umityanの日記
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| 2006年09月02日(土) |
一人ぼっちの誕生日?。 |
早、9月になった。9月は僕の好きな月である。長月かあーーー。これは関係なかった。とりもなおさず、僕が生誕を受けた月。父母に感謝だ。もう、幾十回目の誕生日を迎えることになるのだろう。「定かではない」と言えば嘘になる。あまりにはっきりと覚えすぎていて、自分が悲しくなる。
歳のことで、大笑いしたことがあった。馴染みの小料理屋へ行ったとき、お客さんが「ママさんは若くてきれいだねーーーー」とほめたとき、すかさず、僕は「ママはもう○○歳になるんですよ」と言ってやった。「失礼ねー。人の歳ばかり言って、あなたはいくつになるのよ」とママが切り返し。僕は10歳ばかり「さば」をよんで、若く言うと、まわりは納得。僕はにこにこ。ママはぷんぷん。「今日は高くなるからねーーー」と脅しをかけられ大笑い。誰でも歳は若く見られることに抵抗感はないだろう。もちろん僕もしかりだ。
10代や20代の若い頃と違い、今は誰もプレゼントを贈ってくれる人もなし。一人淋しく、密かに、こっそりと、隠れて祝うことにしよう。とは言いながらも、小料理屋のママさんは、暦にちゃんと、VIPの誕生日にチェックマークを入れている。僕も例外に漏れず、「ワイン」の差し入れがあるやもしれぬ。期待しないで待っていよう。
歳の話に紙面を割いてしまった。今日、言いたかったことは「愛の欠如」についてである。昨今、親族間、特に親子間の間において、悲しい事件が起きている。物事にはなんでも、原因というか、動機がある。僕は、あらゆる事件の引き金は愛の欠如というか、愛の希薄化にあるように思える。特に親子間などはそうである。
子供がかわいくない親はいないと思うが、要はその愛し方、接し方が問題なのでは?。子供の頃に、親から本当に愛されているという実感がもてないままに成長したとき、子供の心はゆがんでしまう。孤独感にさいなまされる。
親も子供も世間のしがらみに対しながら懸命に生きている。何かの事件に巻き込まれそうになったとき、昔は親や子供がその防波堤になっていた。事件を食い止めるはどめになっていた。いまや、そのはどめが効かなくなっているような気がする。親も子も他人も同一のレベルの中で、そこに通う感情は、独善、自己よがり、利己主義、孤独である。物のみが豊かになった。物の豊かさのみでは愛の代償たり得ないだろう。「もっと子供達に本当の愛を教えてください」と大人に言いたい。
本当の愛とはなんだろうか?。慈しみ、思いやり、自己犠牲、優しさ、親切。それらの物を包含する何かである。大人も生の尊さを根底に置いた愛の実践をもっと学ばねばならない。もちろん僕自身もだ。そんな気がする。
昨日、安倍官房長官が自民党総裁選へ立候補した。「美しい日本を作りましょう」と力説していた。具体的には何をするのかよく分からなかった。その前提には、愛に満々した子供や大人がわんさと存在してこそ、美しい日本も実現できるわけだ。「愛の復活」こそが、日本丸の未来を明るくする術なのだ。
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