現実的に、象徴的に、抽象的に。 - 2005年05月23日(月) 日記の最後に、書きたいことが書けなかったと書くことが多いけども、 実際のところ、書きたいことは日記にはほとんど書けない。 書ける範囲は、すでにだいたい書いてしまっている。 最近の僕は、自分のことを話したがっているし、 実際にそのような場が与えられているような気もする。 ただ、僕が自分のことについて話をするには、 (現実的に)多くの時間を必要とするし、多くの言葉を必要とするし、 (象徴的に)多くの血を必要とするし、 (抽象的に)僕は自らを痛みつけなくてはならない。 時には生贄が必要になるかもしれないし、人柱が必要になるかもしれない。 パブロ・ピカソの画を焼き、 エリック・クラプトンのギターネックをへし折り、 エッフェル塔を爆破し、 自由の女神の顔に精子をぶっかける必要があるかもしれない。 あくまで、例えばの話だが。 象徴的かつ抽象的な話なら、ここの日記にも書けるかもしれない。 まず、僕はある時点で完全に止まってしまっている。 その場所から、前にも後ろにも右にも左にも上にも下にも過去へも未来へも一歩も動けていない。 僕はそこに立ち尽くして、呆然としている。 十数年間、ただ呆然としている。 今の僕は、なんとかして時を戻したいと思う。 そのままの状態でもきっと死ぬまでなんとかやっていけると思うのだけど、 自分の一部分を残したまま生きていきたくはないし、 なにより疲れてしまう。 自分の欠けた部分を認識したまま生きていくのは大変なことなのです。 自分の犯した罪や、悩みや、矛盾は言い表せない程重いものだし、 一生かけても償えないものや、解決しないものだってある。 それはそれでいいんだけど、そういうものをなるべく少なくして、 コンパクトにしておきたいと思う。 社会人になれば自由な時間が極端に減ると思うんで、 大学生のうちに前進しておきたい。 じゃぁ、具体的になにをすればいいのかといえば、それがよくわからない。 単に考え続ければいいのか、 ある場所に行くべきなのか、 しかるべき時を待つべきなのか。 とりあえず、今の僕にできることはこうやって日記に 象徴的かつ抽象的な文章をダラダラ書き続けることだ。 この文章に意味があるかどうかはわからない。 そんなのはあとから読んだ人間が決めればいい。 僕にはただ書くことしかできないのだ。 最後に、現実的な話を抽象的にかつ象徴的に言えば、 僕の中である時点で完全に止まってしまったものがあり、 それを動かしていた歯車が、別のある時点において外れてしまっていた。 僕はその欠けた歯車の部分をある程度埋められてたと思う。 それは、外れたものを見つけたのかもしれないし、 新たに違うものを持ってきたら、ぴったり合っただけかもしれない。 とにかく、そこまではきてるように感じる。 ちょっと今日は話しすぎました。 でわ、また。 ...
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