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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
ヨアン・グリフィスの新作と英国の奴隷貿易禁止法

すっかり更新が遅くなってしまって恐縮です。
今日のニュースは、本当は先々週、敬老の日の直後くらいにはネットに出ていたのですが、ヨアン・グリフィスの次の映画の話。
アルバート・フィニー主演の映画「アメージング・グレース」で、ヨアンは準主役のウィリアム・ウィルバーフォースを演じることに決まりました。

ウィリアム・ウィルバーフォースは1759年に生まれ1833年に没した英国の政治家です。
リチャード・ボライソーが1756年生まれですから、ほぼ同年代の人。あの時代:フランス革命〜ナポレオン戦争期に活躍した政治家ということになります。

「アメージング・グレース」というのは、おそらくどなたでも、その美しい旋律はご存じの筈の賛美歌。
アメリカではアフリカン(黒人)たちに愛されている賛美歌ながら、その作者は実は奴隷貿易船の船長だった過去を持つ英国人牧師だった。
…というパラドックスをテーマにしたTBSだったかの紀行番組を以前にTVで見たことがあるのですが、この映画で主演のアルバート・フィニーが演じるのが、この牧師ジョン・ニュートンです。

ニュートンは1725年、商船船長の息子としてロンドンに生まれました。11才の時、父の船で海に出、その後さまざまな船に乗り組み、23才で船長となりました。しかしその船は西アフリカのシェラ・レオネから奴隷を積荷として運ぶ、奴隷貿易船だったのでした。
あるとき船は嵐に遭遇し、沈没必至となったニュートンは神に祈ります。そしてその時、彼は天啓を受けたと言います。
以後ニュートンは、ヒューマニズムを実践するようになりました。彼の船では奴隷は積荷ではなく、人間としてそれにふさわしい待遇を得ていたと言われます。
30才頃に大病をしたニュートンは、それを機に船を降り、伝道師となりました。

伝道師としての彼の説教は、多くの人々に影響を与えました。
この薫陶を受けた若者の一人がウィリアム・ウィルバーフォースでした。

ウィルバーフォースは裕福な商人の息子として1759年ハルに生まれ、ケンブリッジ大学卒業後、政治家を志し、21才でトーリー党(保守)の国会議員となりました。
彼は奴隷制度を廃止しようと決心し、1789年30才の時に、はじめて議会にて奴隷貿易反対の声を上げます。
この政策は、彼の属するトーリー党から激しい反発を受けました。しかしウィルバーフォースは、彼の意見に同調する政敵であるホイッグ党(リベラル)議員の協力も得ながら、超党派で奴隷貿易禁止法を成立させようと奔走します。
1791年に163対88で否決されたこの法案が、最終的に可決成立したのは、実に17年後の1807年3月でした。

ただしこの法案は、あくまで「奴隷貿易」を禁止するだけのものでした。奴隷制度そのものが廃止されたわけではありません。
英国議会が「奴隷制度」廃止法案を可決したのは、ウィルバーフォースが74才の生涯を終えた1ヶ月後の1833年7月のことでした。

「アメージング・グレース」というこの映画がいつ頃の英国を舞台にしたどのような映画になるのかはまだわかりませんが、現在のアルバート・フィニーとヨアンの年齢を考えれば当然1780〜90年くらいの話であろうと思われます。

私も今回いろいろ調べていて初めて知ったのですが、ほら皆さん>やっぱり奴隷制度廃止とかいうと真っ先に連想するのは、アメリカのリンカーン大統領と南北戦争でしょう? それって19世紀半ばの話じゃないですか? イギリスってはるかにアメリカに先行していたんですね。

この意識の差みたいなものは、今回のオーブリー&マチュリン6巻にも描かれているような気がします。下巻の102ページとか。
イギリスでは奴隷というのは植民地のプランテーションで働く労働者のことで、本国で召使としての奴隷を目にすることはほとんどない。
アメリカのボストンで奴隷の召使を見たスティーブンはショックを受け、「日常生活で奴隷を目にするのはとても耐え難いことだろうね」と言うのですが、植民地インドで育ったダイアナにはあまり抵抗がなく、それが当たり前の光景だと答えています。
こういうのって、本国育ちの英国人(まぁマチュリンは厳密にはそうは言えないんだけれども、とりあえずこの話をする時はこのくくりでいいでしょう)と、植民地育ちの英国人(ダイアナ)と、アメリカ人(ダイアナの愛人であるジョンソン氏)の1812年における価値観の違いがさりげなく出ていて、オブライアンって上手いなぁと思います。
だからたぶん、アメリカの奴隷制度廃止はイギリスより20年近く遅れるんですね。

ところで、奴隷貿易禁止と言えば、やはり海洋小説ファンにはこの人、ジェームズ・タイアックですよね。1811年からリチャード・ボライソーの最後の旗艦艦長を務めた彼は、それまでは西アフリカ沿岸で奴隷貿易船の取締りに従事し、奴隷商人たちからは「半顔の悪魔」と畏れられていました。

タイアックが初めて登場したのは19巻「最後の勝利者」。
これは1806年〜07年の話ですから、タイアックは奴隷貿易禁止法案が可決されてすぐの時代から西アフリカ沿岸で取締任務についていたということになります。

そういえば、先ほどのウィルバーフォースの説明の中で、彼はトーリー党だったが、奴隷貿易禁止法案に熱心だったのは政敵のホイッグ党だった、というくだりがありました。
海軍はホイッグ党寄りなんですよね。だのにジャックのお父さんはトーリー党の議員なので、ジャックは苦労しているんですけど(オーブリー&マチュリン2巻下P381)。
ゆえに海軍は取締りに熱心だった…というようなことはありえるのかしら?

また1815年頃になるともう、奴隷貿易商人だったというのは憚るべき過去だという雰囲気が、英国社会には産まれているのではないかと。
これはボライソーの何巻だったか忘れましたが(20巻台のどれか)、宮廷に力を持ち何かとリチャードに便宜をはかってくれるサー・ポール・シリトーの父親は、実は奴隷貿易で富を蓄えた商人だったが、それは隠さなければならない秘密である、という話がありましたので。

ざっと思い出しただけでもこれだけいろいろとつながりが出てくる奴隷貿易廃止問題、ヨアンが脇を固めるフィニーの映画もきっと、同じ時代を別の観点から切り取った物語として、今後いろいろ逆に、同時代の海洋小説を読んでいく上でも参考になるものになると思います。

この映画、日本でも公開されるように祈りたいと思います。

参考資料
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/REwilberforce.htm
http://www.anointedlinks.com/amazing_grace.html


2005年10月02日(日)