「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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昨日、「自分の為に」という言葉を聞きました。「自分の為に」という文字の前で、自分を見つめました。これまで、自分を辛さから開放してあげたくて、しゃにむに心の傷を癒やしてきて、その過程でさまざまな出来事に出会い、その度自分を見つめ、おそらくその度、成長してきました。
そして、我、ここに在り。
改めて、「誰のために?」と自分に問うてみたら、確かに「自分の為」でした。しかし、これは「自分のためにこうしよう」と思い続けてきたのとは違って、結果、「自分のためになっていた」ということのよう。私は自分自身のこの気付きに小さく感動しました。 その後、「まだまだ知らないことがたくさんある」ということを実感しました。「知らないことがあるということを知っている自分がいい。「物事に興味を持てる自分」の前提のように感じています。そして、いつもゆったりがいいです。自分の完璧さをはずした分だけ楽な自分を生き楽しめる。そして他者に完璧を求める自分を変えていけるのです。さらに自分を許してあげた分だけ素直にもなれるのです。素直な自分は素直に自分の現実を見つめ、過去の傷付いた心から自分を開放させてあげられるのです。私が自分の好奇心を突いてあげた分だけ、自分を育ててあげられるのです。
大人は「大人」という枠に自分を閉じ込めやすいです。大人は昔、子どもでした。それも、純粋に全てのものに好奇心を持つ子どもだったのです。
ところで、今年の夏、ベトナムへ行こうと計画していました。そして今は、当初の計画より先延ばしにしようと考えています。理由は金銭的なものです。 実は、先延ばしが浮かんだすぐ後、これまで取り組んできた自分が無くなってしまうようで恐かった。3年間いつも、何があっても、この目標を意識して成長してきた過程があるからだと思います。今は、「行きたい=行く」で動いてきた自分は卒業していたけれど、小さくあった子どもの事があっという間に膨らんで、心は揺れ動いていました。 そして今は、全てのことは、私の中の小さな点なのだと捉えています。だから、もう大丈夫。そして、行けた時が行けた時。これからも少しずつ成長していく私です。
私は自分育てが好きです。
「語り」 昔々の20代の頃、昔々の友人はこんな事を語りました。「人って、自分の考えを人に語るときにはある程度、気持ちは決まっていて、でも、ほんの少し後押しして欲しい時なのだよね」。 一年位前、ある女性が私にこんなことを語りました。「人は、自分の中にある程度の考えを持っていて、その事を語るときには、確認が欲しいとき・認められたいときなのだ。誰かに何かをしてほしいとか、答えが欲しいのとは違う。肯定されたいのだ」。私はこの二つのどちらの考えにも共感していました。そして今は、次のように感じます。 「私はたいてい自分の考えを元に一人で動くことが出来る。そして私は自分の考えに迷いや疑問があるとき、少し表現してみたくなる。そして、私はアイデアを求めているとき、アイデアを求めていると他者に表現することが出来る。」そして否定から生まれるのは否定であり、肯定から生まれるのはよりやさしい肯定だ。
私は、自分を楽に語れる場所で、私の心を語ります。
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