2004年11月22日(月)- 人格障害ということ - こんばんは。minetです。 先に書いておきますが、私は心理臨床においてはまだ駆け出し以下の学生ですので、 今日の文章は余り鵜呑みにはしないようにして頂きたく。誤りの余地は十二分にあります。 魂にメスはいらないと言った人がいましたが、 魂にもメスが必要な場合は、限定的ながら必ずあると考えます。 触診し、レントゲンを採り、MRIにかけ、必要があれば魂を手術するという技法は、 臨床心理学が科学を名乗る以上は、選択肢として必要なものだと思っています。 ただ、カウンセリングの場面で魂の解剖学を行うことは、 決してするべきではないとは、もちろん思いますが。 --- 人格障害って、一体何か。 詳しく知りたい人は、このへんをどうぞ。 僕の理解を書くと、 「ある人格特性が、本人の生活する社会の常識を外れており、 そのことについて自分や他人のどちらかあるいは両方が非常に困っていること」 となります。 それで誰も困っていなければ、障害じゃないわけです。 しかし、それで自分か周囲のどちらかが少なくとも非常な苦痛を感じている場合は、 障害になるわけです。 どうです、めっちゃ曖昧でしょう。 これは結局、言い換えれば誰かが本気でしんどいと思ったら、 人格障害を疑って構わない、ということです。 かなり乱暴な定義ですが、そこに人格障害という名前の意義もあります。 まず、同類型において先行しているケースについての情報を得ることが出来るので、 これからの対処方法が、ぼんやりとではありますが、見えてきます。 また、同じ苦しみを抱えている人がいるということを知ることで、 本人や周りの人たちが、かなりほっとします。当事者同士の連携も可能になります。 そして、そういった「障害」と名前がつくほど、この状況が苦しいものだという情報が、 診断名を受け取ることによって、本人もしくは周囲の人間に伝わります。 この2番目3番目の意義が、 人格障害という言葉を有名にしている理由だと私は考えています。 少なくとも私は、この診断名によってかなり救われてます。 私は自分のことを、「さびしがり型人格障害」と呼んでいます。 自分のさびしがり人格によって、少なくとも自分が非常に困っているからです。 さらにそのことで他人に迷惑をかけていないか、と非常に苦痛を感じてもいます。 勿論こんな診断名はありませんし、自分で勝手に、自分自身を理解するために付けたものです。 依存性人格障害という診断名があるようですが、 本当にそれに入るのか私はまだ疑っているので、しばらくこれで行くつもりです。 人格障害について、よく言われるのが、「人格のゆがみ」という表現。 生来か後天性かはわからないが、ある人格特性に発達的なゆがみがあるという表現。 この言葉は、私の理解で言えば、 「ヒトの持つ何らかの能力における、心理社会的な発達上の未成熟によって生じる、 社会的な適応の難しさ」ということになります。 少なくとも私はそういうことだろう、と体感的に思っています。 そのため、私は人格障害は足りない能力を少しずつ身につけていくことが対処法だと思っています。 この障害が根底にあって、ちょっとしたことをきっかけに、情緒不安定を誘発する。 さらに周期性があって、ベースラインが異常に低い時がある。 こう考えると、何もわからずに、 「自分は○○でいることがどう頑張ってもできない」と苦しんでいたときよりは、随分楽です。 自分の行動特性をただ修正すべきものとして自分自身から切り離し、 少しでも潰してそういった要素を減じていこうととするのではなくて、 自分という人間が、そういった人格特性を持った人間なんだという風に理解すると、 もうこれはしょうがない、足りない部分は少しずつ育ててゆこう、と思うようになりました。 以前はそれで疲れ果てて、結局極限まで自分自身を追い詰めていましたから、 かなりの進歩です。誤解を恐れずに言えば、私はその人格特性において、 健常者ではない、障害者なのだという現実を受け入れたということでもあります。 それでもまだ、こいつは相当手ごわいです。 第一、困っている症状自体は全然変わりませんから。 この感情を何とか自分で制御したい。今すぐは無理でも、いつかきっと。 誰かという名のあなたに、助けてほしい。今すぐに、このしんどい状況から。 こんな季節は、二つの感情が、つねに激突しています。 本能的衝動と、理性的な決意の間で、私は泣きべそかいています。 つらいよ、つらい。誰か、ここから、、、 いや、自分で何とかしなくちゃ。。。 でも、つらいものはつらいんだ、、、 いやいや、君がやるべきことは。。。 正直、毎日をやり過ごすことで、一杯一杯です。 -
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