「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2004年08月05日(木) 意識   生きる 「人」

 何処にいて何をしていても、自分を意識できている事が大切なのだ。私がこの耳で聞いたことが何度も素通りに終わるのは、聞いている自分を意識できていないときだろう。ほんの少しでも現実に辛さを感じると私は思考を入れ替える。それは無意識の中で行われる。入れ替わった思考を元に戻すには酷くエネルギーが要る。何故だろう。考えてみると当たり前かも知れない。現実を否定して思考を入れ替えているのだから。
そしてよく考えてみよう。過去には酷いばかりの現実だった。今は違う。ではどうすればいいのかな。現実を受け入れよう。事実を知ろう。何しろ成長したい私がいるのだから。どうしても前に進みたい。心を知る事はこの上なく面白いと感じる私がいる。そうだね、ひたすら自分を意識しよう。これ以外に無いのだ。何処で何をしていても自分を意識している自分であれば、知らない間に成長しているのだろう。

 たいていの人は 「自分は不完全だと思い込んでいる」 と、ある本に書かれていた。私は一瞬、自分はどうだろうと考えるが、そもそも完全とか不完全とか、そんなものは何処から舞い込んでくるのだろう。人間を対象に完全か不完全かは考えられない。

では私が過去に抱えていた 「完璧」 は何だったのだろう。完璧とは、欠点が無く優れていることらしい。言葉の意味を知り、そんなものを抱えていたことに驚いた。完全も完璧も人を基準に考える問題ではないのだ。 「いきもの」 に完璧なんてありえない。モノにだって、何かの決まりごとにだって、完全や完璧はありえない。全てのものは一秒ごとに変化していくのだから。
だから私は 「生きること」 をしているだけでいい。ただ此処に存在するだけなのだ。10:00

 
 「人」 は自然と共に生きる。「人」 と 「自然」 の共存だ。では、「人」 と 「人」 はどうだろう。まず始めに、人は一人で生きていけるだろうか。もしも地球上で、私の他に誰も 「人」 が居ないとしたら、私は自分が感じた何かを、どのようにしていくだろう。地球上に「人」のほかに存在するものは 「自然」 だけだとすると、私はおそらく自然に向かって語りかけることになるだろう。私は語り掛けたい自然が見当たらなければ、いつものように自分の心に語りかけるだろう。ということは地球上に私一人が居たとしても、私は「生きていける」と決定できる。

では 「人」 と 「人」 の共存についてはどうだろう。
過去のように、その「人」が「人」の成長を止めるようなら、その「人」は居ないほうが良いことは明らかだ。逆に「人」がそこに居ることで、「人」は成長を望めるのであれば、その「人」が居ることは良いだろう。

 では 、「私」 が 「人」 の傍に寄る場合はどうだろう。
もし仮に、今の自分に満足して生きるのであれば、ただ 「人」 の傍に止まる事も良いだろう。反対に、 「成長したい私」 だとすると、こちらは行動の問題になるけれど、私は 「より成長しやすい」 行動を選ぶことが賢明だろう。もし私がその 「人」 からプラスを吸収できるのなら、時には「人」に寄ることも良いだろう。

 このように、「人」 と 「人」 が共に生きるための条件は、それぞれの「人」は 「成長を望んでいる」 ことだろう。
そしてもし、成長を望める 「人」 と 「人」 が、寄り集まって生きるなら、それは充実していてすばらしいことではないだろうか。

更に実は 「共存」 という言葉の意味は 「同時に二つ以上のものが存在すること」 であるから、それぞれの 「人」 がそれぞれありのままに存在する形となっている。つまり 「一人を生きている人」 が二人以上集まることで 「共存」 という形になるのだ。

本来なら 「人」 と 「人」 は、このように充実した形で 「共に生きている」 はずだろう。

ではそうしてみよう。
仮説のようだが、一人で生きられる 「私」 は 「人」 と 「人」 として、 「共に生きる」 こともできるのだ。

どちらも、同じくらい充実している。どちらもすばらしい。15:45



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