2002年02月01日(金)
言葉の重みについて・補足説明
風聞帳に書き込みをしました.それはそれで何か思うところがある人もいらっしゃるかもしれないので,一応,何かしらを書いておきます.書いたことが余りにも断片的というか,何をコメントしているのか不明瞭なので.
予め断っておきますが,ワタシは院生でありながら文章能力に著しく欠けていて(ボスのお墨付き),論理的な文章は非常に不得手です.読みにくいことこの上ない,はず.くどい文章です. そして,テキスト庵に無関係にこちらに来て下さっている方々に多少の説明を致します.風聞帳というのは,テキスト庵内の「最新テキストの評判を読んだり書き込んだりできる場」なのですが,そこで最近「癒し」について書かれた日記に色々な方々が反応を示していらっしゃるのです.それにワタシが加わったものの,自分のコメントの意味不明さに呆れかえり,少し補足的に書いておこうと思った次第です.
まず,「癒し」の風潮に関して言えば,必要な人が求めればいいし不必要ならまあいいじゃんという曖昧かつ適当な感想.ただ,自分にとっての「癒し」は自分で把握しておきたい,とも思います.これが癒しですーと提供される程のことでもありません.癒しなど,非常に個人的なものであって然るべきだと考えているので. それくらい.ああ,ただ昔から(高校生くらいから)お香が好きだったのに,それを人前で言うと「癒されるよね」と返答されるのには違和感.そうじゃねえよ好きなだけだよ.
さて,本題. 最初に,どうしてコメントを書き込もうかと思った理由.「癒し」に対して特に強い感情を持っていないのに何故に反応したのかといいますと,言いたいんですが,本当は反応してはいけない場所に反応してしまっています.日記という「公開された」モノではない部分に反応したので,ちょっと書くのは控えておきます.コメントは既に書いてしまったので,もしその方がここを御覧になっていたらごめんなさい. と,くどい文章を書き連ねていますが.
よく,「あんたに何がわかるっていうのよ」というセリフがあります.アナタは経験していないんだからわからないでしょ何がわかるのえらそうなこと言わないでよ,という意味でしょう. それに通ずるモノを感じてしまったのです.瞬間的に. 確かに,ものすごい経験の前では人は言葉を失わざるを得ません.経験から出た言葉の重みはワタシも知っているつもりです.けれど,「ワタシはこれほどの経験をしています.そしてこの経験からこのようなことを思います」と言うのは. 一歩間違えるとパワーゲームになってしまいます.
だって,そんな経験をしてきた人の前では何も言えなくなってしまいます. 反論しても「何がわかるの?」と言われたらそこで話は終わってしまいます.
もちろん,今ここでワタシが取り上げているのは,「重みのある言葉を持っている人」のコトではありませんね.本当に重みのあるコトを言えるようになった人はコミュニケーションを拒んだりはしないでしょう. ぼろぼろになって潰れてしまう人がいます.「こんな経験があったの」という言葉を武器にしてしか生きていかれない人がいます.それこそ「生命力」を問われてしまう.残酷に.哀しいくらいに残酷に. それを否定しません.決してしません.ただ,ぼろぼろになったからって「えらそうなこと」を言えるわけでは決してない,とも思っています.
言葉に重みがあるのは,どんな経験からでもそこから何かを,生きるための何かを掴み取ってきたからではないでしょうか.逃げたり目を背けたり血を吐くような夜を過ごしたりして,それでも何か,生きていくための何かを掴み取れたその時に,その言葉に重みが出てくるのではないでしょうか. そのことに「経験の重さ」はかなり関わるでしょう.けれど,何より大事なのは,思考を止めてしまわないことだと思っています.ええ,個人的に.
注意を申し上げれば,耐えきれない時には思考の停止は大事です.耐えきれない時に考え続けると,壊れるか,死を選んでしまいかねませんから.まあ,勝手に脳味噌が思考停止を選んでくれたりする場合もあるので,そんなときには上手くできているなあと思いますけど.
閑話休題.
「経験」など,擬似的で距離のあることであれば世界中で色々なことが起きています.ある意味,そういった事実を知るだけでも「経験」になるでしょう. 世界は哀しみで満ちている.どんなに残酷なことも起こりうる.そして起きている. ソノコトについて哀しみ怒り,そして考える.考えて考えて得た結論は,十分に血の通ったモノだと思うのです.たとえそれが経験によって覆されてしまうようなモノであっても.それでも.
つうか. 何よりも. 本当の本当に反応してしまったことは.
人に対して,どうしてソンナコトを訊けるの?
ということなのです.今まで長々と鬱陶しく書いていたことも本当に思っていることですけれど,何よりも反応したのはそこなのです.ああ書いてしまいましたよ,ええ書きましたとも.
普通,訊けますか?過去なんてなかなか語れるモノではないでしょう.語れるの?そんなものですか? だって相当の覚悟が必要ですよ.相手に重みをかけてしまいかねないんですよ.重ければ重い程,相手への負担も相当のものなのですよ. どうしてそう訊けるのでしょうか.
更に疑問なのは. そうやって相手の過去を訊いて,「ああワタシにはこんな過去がありますよ」と過去の重さを知ったら,そうしたらその人の意見にも納得するのですか?ああ重みのある意見ですねと思うのでしょうか?
まあ,納得はするかもしれません.こういう経験からこの言葉が出てくるのか,と.はいそれは納得.そうでしょう.でもそれと「言葉の重みがありますね」は別でしょう.別ではないのか?
だいたい,言葉に重みが出てくるような過去って何ですか.決まってます?人によってどこで言葉に重みが増すかなんて,それこそ千差万別ではないんですか? で,訊いてみて相手がマジで超ド級のヘヴィな過去を持っていて,でも言いたくはないようだったらどうするんです?どうなんです? 傷の言葉で傷を刺すのは,それもまた無神経なパワーゲームではないでしょうか.
はい,書いてしまいましたね.反論御意見ありましたらどうぞ. 取り上げてしまった方に対しては,始めの方にもありますが心からお詫び申し上げます.そのことについて本当に謝罪致します.申し訳ありません. おそらく,どこかに何かをお持ちで反応なさったのだと思っております.カチンと.ワタシもまた「強者と弱者」という捉え方をしがちな人間なので何とも申し上げられません. ただ,コミュニケーションだけは失ってはいけないと思うのです.それを言ってしまっては全てがお終いになってしまいます. 人と人は理解し合えない.それでも少しでも近づくために言葉と想像力と時間を使って,人は人と向かい合うのだと思うのです.
そして. コミュニケーションを取りようもないくらいに深く深く傷ついて,回復に時間のかかる場合があることも知っているつもりです.「アナタに何が分かるの?」という言葉を使う時があることも知っているつもりです.そうやって回復していく場合があることも,知っています. ある程度まで回復しないと,他人とのコミュニケーションなんてやりようがありません.その余地が残されていないくらいに傷が深い場合. そしてその深さは他人にも,おそらく自分にもわからないのです.決められないです.測れませんもの. ですから. 今回のワタシの書いたコトで,傷を抉られたり,もしくは「コミュニケーションできていないワタシって」などと思われた方がいらしたら,心からお詫び申し上げます.
………それにしても. ほんっとに長くてくどくてうざい文章ですね.もうやっていられないのでこのままいきますが.最後まで読んで下さった方,ありがとうございました. 今日くらいです.こうなるのは. 穏やかに書くつもりだったのですけれどね,性格が性格なもので,こうなりましたよ.ああ.
|
|
index
ご来訪、ありがとうございます。
あまり更新されませんが、その期間はおそらくきっと、元気にやっています。
|
サイト説明
内容
不定期更新日記のみ.
リンク
貼るも剥がすもご自由に.
自分
海棠
連絡方法
メールはこちらから
|
|