歌を持とう 自分だけの
歌を持とう 誰にも負けない
歌を持とう 誰のものでもない 自分の歌を
湯屋という存在は学校そのものだ 宮崎駿が語ったのは 生きる力を失った現代の子どもが どのようにすればもう一度生きる力を得ることができるかという 処方箋 それはあるいは森田療法なのかもしれない 自分が現実に生きているのか死んでいるのかそれさえも分からない世界で 何のために自分が生まれてきたのか生きていて良かったのかそれさえも分からずに 自分のしていることが人に影響を与えることができるのか 自分は人から認められているのか それも分からずに日々を過ごしている その反対側ではどこまでも肥大する自分 優れた自分 天才の自分 全能の自分
「貧しい者こそ幸いである」とはよく言ったものだ 現代の日本では高度経済成長以後貧しささえ感じることができない いや不幸なのは豊かであることではない 豊かさ故に愛情も真剣さも何もかもその陰に隠されてしまったことだ 四ノ宮浩監督の「神の子たち」を見るがいい フィリピン パヤタスごみ捨て場での 貧しくても不正を働かず 家族への愛情あふれる 互いに思いやる家族の姿が切り取られている
宮崎駿こそ現代の預言者なのかもしれない 日本の未来がどこへ向かうべきかという
良い意味での「働かざる者は食うべからず」という社会を 日本人は今後望んでいくのかもしれない 豊かな中で現実感や生きる力を失っていく現代社会にあって そんな悩みはブルジョワの悩みなのだと ブルジョワの悩みはブルジョワの悩みであって 「貧しい者」の方がよっぽど働く喜びや 愛を身にまとっているのだと
そんな中で学校も本当に生きる力を子どもに身につけさせたいならば 現在のようなぬるま湯に子どもをつけておくのでなく 現実にさらしなさいというのではなかろうか 湯婆婆が学校にも必要なのだと そして一方では銭婆婆や 千尋を導く仲間も存在しなくてはならないのだが
子育てが日本の大きなテーマになる
この世は 人と人とがいくらか関わり合う パラレルワールド 私は そんな世の中の仲介者
この世はパラレル 同時進行的に 人々の中で世界は動き始める
世界は一つとか 裏の世界とか言うけれど 本当は世界なんて人の数だけある
だから「わかった」なんて顔をするなよ 「難しい」とか「悲しい」とか悩むなよ だって世界は一つじゃないんだから
僕はそんな世の中の仲介者になる
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