日英双語育児日記
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ある人気小説家の、非常に人気のあるタイムマシン小説を読んで、ずしーんどよーんとなりました。仕事でも家庭でも人生の最大の危機にある男が、自殺を考えたときに、タイムマシンのような乗り物に出会い、過去の自分を再び生きるという小説です。
おもしろいんですけど。うまいんですけど。 ページを繰るのももどかしいというかんじで読んだんですけど。 すごい感動と支持があるのもわかるんですけど。
でも、今の私はこの小説にNOを言いたいと思います。
毎日毎日の子育て、子どもと一緒に大きくなる日々の不安と楽しさが混在となって、それこそが日々の現実にほからならない私にとっては、「失敗した過去」にタイムマシンで戻って、後悔と反省と再生のかすかな希望を見出す男の物語など、いらない。
受験に失敗していじめられ家庭内暴力をふるう中学生の一人息子。仕事中心の夫と荒れる息子の家庭から逃げるように何人もの見知らぬ男と体を重ね続ける妻。こうした存在が、会社をリストラされ自殺を考える中年の主人公の「不幸」を構成するパーツとして、記号のようにそこに配置されているような気がしてならない。
それは、後悔や反省してすむ話ではないわけだし、それを後悔、反省して、生き直そうとする男の物語など読みたくはなかった。
過去は変えられないという設定で主人公の過去認識だけが変えられることになっている。多分そのことが、ものすごい違和感というか不快感の根底にあるのだと思う。主人公の成人男性が、物語の構造上、通常の主人公以上の、とんでもない認識的高みに立った小説だから。主人公の見かけ上の弱さ、弱り方に騙されてはいけない。彼には「さらに下」が用意されている。それが妻と子供だ。
なぜ主人公のあなただけが、過去を知りなおして、一度目に生きたときには得られなかった知見を得て、一歩幸せに近づくことを許されるのか。それは、あなたの息子にだって、あなたの妻にだって、許されるはずではないのか。それが許されない小説世界の設定に、息が詰まりそうになる。女こどもも、それぞれの人生の主役なのだ。
なんというかな。 読むんじゃなかった。 現実だって不安でいっぱいなのに。
清水義範ならば、絶対にこうは書かないのではないか。
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