Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
ラッキー・ジャックと不運な3隻の艦(後編)
PCトラブルですっかり後編が遅くなってしまいましたが、年は越しません。 「ラッキー・ジャックと不運な3隻の艦」後編まいります。 前編でジャワ号をとりあげましたので、後編ではシャノン号とラ・フレシュ号を。
まずはシャノン号、38門フリゲート艦。 艦の履歴が1806年から始まり、最初の艦長がブルックなので、彼は6巻の時点ですでに6年間同一の艦を指揮してきたということになるのでしょう。乗組員たちのチームワークがよいのも当たり前です。
艦長のフィリップ・ブルック、フルネームはSir Philip Bowes Vere BROKEは1776年9月9日イングランド東部イプスウィッチ近郊のブルック・ホールに生まれる。 ジャックは1770年生まれなのでフィリップは6歳年下ということになります。一緒に遊ぶのはちょっと苦しいか…というつっこむと先に進まないので、それはちょっと置いておいて、 むしろここは建設的に、アーサー・ランサムのファンとして一言。ブルック・ホールって…、気づかれました?皆さん? ジャックの言によれば(6巻下P.123〜)、ブルックホールはサフォーク州の由緒正しいお屋敷で、その地所の南側境界線はオーウェル川で、先端はハリッジのストゥール川まで達している。フィリップとジャックは泥遊びをしながら川を下る船を見て過ごし、後に平底舟を手に入れて川遊びをした。 あの…これって…、
オーウェル川とストゥール川(Stour)の合流点の地名と、近代になってそこに何が建設されたか、覚えていらっしゃいます? はからずも8月19日の日記でこの土地の写真をご紹介したのですが。
地名はショットリーで、第二次大戦まではそこに海軍基地がありました。 アーサー・ランサムのシリーズに登場するウォーカー家のお父さん(テッド・ウォーカー中佐)の勤務地であり、ダグラス・リーマンの第二次大戦作品の舞台。 そして、地図によれば、ショットリーからオーウェル川をイプスウィッチにさかのぼる途中にあるのがピン・ミル。ランサムの物語の中でウォーカー一家が泊まっていたアルマ荘のあるところです。
だから、つまり、ジャックとフィリップが平底舟に乗って遊んでいたところって、ランサムの7巻でジョンたちがボートを漕いでいて鬼号に出会ったところと同じ場所なんですよね。 このあたりの川は、ランサムによれば、潮の満ち引きが激しくて大変らしいけど、無鉄砲なジャックにしてはよく、平底舟でオランダまで流されなかったものだと。
フィリップ・ブルックは、オブライアンが注に記している通り、実在の人物であり、彼の名を有名にしたのは、この6巻で描かれているシャノン号とチェサピーク号との戦闘。 1813年6月1日に、火力ではシャノン号を上回る米海軍コンスティテューション号を、砲術の工夫と乗組員の練度を武器に打ち破ったブルック艦長の功績は高く評価されました。 ブルック自身はしかし、この戦闘で重傷を負い、一命はとりとめたものの再び海に出ることはなく本国で陸上勤務となりました。 自身の経験を生かし、砲術の改良と指導に当たり、最終的には海軍少将まで昇進、1841年1月2日に65才でその生涯を閉じます。 というわけで、とりあえずご安心ください。6巻の最後はあんな形で終わっていますが、フィリップは還暦を越えて、当時としては十分長生きをしますので。もっとも怪我の後遺症には一生悩まされたようですが。
Sir Philip Bowes Vere BROKEについて http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Broke
ところで、このフィリップが育った、そしてジャックも子供の頃に預けられたことになっているブルックホールですが、現在も存在し、そしてなんと高級B&Bとして一般客の宿泊も可能だということ。
B&Bのホームページ http://www.buttermans.com/index.shtml
1泊朝食付きで£60.00または£90.00(12,500円〜19,000円)。 B&Bとしては高級の部類に入りますが、歴史あるお屋敷をそのままに保存してあるのですから、このお値段は妥当なものでしょう。 おそらく文化財保護という観点からか宿泊客は禁煙厳守。また14才以下の子供の宿泊は認めらていません。
英国にM&Cツァーに行かれる方>ジャックになった気分で1泊限りの贅沢はいかがでしょう? せっかく英国のお屋敷に泊まるのなら、やはり物語に由来のところが素敵です。
6巻に登場するもう一隻の不運な艦、それは火災で炎上してしまったヨーク艦長のラ・フレシュ号です。 このヨーク艦長(Capt. Charles Yorke)はとても好感のもてる人物で、その後どうなったのかとても気になるところなのですが、 彼がどうなったのかは、はっきり言ってわかりません。 ラ・フレシュ号は他の2艦と異なり、実在する艦ではないので(オブライアンの創作です)、歴史を調べても答えは出てこないのです。
ヨーク艦長のその後を案じるのは別に私ひとりではないようで、パトリック・オブライアンのファンフォーラム「Gun Room」にも「チャールズ・ヨーク艦長のその後はいったいどうなったのですか?」という質問を寄せられた方があるのですが、それに対する英米ファンの方の回答も「残念ながらわかりません」というものでした。 私も11巻以降は読んでいないのですが、この答えから察するところ、その後の巻で再びチャールズ・ヨークが登場する機会はなさそうです。
でもこの回答の中に一つ面白いのがあったんですよね。 「チャールズ・ヨークの消息はわかりませんが、ヨーク家というのはダドリ・ポープの小説の中で、本家、分家とも20世紀までちゃんと存続していますよ」 というもの。
なかなかシャレた回答なので、以下フォローさせていただきます。
ラミジ・シリーズを書いたダドリ・ポープは、海軍士官ニコラス・ラミジを主人公としたシリーズの他に、ヨーク家という海にゆかりのある一族の300年にわたる物語も書いています。 ヨーク家の初代は「ヨーク物語:カリブの盟約」(至誠堂)等の主人公で、清教徒革命で英国を追われた第六代アイレックス(Ilex)伯爵家の次男エドワード・ヨーク(Edward Yorke)。 伯爵家を継いだ兄ジョージとは別に、エドワードの家は分家として続いていきます。
ナポレオン戦争時代のヨーク分家の当主は、ニコラス・ラミジの親友でもある商船船長のシドニー・ヨーク(Sydney Yorke)、彼はラミジとほぼ同年…ということは1775年前後の生まれで、5年ほど早く生まれているジャックや、ラ・フレシュ号のチャールズ・ヨークともほぼ同世代と言って良いでしょう。シドニーには妹が一人いるだけの二人兄妹なので、チャールズ・ヨークのヨーク家がラミジに登場するヨーク家であるとは言えません。 だからもしこの時代に可能性があるとしたら、シドニーのヨーク分家ではなく、ヨーク本家つまりアイレックス伯爵家かまたは途中に発生した新たな分家(あれば)の方なんでしょうけれども。
そこで私はちょっと悪戯心を起こして、アイレックス伯爵家が実在するのか調べてみようとしたんです。 答えはNoで、これは完全にダドリ・ポープの創作でした。 ところが、この過程で思わぬ発見をしてしまいました。 確かにアイレックス伯爵家は創作だったんですけど、実はファミリーネームがヨークで、海軍士官を輩出した伯爵家というのは、この時代に実在しました。
このヨーク家はハードウィック(Hardwicke)伯爵家。この時代に海軍で活躍した人物は、サー・ジョセフ・シドニー・ヨーク(Sir Joseph Sydney Yorke : 1768-1830)、1768年生まれですからジャックの2才年上で、この方、最終的には提督まで出世しています。 ただしこの時代のハードウィック伯爵家の当主はサー・ジョセフではなく、彼の長兄のフィリップ。第3代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークはホイッグ党の政治家で、アディントン内閣の戦争大臣を務めた後、1810〜12の2年間は第一海軍卿の地位にありました。 フィリップには息子が一人いましたが、24才で病死したため跡継ぎがなく、最終的に爵位は弟であるサー・ジョセフの長子(フィリップの甥)が継ぐことになりました。 そしてこの爵位を継いだ1799年生まれの息子の名前が、チャールズ・フィリップ・ヨーク(Charles Philip Yorke)というのでした。彼は父の後を追って1813年に14才で候補生として海軍に入り、1819年20才で海尉任官試験に合格し、1822年23才で海尉艦長、1825年26才で艦長とほぼ最短コースの出世をしています。 実はこのチャールズ、1815年にペリュー提督(エクスマス卿)の旗艦クイーン・シャルロット号の候補生としてアルジェリアに行ったとか。 これってアダム・ボライソーの物語に通じますよね。
パトリック・オブライアンも、ダドリ・ポープも、それからアレクサンダー・ケントも、このあたりの史実はふまえた上で創作の筆を走らせたのでしょうか? そう考えると、ラ・フレシュ号のチャールズ・ヨーク艦長もその後は救助されて順調に軍歴を重ねていった…と考えてもよさそうです。 ちなみに、ダドリ・ポープによれば、彼の創作した本家と分家のヨーク家は20世紀まで存続し、分家の当主エドワード・ヨークは第二次対戦当時の海軍士官で、ドイツ軍の暗号解明に活躍しています。 これはまた至誠堂から別の物語として出版されています。
2005年12月27日(火)
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