*黎明ノォト*

2004年05月16日(日) 2999-Request=「ジャム」

 僕が母を思い出す時、それは常に“JAM(ジャム)”と共にある。

 ぴかぴかと光を反射する薄く上品なバターナイフを持ち、まっ赤に滲む鮮やかなジャムを、こんがりとうす黄に焼けたトーストに塗りたくる、なめらかな手。爪はほんの少し長く伸びていて、時折大人しいベージュのエナメルが膜を張っていた。
 日曜日になると決まって作るフレンチトーストに、つやつやしたアンズジャムを添える笑顔。母はブラックコーヒー、僕はホットミルク、大抵昼前まで起きてこない父には冷めたカフェオレがまっ白いマグカップに注がれて、それだけで休日ののんびりした午前はすぎて行った。
 そして、目を擦りながら起き出した僕を時折不安にさせた、明りを点けない暗いキッチンでホット・マーマレードを作る母の、頼りなげな肩のライン―――。

 ホット・マーマレードを残して母は消えた。
 僕の幼稚なクジラのイラストが描かれたカップは、ほんのりと人肌のぬくもりを宿していて、一口含んだ、生温かくまとわりつくほどに甘い液体に困惑して、食卓に座る父を見上げた覚えがある。
 その時は、網戸越しにひそやかな雨音がしていた。
 徐々に空気から熱の引いていく気配は、太陽光の粒子の数とも比例して目に明らかな頃。あの雨が終れば、秋だった。

 父は優しいひとだ。
 しかしよくあるように、その優しさが欠点だった。うっかり踏み出した足を、その優しさの為に引っ込めることが出来なくなる。しかし、そんなことが子供の僕に分かるはずもなく……。僕が男になってから、父の作ってくれた辛いカレーを食べた瞬間に唐突に理解したその事実は、泳がせた視線の先、色とりどりのラベルが張られたジャムの瓶がスッキリ綺麗に並んだままの食器棚とあいまって、妙に胸に迫った。

 僕は今年で28になる。結婚、しようと思っている。

 手の表情が幼い彼女は、甘いもの、殊にチョコレートがダメな人種で、パフェを口に運ぶ僕の目の前で、鮮やかなオレンジ色のエナメルを施した可愛い指でカップを支え、まわりを気にしない明るい声で笑う。
 街角のカフェの洒落たステンドグラスの外は、雨だった。最近は雨が多くて、弁当を持ったデートが好きな僕らは居場所に困る。
 徐々に空気から熱の引いて行く気配が、太陽光の粒子の数と比例して明らかな季節。
 この雨が終れば、秋だ。

 ぱた、と肩に降り落ちて来た音に、僕は舌打ちして空を見上げた。
 降りそうな気配は朝から続いていたが、真希の部屋に折りたたみ傘を忘れて来たので、面倒で傘を持って来なかったのだ。出先で降られるなんてツイてない。折り悪く濡らせない資料まで抱えている。
 そう思う間にも大粒の雨雫は数を増し、アスファルトの色を染め変えて行く。慌ててまわりを見渡し、数メートル先に喫茶店の看板を見つけて足を早めた。の黄先に踏みこんだ途端に雨音が増し、本格的な降りに変わったのに、うんざりと安堵を同時に感じて息を吐く。どうせだからひとやすみしていこうという気持ちでそのさびれた喫茶店の軽い扉を開けた。

 そして、
 それは、
 そこにあった。

 湯気と混じって甘く漂うひそやかな匂い。
 いらっしゃいませ、と静かに響いた言葉と、その肩のライン。
 肩越しにちらりと見せられた営業的な微笑みと会釈は、全く違う人のものだったのに―――これだ、と記憶の芯が反射した。
 僕は妙に落ち着いた気分で、人工的に冷えた空気を呼吸して、カウンターに鞄と書類封筒を置いた。そうして背を向けて手を動かすマスターである女性の手元を覗いて声をかける。
「なに作ってるの、」
「いえ、ね」
 彼女はくすっと笑って振り向いた。その手には、明らかに店使いではないまっ白いマグが握られ、甘やかな香りのする湯気をたてていた。
「店が暇なので、ホット・マーマレードを作っていたんです」
 丁寧な化粧をほどこした意志の強い表情が柔和にほころぶ。かき混ぜるスプーンと陶器がぶつかる澄んだ音が繰り返され、透明なエナメルを塗った、年齢を重ねた指が目に入った。僕は自然に目が細まり、口唇が笑みの形に弛むのを一拍遅れて自覚して、席についた。
「僕もそれを」
 彼女ははい、と返答して背を向け、支度を始めた。雨音は店の壁から、遠く沁みてくるようだ。
 そしてホット・マーマレードを作る背に小さく呟いた「カアサン、」の言葉は、次の客が開けた扉の鈴の音に埋もれて……………………。
 同時に僕は、夏が終わり秋が始まったことを、流れこんできた隙間のない雨音と平らな風とに教えられた。


 < 過去  INDEX  未来 >


那音 [MAIL]

My追加