「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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| 2004年12月13日(月) |
疲れた自分へのやさしさと流れ星 |
凄く疲れてる。何もしたくない。頑張りすぎた。 休みたい。 でも助けてほしいわけではない。救ってほしいわけでもない。だけど体が鉛のように重たくて旅行に行く力がない。それでも私はきっと行く。「行くこと」を前提にして朝から動いているのだから。「行かない選択」はしない。
日本円をドルに換えることが出来た。銀行での小さな手続きを面白く眺めていた。行動できた自分を嬉しいと思う。旅行に行けば「楽しむ自分」にもなれる。でも体がおかしい。 心がおかしいんだと思う。過去のメールを読んでみた。ある日のこと、「死ぬには別の力が要る」と書いてある。「別の力?どんな力?私は今死にたいと思わないから、これはいいか・・」と切り替った。 休みたいとか心が疲れたとか感じても、「明日も仕事」があるから頑張った。私は今、社会で生きる為の「役割」がなくなったの?いつも元気な振りをしすぎたの? けれど楽しく仕事をしたし、たくさんの事を考えられた「プラス」がたくさんあったよ。 一年前の日記を読んでみた。今とは全く違う「混乱」の中で生きていた。私が「ばらばら」であった頃の記事を「今」読んでいる間、体は少しざわつくけれど、それでも「自分」を意識していられた。私は成長している。 1週間くらい前から過去の事を考えると「左の片頭痛」が起きる。「辛さをかかえている自分が分かる」し、これを見逃していたら将来「出血」を起こす事になるのかもしれないから無理をしたくない。頭が痛くなるのも自分を見るきっかけだと思えている。問題なし。では何が? 「自然が見たい」と感じて滝の水公園に行ってみようかも考えた。けれど、私は「絵を書いて自分をなぐさめること」は止めた。「自然を見て現実から自分を引き離すことも止めた」。そういえば、純粋に自然を楽しむ私も居た。
昨日の晩に気が付いたこと。「又、私の世界が“Haydoが基準”になっていた」気付いたから安心した。 「私が基準」の私の生きやすさを思い出したらどうすればいいか分かる。切り替えられる。だからこれもいい。
疲れている自分だけが見える。でも一人を楽しむ私も居たはずなのに。確かにいたのに。それなら何故疲れているの? 「私は自分に湧き起こるものを否定しているのかな」。 これでいいかな?過去にがむしゃらに生きてきた私は、日常の生活の中でも、「がむしゃらに生きること」をしてしまいがちなのだね。
旅行から帰ってきたらしたいことがある。それはHPの住所を移しかえること。新しくしたい。 身体も動かしたいからプールにも行く。
忘れてた。自分へのやさしさ。 思い出した。丁寧に生きるという感覚。 私が昨日見ていた「ベトナムの子達の笑い顔」は、「ありのまま」のように見えた。化粧したときとは違う「素肌に笑顔」はやさしく見えた。 夜、「夜空」を見上げていると、大きな流れ星が視界に入りました。今夜私が目にした星の輝きは、実際には何億年も前のものなのですね。そして私は、無数にある星の何億年も前の輝きを目にする事が出来たのですね。 さらに私の人生も、目の前に広がる宇宙と同じように「無限に広がり続ける」可能性を持っているのですね。 2004年12月10日、私は一年近く働いた職場を後にしましたので、今は「新しい環境を作り上げていく」事をしているのですが、私は何時も何処に居ても、今夜見た星のように優しく柔らかく輝きながら、「生きる事をしていく」のです。
明日からサイパンへ行く予定をしています。21:44
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