9月最後の今日は雨の日。 ひとりお休みを頂いて、普段は出来ないおでかけを。
7月から9月まで任意で数日間の「夏休み」が取れるので、 Q氏の夏休みにあわせてお盆期間に一気にお休みしたのだけれど、 端数で残ったお休みを、9月最後の今日に消化させていただく。
平日にしか行けそうにないところへ。
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ひとつは、某大手製紙会社の小さなギャルリ。 本社ビルに紙サンプルを並べた開放空間があるそうで、 それをどこぞのブログで知った私は、とってもとっても行ってみたかった。 会社の営業時間しか開放されていないので、 土日祝はお休みなんだそうだ。平日に行くしかない。
紙好きとしては、たくさんの紙サンプルが無料で頂けるなんて! と、のこのこお邪魔して来たのだけれど、 やっぱり印刷や出版やそういう会社の人をターゲットにしてるんだよね、 と場違い感を感じつつも厚かましく色見本やなんやらをたくさんもらってきた。 これがもう、心底嬉しい。
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もうひとつは、こだわりの深い深い(那音には底がうかがい知れない)先輩Ay氏が 「毎週でも行ってしまう、何個でもいけちゃう」と言って、 ショップカードまでくれて、紹介してくれたケーキ屋。 休日は客が並んでいて、早い時間にいかないと売り切れることも… と噂を聞いていたので、平日にしか行けないなと思っていた。
たまたま製紙会社とそのケーキ屋は1駅と離れていなかったので、これは行くしかないと。 どっちが本題だったかは自分でもよくわからない。 ふたつの目的がないと、外出すらしなかったかもしれない。
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そのケーキ屋は小さなビルの1階にひっそりあって、 パッと見はアパレルショップかジュエリーショップみたいな雰囲気だ。 ちいさな扉をあけると、落ち着いた照明の中にちいさなショーケースがあって、 きらきらした10種くらいのケーキが並んでいるけれど、 ぎっしり入っているのでなく、どれも1〜5個程度なのが上品だった。
どのケーキも上品に小さく、控えめな色味がゆっくり期待感をあおる。 「何個でもいけちゃう」と聞いていたけれど、 ケーキを何個も食べる習慣がないので「イートインのみ」と書かれた、 ひとつしか残っていないケーキを注文する。
店のお嬢さんは、注文を受けるとケーキを取り出し、 一緒に商品名の書かれたプラスティックカードも取り出した。 これで売り切れなのかな、と思うとなんだかちょっと嬉しい。
角の取れた三角形の、うす翠の、上にベリーが乗って… 中にはまた別の薄桃色のムースがあって… 底に敷かれた薄いスポンジは、みっちりとリキュールがしみていて…
おどろくほど軽い味わいだった。 ほろっと溶けて、味も余韻はなくすうっと消えて行く。 これなら確かに何個もいけますね!と思って、 ひとりだった所為もあるけれど、ぺろっと食べてしまった。
隣の席では上司(?)らしき紳士に、 言うことを聞かないちょっと出来の悪い後輩の愚痴を言っている女性がいて、 上司も聞いてあげてはアドバイスらしきものをしているけれど、 とっても凛々しい部下の女性は、上司の言葉に逐一反論してのけていて、 それがいっそ爽快だった(笑)。
正しいと思う指導をしているけれど、後輩はそれに乗ってこない… という個人的な意見を、ビジネス口調であれほど語れるものなのね。
ぺろっと食べたからにはもう居座る言い訳もなかったので さっさと席を立った。 この時間には2駅ほど先で仕事をしているだろうQ氏の為に テイクアウトをいくつか選んで買い帰る。
Q氏は出がけに、 「遊びに出るんならお土産よろしくね〜」 と羨ましそうに言ったくらいだから。
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駅に向かう道で、むかし出掛けたことのある小さなカフェがあって、 そこでもテイクアウトを選んでしまった。 お菓子だらけ。しかも「本日中にお召し上がりください」系が。
夕食は簡単にして、ゆっくり味わうつもり。
外でお茶をするのがとても好きだ。疲れているときほど、よい。 おばさんや、若い女の子や、恋人たちがいて いい加減でざわついている、広くてゆったりしたカフェがよい。
紅茶やコーヒーがおいしいところがよい。 コーヒーがおいしくてだいすきなお店がひとつあるけれど、 そこは分煙が不完全なのでちょっとリスキィだし、 大きなショッピングビルに入っているので、時間帯を間違えると雰囲気が味わえない。 そしてやっぱりコーヒーが立派なお値段して、ケーキ類は少ないので 気分に合わせなければ。
お茶がおいしくてケーキがたっぷりしていて好きなのは、 アフタヌーン・ティ。ある程度の安心感がある。
私は、この窓から見える風景で生きていこう。
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私は普段ほとんどケータイメールをしなくて、 数ヶ月に一度、思い出したように友人たちにメールをする。
元気ですか?最近は何をしているの? 仕事はどう?
近況報告みたいな。 だいたい、友人に連絡を取ろうと思う時は2パターンあって、 ひとつは自分が何かいいこと、嬉しいことがあって伝えたく思う時。 もうひとつは、自分にあまりいいことがなくて、へこんでいて、 誰か無関係な人に聞いて欲しい時。
そんなこんなで、半年に一度くらいのペースで連絡する友人Yは、 たいていちょっと私が悩んでいる時にメールをしているらしく、 返って来るメールがひどく哲学的だ。
「結局、答えは自分の中にあるよ」 みたいな……きっと、Y本人には思うところがきちんとあるのだけれど、 それは私、那音には適応できないことなんだろうと思う。
ほんのちょっとの愚痴にもそんな返事が帰ってきて、いっそ新鮮なくらいだ。 「あれ?私、悩んでるってメールしたんだっけ?」と自分でも驚く。
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この年齢になると明らかに前進しているひとと、 停滞しているひとに差があって、 もうそれはほんとうに驚くほど。
私はもうすっかり停滞していて、たまにそれが嫌になる。 前進しているひとはなんだか痛々しく、眩しい。
私はわたしの窓から見える風景を楽しく、生きていこう。 それが狭くても、小さくても、それに満足する自分でいいんじゃないか。 大きく、広いことがよいことなのか。 どうしてより高みを求めなければならないのか? より高みを求めることが、本当に人間のあるべき姿か?
……などなど思いつつ、今の私は焦らず停滞に甘んじようと思うのだ。
「むかし愛した形」なんて、なんだか意味深ですが、 これは字面そのまま「むかし」「すきだった」「かたち」の物質、ということ。
可愛げのない幼少期(性格・容姿ともに)を過ごした私だけれど、 振り返ってみれば、ずーっとずーっと長きにわたって、 アクセサリーがとっても好きだった。
学校では身につけられないので、お休みの日のお出かけくらいだけど、 いつも首にはなにかぶら下げていた。 年長の従姉妹からお下がりでもらうアクセサリーが おとなっぽく見えてほくほくしていたもの。
あのときのプラスチック石の質感や、ガラス石の色や反射、 シルバースチールのきらきらのほんの一部分が いまでもふとフラッシュバックすることがあって、
そのむかし愛した形に似たディテイルを持つ、 実質はすっかり大人のものである美しいアクセサリーを見たときに、 「妙に惹かれるこの形は、あのときのプラスチック石を留めていた金具と似ている、」 などと思うことがある。
そして結局、私は小さい頃のあこがれを追って、 まだまだここにいるんだなと感じる。 「ニセモノ」が「ホンモノ」になったのは、ただ身体に見合うものに置き換えただけで、 本質的にはほとんど同じこと。
那音の行動パターンから言って、 必ずひと山越える必要性がある。
一番焦るのは、物事に取りかかり始め。 だいたい成功のイメージをほわほわと浮かべて 夢見がちに物事を始めることが多いので、 まるですぐ、その素敵なステージに至るような錯覚をしている。
だからそのステージに向かってリーチを取りたい、 取れるはず、だと思ったのにうまくいかない、 気持ちだけが空回りしてもちろん実になることもない。
それがやがて停滞感につながって、 ぼんやりした飽きと疑問符付きの焦燥感。 それをやっと忘れた頃に、実りがくる。
・・・と、思う。
だから今は落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。 焦っても仕方ないし、どうせうまくいかないし、 流れに乗れたらきっとなんとかなるさって。
** ** ** きれいな色のパワーストーンのブレスレットが目にはいり、 「買っちゃってもいいかも、」と思った瞬間に笑いがこみ上げてきた。 我ながらやばいね、と。
すがる気持ちの神頼みは意識的に避けている。 祈りってもっとナチュラルなものだと信じている。
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