に散華させる。
ブルマと悟空、まっさかさまに落ちてゆく・・・

<第5回 前編 終わり、後編に続く>


2002年10月13日(日) アニメソング阿鼻叫喚 ドラえもん編

さて、アニメソング紹介の第二弾です。今回はドラえもんを取り上げようと前々から決めておりました。先日書いたようにTV版ドラえもんのOP・EDの改悪に対して抗議の意を表したいからです。思うにまかせて書いてみることにしましょう。

○ドラえもんの歌
作詞/楠部工 作・編曲/菊池俊輔 歌/大杉久美子(山野さと子)

説明不要の超有名曲である。ドラえもんを観ない人でも「ドラえもんの歌」は知っているという人も多いだろう。曲の認知度の高さではサザエさんと双璧だと思われる。

まずイントロからしてハッとさせられる。なんと形容すべきか解らない雰囲気、明確なるイメージがわきにくい不思議な印象を感じる。そして太鼓かドラムか知らないが(音楽の知識がなくて申し訳ない)「ドンドン」とやって本題へと入ってゆくのだが私はかねてよりこの「ドンドン」が気になって仕様がなかった。「ドンドン」には掴みどころないイントロを収束する感じが見受けられ、なんとも歯切れよい。細かいところではあるが、かなり好きなポイントである。

歌詞の方はとても基本形である。ドラえもんがかなえてくれる夢、希望に対して最大級の賛辞を表すという形式。オーソドックスであるが素直な感じがよい。
歌手は山野さと子さんのハキハキとした歌い方もいいが個人的にはやはり初代・大杉久美子さんの素朴さが大好きである。大杉さんの歌唱は歌詞の世界観と寸分違わぬことなく合致し、完璧に符合している。表現力の上手さが本当に感じ取れる。素朴な歌い方の偉大さがひしひしと伝わってくる一瞬である。

この名曲が後年、劇場版で吉川ひなのによって歌われたことに憤慨した人がどれだけいただろうか。キャスティングした人は何を考えているのだろう。ドラえもんが好きなのと、「ドラえもんの歌」が上手く歌えることは全くの別物ではないか。まして今回の改変で現れた謎のグループは一体なんだというのだ。プロデュ―サーはまじめに考えて選出したのか。意図が全く読み取れない。アレンジも最低。こんなものを垂れ流すのはわざわざ作品を貶めているようなものだ。即刻やめてもらいたい。

○ぼくドラえもん
作詞/藤子不二雄(藤子・F・不二雄) 作・編曲/菊池俊輔 歌/大山のぶ代・こおろぎ'73

強烈な勢いが感じ取れる曲である。曲として威勢がよく、元気があり作品を鼓舞している印象がある。なんともリズムよく進んでいき心地よい。これぞギャグアニメの主題歌!といった感じである。(ドラえもんはもともとはギャグ漫画である)

歌詞はほとんどハッタリのようなものであるがこの曲にはそれがふさわしいのであろう。因みについ最近までTVでアレンジ版の「ぼくドラえもん2112」が流れていたが個人的にはオリジナルの方が勢いがあって好きである。

○青い空はポケットさ
作詞/高田ひろお 作・編曲/菊池俊輔 歌/大杉久美子

なんと素直な歌であろうか。そう感じたのも当然、子大杉久美子さんが歌っているのだ。なんと優しい歌い方であろう。汚れなき清らかな歌声とでもいうべきか。

「ぼくたち地球人」にも言えることだがこの曲は完全に性善説の世界というか、人間への嫌悪なき愛情が込められていると思う。歌詞は情景を表現しているだけなのだが、メロディーの麗しさでそのように感じてしまうのだ。くさくさ考えたりせずに生きてごらんなさい、と諭されているような気分になる。もちろん聞いたあとは爽快である。

○丸顔の歌
作詞/高田ひろお 作・編曲/菊池俊輔 歌/大山のぶ代

「ぼくドラえもん」と同じく大山のぶ代が歌っている。この曲についてはよくメロディーはいいけど歌手が音痴だからなどと言って敬遠する人がいるが私はそうは思わない。大山の歌唱は決して上手いとは言えないかもしれないが、極めて曲にあった歌い方をしていると思う。歌は全て美しければ良いというものではない。大山には大山にしか出せない味がちゃんと存在しているのである。

メロディー・歌詞はともに素朴で、郷愁を感じること間違いなし。素直に生きることの大切さを飾らずに表現している。

○ぼくたち地球人 
作詞/みなもとたかし 作・編曲/菊池俊輔 歌/堀江美都子

前にも書いたが全てのドラえもんソングのなかで文句なしに一番好きな曲である。この曲は私が一番熱心にドラえもんを見ていたときに流れていたので思い入れも一入。どこまでも綺麗な旋律、朗らかな歌詞、堀江美都子の伸びやかな歌唱、どれを取っても完璧なまでに流麗で余分なものが全くない。時間的に短い歌だが物足りなさを微塵も感じさせない。聴いているだけで明るい気持ちになれ、明日への活力を湧かせてくれる。まさに見事としか言いようがない。この曲に対してごちゃごちゃ言うこと自体おこがましい気持ちさえしてくる。

余談だが小学校の子ども会で手話教室があったとき、「手話で歌を歌おう」という企画があったのだがその折に素材として使われたのがこの曲であった。こんな小さなエピソードも覚えているほど私はこの曲が大好きなのである。

○心をゆらして
作詞/武田鉄矢 作・編曲/菊池俊輔 うた/岩渕まこと

これは一応番外編ということで。本来この曲は劇場版「のび太の宇宙開拓史」の挿入歌(実質主題歌だが)であるが、大変好評であったためTVシリーズでもここぞという場面に使われることになったといういわくがついているのである。作詞は武田鉄也が担当。この曲に限らず、80年代の劇場版ドラえもんのEDはほとんど武田が受け持っている。歌詞の出だしからして聴衆を引き込む上手さがあり、気がつくと曲の世界観にどっぷり浸かってしまっているということが往々にしてある。流石といえよう。

メロディーがやや感情過多という感じが否めなくもないが、作曲・菊地俊輔の上手いところはその情緒的限界のラインを超えそうで超えないところにある。本曲も曲としての理性がギリギリの線で保たれている。だからこそ名曲として数々の人から讃えられているのである。

○おれはジャイアンさまだ! 
作詞/たてかべ和也 作・編曲/菊池俊輔 歌/たてかべ和也

これもある意味番外編か。この曲はこと知名度という点においては「ドラえもんの歌」に引けを取らないものがある。曲の内容自体も大変インパクトがあり(特に間奏のときに流れる独白「ぬかみそ云々」には笑ってしまう)一度聴いたら忘れられない凄みがある。作詞がジャイアン役のたてかべ氏そのものが担当というのも面白い。


総括
文体で分かると思うが私はドラえもん関係の歌となると、ほとんど手放しで褒めたいぐらいに好きなものばかりである。製作された曲の大半が名曲と呼んで遜色ないものばかりだと思うし、実際数多の人たちがそのように支持してきたはずである。だからこそ、今期の改変の酷さは私にとっては耐えがたいものがある。最早ドラえもんを観ることは滅多にない私が言うのもなんであるが製作側は視聴者のことを考えているのだろうか。「ドラえもん」の世界観を大事にしようとする気持ちがあるのだろうか。私が見る限りそんな思いは微塵にも感じられない。誠に残念な話である。どうか、過去を無碍に扱ったりせずに、そこから得た物を大切にしていって欲しい。親子で見る機会の多い「ドラえもん」ならなおさらのことである。


2002年10月11日(金) 思想を持たないのはいいことかもしれない

みなさんは「○○○○○」という雑誌を知っていますか?(本当は名前を書こうと思ったんだけど諸事情によりやめます)いわゆる社会評論系の本で、たまたま学校の図書館に置いてあったので読んだのですが、なんとも薄気味悪い「ミギ」傾向で私は大っ嫌いであります。

まず「○○○○○」という名前からして非常に扇動的ではありませんか。国民意識を不必要なまでに煽っている感じがしてこの時点で既に事実を冷静に伝えようとする努力を放棄しているように思えます。記事の中身もほとんど独善的で自己内省が感じられず、結局は「日本は正しい」に帰結。内容によってはうなずけなくもない部分もあるにはあるのですが、大半がこの調子なので読む側としては不愉快極まりありません。この気持ち悪さはちょっと他の雑誌では味わうことが出来ないでしょう。

「第2次世界大戦で日本がおこした戦争は侵略行為かどうか」などのような問題は様々な要因が絡んでいるので簡単に答えを出すことはできませんが、この雑誌のようにふんぞり返って「日本は悪くない」といわれると本当に気色悪いです。行過ぎたナショナリズムはともすると極めて危険な方向に傾いてゆく可能性があることを我々は心にとめておくべきでしょう。

やはり「ミギ」にも「ヒダリ」にも問題があると言えます。このような問題に接する時に重要なのは平衡感覚です。これがないと結局はおかしな思想へと進んでしまいます。「私は何某派」などと言わず、状況に応じて柔軟な対応をしたい―この雑誌を読むといつもそう思ってしまいます。


2002年10月10日(木) 遅すぎた訪問者

どこまでも晴れ渡った青い空、吹き抜けるさわやかな風。穏やかな日差しの下、私は旅に出ることに決めたんです。とびっきりにおしゃれして、お庭の小鳥にごあいさつ。ハイヤー呼んで紳士の気分、目指すは心の始発駅。虹まで続く夢列車、線路は続くよどこまでも。たのしいたのしい愛の旅、いざいざ進め、Let's Go!・・・だったらいいんだけど、行き先が矯正歯科じゃあ何もかもがぶち壊し。おまけにインプラント、インレイ、クラウンサイドなんて専門用語言われても、あたしゃ全く意味わからんとですよ。チンプンカンプンな説明に最早お手上げ、give up.ええ〜い、ままよ。もうこうなったらとことん頑張っちゃうノダ!新たな希望に燃えるわしをみた関係者いわく、その心は海よりも深く山よりも高く炎よりも熱いのであった。
あ〜あ、書いてる私もわけわからん。 ま、いっか。


2002年10月09日(水) 月日は百代の過客にして、いきかう人もまた旅人なり

先日、友人から「松本人志が連載している映画批評の中で『千と千尋の神隠し』が0点をつけられていたことについて反論してくれ」というリクエストを頂いたので、お応えしたいと思う。

と言っても実は反論らしい反論はない。松本がつまらないと思ったのも松本にとっては真実であろうし、それについてとやかく言うつもりはない。るる述べてきたように映画の評価などというものは最終的に個人の価値観に帰結してゆくものだと思う。ただ、一般論としての立場からものを言わしていただくと、記事を読む限り松本はアニメーションを愉しむという視点を持っていないのかな、という気はする。千尋の両親が食べ物を貪るシーン、大粒の涙を流しながらおにぎりをほおばるシーン、浴槽からお湯が溢れ出るシーン、そしてハクとともに天駆けるシーンなど、実にみずみずしく流麗に描かれており「超現実」の描写としての冴えはディズニー映画のそれをはるかに上回るクオリティーを持っている。この点だけにおいても劇場に足を運ぶ価値があるといってもあながち間違いではないのだ。

加えて松本はストーリーを子供っぽいと批評していたが「千と千尋の神隠し」は基本的に子供向けの物語なのでそれは仕方のないことだろうと思う。本作品はわがまま、受動的、指示待ち人間で典型的な現代っ子の千尋が家族を捉われたことによっておそらく初めて主体的に行動しようとする奮闘記である。作品の世界観は現実と微妙な線でリンクしていて、それを自分の生活ににオーバーラップさせることで作品の価値を見出すことが出来る。厳しい湯屋の戒律は実社会で生活するための掟に相当するし、名前を奪われるという事象は管理社会における人間の記号化を表している。非常に過酷な状況であるが家族を取り返すためには千尋は働き続けなければいけない。しかし、湯屋で懸命に仕事をこなすにつれ千尋は人と人とのつきあい方、コミュニケーションのとり方を覚えてゆく。転じて生き生きとした人間性を一時的ではあっても回復することに成功したのである。宮崎監督は現代の厭世的な子供達に「もっと社会にたいして真剣に向き合ってみろ」と言いたかったのだろうと推察する。

これらのメッセージをあまり奇をてらうことなく直球で提示して見せたのが本作の骨子である。ここら辺の具合を子供っぽいと断じてしまえばそれまで。私などは精神的にまだ幼いので次第に自律してゆく千尋に対して感情移入し、またエールを送りながら観ていたクチである。しかし人生を自らの腕一本で切り開き、名声を獲得してきた松本には千尋のふがいなさを歯がゆく感じたのかもしれない。あるいは松本が感じた冒頭での「子供をほったらかして食い物をあさる両親」に対してのいらだちが映画全体を俯瞰で見渡す注意力をそいでしまったようにも思える。どちらにせよここまでくると人生観の問題になってくるのでおいそれとは口出しできなくなる。結局のところ個々人が歩んできた道のりによって評価はいかようにも変わってしまう。これは「千―」に限った話ではない。映画も含め全ての芸術はプリズムである。その人が立った位置、のぞきこんだ角度、背負った歴史によって光は千変万化の輝きを放ち、人の心の中で縦横無尽に反射する。今さら私が言うことでもないが、ある人が駄作とこき下ろした作品が別の人にとっては代えがたき価値を持つことがあってもなんらおかしいことはない。逆もまた然りである。だから松本人志の評価は決して間違ってはいない。ただ、映画「千と千尋の神隠し」は日本の興行収益の記録を塗り替え観客に賛否両論、まっぷたつの評価を与えた作品であり、それだけ各人の心に訴えかける「何か」を内包していたことは確かなのであろう。

追伸
今日TBSで放送していた「ダウンタウンセブン」は多少えげつない部分があったにせよダウンタウンらしさが出ていて面白かった。一年前にこの番組が始まったときには大いに期待を寄せたものだが、回を重ねるごとに目も当てられないほど酷い出来になっていって、正直なところ「ダウンタウンももう終わったな」と切実に感じたものであった。だからこそ今回の復権はうれしかったし、私としては素直にエールを送りたいと思っている。


2002年10月08日(火) アニメ思い出館 第4回 「Dr.スランプ アラレちゃん」 の巻

今回で4回目を向かえたこの自己満足評論シリーズ。今回は「Dr.スランプ アラレちゃん」を取り上げたいと思います。因みに今回は「パーマン」とは逆に旧作版の方を中心に語りますのでご承知のほどをお願いします。

簡単あらすじ
ペンギン村に住むスケベな天才科学者・則巻千兵衛(センベエ)博士は一体の完全自立型の女性アンドロイドを作り上げることに成功した。「アラレ」と名づけられたその少女は、しかし博士の思惑とは別にとんでもないパワーと思考回路を持つメチャンコガールになってしまった!キーンと走ればドドンがドン、ガッちゃんをお供に近所の悪ガキ友達木緑あかねや空豆タロウ・ピースケ兄弟と今日も恐怖の「よいこっこ」。アラレちゃんの行くところ、必ず嵐が吹き荒れるのであった。

個人的解説
いわずとしれた鳥山明原作の大人気漫画のアニメ化である。原作付きのアニメは往々にして出典とのイメージが合わず、アニメ単体としては失敗作に終わるケースがままあるが、本作では原作の雰囲気を上手くアニメ的文法に置き換えることでアニメ作品としても成功に帰している。一方、同じ鳥山明原作の「DRAGON BALL」は鳥山の画力が発達しすぎて、アニメスタッフがついていけられなかったきらいがある。漫画のアニメ化はなかなか難しいのである。

話を元に戻そう。アニメ「Dr.スランプ アラレちゃん(以下『アラレ』とする)」はとにかく原作以上に勢いがあり、何物をも寄せ付けぬパワーを内包していた。またアラレ役の小山茉美の熱演や主題歌の大ヒットも手伝って「うる星やつら」と並ぶ80年代初頭の記念牌的作品となった。お腹を抱えて笑うような面白さはないが個性的なキャラクターが集まってワイワイガヤガヤやっているのがなんとも楽しい。お日様やお月様、山や木、果ては建物や小物にまで人格が与えられ、ゴジラやガメラが違和感なく存在する世界の素晴らしさ。明らかにこれまでのアニメとは一線を画している。また少々Hな描写もあるのだが「スケベであってもエロくはない」というさじ加減が絶妙で、総じて健全で家族揃って楽しめるアニメとして定着したのである(それでも、当時「アラレを見るのは禁止」という規律が作られた家庭も多かったそうだが)。

キャスト
先述したように何といってもアラレの小山茉美に尽きる。なんとも可愛らしく、そしてとびっきりバイタリティーに溢れている。あの声はおいそれと常人が出せる代物ではない。小山氏自身も「アラレ」の頃は何度も喉をつぶしてしまったそうだ。まさに役者生命を賭けた「熱演」であった。そしてその演技が認められ「小山氏の声こそアラレブームを牽引した一番の要因である」と言われるほどの名誉を獲得したのであった。
その他でも本当は主人公であるはずの則巻センベエは内海賢二がベテランゆえの味わい深い演技を披露しているし古川登志夫や杉山佳寿子は健康的不良学生をのびのびと演じている。また山吹みどりは洋画のマリリン・モンローの吹き替えで有名な向井真理子が演じ絶対的な存在感を出している。

考察:「アラレ」が支持されたわけ
さて、ここからは何故「アラレ」があれほどまでに受け入れられたのか、ということに関して一歩踏み込んだ考証をしてみたいと思う。原作とアニメをない交ぜにすることをご承知願いたい。

「週刊少年ジャンプ」にアラレが初めて姿を表したのは1980年の1月であった。高度経済成長による栄華の極みとして大阪万国博覧会が開かれ、その後ドルショックやオイルショックを経た激動の70年代は終わりを告げ、先行き不透明、混迷の80年代の幕がいよいよ上がったばかりのことである。時代はまだ明確な方向性を打ち出せていなかった。

そんな時代の趨勢の中、新連載として「Dr.スランプ」は始まった。当時まだ24歳であった鳥山明が創り出した世界はそれまでの漫画界の常識を幾重にも打ち破る革新的なセンスに満ち溢れていた。完全にデフォルメされているのに細部まで徹底的に描き込まれた画法。イラストレーター出身の鳥山だからこそ描くことの出来たワンダーランド。ディズニー風でも手塚風でもない、「鳥山風」がここに確立されたのであった。
そして作品の雰囲気も極めて異彩を放っていた。ドロくさいわけでもなく、かといって洒落込んでいるわけでもない。言うならば乾いた情景。どこまでも陽性でカラリとしている。作品に情緒性の入り込む隙はほとんどない。

結果論ではあるが80年代はこんな漫画の登場を待ち望んでいたのだ。80年代初頭、バブルという狂乱の経済成長に入る前にして人々はただひたすらに「パワー」を渇望していた。そんな折に突然登場したアラレはまさにパワーの塊であった。両手を広げ、意味も無くキーンと走り回るアラレは時代のけん引役にうってつけなのであった。

かくして漫画「Dr.スランプ」は読者から圧倒的な支持を受けることになる。いつからか「アラレブーム」が巻き起こり、それに後押しされる形で一年余りのタイムラグの後にテレビアニメ化を果たすことになる。これがブームをさらに加速させる。視聴率は回を重ねるごとにうなぎのぼりに上昇し、81年年末には最高視聴率37%弱を叩き出す。「んちゃ」を始めとして「キーン」「ばいちゃ」「ほよよ」「うほほーい」「きゃはは」などのいわゆる「アラレ語」をみなが使い、あるいは主題歌「ワイワイワールド」が空前の知名度を得、劇場用アニメの興行収益も上々、東映アニメーションの看板作品として不動の地位を築き上げ、最終放送年数5年というロングヒットアニメとなった。時代は「アラレ」を全面的に支持し、「アラレ」は時代のパワーを作り上げ、そして後押しした。この一見「異様」とも取れる相乗効果によって「アラレ」は視聴者の心に残る永遠性を獲得したのであった。

97年のリメイク作品「ドクタースランプ」が今ひとつ人気を得られなかったのはスタッフ・キャストを一新したことによって生じた違和感もさることながら、やはり「時代」が噛み合わなかったのが一番の理由として挙げられるだろう。バブルの夢はとうの昔に破れ、企業倒産・金融不安・官僚汚職が続発し、さらには消費税が3%から5%に引き上げられ人々は行き場のない不安に包まれていた。最早、新しきパワーを作り上げる意欲すら湧いていなかったのである。時代はアラレの再来を望んでいなかったし、アラレは時代にパワーを与えることが出来なかった。旧作の溢れ出るマグマのような勢いを出すことが出来ぬまま結局小さくまとまった作品として2年弱でブラウン管から姿を消すことになる。このことからも「アラレ」と80年代の並々ならぬ関係性が浮かび上がってくる。

漫画「Dr.スランプ」およびアニメ「Dr.スランプ アラレちゃん」は時代の雰囲気にジャスト・フィットすることで絶大な人気を得た作品である。まだ日本がとどまることのない経済成長を信じていた時代だからこそ受け入れられたワンダーワンドの具現化。まさに桃源郷なのであった。<第4回 終わり>


2002年10月07日(月) 車寅次郎の生活と意見

今日はTV東京で「男はつらいよ」を放送していたのでついつい観てしまいました。そして改めて「やっぱり『こっち派』だな」と痛感してしまいました。自分はこういう人間であると無理にカテゴライズするのも馬鹿馬鹿しい話ですが、それでも向き・不向きはあるもので、映画的嗜好もやっぱり存在するのです。だから逆に「寅さん」が大嫌いで、前衛的な映画が好きな人がいても私は一向に構わないと思っています。

さて今回放送されましたのは第25作、副題を「寅次郎ハイビスカスの花」と言います。マドンナ役が寅さんの最高のパートナーと評された浅岡ルリ子演じる「リリー」なだけあって大変評価の高い一作です。実際映画としての完成度も非常に高いものに仕上がっています。あらすじを簡単にかいつまんで説明してみましょう。寅さんとリリーは異郷の地・沖縄にて3度目の再開を果たし、またしても意気投合します。二人は夫婦同然の生活を始めますがちょっとした気持ちのすれ違いから大げんか。結局寅さんはまたもや振られてしまい、旅に出てしまうのでした・・・と普通の映画、例えば悲恋映画ならばここでポンとエンドマークが入って幕引きとなってもおかしくありません。しかし寅さんは違います。実はここからが真の見どころでもあるのです。ラスト、どこか田舎の山奥のシーンで寅さんはなんとばったりリリーと再会するのです。2人の躍動感の素晴らしさ!この間のギクシャクもどこ吹く風、まるで夫婦漫才の如く朗々とした掛け合いを演じつつ、緑が萌える山中へ賑やかに消えてゆきます。見上げれば雲ひとつない青い空。寅さんの心も同様に晴れ渡り、失恋の痛手からすっかり脱却しています。BGMも主題歌を力強くマーチ調にアレンジして寅さんを応援します。そしてやっと「終」の文字が浮かび上がるのです。

悲しい結末にしようと思えばいくらでも出来ます。しかしあえてそうせず、ジャカジャカジャーンと賑やかに終わらせるところに「男はつらいよ」の真髄があります。男はつらい、けれど心の持ちようをちょっと変えればこんなにも楽しいのだ―これこそ山田洋次が一貫して言いたかったことではないでしょうか。このシリーズは長らくやれマンネリだ、予定調和だと揶揄されてきましたが山田監督は決してめげることはありませんでした。そして大事なのは観客の心を励ますことだ、明日への希望の気持ちを湧かせることだ、という思いを強く持つことで先ほどの鮮やかなラストシ―ンを作り出すことに成功したのです。この思いは受け手にもしっかりと伝わりました。劇場を出た観客の心は清々しく澄み切って「よし、今日からまた頑張ろう!」との決意を新たにし、また日常との格闘に戻る意欲が湧いてくるのです。

ハッピーエンドではないがバッドエンドでもない、言わば「準ハッピーエンド」という表現が最もあてはまるこのラストシーンこそ私が寅さんを支持する一番の理由なのです。


2002年10月06日(日) Generation Gap

昨日、わしとしては珍しく2本も外画を観てしまいました。と言ってもこれには訳があるのですが・・・まあいいじゃないですか、とっかかりの理由が何であっても。聞くだけ野暮ってもんですよ(だれもきいとらんわアホ―)。

それでそれで、観た作品と言うのは「アメリカンビューティー」と「マトリックス」なんです。「アメリカン〜」はレンタルして、「マトリックス」はTVで放送していたのを観ました。

「アメリカン〜」は救いようのない、後味の悪さだけが残りましたね。確かにシニカルで良く出来ているんですけど、そこにユーモアもペーソスもないのでちょっと受け入れにくいって感じでした。わしとしてはやっぱり映画というものは観たあとに気分が良くなるものじゃないといけないと思うのです。その点この映画は落第でした。あと最近のアメリカ映画は「性の描写」をどうしてえげつなく、そして気持ち悪く描くんだろうという疑問が残りました。「アメリカン〜」もご多分に漏れておらず、冒頭のシャワーシーンからして大変気色悪いです。その後も卑猥でいやらしいシーンや言葉が連発。あまりのことに、途中で気絶しそうになりました。わしの感覚ではちょっとついていけません。

「マトリックス」の方は実はそんなに真剣にみていたわけじゃありませんがなんとも捉えどころのない映画だという感想を持ちました。映像美の極致ではありましたね。スローモーションとか錯綜感を多用して。ストーリーにはあれこれ言えませんが映像的な美しさでかなり楽しめたという感じでした。

でも、わしの好きな外画というと「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」のようなミュージカルを始めとする総じて50〜60年代の作品群、あるいは「猿の惑星」などのSF作品、そしてチャップリンの無声映画(コメディ・シリアス問わず)なので、ちょっと最近の作品にはついていけないって気はしますね。要するに肌が合わないんです。CGなんか使われても戸惑っちゃうし。特撮も基本的にはミニチュアとか操演の方が好きですね。どうもわしは手作りの味が好きな人間のようです。

とすると、わしが今回観た2作品に感じた「違和感」は映画自体に責任があるわけではないことになります。わしは感性が古いですからね。いかに最近の「色」と断絶しているかわかります。ともあれ、古い作品への賛辞をあらためて感じさせるという意味では、今回の経験は無駄ではなかったと思っています。


2002年10月05日(土) 思いがけない展開

ちょっと 奥さん 観たぁ? 今日のドラえもん祭り。 な・な・なんと「パーマン」が映画で復活とか言っちゃってんのよ唐突に!私なんかつい先日「パーマン」についてここで評論を書いたばっかりだというのによ!急に見覚えのある青いマスクを被った少年が出てきたから「何よこれ、ひょっとして楽屋オチ?最近こればっかりだなあハハハ・・」とか思ってたんだけどどうやら違うみたいなのよ〜!なんかBGMで「きてよパーマン」が流れてるし(しかもほぼフルサイズ)。一体、ど・う・い・う・こ・と・な・の・よ〜!!嬉しすぎるじゃない!

誰が製作するっていうのよ(やっぱりこの口調には無理があるな)と思ってたら、さすがにそこまでの言及はなし。監督は笹川さんかしら。ひょっとして音楽はたかしまさん?それとさあ、声優陣は基本的に変えないで欲しいわ。せめてパーマン4人+バードマンは83年版と同じで言って欲しい、絶対に。シチョーシャは完璧なものを待っているのよ!

でも期待が大きい分、イメージと違ってたら嫌だわという不安もあるわけよ、実際。何しろあの頃とは時代も違うわけじゃない?これで大コケしたらなんて思うと背筋が絶対零度の世界に行ってしまうわ。幼い日の私達をあんなに楽しませてくれた「パーマン」ですもの。どうか邪険に扱うことだけはしないで頂戴ね。お願い!

色々言っているけど、ものすごく楽しみなのは事実なのよ。浮かれちゃってもいるわ。今にでも歌いたくなるくらい。パッパッパッパッパーマンはそこにいる〜♪・・・はっ!舞い上がりすぎていたわ。もうちょっと地に足つけなきゃね。とにかく、いい作品を作って欲しい。それだけが願いだわ。それにしても昨日、今日と藤子アニメにさんざん振り回されちゃったわね。


2002年10月04日(金) 今世紀最大のショックになると思うんですよ

ちょっと 奥さん 観たぁ? 今日のドラえもん。 な・な・なんとOPとEDが変わっちゃってんのよ唐突に!私なんか本編観る前から「ホンワカパッパ♪ ホンワカパッパ♪ ドゥラえっもん〜♪」て歌う準備してたのによ!急にわけのわからない曲が流れてきて「何よこれ、ひょっとして放送事故?いやあ久しぶりだなあハハハ・・」とか思ってたんだけどどうやら違うみたいなのよ〜!なんかみんなで変なダンスしてるし。一体、ど・う・い・う・こ・と・な・の・よ〜!!

誰が歌ってやがるのよ(この口調には無理があるな)と思ってたら、OPは判読不明な変なグループ。何よあの社員ソングみたいなのは!ひょっとして本当にシンエイ動画の社員が歌っているんじゃないの?というぐらい酷いわ。それにさあ、アホみたいなアレンジまでしちゃってるしさあ、おかしいわよホントに。シチョーシャを冒涜してるわ!あんなの絶対認められないわ!山野さと子さんのに戻して!欲を言うなら大杉久美子さんのにして!お願い!

EDのほうもフォ―クみたいでさあ、なんか全然あってないわけよ、「ドラえもん」の世界観に。「ゆず」ってグループなんだって。茶碗蒸しの香り付けじゃないんだからさあ、もうちょっと考えてよ。安っぽい理想主義者の歌になっちゃってるわよ。イメージぶち壊しだわよホントに。こっちも戻して!できればマイ・ベスト・ドラえもんソング「ぼくたち地球人」に。頼みますよ!

今回のことってさあ、結局「ドラえもん」にまで大手レコード会社の侵食が始まったってこと?そんなの絶対嫌よ嫌よ嫌よ〜!!信じられない!悪夢としか言いようがないわ!こんなことしてたら「ドラえもん」は確実に衰退していくわよ。シチョーシャも離れていくわよ。藤子先生もきっと泣いてると思うわ。そんな悲しいことってないじゃない!真剣に、元に戻すことを要求するわ。早急にね!


2002年10月02日(水) アニメソング乾坤一擲 タイムボカンシリーズ編

今回はアニメを彩る重要なファクターである歌について私見を述べたいと思います。とは言っても私には音楽的素養など全くないし、楽器名その他の諸知識も欠落しているので聴いたまま、感じたままのことしか書けません。従って極めて印象批評風になってしまいますが(これに限ったことでなく、私にはいつもその傾向がありますけれども)その辺はご勘弁ください・・・な〜んて殊勝なことを言っているけど、要は知っているアニメ・ソングについてあれこれウンチクを垂れたいだけなのであります。 今回はタイムボカンシリーズの歌で特に気に入っているものを紹介したいと思います。

●ヤッターキング
作詞・作曲・山本正之 編曲・神保正明 歌・山本まさゆき・スクールメイツ・ブラザーズ
さて、まずご紹介いたしますのはシリーズ第二弾「ヤッターマン」の後期主題歌「ヤッターキング」でございます。正統派主題化としての完成度はあまたあるアニメソングの中でも随一、と言えるほどの曲であります。とにかく疾走感があります。そしてロマンがあります。素直にノリがよく、聞き手を曲の世界観に符合させる力がとても強い歌です。山本正之の声をぶらした歌い方も最高です。

●天才ドロンボー
作詞・作曲・山本正之 編曲・神保正明 歌・小原乃梨子・八奈見乗児・たてかべ和也
ですます調は気持ち悪いのでヤメ。この曲はまたまた「ヤッターマン」からの出典。前期エンディングである。ドロンボー3人の掛け合いが最高に楽しい曲。いい意味で脱力感を感じる(そんな状況があるのかどうか分からんが)歌。トンズラーとボヤッキ―のやる気のない合いの手が笑える。なんかヤケ気味に歌っている気がするのもいいところ。

●ゼンダライオンの歌
作詞・松山貫之 作曲・山本正之 編曲・神保正明 歌・山本まさゆき
「ゼンダマン」の挿入歌。OP・EDを差し置いての登場。インパクトの強い歌である。だって「ゼンダ・アクダ×6」でもって「ワオ〜ン」なんだもん(訳わからん)。曲の方は非常に心地よい感じである。まるでピクニックにでも行くかのようなのどかさだ。聴いていて本当に心が和む、と言えよう。NHK教育の「みんなの歌」で流したいくらいである(言い過ぎか?)。余談だが何やら「ゼンダマン」本放送時には一般人にも劇中で歌わせていたらしい。なんてフレキシブルな番組なんだ。確かに、こういう手法を取り入れれば盛りあがるだろうなあ。つくづく昔の番組はいいなあと思ってしまう一幕である。

●オタスケマンの歌
作詞・作曲・山本正之 編曲・神保正明 歌・山本まさゆき・少年少女合唱団みずうみ
シリーズ第4弾「オタスケマン」の主題歌。この曲を語るに当たってはずせないのが出だしの「キラキラキラキラ スタースター」の部分。とても喉越しのよいフレーズである。
歌詞の方は正統派であり、至って基本形であるがメロディーが徐々に高揚感を高めてゆく感じでとても盛り上がる。特に「熱く、熱く」の部分は山本の感情の込め方がとても上手い。

●がんばれオジャママン
作詞・内間 稔 作曲・山本正之 編曲・神保正明 歌・山本まさゆき
「オタスケマン」ED。前半部分と後半部分のギャップでとことん楽しませてくれる曲。演歌か?と思わせる出だしと「それでも〜、それでも〜」以降のいつもの調子。聞き手としては前半で我慢した分、後半のすがすがしさに気分が発散されてカタルシスとなる。この曲を聴いているとつくづく歌謡曲における「タメ」の部分の重要さがわかってくる。「タメ」があるからこそその後のメロディー、特にサビの部分が生きてくるのだ。そんなことを考えさせたくれるのも含めて私はこの曲が大好きなのである。

●ヤットデタマン
作詞・作曲・山本正之 編曲・乾 裕樹 歌・トッシュ
「ヤットデタマン」主題歌。とにかくカッコよい曲。歌い手が二人いて、交互にフレーズを担当するという方式なんだけど(これをなんと言うのか知らんのだ)サビのところで二人の声が融合して何とも言えないカッコよさを醸し出しているのだ。大体イントロの笛の音だけでもカッコよすぎる。ああ、私は何回カッコいいと言ってしまったんだ。同じ表現の繰り返しでは能がないと解っているのに。でもいいや、カッコいいとしか形容し様がないんだもん。それだけカッコいいということさ。(クドイ)

●嗚呼!逆転王
作詞・作曲・山本正之 編曲・神保正明 歌・山本まさゆき
「逆転!イッパツマン」挿入歌。これまたカッコよい曲である。しかも歌としての起承転結がハッキリしていて痛快である。「ああなって、こうなって、そうなるんだけど、結局こういうことよ」という筋書き(歌詞)が明快なのである。そして、ちゃんと起伏がある。
またまた余談だが本編では逆転王が凶弾に倒れた次の回に「嗚呼!三冠王」として紹介されていた。この曲が流れるシチュエーションがまた凄くいいシーンなんですよ。とても盛り上がります。

●シビビーン・ラブソディー
作詞・作曲・山本正之 編曲・神保正明 歌・山本まさゆき・ピンクピッギーズ
「逆転!イッパツマン」ED。この間も書いたけど、タイムボカンシリーズの歌を通して一番好きな曲である。軽快なメロディー、調子のよい旋律、その中にさりげなく込められたメッセージ(そんなに仰々しいものではないけど)。どんなに理不尽なことがあっても、どんなに不条理なことがあっても、黙って従うしかない。ああ、哀しき業、その名はサラリーマン・・・てな具合。
このようなことをあくまでもさらりと歌っているところに意義がある。ピンクピッキ―ズの合いの手もいつにもまして絶好調だ。

●どびびぃ〜ん・セレナーデ
作詞・作曲・山本正之 編曲・クニ 河合 歌・きたむら けん
「イッパツマン」の後番組「イタダキマン」のED。従って「シビビーン・ラプソディー」の正統後継曲であり、またある意味「シビビーン〜」で提示された問題に対する答えを出した曲とも言える。
まずは曲の調律から。イントロはどこかアラビアの風景を想起させるエキゾチックな様調。終始、この雰囲気は続いてゆく。ゆったりとした、悠久の時を生きてきた旅人の歌のようにも思える。
そして詩の内容。前作「シビビーン〜」では苦しくても悲しくても頑張るしかない浮世のつらさが歌われていたわけだが本曲ではそんなつらい状況でも「どびびぃ〜ん」と笑い過ごせば何とかなるさと説いている。この曲の世界においては金があろうが顔が良かろうが大したアドバンテージではない。いや、かえって何かを手にした者は必ず大切な別の何かを捨てなければならないのだ、という事になっている。だとすればみんな同じ条件の中で生きているんだ、弱気にならず頑張ろうと言っているのである。
限りなくつらい世の中において気張らずに生きてゆく姿勢を讃えたこの曲を私は最大限に支持したいと思う。

あとがき
あ〜たいへんだった。どえりゃあつかれましたわ。何より曲の情報(作・編曲、作詞、歌手)を打ち込むのが面倒で面倒でたまらんわい。こんな誰が見ているかもわからんない日記に真剣に書く私も私だが・・・まあいいか。何だかんだ言って楽しかったし。またやる気がみなぎったらこの企画やるかもね(勘弁してくれって?)。それではまた会う日まで、アディオス!


2002年10月01日(火) 9月期日記決算

もう10月なんですねぇ・・・月日の経つのは早いなあ。ホント、年齢を重ねるごとに1年の周期が短くなっている気がする。なんか嫌だなあ。もっとはつらつとせねば。よし、ガンバロー!

最近この日記を1日も休まず書いていますが、これには思うところがあるわけです。と言うのも社会人になったとき文章の1つも書けないのはまずいのではないかと思ったからです。就職すれば自分の意見を文書にまとめる機会が多いはず。そこで私の文章がどれだけの人に通用するか試してみたくなったのです。書いてみてよく分かったことですが、私の文章など極めて凡庸、くだらないと一蹴されても文句の言い様もありません。最初、文章を書くことは発散行為だと思っていたのですが、とんだ見当違い。第三者にどれだけ分かりやすく、恣意的な表現を避け、自己満足に落ちいらないよう腐心することがいかに大変であることか。起伏に富み、論理構成にたけた文章を書くことがどれだけ難しいことか。私には何もかもが足りません。まだまだ修行が必要なようです。

しかもアニメの話ばっかりに偏ってしまって何ともバランスが悪くなってしまいましたね。少し平衡感覚を保つために昨日は思想的なことを書かせてもらいました。しかしちょっと独善的過ぎましたね。もっと柔和な書き方が出来たはずです。書いてみてからの反省です。もっともっと努力せねばと切に感じます。

これからもアニメ話が中心になると思いますが読んでいらっしゃる方にはご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。これからは学校の方も忙しくなるので毎日書くことが出来るかどうかは分かりませんがとりあえずいける所までいってみたいと思います。以上9月の日記決算でした。


橋本繁久

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