Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2001年11月29日(木) 今日は細かい事をねちねちと語らせていただきます。

先日「世界ウルルン滞在記」という番組を見ていたら石坂浩二が「日本人の悪いところは何でも擬人化することだ」というような事を言っていた。これは番組本編でヨーロッパのどこかの災害救助犬を養成しているところに出かけた青年が現地のスタッフに「犬は犬以上でも犬以下でもない」と言われた事を受けての発言であるが私はこれを聞いて酷くガッカリした。ヘイちゃんはもっと話のわかる人だと思っていたのに。

要するに石坂浩二は「日本のような動物を人間であるかのように扱う事は馬鹿げている。そんなことはやめて西洋諸国のようにあくまで動物として管理するべきだ」と言っているわけだ。だが果たしてその「西洋風的」考えが正しいという側面しか持っていないのだろうか。実は私は今世間を騒がしている「狂牛病」はこの西洋的な考えに端を発しているとしか考えられない気がするのだ。

狂牛病は何故起こるのか。まだ完全な発祥理由はわかっていないらしいが大方の見当では牛の肉骨粉が原因ではないか、とされている。そもそも狂牛病は何万頭に1頭の割合で弧発的に発病するものなのであるが、この弧発型の狂牛病にかかった牛を肉骨粉にして他の牛に食べさせる事で伝染的にヨーロッパ中に「脅威」が広まった、というのが今のところ私が認識していることである。

ここまで読んでオヤ?と思われた方もいるはずだ。ちょっと待てよという思いに駆られる人がいるはずだ。狂牛病にまつわる話の中でどうしても日本人に納得できない箇所が存在するのだ。それは「何故牛を肉骨粉にしたものを同じ種族である牛に食べさせるのか」と言う事である。これは単純に言えば「牛が牛をたべる」という事でちょっと考えればそれが恐ろしい思想である事がすぐに分かるはずだ。

 だってそうでしょう。これは食物連鎖のサイクルからしても「禁忌」で「異常」なことは明らかである。こんなこと普通倫理的に考えればおかしい事に気づくはずだ。ところが西洋人はそうは思わない。冒頭で言ったように「動物は動物、人間に管理されるべき存在なのだ」と考えているからだ。

今日は疲れた、続きは明日以降にでも。
それとひとつ注意しておくとこれはあくまで私個人の考え方でありそれに対して批判・反論はご遠慮くださいませ。悪しからずご了承の事。


2001年11月16日(金) 昨日の話の続きです・・・

 昨日、異色短編集の話を書いていた時に思い出したことがある。実は初めてこの本を読んだ時私は藤子不二雄に触発されて(←単純)おんなじようなダークSF系小説を書いた時期があるんです(いやあ、お恥ずかしい)。なかには単に企画を立てただけで終わってしまったものもあるんだけれど質はともかくとして結構な量を書いています。ナルシシズムっぽいけどここにタイトルだけ書いてみるとしよう。

「意識過剰」「知らぬが仏」「どうして和代は2人いる」「あの星は俺が住む!」「源三も恋をする」「暗バランス・ゾーン」「ころりころげて夢の中」「中年よ大志を抱け!」「ユメ世界の住人」「宇宙はコピー機」「地球爆発10日前」「泣くな!二流」「時間は動かない」「カシの木は全てを知っている」「君と僕と彼女」「落日のガンマン」「執念は鳥を生む」「ダイケンゴーを忘れるな!」「明日を探して一万里」「むかし、むかし・・・」

うわぁ〜書いているだけで恥ずかしい!改めて読んでみるとなんて稚拙で陳腐で子供っぽい内容だろうと思う。でもこれらを書いた原稿を捨てる気にはなれないんだよなあ・・・


2001年11月15日(木) 極めて真実で、限りなく暗い話

この日記を書くのも1ヶ月ぶりだ。いや、取り立てて書きたい話があるわけじゃあないんだけどなにせ1ヶ月も更新していないといつの間にかこのサイトが消滅してしまいそうなので・・・・う〜んなにについて書こうかなあ
                
                    ○
 以前読んで大変衝撃を受けた本に藤子不二雄の「異色短編集」というものがある。藤子不二雄といえば「ドラえもん」に代表されるように明るくて、前向きで、ほのぼのとした作風を得意とする漫画家だと認識していた。ところがこの本を読んだとき私が藤子不二雄氏に対して抱いていたイメージは酷く変わってしまった。氏の本質は「暗」であり「果てしない絶望」である、という事実に私はただただ驚いていたのをを覚えている。

 例えば「箱舟はいっぱい」という作品。極限状態に陥ったときの人間の弱さ、脆さ。自責の念に駆られながらも結局「箱舟」へと赴く人々。ラスト、主人公たち一行が言う「風が強くなってきましたなあ」のセリフは本当に恐い。これから起こる運命も知らずに・・・救いようのない怖さ。

 あるいは「ノスタル爺」。過去の悔いを正しに、あるいは清算しようとする主人公。しかしその行動はどこか屈折している、いや完全に屈折している。それで、それで本当にいいのか主人公よ。

 そして私が読んでもっとも救われない気持ちになった「どことなくなんとなく」。もし自分が生きている世界が自分の妄想でしかなかったとしたら?そしてその事に気付いてしまったら?最後にその事に気づいた主人公は幸せなのか?所詮この世は知らぬが仏なのか・・・背筋は凍り、肝が冷える話だ。一読しただけではこの話の意味が解らないかもしれないが、いったん「解ってしまった」あとの恐怖感はホラー映画の比ではない。人間が根本的に抱いている不安、恐怖に対する思いを真っ向から描いた作品といえるだろう。これぞダークファンタジーの極致。

 繰り返し述べるがこれらの作品群に共通して流れる主旋律は人間の弱さ、脆さ、あやうさである。どうしようもない絶望感、はかなさがとうとうと語られる。目を背けたくなるような内容だが本当のことを包み隠さず話している点で単なる恐怖感を煽るだけの「世にも奇妙な物語」とは一線を画している。「ウルトラQ」と双璧を成すエスプリ・ストーリーと私は認識している。極めて真実で限りなく暗い話である。

 とは言え、この本を読んだからといって無闇に絶望感に陥る必要はない。一連のこの話はあくまで一元的であって全てではない。藤子不二雄本人だってそう考えてはいないだろう。だからこそ「ドラえもん」のような朗らかで性善説的な話を作る事ができるのだ(私はドラえもんが大好きである)。大事なのはそういった人間のマイナス部分があることを認めてその上でプラスもマイナスも内包しつつ生きていくべきという事ではないだろうか。
そして私はと言うと、基本的にはネガティブ思考でありながらおおざっぱでいい加減なところもあるので割合バランスを保てている方である(笑)。


橋本繁久

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